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続の字

 朝の光は、昨日の拍子木の音をもう覚えていない顔で、縁側へ差してきた。 光は、鳴らない。 鳴らないのに、ちゃんと届く。

 ちゃぶ台の端の「まちばこ」は、今日も空っぽだった。 空っぽは、来る場所。 来る場所があると、胸の中にも余地ができる。

 幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 縁側に出ると、父が座っていた。 昨日より背中が少しだけ丸い。 丸い背中は、眠れた背中だ。

 父は膝の上の札を見せた。 片面に「ま」。もう片面に「息」。 角は紙やすりで丸い。刺さらない角。

 父がぽつりと言った。

「……昨日の、まだ手に残ってる」

 手に残ってる。 拍子木の乾いた響きじゃなく、桶の重さや、札を出した指の感触。 残るものが変わると、胸の残り方も変わる。

 幹夫は返事を急がなかった。 急ぐと、言葉が尖る日がある。 だから、間。

 ――いき。

「……残ってるの、悪い残りじゃない?」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……悪いのも残ってる。……でも、悪いだけじゃねぇ」

 “だけじゃねぇ”。 その言い方が、幹夫の胸の奥をやわらかくした。

 台所の境目から、母が味噌の匂いを連れて言った。

「父ちゃん、今日は網、直すだに。穴、増えとる」

 網。 父の指先が得意なもの。 糸と、結び目と、続き。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「穴が増えりゃ魚が逃げる。魚逃げりゃ飯が減る。……直せ」

 直せ、で暮らしの太い道が戻る。 戻ると、父の肩も少し落ちる。

 父が小さく頷いた。

「……うん。……やる」

 短い“やる”は、背中の中の決めごとみたいに聞こえた。

 幹夫は袋を押さえて、胸の中で言う。

 ――いき。

 納屋の隅から出てきた網は、潮の匂いを含んでいた。 匂いは少し古い。 古い匂いは、昔の時間を連れてくる。

 父は網を広げる前に、戸口の「置き布」を一枚持ってきて、縁側の上に敷いた。 布があると、網の乾いた擦れが眠る。 眠ると、肩が上がりにくい。

 父が網を布の上に置いた。

 さら。

 音が小さい。 小さいと、胸が走らない。

 母が縫い箱を出した。 縫い箱は、いつも畳の目ひとつぶんずれる箱。 ずれは小さい。小さいのに、家の中の合図になる。

「これ、使うだに」

 母が出したのは、太い針。 針は光る。 光るものは、目が先に起きる。

 父の指が一瞬止まって、喉がごくりと動いた。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。

 ――いき。

 父は針を掴まず、まず布の上へ置いた。 置いてから、指でそっと押さえる。 押さえると、針は暴れない。

 父がぽつり。

「……針も、置くんだな」

 母が頷いた。

「うん。……置けば刺さらん。持つ前に、いったん置く。うちのやり方だに」

 父は息を吐いた。

 ふう……。

「……ありがてぇ」

 “ありがてぇ”は、照れの匂いがする。 照れは、心がまだ生きてる印。

 幹夫は網の穴を覗き込んだ。 穴は丸い。 丸い穴は、怒っていない穴だ。 でも、穴があると魚が逃げる。 逃げると飯が減る。

 父が網の穴のふちを指でなぞりながら言った。

「……ここ、ほどけてる」

 ほどけてる。 ほどけは悪いだけじゃない。 ほどけには“ほどける余地”がある。 余地があると、直せる。

 幹夫は思わず言った。

「……父ちゃん、直せる?」

 言う前に息。

 ――いき。

 父は小さく頷いた。

「……直せる。……続けりゃ」

 続けりゃ。 その一言が、幹夫の胸の奥でぽん、と鳴った。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

 父は糸を通した。 糸は太い。 太いのに、指に絡むとすぐ細くなる。 糸は、目と指の間を行ったり来たりする。

 針の穴に糸を通すとき、父は一度止まって、息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、通した。 通ると、胸の奥の硬いところも少しだけ通る気がする。

 父が網を縫い始める。 針が行って、戻る。 行って、戻る。

 ちく。 すっ。

 音は小さい。 小さい音は、続きやすい。

 幹夫はその動きを見て、波を思い出した。 来て、引く。 来て、引く。 続く。

 父がぽつりと言った。

「……針は……息みてぇだな」

 幹夫は首を傾げた。

「針が、息?」

 父は針を止めずに言った。 止めないのに、声は急がない。

「……行って……戻る。……止まると……刺さる」

 止まると刺さる。 止まるのが悪いんじゃない。 止まり方が刺さる日がある、という言い方。

 幹夫は袋を押さえて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

「……じゃあ……行って戻るの、続けるんだね」

 父は針を一度止めて、幹夫を見た。 見る目が遠くへ行っていない。 今ここで見る目。

「……そうだな。……続けりゃ、形になる」

 形になる。 形になれば、怖さもほどける。

 母が味噌の匂いを連れて言った。

「続けるって、糸だに。……縁も、返事も、みんな糸だに」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「糸切れりゃ飯も切れる。……切らすな」

