続の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月18日
- 読了時間: 10分

竹を継いだ鉛筆が、朝の光の下で少し白く見えた。 白いのは、削れた木肌じゃなくて――継ぎ目のところだった。
幹夫は縁側のふちに座って、首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
鉛筆を握ると、いつもより指に“ひっかかり”があった。 継ぎ目の竹が、ほんの少しずれている。 ずれは小さい。 小さいのに、手は敏感に気づく。 気づくと、胸も気づく。
ぽん。
胸の奥が鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
母が台所の境目から、湯気の匂いを連れて言った。
「みき、学校だに。鉛筆、落とすなよ。……今のは、落とすと折れやすい」
折れやすい。 その言葉が、継ぎ目の白さをもっと白くした。
父は縁側の端で、作業着の袖口を指でなぞっていた。 返し縫いのところ。 戻って固めた縫い目。 縫い目は“続く形”に見える。
父が鉛筆をちらりと見て、ぽつりと言った。
「……短くなったな」
短い。 短いのに、ここまで来た。 ここまで来た、が好きだ。
幹夫は継ぎ目を指でそっと押さえた。 押さえると、ずれが少し戻る。 戻ると、息が入る。
――いき。
「……でも、まだ書ける」
父は一瞬だけ笑いそうになって、笑わないまま息を吐いた。
ふう……。
「……まだ、だな。……“まだ”があるの、強い」
待の夜の「まだ」。 その“まだ”が、今朝は鉛筆の中に座った。
学校の教室は、潮の匂いじゃなく、チョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 乾いた匂いは、胸の奥を少しだけ固くする日がある。
先生が黒板に、ぱっと字を書いた。
続
きゅっ、きゅっ。 チョークの音が、乾いて鳴る。 鳴るのに、刃じゃない音。
「“続く”の続。きのうの続き、今日の続き。終わりの反対だ。読めるか」
教室が声を出す。
「つづく!」
声が集まると、胸が忙しくなる。 幹夫は袋を押さえて、息をひとつ入れた。
――いき。
先生が言った。
「続くってのは、長いだけじゃない。“切れ目があっても、つないでいく”ってことだ」
切れ目。 つなぐ。 継ぎ目。 朝の白いところが、頭の中でぴたりと重なった。
先生が続ける。
「じゃあ、ノートに書け。今日は“続”を十回」
幹夫は鉛筆を握った。 継ぎ目が、指の腹で少しずれる。 ずれると、線もずれる。
きゅっ。
紙に当てた瞬間、芯が少し引っかかって―― ぱき、と小さく鳴った。
鳴ったのは、鉛筆じゃなく胸だった。
ぽん。
胸の奥が、一段上がる音。 上がる前に、息。
――いき。
鉛筆の継ぎ目が、ほんの少し開いている。 竹のところが割れて、芯の先がぐらりと揺れた。 揺れると、折れそう。 折れそうは、終わりに似てる。
幹夫の喉の奥が熱くなった。 熱いのは怖さの熱。 でも走らないように、息。
――いき。
後ろの席の正夫が、身を乗り出して小声で言った。
「みきぼー、だいじょぶ?」
幹夫は返事をすぐ出さなかった。 出す前に、継ぎ目を指で押さえた。 押さえると、少し戻る。 戻ると、言葉が出る。
「……ちょっと……ずれた」
正夫が自分の鉛筆を差し出した。
「これ、貸す! 続、書ける!」
“貸す”。 受ける。 頼る。 どれも、まだ胸が少し熱い言葉。
幹夫は、断りそうになって――止まった。 止まった「間」に、息を入れる。
――いき。
借りるのは、弱いことじゃない。 束の端っこを持ってもらうこと。 母が言った。
幹夫は正夫の鉛筆を、いきなり掴まずに、机の上にいったん置いてから受け取った。
「……借りる。……ありがとう」
正夫がにっと笑った。
「うん! 続くためだ!」
“続くため”。 子どもの口から出ると、丸い。
幹夫は借りた鉛筆で「続」を書いた。 線がまっすぐ出る。 まっすぐ出ると、胸が少し座る。
――いき。
自分の鉛筆は、机の端にそっと置いた。 置くと、落とさない。 落とさないと、折れない。
先生が教室を見回して、幹夫の机の端の折れかけた鉛筆に気づいた。
「幹夫、鉛筆、継いでるのか」
継いでる。 先生の声は、責める声じゃなかった。 ただ、知ってる声。
「はい……竹で……」
「そうか。続ける工夫だな。折れても、直せる。終わりじゃない」
終わりじゃない。 その言葉が、幹夫の胸の奥の熱さを、少しだけぬるくした。
――いき。
帰り道、潮と砂と鉄の匂いが混ざっていた。 蒲原の道は、混ざる匂いでできている。 混ざるけれど、ちゃんと分かれる。
正夫が並んで歩きながら言った。
「みきぼー、あの字、好き。続って、つぎ、って感じする」
つぎ。 継ぎ。 続き。 同じ音が、胸の中で転がる。
幹夫は袋を押さえて、息をひとつ入れた。
――いき。
「……ぼくの鉛筆……つぎ目、ひらいた」
正夫は眉を寄せて、それからすぐに言った。
「直せばいい! つづくため!」
つづくため。 正夫は、何でも続かせる口だ。 幹夫はその口が、少し羨ましかった。 羨ましいは、悪くない熱さ。
――いき。
