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継の字


 朝、蒲原の空がよく晴れると、富士の姿が「遠いのに、ここ」に見える。

 白い雪の線が、山肌の青へゆっくり溶けていく。その境目は、きのうより少しだけ高い。

 高いのに、急がない。

 急がない変わり方は、胸の中の焦りを丸くする。


 幹夫は縁側で、首から下げた布の袋を指先で押さえた。

 揺れても、鳴らない。

 鳴らないのに、ちゃんと重い。


 ――いき。


 息をひとつ入れると、袋は胸の真ん中に座った。


 ちゃぶ台では、母が新聞紙の裏を広げる支度をしていた。

 竹を継いだ鉛筆――短い鉛筆の尻と尻を、竹の筒でつないだやつ――が、いつもの場所に置かれている。

 その“継ぎ目”が、今日は少しだけ白く浮いて見えた。


 幹夫が見ていると、母が鉛筆を取って、紙の上で軽く転がした。


 ころ、ころ。


 小さな音。

 小さいのに、その瞬間――竹の筒が、すとん、と抜けた。


 鉛筆が二つに分かれて、ちゃぶ台の上で転がった。


 ころん。


 木でも桶でもない、乾いた音。

 けれど「割れた」音は、胸の奥に刺さりやすい。


 父の肩が、ふっと上がった。

 上がって止まる。

 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。


 ――いき。


 母は驚きを刃にしないまま、短く言った。


「……抜けたか。つぎ目、緩んだだに」


 緩んだ。

 ゆるむ、は悪い言葉に聞こえる日もあるのに、今朝の「緩んだ」は、直せる匂いがした。


 幹夫は、割れた鉛筆をそっと拾い上げた。

 拾い上げると、手の中で軽い。

 軽いのに、大事な軽さ。


「……ごめん」


 誰に向けたごめんか分からないまま言うと、母は「ええよ」とも「だめだ」とも言わず、布巾でちゃぶ台の端を一度拭いた。


 そのとき、縁側から父の声が落ちた。


「……貸せ」


 貸せ。

 命令みたいなのに、怖くない。

 怖くないのは、そこに“直す”が入っている声だからだ。


 父は鉛筆を受け取ると、竹の筒を掌でころころ転がして、しばらく見ていた。

 見ている間が少し長い。

 長いのに、怖い長さじゃない。

 考える長さだった。


 父がぽつりと言った。


「……継ぎ目、な」


 継ぎ目。

 その言葉が、家の中のいろんなものへ線を引いた気がした。

 布の袋の縫い目。

 物干しの紐のたわみ。

 縫い箱の下の紙。


 父は続けて、もっと小さく言った。


「……抜けたら……継げばいい」


 継げばいい。

 その言い方が、祖母の「戻りゃええ」に似ていて、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。

 鳴るのに、叫ばない。叫ばない鳴り方は、続きの鳴り方だ。


 父は立ち上がって、納屋のほうへ行った。

 戻ってきた手には、小さな器と、白いねばりのある糊みたいなもの。

 米のとぎ汁で作った糊か、布の補修に使うやつか。

 匂いは、甘くも苦くもない、暮らしの匂いだった。


 母が言った。


「糊か。……いいだに。でも、つけすぎるなよ。固くなる」


 固くなる。

 固い結び目は怖い。

 固い線も切れやすい。

 だから、余地。


 父は頷いて、竹の筒の内側を、小さな布で拭いた。

 拭き方が急がない。

 急がないと、音も心も尖らない。


 それから、糊をほんの少しだけ、竹の内側に指で塗った。

 ほんの少し。

 寸だけ。

 守の字の手つき。


 父は鉛筆の片方を竹に差し込み、軽く回して、止めた。

 次に、もう片方も差し込む。

 差し込むとき、父の眉の間がほんの少し寄った。

 寄ったけれど、そこで止まれた。


 ――いき。


 父が息をひとつ吐いて、ぽつりと言った。


「……急ぐと、曲がる。……曲がったら、折れる」


 折れるのは怖い。

 怖いから、丁寧に。

 父はそれを、言葉にしてから、手に戻した。


 竹の筒の真ん中で、二つの鉛筆が“会った”。

 会ったところが、きゅっと固くならないように、父は最後に、糸を一巻きだけ当てた。

 ぎゅっと締め上げない。

 ふわっと、座らせる。


「……これで、抜けん」


 父が幹夫へ鉛筆を差し出した。

 差し出し方が、置くみたいだった。


 幹夫は両手で受け取った。

 受け取ると、継ぎ目が温かい。

 父の指の温度が、少しだけ残っている。


 ――いき。


「……ありがとう」


 幹夫が言うと、父は少し照れたみたいに鼻の下を擦った。


「……礼、じゃねぇ。……暮らしだ」


 祖母みたいな言い方。

 でも父の声は、祖母よりずっと柔らかかった。


 昼前。

 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。

 直した鉛筆の継ぎ目が、紙の上で小さく光る。

 光は丸い。丸い光は刺さらない。


「幹夫。……今日はこれだに」


 母がゆっくり書いた。


 継


 幹夫は、その字を見た瞬間、さっきの竹の筒を思い出した。

 抜けたところ。

 会わせたところ。

 固くしすぎないところ。


 母は左を指でなぞった。


「こっちは糸だに。……結も、縫も、線も、ここだに」


 糸。

 家の中の続きの匂い。


 次に右側をなぞった。

 少し複雑で、折れそうな形。


「こっちはな……“つぐ”って働きそのものだに。前のを、そこで終わりにせんで、次へ渡す」


 渡す。

 渡の字。

 受ける。返す。

 礼をする。謝る。許す。守る。

 全部が、継ぐの中でつながる。


 母は少し間を置いて、息をひとつ入れた。


「継ぐってのはな……切れそうなところを、もう一回つなぐことだに。受け継ぐ、も同じだに」


 受け継ぐ。

 その言葉は、父の指の温度の匂いがした。


