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線の字

 首から下げた布の袋は、朝の動きに合わせて、胸の真ん中で小さく揺れた。 揺れるのに、鳴らない。 鳴らないのに、重い。 重いのに痛くない。

 ――いき。

 息をひとつ入れると、縫い目の点々が、胸の中でも整う気がした。

 ちゃぶ台の隅には、昨日の小さな糸巻きが置かれている。 紙を細く切って巻いた、白い糸。 端っこが短く垂れていて、引けばほどける。 ほどけたら、また巻ける。

 幹夫はその糸の端を、指先でそっと撫でた。 細い。 細いのに、切れないようにする手つきがある。 切れないように、急がない。 急がないと、音も心も尖りにくい。

 縁側で父が、外の空を見ていた。 風の音が、今日は少し乾いている。 乾いた風は、布を早く乾かす。

 父がぽつりと言った。

「……物干しの線、張るか」

 線。 その一言が落ちた瞬間、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。叫ばない鳴り方は、続きの鳴り方だ。

 母が台所の境目から、声を急がせないまま返した。

「張るなら、ゆるみ残せよ。……きついと、切れるで」

 きついと、切れる。 昨日の“ほどける余地”。 今日も、余地が必要。

 祖母が鍋の向こうで淡々と混ぜる。

「線ぁ引くな。張るな。……置け。置いて、干せ」

 置け。 祖母の乱暴な言い方の中に、ちゃんと“落とさない”が入っている。 置く、はこの家の合言葉になってきた。

 父は小さく頷いて、草履を履いた。 履き方が急がない。 急がないと、朝が刺さらない。

「……みき坊、来い」

 呼ばれて、幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

「……うん」

 庭の端に、古い竹が二本立っている。 洗濯物を干すために、昔からそこにある竹。 竹の表は日に焼けて、色が薄い。 薄いのに、しっかり立っている。

 父は麻紐を持って出てきた。 昨日の結びの紐より少し太い。 太いと、手に食い込む。 食い込むと、胸がきゅっとなる日がある。

 幹夫はポケットの石を握って、口の中で言った。

 ――いき。

 父は竹の一本に紐を回して、結び目を作ろうとした。 結ぶところで、父の眉の間がほんの少し寄る。 寄るとき、空気が少し硬くなる。

 父はそこで手を止めた。 止まって、息をひとつ入れてから、ぽつりと言った。

「……縛るな。……結ぶ」

 昨日の言葉。 同じ言葉を自分で言えると、結び目が固くならない気がした。

 父は紐を“置く”みたいに重ねて、小さく結んだ。 きゅっと締め上げない。 ふわっと座らせる。 座らせると、結び目は刺さらない。

 次は、もう一本の竹へ紐を渡す。 渡す距離。 距離があると、胸が走りそうになる日がある。

 父は紐を持ったまま、いちど立ち止まった。 止まって、少し。 その「少し」に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 父はゆっくり歩いて、反対の竹へ紐を回した。 回して、引いて――そこで、父の手が一瞬だけ強くなった。