角を曲がると、家が見えた。 軒下の燕の巣は、今日もそこにある。 網の守りが揺れても、音は鳴らない。 鳴らない揺れは、胸を走らせない。
家に入ると、母が縫い箱を開けていた。 糸の匂い。 布の匂い。 匂いは静かで、でも仕事の匂いだ。
母の指が、縫い目の途中で止まった。 止まるとき、何かが切れたときだ。
母が、糸の先をつまんで言った。
「ほら、糸、終いだに」
終い。 終いは、終わりの匂いがする。
でも母は、終いの糸を切らなかった。 糸玉をもう一つ出して、糸の端と端を、指先でそっと重ねた。 重ねて、結ぶ。 ぎゅっとしない。 結び目の中に、ちいさな“ま”を残す。
ちい。
結び目が、爪に当たる小さい音。
「これで、続く」
母が言った。 言い方が、当たり前みたいで、やさしい。
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
「……糸、終わっても……続く?」
母は頷く。
「終わっても、次があるだに。終わりは、切ることじゃない。つなげば続く。……ほら、結び目。ここが節だに」
節。 答の竹の節。 ま、の節。
母は結び目を指で撫でた。 撫でると、硬いものも丸くなる。
「切れ目があっても、ここで止めて、息入れて、結び直す。……昨日の約束と同じだに」
幹夫は、首の袋を押さえて、息。
――いき。
そこへ父が縁側から顔を出した。 父の顔は疲れていない。 昼までの仕事の匂いもない。 今日は家にいる日らしい。
父が、幹夫の机の上の折れかけた鉛筆を見て、ぽつりと言った。
「……あれ、どうした」
幹夫は、恥ずかしくなる前に息を入れた。
――いき。
「……学校で……ひらいた。……折れそう」
父の肩がふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、父は自分で息を吐いた。
ふう……。
「……直すか」
母がぶつけない声で言う。
「直せるだに。……続ける道具だに」
父は鉛筆をいきなり掴まない。 いったん置き布の上に置いてから、指で継ぎ目を確かめた。 確かめると、怖さが形になる。 形になると、手が荒れない。
父がぽつり。
「……竹、割れてるな。……糸、あるか」
母が糸玉を見せる。 さっき結んだ、続きの糸。
父がそれを見て、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……糸、続いたな」
母は小さく頷く。
「続いた。……だから鉛筆も続ける」
幹夫の胸が、すとん、と座った。 座ったから、息。
――いき。
夜。 飯の匂いが家の奥へ落ち着いたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。
いつもなら、そこで言う。
竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は今日も痛くない。
でも今夜は――継ぎ目が、ちょっと痛かった。 痛いのは、指じゃない。 “終わりそう”って思った胸のほうだ。
父は小さな小刀で、竹の端をほんの少し削った。 削る音は、さく、さく。 さく、は刺さらない音。
父は削った竹を、鉛筆の割れたところの外側に当てた。 “添え木”。 添えると、折れない。
母が糸を出す。 父が鉛筆を持つ。 幹夫が、置き布の端を押さえる。 押さえるだけ。 押さえるだけが、仕事になる。
――いき。
父は糸をぐるぐる巻かない。 巻きすぎると、息が止まる。 ほどよく巻いて、結び目に“ま”を残す。 結び目は、刺さらないように、指の腹で撫でる。
ふう……。
「……よし」
父の声は小さい。 小さいのに、背中がほどける。
鉛筆を握ると、継ぎ目がさっきより座っていた。 座ると、書ける。
幹夫は試しに、新聞紙の端に小さく書いた。
ま
書けた。 書けた瞬間、胸の奥がぽん、と鳴った。
鳴ったから、息。
――いき。
母が、いつものように筆圧を落として、ゆっくり書いた。
続
「幹夫。……今日はこれだに」
幹夫はその字を見た瞬間、糸の結び目と、鉛筆の添え木と、学校の先生の「終わりじゃない」が一緒に浮かんだ。
母は左側を指でなぞった。
「こっちは糸だに。……糸へん」
糸。 結ぶ糸。 ほどく糸。 続ける糸。
母は右側を指でなぞった。
「こっちは売(うる)だに。……外へ渡す字だに」
渡す。 外へ出す。 受け渡す。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「続くってのはな……糸を切らんで、次へ渡していく字だに。糸は、途中で短くなる。終いにもなる。……でも結び目を作って渡せば、続く。続きは、つぎの人へ渡る。つぎの自分へも渡る」
つぎの自分。 明日の自分。 待てる自分。 答えられる自分。 約束を果たせる自分。
母は続けた。
「続くって、ずっと同じじゃない。……直しながら、余地を残しながら続く。継ぎ目が痛い日もある。けど、痛いって言えりゃ、直せるだに」
父が新聞紙の「続」を見て、ぽつりと言った。
「……俺、続くの……怖い日がある」
母は否定しない。 低く言った。
「うん。……続くと、また鳴るかもしれんって思うでな。でも、続くから“ま”も育つ。続くから、息も上手になる。……今日の鉛筆みたいに」
