結の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月17日
- 読了時間: 8分

朝の富士は、雲のふちだけ白くて、あとは薄い灰色に溶けていた。 溶けていると、近いのに遠い。 遠いと、心が急がない。
ちゃぶ台の端の「まちばこ」は、今日も空っぽだった。 空っぽは、来る場所。 来る場所があると、胸の中にも余地ができる。
幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
縁側に出ると、父が網の横で、縄を指に巻いていた。 縄は乾いていて、少しざらざらする。 ざらざらは、痛い日もあるけど、今日は“働くざらざら”だった。
父の膝の上には、昨日直した網。 目が揃っている。 揃っていると、呼吸も揃いやすい。
父がぽつりと言った。
「……今日は、これ、持ってく」
網を持ってく。 “持ってく”が言えると、外へ行くのが怖いだけじゃなくなる。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。
鳴ったから、息。
――いき。
「……父ちゃん、浜?」
父は縄を指でならしながら、小さく頷いた。
「……浜。……でも、端でいい」
端。 逃げ道のある場所。 父が自分で端を選べるようになったことが、幹夫には嬉しかった。
母が台所の境目から、湯気の匂いを連れて言った。
「縄、ほどけんようにしときな。……海で慌てると、手ぇ荒れるだに」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「結べ。……結べば逃げん。逃げたら飯が逃げる」
飯が逃げる。 太い道の言い方。 父は小さく笑いそうになって、笑わないまま、息を吐いた。
ふう……。
「……結ぶ、か」
結ぶ。 その言葉が、縄のざらざらを少しだけやわらかくした。
父は縄を手に取って、いちど「置き布」の上に置いた。 置いてから、持ち直す。 “持つ前に置く”が、もう癖になっている。
幹夫はその動きを見て、胸の奥で小さく言った。
――いき。
父は縄の端を輪にして、指先でくるりと回した。 輪ができる。 輪ができると、怖さは少しだけ分かれる。
「みき坊」
父が呼んだ。 呼び方が、急がない。
「……結べるか」
結べるか。 訊かれると、胸が少し熱くなる。 熱は嬉しさの熱。 でも走らせないように、息。
――いき。
「……ちょうちょ、なら」
幹夫が言うと、父は頷いた。
「……ちょうちょ、いい」
父は縄じゃなく、細い紐を一本出した。 網を直した糸の切れ端。 短いのに、ちゃんと道。
「縄はまだ硬い。……これで」
父は紐を幹夫の掌に置いた。 置く。 渡す。 投げない。
紐は軽い。 軽いのに、手の中で少し生きている。
「結ぶってのはな……」
父が言いかけて、一瞬止まった。 止まって、息を吐く。
ふう……。
「……締めるだけじゃねぇ」
締めるだけじゃない。 その言い方が、幹夫の胸の奥をそっと撫でた。
父は幹夫の指の動きを見ながら、低く言った。
「……ここに、ま、残せ」
ま。 間の札の「ま」。 結び目の中に、間を入れる。
幹夫は、紐を輪にして、耳みたいに二つ作って、交差して―― 最後に、ぎゅっと引っぱりそうになって、途中で止めた。
止めた「間」に、息。
――いき。
ぎゅっ、じゃなく、そっと引く。 そっとだと、結び目が怒らない。
ちょうちょができた。 羽が二つ。 真ん中に、小さい“ま”。
父がそれを見て、ぽつりと言った。
「……ええ。……ほどける余地がある」
ほどける余地。 父がよく言う“余地”。 余地があると、心が追い詰められない。
幹夫は、指で結び目の真ん中をそっと押さえた。 硬くない。 でも、ほどけない。
――いき。
「……ま、入った」
父は小さく頷いて、紐の端を指で撫でた。
「……入った。……結びは、守りだ」
守り。 その言葉が、紐より先に幹夫の胸へ座った。
外へ出る前、父は懐から「ま/息」の札を出して、紐に結びつけた。 札に首紐がつくみたいに、胸のところへ来る。
父がぽつりと言った。
「……なくすと困る。……だから、結ぶ」
結ぶと、逃げない。 逃げないと、焦らない。 焦らないと、息が入る。
幹夫も、自分の袋の紐を結び直した。 いつもより少しだけ丁寧に。 結び目の中に、ま。
――いき。
浜へ向かう道は、潮と砂と、どこか鉄の匂いが混ざっていた。 蒲原の道は、混ざる匂いでできている。 混ざるけれど、ちゃんと分かれる。 海の匂いと、線路の匂いと、人の匂い。
浜の端には、もう何人かが居た。 縄を持って、桶を持って、網を持って。 声がいくつも。 声が集まると、胸が忙しくなる日がある。
父の足が、砂の手前で止まった。 止まって、少し。 その少しに、幹夫は息を入れた。
――いき。
父が口の中で言った。
「……波の音だ」
名前を置く。 置けると、音は音のままで座る。
ふう……。
父は縄を持ち上げる前に、いちど砂の上に布を敷いた。 布があると、縄の擦れが眠る。 眠ると、肩が跳ねにくい。
そのとき、隣の男が焦って言った。
「早く結べや! 潮が戻るぞ!」
声が尖る。 尖る声は、結び目を急がせる。 急ぐと、指が荒れる。
父の肩が、ふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。
――いき。
父は何も言い返さず、懐の札に指を当てた。 札の角は丸い。刺さらない角。
父が、低い声でぽつりと言った。
「……ま」
それだけで、父の手が落ち着いた。 落ち着いた手は、結び目を荒らさない。
父は縄を輪にして、結び目の中に小さい余地を残して、結んだ。 ぎゅっ、じゃなく、そっと。 そっと結ぶと、結び目が“座る”。
男が一瞬、黙って、それから短く言った。
「……おう」
尖りが、少しだけ溶けた“おう”。
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
父がぽつりと言った。
「……結べた」
“できた”の短い言葉。 短いのに、重い。 重いのに、刺さらない。
帰り道、父は縄の結び目を指で撫でながら言った。
「……結び目って……小さいのに……支えるな」
幹夫は頷いた。頷く前に息。
――いき。
「……うん。……ま、入ってる」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……ま、があると……ほどける道もある。……俺、それが好きだ」
好きだ。 父が「好きだ」を、こんなふうに言うのは珍しい。 珍しいと、胸が熱くなる。 熱いと走りそうだから、息。
