継の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月8日
- 読了時間: 8分

朝、蒲原の空がよく晴れると、富士の姿が「遠いのに、ここ」に見える。
白い雪の線が、山肌の青へゆっくり溶けていく。その境目は、きのうより少しだけ高い。
高いのに、急がない。
急がない変わり方は、胸の中の焦りを丸くする。
幹夫は縁側で、首から下げた布の袋を指先で押さえた。
揺れても、鳴らない。
鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
息をひとつ入れると、袋は胸の真ん中に座った。
ちゃぶ台では、母が新聞紙の裏を広げる支度をしていた。
竹を継いだ鉛筆――短い鉛筆の尻と尻を、竹の筒でつないだやつ――が、いつもの場所に置かれている。
その“継ぎ目”が、今日は少しだけ白く浮いて見えた。
幹夫が見ていると、母が鉛筆を取って、紙の上で軽く転がした。
ころ、ころ。
小さな音。
小さいのに、その瞬間――竹の筒が、すとん、と抜けた。
鉛筆が二つに分かれて、ちゃぶ台の上で転がった。
ころん。
木でも桶でもない、乾いた音。
けれど「割れた」音は、胸の奥に刺さりやすい。
父の肩が、ふっと上がった。
上がって止まる。
止まった「間」に、幹夫は息を入れた。
――いき。
母は驚きを刃にしないまま、短く言った。
「……抜けたか。つぎ目、緩んだだに」
緩んだ。
ゆるむ、は悪い言葉に聞こえる日もあるのに、今朝の「緩んだ」は、直せる匂いがした。
幹夫は、割れた鉛筆をそっと拾い上げた。
拾い上げると、手の中で軽い。
軽いのに、大事な軽さ。
「……ごめん」
誰に向けたごめんか分からないまま言うと、母は「ええよ」とも「だめだ」とも言わず、布巾でちゃぶ台の端を一度拭いた。
そのとき、縁側から父の声が落ちた。
「……貸せ」
貸せ。
命令みたいなのに、怖くない。
怖くないのは、そこに“直す”が入っている声だからだ。
父は鉛筆を受け取ると、竹の筒を掌でころころ転がして、しばらく見ていた。
見ている間が少し長い。
長いのに、怖い長さじゃない。
考える長さだった。
父がぽつりと言った。
「……継ぎ目、な」
継ぎ目。
その言葉が、家の中のいろんなものへ線を引いた気がした。
布の袋の縫い目。
物干しの紐のたわみ。
縫い箱の下の紙。
父は続けて、もっと小さく言った。
「……抜けたら……継げばいい」
継げばいい。
その言い方が、祖母の「戻りゃええ」に似ていて、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。
鳴るのに、叫ばない。叫ばない鳴り方は、続きの鳴り方だ。
父は立ち上がって、納屋のほうへ行った。
戻ってきた手には、小さな器と、白いねばりのある糊みたいなもの。
米のとぎ汁で作った糊か、布の補修に使うやつか。
匂いは、甘くも苦くもない、暮らしの匂いだった。
母が言った。
「糊か。……いいだに。でも、つけすぎるなよ。固くなる」
固くなる。
固い結び目は怖い。
固い線も切れやすい。
だから、余地。
父は頷いて、竹の筒の内側を、小さな布で拭いた。
拭き方が急がない。
急がないと、音も心も尖らない。
それから、糊をほんの少しだけ、竹の内側に指で塗った。
ほんの少し。
寸だけ。
守の字の手つき。
父は鉛筆の片方を竹に差し込み、軽く回して、止めた。
次に、もう片方も差し込む。
差し込むとき、父の眉の間がほんの少し寄った。
寄ったけれど、そこで止まれた。
――いき。
父が息をひとつ吐いて、ぽつりと言った。
「……急ぐと、曲がる。……曲がったら、折れる」
折れるのは怖い。
怖いから、丁寧に。
父はそれを、言葉にしてから、手に戻した。
竹の筒の真ん中で、二つの鉛筆が“会った”。
会ったところが、きゅっと固くならないように、父は最後に、糸を一巻きだけ当てた。
ぎゅっと締め上げない。
ふわっと、座らせる。
「……これで、抜けん」
父が幹夫へ鉛筆を差し出した。
差し出し方が、置くみたいだった。
幹夫は両手で受け取った。
受け取ると、継ぎ目が温かい。
父の指の温度が、少しだけ残っている。
――いき。
「……ありがとう」
幹夫が言うと、父は少し照れたみたいに鼻の下を擦った。
「……礼、じゃねぇ。……暮らしだ」
祖母みたいな言い方。
でも父の声は、祖母よりずっと柔らかかった。
昼前。
母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。
直した鉛筆の継ぎ目が、紙の上で小さく光る。
光は丸い。丸い光は刺さらない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
継
幹夫は、その字を見た瞬間、さっきの竹の筒を思い出した。
抜けたところ。
会わせたところ。
固くしすぎないところ。
母は左を指でなぞった。
「こっちは糸だに。……結も、縫も、線も、ここだに」
糸。
家の中の続きの匂い。
次に右側をなぞった。
少し複雑で、折れそうな形。
「こっちはな……“つぐ”って働きそのものだに。前のを、そこで終わりにせんで、次へ渡す」
渡す。
渡の字。
受ける。返す。
礼をする。謝る。許す。守る。
全部が、継ぐの中でつながる。
母は少し間を置いて、息をひとつ入れた。
「継ぐってのはな……切れそうなところを、もう一回つなぐことだに。受け継ぐ、も同じだに」
受け継ぐ。
その言葉は、父の指の温度の匂いがした。
父が新聞紙の「継」を見て、ぽつりと言った。
「……継ぐ、って……捨てないってことだな」
捨てない。
捨てない余り栓。
捨てない紙片。
捨てない“少し”。
