結の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月18日
- 読了時間: 9分

朝の空気は、昨夜の糸の匂いをまだ少し持っていた。 糸の匂いは、音じゃないのに――胸の奥の“ほどけたところ”を撫でる。
幹夫は机の上の鉛筆を握った。 竹の添え木。 糸の結び目。 白い継ぎ目は消えない。 でも、白さはもう「こわい白」じゃなくて、続いた白に見えた。
――いき。
鉛筆の先で、新聞紙の端に小さく書く。
ま
書けた。 書けると、胸の奥がすとん、と座る。
母が台所の境目から、湯気の匂いを連れて言った。
「みき、今日はそれ持ってけ。……直したってのは、守りだに」
守り。 守りは、閉じることじゃなく、続けること。
父が縁側の端で、作業着の袖口を指でなぞった。 返し縫いのところ。 戻って固めた縫い目。
父がぽつりと言った。
「……正夫の鉛筆、返すんだろ」
幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
「……うん。……借りた。……ありがとう、言った」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……言えたの、えらい」
えらい。 父の“えらい”は、押しつけじゃない。 小さく置いてくれる“えらい”だ。
幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 丸い石。 丸い石は、言葉みたいに座る。
――いき。
学校へ行く道は、潮と砂と鉄の匂いが混ざっていた。 蒲原の道は、混ざる匂いでできている。 混ざるけれど、ちゃんと分かれる。
正夫が角から走ってきた。
「みきぼー! 鉛筆、なおった!?」
走る声。 走るのに刃じゃない。
幹夫の胸がぽん、と鳴って、息をひとつ入れた。
――いき。
「……うん。……父ちゃんと母ちゃんが……糸で、つづけた」
正夫は目を丸くして、すぐに頷いた。
「すげぇ! つづくって、かっこいい!」
かっこいい。 子どもの“かっこいい”は、すぐ座る。
幹夫は、鞄の中を探って、小さなものを取り出した。 昨日の夜、こっそり作ったもの。 小さな紙。 小さな麻紐。 結び目に、ちいさな“ま”を残した蝶結び。
紙には、震える字で書いてある。
かしてくれてありがとうみきお
幹夫は紙を、いきなり手渡ししなかった。 正夫の机の端に――そっと置いた。 置いてから、麻紐の蝶結びを指でちょんと押さえる。
とん。
小さい音。 小さい音は眠る。
正夫がそれを見て、一瞬だけ黙った。 黙るとき、胸の中で何かが座る。
「……みきぼー、これ……」
幹夫は、照れが走りそうになって、息をひとつ入れた。
――いき。
「……借りたから……返す。……言葉も」
正夫は紙を持ち上げずに、机の上で指で撫でた。 撫でると、紙が暴れない。
「……うれしい」
その一言が、幹夫の胸の奥をあたためた。 あたためたから、息。
――いき。
「……結び、かわいい」
正夫が蝶結びをつまんで言った。
「これ、どうやって結んだの?」
幹夫は、母の指の動きを思い出して、ゆっくり言った。
「……ぎゅってしない。……ま、残す」
正夫が笑った。
「ま残す結び! みきぼーらしい!」
らしい。 “らしい”は、刺さらない言葉だ。 刺さらないと、胸が丸くなる。
授業が始まって、先生が黒板に大きく字を書いた。
結
きゅっ、きゅっ。
チョークの音。 乾いているのに、尖らない。
「今日は“結ぶ”の結だ。糸を結ぶ。人と結ぶ。約束を結ぶ。……この字、読めるな?」
教室が声を出す。
「むすぶ!」
声が集まると、胸が忙しくなる日がある。 幹夫は袋を押さえて、息をひとつ入れた。
――いき。
先生が言った。
「結ぶってのは、縛ることじゃない。ほどけないように“止める”ことでもあるが、同時に“つなぐ”ことだ。切れたら終わりじゃなくて、結び目があれば続く」
続。 きのうの字が、ここへ来た。 鉛筆の糸。 母の結び目。
先生は黒板の“糸へん”を指でとん、と叩く。
「これが糸。右は“吉”だな。吉(よし)は、いいってこと。結ぶと、いい。……ただし、きつすぎると痛い。ゆるすぎると抜ける。ほどよく、だ」
ほどよく。 “ほど”って、ほどくの“ほど”にも聞こえた。
幹夫は、正夫の机の上の蝶結びを思い出して、喉の奥が少し熱くなった。 熱いのは恥ずかしいから。 でも走らないように、息。
――いき。
先生が続けた。
「さあ、ノートに書け。結を十回」
幹夫は直した鉛筆を握った。 継ぎ目は白い。 白いけれど座っている。
結、と書く。 糸を先に書くと、心が先に柔らかくなる気がした。 右の“吉”を置くと、胸がすとん、と落ち着く。
――いき。
書いているうちに、ふと、父の声が浮かんだ。
『押さえて。頼む』
頼む。 結ぶ。 どちらも、端っこを誰かに渡す言葉だ。
放課の帰り道、正夫が蝶結びを指で揺らして言った。
「これ、ほどけても、また結べる?」
幹夫は、すぐ答えそうになって、いちど息を入れた。
――いき。
「……うん。……結び目、嫌いじゃなくなった、って……父ちゃんも言った」
正夫が目を丸くする。
「父ちゃん、やさしくなった?」
幹夫は首の袋を押さえて、胸の中の石の重さを確かめた。 重いのに刺さらない。 刺さらない重さは、やさしい。
――いき。
「……うん。……ま、するようになった」
正夫はにっと笑って言った。
「じゃあ、みきぼーも“結ぶ”の上手になる!」
上手。 上手は、誇る上手じゃなくて、続く上手。
家に帰ると、縁側に干してある布が、風でふわりと揺れていた。 揺れても鳴らない。 鳴らない揺れは、胸を走らせない。
台所から、母の声。
「みき、ただいまだに。……今、紐がいる」
紐。 紐は、結び目を呼ぶ。
母は薪の束を、新聞紙で包んでいた。 新聞紙はすぐ破れる。 破れるものは、結びが要る。
父がそこにいた。 今日は家にいる日だったらしい。 父は紐を両手で持って、束をほどよく締めている。 締めるのに、怒っていない手。
父の肩がふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。
――いき。
父が口の中で小さく言った。
「……紐の擦れる音だ」
名前を置く。 置けると、音は音のままで座る。
ふう……。
「みき坊」
父が言った。呼び方が急がない。
「……ここ、押さえて。……頼む」
また、頼む。 頼む、は結び目の入口。
幹夫は薪の束の端を、両手でそっと押さえた。 掴まない。 受ける手で押さえる。
――いき。
父は紐を交差させて、結び目を作る。 ぎゅっと締める前に、いちど止まる。 止まって、息を吐く。
ふう……。
それから、少しだけ締めて――少しだけ戻す。 結び目の中に、ちいさな“ま”を残す。
「……これで、抜けん。……でも、ほどける」
ほどける余地。 余地があると、怖くない。
母が横で、ぶつけない声で言った。
「結びって、守りだに。……縛るんじゃなくて、つなぐ」
父が小さく頷いた。
「……つなぐ、か」
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
