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結の字

 朝の富士は、雲のふちだけ白くて、あとは薄い灰色に溶けていた。 溶けていると、近いのに遠い。 遠いと、心が急がない。

 ちゃぶ台の端の「まちばこ」は、今日も空っぽだった。 空っぽは、来る場所。 来る場所があると、胸の中にも余地ができる。

 幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 縁側に出ると、父が網の横で、縄を指に巻いていた。 縄は乾いていて、少しざらざらする。 ざらざらは、痛い日もあるけど、今日は“働くざらざら”だった。

 父の膝の上には、昨日直した網。 目が揃っている。 揃っていると、呼吸も揃いやすい。

 父がぽつりと言った。

「……今日は、これ、持ってく」

 網を持ってく。 “持ってく”が言えると、外へ行くのが怖いだけじゃなくなる。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

「……父ちゃん、浜?」

 父は縄を指でならしながら、小さく頷いた。

「……浜。……でも、端でいい」

 端。 逃げ道のある場所。 父が自分で端を選べるようになったことが、幹夫には嬉しかった。

 母が台所の境目から、湯気の匂いを連れて言った。

「縄、ほどけんようにしときな。……海で慌てると、手ぇ荒れるだに」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「結べ。……結べば逃げん。逃げたら飯が逃げる」

 飯が逃げる。 太い道の言い方。 父は小さく笑いそうになって、笑わないまま、息を吐いた。

 ふう……。

「……結ぶ、か」

 結ぶ。 その言葉が、縄のざらざらを少しだけやわらかくした。

 父は縄を手に取って、いちど「置き布」の上に置いた。 置いてから、持ち直す。 “持つ前に置く”が、もう癖になっている。

 幹夫はその動きを見て、胸の奥で小さく言った。

 ――いき。

 父は縄の端を輪にして、指先でくるりと回した。 輪ができる。 輪ができると、怖さは少しだけ分かれる。

「みき坊」

 父が呼んだ。 呼び方が、急がない。

「……結べるか」

 結べるか。 訊かれると、胸が少し熱くなる。 熱は嬉しさの熱。 でも走らせないように、息。

 ――いき。

「……ちょうちょ、なら」

 幹夫が言うと、父は頷いた。

「……ちょうちょ、いい」

 父は縄じゃなく、細い紐を一本出した。 網を直した糸の切れ端。 短いのに、ちゃんと道。

「縄はまだ硬い。……これで」

 父は紐を幹夫の掌に置いた。 置く。 渡す。 投げない。

 紐は軽い。 軽いのに、手の中で少し生きている。

「結ぶってのはな……」

 父が言いかけて、一瞬止まった。 止まって、息を吐く。

 ふう……。

「……締めるだけじゃねぇ」

 締めるだけじゃない。 その言い方が、幹夫の胸の奥をそっと撫でた。

 父は幹夫の指の動きを見ながら、低く言った。

「……ここに、ま、残せ」

 ま。 間の札の「ま」。 結び目の中に、間を入れる。

 幹夫は、紐を輪にして、耳みたいに二つ作って、交差して―― 最後に、ぎゅっと引っぱりそうになって、途中で止めた。

 止めた「間」に、息。

 ――いき。

 ぎゅっ、じゃなく、そっと引く。 そっとだと、結び目が怒らない。

 ちょうちょができた。 羽が二つ。 真ん中に、小さい“ま”。

 父がそれを見て、ぽつりと言った。

「……ええ。……ほどける余地がある」

 ほどける余地。 父がよく言う“余地”。 余地があると、心が追い詰められない。

 幹夫は、指で結び目の真ん中をそっと押さえた。 硬くない。 でも、ほどけない。

 ――いき。

「……ま、入った」

 父は小さく頷いて、紐の端を指で撫でた。

「……入った。……結びは、守りだ」

 守り。 その言葉が、紐より先に幹夫の胸へ座った。

 外へ出る前、父は懐から「ま/息」の札を出して、紐に結びつけた。 札に首紐がつくみたいに、胸のところへ来る。

 父がぽつりと言った。

「……なくすと困る。……だから、結ぶ」

 結ぶと、逃げない。 逃げないと、焦らない。 焦らないと、息が入る。

 幹夫も、自分の袋の紐を結び直した。 いつもより少しだけ丁寧に。 結び目の中に、ま。

 ――いき。

 浜へ向かう道は、潮と砂と、どこか鉄の匂いが混ざっていた。 蒲原の道は、混ざる匂いでできている。 混ざるけれど、ちゃんと分かれる。 海の匂いと、線路の匂いと、人の匂い。

 浜の端には、もう何人かが居た。 縄を持って、桶を持って、網を持って。 声がいくつも。 声が集まると、胸が忙しくなる日がある。

 父の足が、砂の手前で止まった。 止まって、少し。 その少しに、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 父が口の中で言った。