父は小さく息を吐いた。
ふう……。
「……折れそうでも……直せば……続く」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「続けりゃ飯がうまい。……続けんと腹が荒れる。荒れりゃ全部が切れる」
切れる。 切れたくない。 切れないために、結ぶ。 ま、を残す。
幹夫の胸がすとん、と座った。 座ったから、息。
――いき。
幹夫は鉛筆を握った。 直した鉛筆。 継ぎ目はまだ少し白い。 でも白さは、傷じゃなく“続いた印”みたいに見えた。
一回目の「続」は、糸が細くて、字がふらふらした。 ふらふらは、怖い続き方。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「ふらついたらな……糸を太らせりゃええ。結び目を怖がらん。……息、入れてから」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「続」は、糸が少し座って、売の形も落ち着いた。 落ち着くと、続ける字になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「続」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、点を置いた。
「……点、置くと……糸が次へ行くみてぇだな」
母が小さく頷いた。
「うん。……次へ行けりゃ続く。次があるって思えるのが、守りだに」
母は「続」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、糸の結び目みたいに見えた。
夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。
がっこうつづく を かいたみきぼう の えんぴつひらいたこわかったでもいと でつづけた続きれめ が あってもむすべば つづくおれ もま と 息つづけるいき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……続けるの、こわい日もある」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……でも、結び目があると……続けられる」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……結び目、嫌いじゃなくなった」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「嫌いじゃないって言えたら、続きができるだに」
祖母が淡々と言う。
「続きがありゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 続く明日。
幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
つづく っていと を きらない でつぎ へ わたす じ なんだねきょうえんぴつひらいたこわかった けどとうちゃん と かあちゃん がいと でつづけたぼくうれしかったいき
最後に、小さく「続」。 丸をひとつ。 結び目の丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは「ぱき」の胸の音の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
続 はいと を つぎ へ わたすきれめ が あってもむすべば いいうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうえんぴつこわかった なでもま して息 してなおせた続 って じすこしおれ の むね の いときれん よう に なるありがとう
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――昨夜、糸を結んだ小さな結び目。 短い糸の端と端が、ちゃんとつながっている。 結び目の横に、父の震える字で小さく、
つづき
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその結び目を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
続く。 切れ目があっても、結び直せば続く。 続けるって、走ることじゃない。 直しながら、余地を残しながら、次へ渡すこと。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、折れそうだった鉛筆がまた書けるようになった“続き”は届いた。 届いた結び目を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらない続き方を、そっと胸の中に座らせていった。





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