父が結び目を指で撫でて、ぽつりと言った。
「……みき坊、今日、学校で何書いた」
幹夫は、照れが走りそうになって、息をひとつ入れた。
――いき。
「……結」
父は一瞬だけ目を丸くして、それからふっと息を吐いた。
ふう……。
「……おれも、今日、結んだ」
薪の束。 紐。 でもそれだけじゃない言い方だった。
幹夫は、父の指の結び目の小さい“ま”を見た。 小さい“ま”があるだけで、胸が座る。
夜。 飯の匂いが家の奥へ落ち着いたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は白い。 でも痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
結
幹夫はその字を見た瞬間、正夫の蝶結びと、父の薪の結び目と、先生の「ほどよく」が一緒に浮かんだ。
母は左側を指でなぞった。
「こっちは糸だに。……糸へん」
糸。 続く糸。 約束の糸。 言葉の糸。
母は右側をなぞった。
「こっちは吉だに。……よし。いいってこと」
よし。 父の「よし」。 暮らしの「よし」。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「結ぶってのはな……糸でつないで、“よし”を作る字だに。結び目があると、続く。結び目があると、ほどけても戻れる。……でも、きつい結び目は刺さる。ゆるい結び目は抜ける。だから、ま。息。ほどよく」
ほどよく。 ほどく“ほど”が入っているみたいで、幹夫は少し嬉しかった。 結びは、ほどける余地があるからやさしい。
母は続けた。
「人とも結ぶ。……頼む、受ける、返す、謝る、信じる。全部、糸だに。糸は見えんけど、結び目が見える。結び目が見えりゃ、胸が落ち着く」
父が新聞紙の「結」を見て、ぽつりと言った。
「……俺、結ぶの……怖かった」
母は否定しない。 低く言った。
「うん。……結ぶと、離れられんって思うでな。でも、結び目はほどける。直せる。……切らんで済むように、まを残すんだに」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「結べりゃ飯がうまい。……結べんと腹が荒れる。荒れりゃ糸が切れる」
父が小さく息を吐いた。
ふう……。
「……切れんように……結ぶ」
昨日の“続く”と、今日の“結ぶ”が、同じところで座った。
幹夫の胸がすとん、と座った。 座ったから、息。
――いき。
幹夫は鉛筆を握った。 結を書く。
一回目の「結」は、糸が細くて、吉が尖って、字が少し固い顔になった。 固いと、結びが縛りに見える。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「固いときはな……糸を太らせりゃええ。気持ちを置く。……息、入れてから」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「結」は、糸が少しふっくらして、吉が座った。 座ると、結ぶ字になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「結」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、点を置いた。
「……点、置くと……蝶結びの端っこみてぇだな。……ほどける余地」
母が小さく頷いた。
「うん。……余地がある結び目が、一番強いだに」
母は「結」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、正夫の机の上で揺れた蝶結びみたいに見えた。
夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。
がっこう結 を かいたまさお にかみ と むすびおいたうれしい って いわれたうちまきむすんだみきぼう にたのむ って いえた結ほどよくま を のこすいき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……結ぶの、こわい日もある」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……でも、まがあると……つながる」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……つながる、って……あったかいな」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「うん。……あったかいのが“吉”だに。結んだら、よし、って言える」
祖母が淡々と言う。
「よし、が言えりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 結び目が続く明日。
幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
むすぶ(結)っていと とよし(吉) の じ なんだねきょうぼくまさお にありがとう をむすんで おいたとうちゃんまき をほどよく むすんだま を のこしたぼくうれしかったいき
最後に、小さく「結」。 丸をひとつ。 蝶結びの丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは「借りる」の熱さの名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
結 はいと で つないでよし を つくるま を のこす と つよいうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうたのむ って いえたまきむすべた結 って じすこしおれ の むねほどよく しめるありがとう
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――短い麻紐の蝶結び。 端っこがほどける余地を残してある。刺さらない結び。 蝶結びの横に、父の震える字で小さく、
よし
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその蝶結びを掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
結ぶ。 縛るんじゃなく、つなぐ。 きつすぎず、ゆるすぎず、ほどける余地を残す。 余地がある結び目が、一番強い。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、机の端で揺れる小さな蝶結びと、父の「よし」は届いた。 届いた結び目を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらない“つながり”を、そっと胸の中に座らせていった。





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