「……波の音だ」

 名前を置く。 置けると、音は音のままで座る。

 ふう……。

 父は縄を持ち上げる前に、いちど砂の上に布を敷いた。 布があると、縄の擦れが眠る。 眠ると、肩が跳ねにくい。

 そのとき、隣の男が焦って言った。

「早く結べや! 潮が戻るぞ!」

 声が尖る。 尖る声は、結び目を急がせる。 急ぐと、指が荒れる。

 父の肩が、ふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。

 ――いき。

 父は何も言い返さず、懐の札に指を当てた。 札の角は丸い。刺さらない角。

 父が、低い声でぽつりと言った。

「……ま」

 それだけで、父の手が落ち着いた。 落ち着いた手は、結び目を荒らさない。

 父は縄を輪にして、結び目の中に小さい余地を残して、結んだ。 ぎゅっ、じゃなく、そっと。 そっと結ぶと、結び目が“座る”。

 男が一瞬、黙って、それから短く言った。

「……おう」

 尖りが、少しだけ溶けた“おう”。

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 父がぽつりと言った。

「……結べた」

 “できた”の短い言葉。 短いのに、重い。 重いのに、刺さらない。

 帰り道、父は縄の結び目を指で撫でながら言った。

「……結び目って……小さいのに……支えるな」

 幹夫は頷いた。頷く前に息。

 ――いき。

「……うん。……ま、入ってる」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……ま、があると……ほどける道もある。……俺、それが好きだ」

 好きだ。 父が「好きだ」を、こんなふうに言うのは珍しい。 珍しいと、胸が熱くなる。 熱いと走りそうだから、息。

 ――いき。

 母が隣で低く言った。

「好き、って言えるのも結びだに。……心と口が結べた」

 祖母が淡々と言う。

「口が結べりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 結びの明日。

 夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は今日も痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 結

 幹夫はその字を見た瞬間、浜の縄の結び目と、父の札についた紐を思い出した。 結ぶと、逃げない。 でも、締めつけすぎない。 ま、を残す。

 母は左側を指でなぞった。

「こっちは糸だに。……糸へん」

 糸。 便りの糸。 網の糸。 息の糸。

 母は右側をなぞった。

「こっちは吉(きち)だに。……“よし”って字」

 よし。 丸い“よし”。 叱る“よし”じゃなく、背中を支える“よし”。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「結ぶってのはな……糸で、よし、って形を作る字だに。つなぐ。支える。……でも、ほどける余地を残す。そこに“ま”が入るだに」

 “ま”が入る。 結び目の中の間。 九十九の匂いが、ここへ戻る。

 父が新聞紙の「結」を見て、ぽつりと言った。

「……結ぶと……落ち着くこと、あるな」

 母が頷く。

「うん。……バラバラだと音が走る。結べば座る。……座ったら息が入る」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「座れりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 幹夫は鉛筆を握った。 糸を書いて、吉を書く。

 一回目の「結」は、吉が詰まって、字が苦しそうな顔になった。 苦しいと、結びが締めつけに見える。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「詰まったらな……糸を太らせりゃええ。支えるほうを大きくする。……結びは、支えだに」

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「結」は、糸がふっくらして、字が座った顔になった。 座ると、ほどける余地が見える。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「結」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 吉の最後の線を引く前に、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、線を置いた。

「……線を置くと……結び目みてぇだな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……点も線も、置けば結べる。置けたら、守れるだに」

 母は「結」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、蝶結びの輪みたいに見えた。

 夜。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。

はまむすんだこえ とがった けどま したむすべたむすびめちいさい のにささえるみきぼう の ちょうちょま が あったいき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……結ぶの、こわい日もある」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……でも、まを残せば、ほどける」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……ほどける道がある、って……助かるな」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「助かるだに。……結びは牢屋じゃない。戻る道を残す結びが、ええ結びだに」

 祖母が淡々と言う。

「戻れりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 結び直せる明日。

 幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

むすぶ っていと と きち(よし) の じ なんだねきょうはま でとうちゃんこえ とがった ときま してむすべたちょうちょ の むすびめ にま が あったぼくうれしかったいき

 最後に、小さく「結」。 丸をひとつ。 蝶の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは「早く結べや」の尖りの名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

結 はいと で つないでよし って かたち を つくるま を のこすうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうはま でむすびめ つくったこえ とがりそう だった けどま したむすべたほどける みちすきすこしおれ も ほどける

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――短い糸の蝶結び。 結び目の真ん中に、ちいさな“ま”が残っている。刺さらない結び。 そのそばに、父の震える字で小さく、

むすぶ

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその蝶結びを掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 結ぶ。 支える。 締めつけすぎず、ほどける道を残す。 結び目の中の小さな“ま”が、今日も家を守っている。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、蝶結びの真ん中の小さな余地は届いた。 届いた“ほどける道”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらない結び方で、家の続きと心の続きとを、そっと結んでいった。

 
 
 

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