 切らすな、は怖い言い方になりやすいのに、祖母の声は暮らしの声だった。 暮らしの声は、胸を追い詰めない。

 父は針を動かしながら、ぽつりと言った。

「……切らさんように……結ぶ」

 結ぶ。 縁の輪っか。 藁縄の蝶結び。 幹夫の丸。

 幹夫は、網の端に小さな結び目ができていくのを見て、喉の奥が熱くなった。 熱いと走りそうだから、息。

 ――いき。

 昼過ぎ。 網の穴は、だんだん小さくなった。 穴が小さくなると、胸の奥の穴も少し小さくなる気がした。

 そのとき、父がほんの小さく「……あ」と声を漏らした。 指先に針が当たったのだ。 血は出ていない。 でも、ちく、が一瞬走る。

 父の肩が上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。

 ――いき。

 父は針を布の上に置いた。 置いて、息を吐いた。

 ふう……。

「……針の音だ」

 父が言った。 針の音じゃなく、針の痛み。 でも“音”と言い換えると、痛みも座れる。

 母がすぐ手を伸ばして、布で父の指を包んだ。

「大丈夫だに。……刺さったら、抜け。抜いたら、続きだに」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「続きがあるなら、刺さっても終いじゃねぇ」

 終いじゃねぇ。 その言い方が、父の肩をほんの少し落とした。

 父がぽつり。

「……終いじゃねぇ……か」

 幹夫は父の指の布を見て、そっと言った。

「……父ちゃん、続き、ある」

 言う前に息。

 ――いき。

 父は少し間を置いて、ほんの少しだけ口の端を上げた。

「……あるな」

 夕方。 網は、穴がほとんど見えなくなっていた。 見えなくなった穴は、なくなったんじゃなく、糸で支えられた穴だ。 支えられると、怖さは“支えられる怖さ”になる。 潰れない怖さ。

 父は網を布の上から持ち上げて、光に透かした。 目が揃っている。 揃うと、息が揃う。

 父がぽつりと言った。

「……続いた」

 たった三文字。 でも、その三文字は今日一日の手の重さを全部持っていた。

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は今日も痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 続

 幹夫はその字を見た瞬間、網の糸が行って戻る動きを思い出した。 行って戻るのが、続く。 続くのが、生きる。

 母は左側を指でなぞった。

「こっちは糸だに。……糸へん」

 糸。 木の糸。 藁の糸。 便りの糸。 息の糸。

 母は右側をなぞった。

「こっちはな……難しい形だに。昔はもっとごちゃっとしとったけど、今はこう。……“つづく”って、道みたいにも見えるだら」

 道。 返事の道。 回覧板の道。 針の道。 息の道。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「続くってのはな……糸でつないで、切れんように進む字だに。途中で止まってもええ。でも、切らさなけりゃ、また行ける」

 途中で止まってもええ。 その言葉が、父の胸の硬いところをそっと撫でた。

 母は続けた。

「続けるってのは、がんばりすぎることじゃない。……“間”を挟んで、息を入れて、また糸を通すことだに」

 間を挟んで、息を入れて。 九十九と百の匂いが、ここに座った。

 父が新聞紙の「続」を見て、ぽつりと言った。

「……糸があると……続くのか」

 母が頷いた。

「うん。……糸が切れそうなときは、結び直せばええ。結び直すのが、続きだに」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「結び直せりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 幹夫は鉛筆を握った。 糸を書いて、右を書く。

 一回目の「続」は、右が詰まって、字が息苦しい顔になった。 息苦しいと、胸がきゅっとする。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「詰まったらな……糸を太らせりゃええ。つなぐほうを大きくする。……続きは、支えだに」

 支え。 受け皿。 置き布。 ま札。 全部が支え。

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「続」は、糸が少しふっくらして、字が座った顔になった。 座ると、続けられる顔になる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「続」は、糸の線が少し揺れた。 揺れるのに、折れていない。 右の最後の線を引く前に、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、線を置いた。

「……線が切れないと……続くな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……切れそうなら、ま札。息。……それが結び目だに」

 母は「続」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、糸の結び目みたいに見えた。

 夜。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。

あみなおしたちく した けどおいたいき したつづいたつづく って じいといい なみきぼうきょう も つづいたいき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……続けるの、こわい日もある」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……でも、切れそうになったら、結び直せる」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……結び直す……それなら、できるかもしれん」

 “かもしれん”があると、余地がある。 余地があると、続きは怖くない。

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「続きはひとりで持たん。……糸は二本で強くなるだに」

 祖母が淡々と言う。

「二本なら飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 続く明日。

 幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

つづく っていと で つないできれない ように する じ なんだねきょうあみ なおしたちく した けどおいて息 してつづいたぼくうれしかったいき

 最後に、小さく「続」。 丸をひとつ。 結び目の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは父の「ちく」の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

続 はいと で つないでま と 息 を はさんできれん ように するうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうあみ なおしたちく した けどとまれた息 いれた続 って じすこし すきすこしおれ も つづけられる

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――網を直した糸の切れ端。 小さな蝶結びになっていて、ほどける余地がある。刺さらない結び。 そのそばに、父の震える字で小さく、

つづき

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその結び目を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 続く。 切れそうなら、結び直す。 止まってもいい。息を入れて、また通す。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、網の目をつないだ糸の“続き”は届いた。 届いた結び目を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、家の中の続きと、自分の続きとを、そっと同じ糸で結んでいった。

 
 
 

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