母は否定しなかった。
息をひとつ入れて、低く言った。
「うん。……捨てんでもいいとこ、残す。余地を残す。……それが継ぎ目だに」
余地。
ほどける結び。
たわむ線。
縫い目の点々。
父はしばらく黙って、それから小さく言った。
「……俺の中の継ぎ目も……固くしすぎんほうがいい」
その言い方が、幹夫の胸をそっと撫でた。
父は自分の胸のことを、少しずつ言葉にできるようになっている。
言えると、怖さは固まりにくい。
幹夫は鉛筆を握った。
握るところに、竹の筒の“継ぎ目”が当たる。
当たるのに痛くない。
痛くない継ぎ目は、頼もしい。
継を書く。
糸を書いて、右を書いて。
一回目の「継」は、右が大きくなりすぎて、糸が細くなった。
繋げたい気持ちが先に走って、支えが弱い字。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「右が大きいときはな……糸を太らせりゃええ。一本で無理せん。二本、三本で支える」
二本、三本。
支える数。
家の声も、息も、支える糸だ。
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「継」は、糸が少し太って、字が落ち着いた。
落ち着くと、字が“つながる顔”になる。
父が新聞紙の端に、そっと手を伸ばした。
伸ばす指が少し震える。
震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
母が父を見て頷いた。
頷きは許しになる。
許しがあると、手が伸びる。
父の「継」は、線が揺れた。
揺れるのに、折れていない。
糸の最後が少し尖った。
尖るのに刺さらない。
刺さらないのは、その尖りが“つなぐ”ほうへ向いているからだ。
父は書き終えて、ふっと息を吐いた。
「……継ぐって字……糸が先にあるの、いいな」
母は「うん」とだけ返した。
縫い箱の下の「うん」みたいな、折り目のある「うん」。
「先につないでから、次へ行く。……急がん。止まってもええ」
止まってもええ。
歩の字が、ここへ帰ってきた。
母は「継」の横に、小さな丸をひとつ描いた。
父の字の横にも、もうひとつ。
丸が二つ並ぶと、竹の筒の継ぎ目みたいに見えた。
夜。
父は布団に入る前、直した鉛筆を手に取って、継ぎ目を親指でそっと撫でた。
撫でると、糸のざらっとした感じが指に残る。
残ると、ここにあるのが分かる。
父が小さく言った。
「……抜けたら、また継げばいい」
その言葉は、鉛筆のことだけじゃない気がした。
幹夫は首の袋を押さえ、息をひとつ入れた。
――いき。
「……うん」
父は少し間を置いて、ぽつりと言った。
「……俺も、抜けたら……戻って継ぐ」
戻って継ぐ。
その“戻って”が、幹夫の胸をあたためた。
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「継ぎ目は、恥じゃないだに。……続きの印だに」
父の息が、ふっと落ちていった。
落ちていく息は、布団の奥へ戻っていく息だった。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。
宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
つぐ って
きれそうな ところ を
もういちど つなぐ こと なんだね
きょう
えんぴつ ぬけた けど
とうちゃん が
ついで くれた
つぎめ が いたくない
いき
最後に、小さく「継」。
丸をひとつ。
継ぎ目の丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。
指先が少し震えた。震えは「抜けた」音の名残。
でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。
縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。
ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
つぐ は
きれそうな とこ を
つなぐ こと
いと が ささえ
よち が いき
うん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。
線が震えている。
震えているのに、折れていない。
みきぼう
きのう
えんぴつ ついだ
ぬけても
つげば いい
すこし
もどれた
その下に、丸がひとつ。
昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。
文字じゃなく――竹の短い筒がもう一本。
鉛筆を継ぐための予備みたいに切ってある。
端が、父の手で少し丸く削られている。
刺さらない端。
筒の横に、父の震える字で小さく、
つぎ
と書いてある。
その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその竹の筒を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
継ぐ。
抜けても、戻る。
固くしすぎずに、つなぐ。
蒲原には、サイレンは届かなかった。
けれど今朝、刺さらない竹の継ぎ目は届いた。
届いた“続きの印”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、家の中の小さなつづきを、そっと手のひらで継いでいった。





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