――いき。
母が隣で低く言った。
「好き、って言えるのも結びだに。……心と口が結べた」
祖母が淡々と言う。
「口が結べりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 結びの明日。
夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は今日も痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
結
幹夫はその字を見た瞬間、浜の縄の結び目と、父の札についた紐を思い出した。 結ぶと、逃げない。 でも、締めつけすぎない。 ま、を残す。
母は左側を指でなぞった。
「こっちは糸だに。……糸へん」
糸。 便りの糸。 網の糸。 息の糸。
母は右側をなぞった。
「こっちは吉(きち)だに。……“よし”って字」
よし。 丸い“よし”。 叱る“よし”じゃなく、背中を支える“よし”。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「結ぶってのはな……糸で、よし、って形を作る字だに。つなぐ。支える。……でも、ほどける余地を残す。そこに“ま”が入るだに」
“ま”が入る。 結び目の中の間。 九十九の匂いが、ここへ戻る。
父が新聞紙の「結」を見て、ぽつりと言った。
「……結ぶと……落ち着くこと、あるな」
母が頷く。
「うん。……バラバラだと音が走る。結べば座る。……座ったら息が入る」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「座れりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
幹夫は鉛筆を握った。 糸を書いて、吉を書く。
一回目の「結」は、吉が詰まって、字が苦しそうな顔になった。 苦しいと、結びが締めつけに見える。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「詰まったらな……糸を太らせりゃええ。支えるほうを大きくする。……結びは、支えだに」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「結」は、糸がふっくらして、字が座った顔になった。 座ると、ほどける余地が見える。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「結」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 吉の最後の線を引く前に、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、線を置いた。
「……線を置くと……結び目みてぇだな」
母が小さく頷いた。
「うん。……点も線も、置けば結べる。置けたら、守れるだに」
母は「結」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、蝶結びの輪みたいに見えた。
夜。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。
はまむすんだこえ とがった けどま したむすべたむすびめちいさい のにささえるみきぼう の ちょうちょま が あったいき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……結ぶの、こわい日もある」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……でも、まを残せば、ほどける」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……ほどける道がある、って……助かるな」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「助かるだに。……結びは牢屋じゃない。戻る道を残す結びが、ええ結びだに」
祖母が淡々と言う。
「戻れりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 結び直せる明日。
幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
むすぶ っていと と きち(よし) の じ なんだねきょうはま でとうちゃんこえ とがった ときま してむすべたちょうちょ の むすびめ にま が あったぼくうれしかったいき
最後に、小さく「結」。 丸をひとつ。 蝶の丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは「早く結べや」の尖りの名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
結 はいと で つないでよし って かたち を つくるま を のこすうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうはま でむすびめ つくったこえ とがりそう だった けどま したむすべたほどける みちすきすこしおれ も ほどける
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――短い糸の蝶結び。 結び目の真ん中に、ちいさな“ま”が残っている。刺さらない結び。 そのそばに、父の震える字で小さく、
むすぶ
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその蝶結びを掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
結ぶ。 支える。 締めつけすぎず、ほどける道を残す。 結び目の中の小さな“ま”が、今日も家を守っている。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、蝶結びの真ん中の小さな余地は届いた。 届いた“ほどける道”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらない結び方で、家の続きと心の続きとを、そっと結んでいった。





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