 父が新聞紙の「継」を見て、ぽつりと言った。


「……継ぐ、って……捨てないってことだな」


 捨てない。

 捨てない余り栓。

 捨てない紙片。

 捨てない“少し”。


 母は否定しなかった。

 息をひとつ入れて、低く言った。


「うん。……捨てんでもいいとこ、残す。余地を残す。……それが継ぎ目だに」


 余地。

 ほどける結び。

 たわむ線。

 縫い目の点々。


 父はしばらく黙って、それから小さく言った。


「……俺の中の継ぎ目も……固くしすぎんほうがいい」


 その言い方が、幹夫の胸をそっと撫でた。

 父は自分の胸のことを、少しずつ言葉にできるようになっている。

 言えると、怖さは固まりにくい。


 幹夫は鉛筆を握った。

 握るところに、竹の筒の“継ぎ目”が当たる。

 当たるのに痛くない。

 痛くない継ぎ目は、頼もしい。


 継を書く。

 糸を書いて、右を書いて。


 一回目の「継」は、右が大きくなりすぎて、糸が細くなった。

 繋げたい気持ちが先に走って、支えが弱い字。


「ええ」


 母が言った。転んでもいい「ええ」。


「右が大きいときはな……糸を太らせりゃええ。一本で無理せん。二本、三本で支える」


 二本、三本。

 支える数。

 家の声も、息も、支える糸だ。


 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。


 ――いき。


 二回目の「継」は、糸が少し太って、字が落ち着いた。

 落ち着くと、字が“つながる顔”になる。


 父が新聞紙の端に、そっと手を伸ばした。

 伸ばす指が少し震える。

 震えるのに、逃げない。


「……俺も、書く」


 母が父を見て頷いた。

 頷きは許しになる。

 許しがあると、手が伸びる。


 父の「継」は、線が揺れた。

 揺れるのに、折れていない。

 糸の最後が少し尖った。

 尖るのに刺さらない。

 刺さらないのは、その尖りが“つなぐ”ほうへ向いているからだ。


 父は書き終えて、ふっと息を吐いた。


「……継ぐって字……糸が先にあるの、いいな」


 母は「うん」とだけ返した。

 縫い箱の下の「うん」みたいな、折り目のある「うん」。


「先につないでから、次へ行く。……急がん。止まってもええ」


 止まってもええ。

 歩の字が、ここへ帰ってきた。


 母は「継」の横に、小さな丸をひとつ描いた。

 父の字の横にも、もうひとつ。

 丸が二つ並ぶと、竹の筒の継ぎ目みたいに見えた。


 夜。

 父は布団に入る前、直した鉛筆を手に取って、継ぎ目を親指でそっと撫でた。

 撫でると、糸のざらっとした感じが指に残る。

 残ると、ここにあるのが分かる。


 父が小さく言った。


「……抜けたら、また継げばいい」


 その言葉は、鉛筆のことだけじゃない気がした。

 幹夫は首の袋を押さえ、息をひとつ入れた。


 ――いき。


「……うん」


 父は少し間を置いて、ぽつりと言った。


「……俺も、抜けたら……戻って継ぐ」


 戻って継ぐ。

 その“戻って”が、幹夫の胸をあたためた。


 母の低い声が、暗い中で落ちた。


「継ぎ目は、恥じゃないだに。……続きの印だに」


 父の息が、ふっと落ちていった。

 落ちていく息は、布団の奥へ戻っていく息だった。


 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。

 宛名の下に、小さく足す。


(とうちゃんへ も)


 中に書く。


つぐ って

きれそうな ところ を

もういちど つなぐ こと なんだね

きょう

えんぴつ ぬけた けど

とうちゃん が

ついで くれた

つぎめ が いたくない

いき


 最後に、小さく「継」。

 丸をひとつ。

 継ぎ目の丸。


 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。

 指先が少し震えた。震えは「抜けた」音の名残。

 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。


 翌朝。

 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。

 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。


 箱の下の返事は、三つ重なっていた。


 一枚目、母の字。


つぐ は

きれそうな とこ を

つなぐ こと

いと が ささえ

よち が いき

うん


 最後に、小さな丸。


 二枚目、父の字。

 線が震えている。

 震えているのに、折れていない。


みきぼう

きのう

えんぴつ ついだ

ぬけても

つげば いい

すこし

もどれた


 その下に、丸がひとつ。

 昨日より、少しだけ丸い丸。


 三枚目。

 文字じゃなく――竹の短い筒がもう一本。

 鉛筆を継ぐための予備みたいに切ってある。

 端が、父の手で少し丸く削られている。

 刺さらない端。

 筒の横に、父の震える字で小さく、


つぎ


 と書いてある。

 その横に、いびつな丸がひとつ。


 幹夫はその竹の筒を掌にのせて、息をひとつ入れた。


 ――いき。


 継ぐ。

 抜けても、戻る。

 固くしすぎずに、つなぐ。


 蒲原には、サイレンは届かなかった。

 けれど今朝、刺さらない竹の継ぎ目は届いた。

 届いた“続きの印”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、家の中の小さなつづきを、そっと手のひらで継いでいった。

 
 
 

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