 張りすぎた紐は、音を持つ。 張りすぎた空気は、尖る。

 幹夫の胸がきゅっと鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 母が庭先に出てきて、低く言った。

「……父ちゃん。ゆるみ、残せ」

 残せ。 命令みたいなのに、刃じゃない。 暮らしの命令だからだ。

 父は一瞬、固くなりかけて――でも、そこで止まった。 止まれるようになってきた“止まる”。

 父が、ふっと息を吐いた。

「……ああ。……張ると、怖くなる」

 怖くなる。 言える。 言えると、怖さは少し丸くなる。

 父は紐を少し戻した。 戻す。 戻すと、線が“線の顔”になる。 ぴん、と張った刃じゃなく、たわみのある道。

 祖母が縁側から、淡々と混ぜる。

「張ったら切れる。たわんだら続く。……続くほう選べ」

 続くほう。 その言い方が、縫い目の点々の並び方に似ていた。 一気に行かない。 少しずつ、続く。

 母が洗い桶から、濡れた手拭いを一枚持ってきた。 白い布。 水を含んで、重い。 重いのに、柔らかい。

「まず、これ干す」

 母は布を線にかけた。 かけると、線が少したわむ。 たわむと、音が眠る。 眠ると、胸の角が丸くなる。

 父が、そのたわみを見て、ぽつりと言った。

「……線ってのは……まっすぐじゃなくていいんだな」

 まっすぐじゃなくていい。 その言葉で、幹夫の喉の奥が少し熱くなった。 熱いのに、息ができる熱さ。

 ――いき。

 幹夫は自分の袋を、線の近くにかざしてみた。 揺れても、鳴らない。 鳴らないのが嬉しくて、でも嬉しさが走りそうで――息を入れた。

 ――いき。

 そのとき、風が一段強くなって、干していた布がぱたん、と鳴った。

 ぱたん。

 柔らかい音。 でも“突然”の音は、父の肩を一瞬だけ跳ねさせた。 跳ねたのに、今日は声が刃にならなかった。

 父は布を見て、息をひとつ吐いた。

「……布だ。……布の音」

 自分で言えた。 言えると、音は音のままでいられる。

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、「守り」が増えた鳴り方だった。

 夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 線

 幹夫は、その字を見た瞬間、庭の紐のたわみを思い出した。 ぴん、じゃなく。 少し、たわむ線。

 母は左側を指でなぞった。

「こっちは糸だに。……縫のときの糸。結の糸」

 糸。 縫い箱の匂い。 点々が並んで、線になる匂い。

 次に右側をなぞった。

「こっちは泉(いずみ)だに。水が湧くとこ」

 泉。 山のほうの冷たい水。 用水の始まりの匂い。

 母は少し間を置いて、息をひとつ入れた。

「線ってのはな……糸みたいに細いのに、泉みたいに続く字だに」

 細いのに、続く。 幹夫の胸に、すとん、と座った。

 母は続けた。

「線はな、引くもんだと思うだら。……でも、張りすぎると切れる。だから“たわみ”が要る」

 たわみ。 余地。 ほどける結び。 きつくしない縫い目。 全部が、線の中に入っていく。

 父が新聞紙の「線」を見て、ぽつりと言った。

「……俺、線って聞くと……境目、思い出す」

 境目。 ここまで、の杭。 許の字の匂い。

 幹夫の胸がきゅっとして、息を入れた。

 ――いき。

 母は否定しなかった。 息をひとつ入れて、低く言った。

「うん。……境目は要る。……でも、境目は刃じゃなくてええ。線は、道にもなるだに」

 道。 歩。 渡。 そして、線。

 父はしばらく「線」を見ていて、それから小さく言った。

「……たわむ線なら……怖くない日がある」

 怖くない日がある。 断言じゃなく、“日がある”。 無理をしない言い方が、幹夫には嬉しかった。

 幹夫は鉛筆を握った。 糸を書いて、泉を書く。 一回目の「線」は、泉が大きくなりすぎて、糸が細くなった。 続く気持ちが先に走って、支えが弱い字。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「泉が大きいときはな……糸を太らせりゃええ。細いのは一本じゃなくてもええ」

 二本、三本。 支える数を増やす言い方。

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「線」は、糸が少し太って、字が落ち着いた。 落ち着くと、字が“続く顔”になる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 母が父を見て頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父の「線」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 泉の最後の払いが少し尖った。 尖るのに刺さらない。 刺さらないのは、その尖りが“湧く”ほうへ向いているからだ。

 父は書き終えて、ふっと息を吐いた。

「……線、って字……水が入ってるの、いいな」

 母は「うん」とだけ返した。 縫い箱の下の「うん」みたいな、折り目のある「うん」。

「水はな、止まってもまた流れるだに。……線も、止まっても続く」

 止まっても続く。 その言い方が、父の“止まって少し”と手をつないだ。

 母は「線」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、たわんだ紐の影みたいに見えた。

 夜。 遠くで、火の用心の拍子木が鳴った。

 カン、カン。

 父の肩が上がりかけて、でも、今日はそこで止まった。 止まって、息をひとつ吐いた。

「……音の線、通っただけだな」

 音の線。 その言い方が、幹夫の胸に静かに落ちた。 音も、一本の線みたいに、通っていく。 通っていくだけなら、刺さらないで済む。

 幹夫は袋の上から石を押さえて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

「……父ちゃん、線、たわんでる」

 自分でも変な言い方だと思った。 でも父は笑わなかった。 父は少し間を置いて、ぽつりと言った。

「……ああ。……たわんでるほうが、守れる」

 守れる。 未来の匂いの言葉。

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「守る線は、きつくせん。……息、入るぶん」

 父の息が、ふっと落ちていった。 落ちていく息は、布団の奥へ戻っていく息だった。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

せん っていと みたいに ほそい のにいずみ みたいに つづく んだねきょうものほし の ひもたわんで よかったぴん って するとこわいいき が はいる ぶんたわんで いるいき

 最後に、小さく「線」。 丸をひとつ。 たわみの丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは布の「ぱたん」の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

せん はほそい けど つづくきつく せんたわみ が いきうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうひも はったたわませたこわい の へったすこしつづいた

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――短い麻紐がひとつ。 結び目は固くない。 引けばほどける。 ほどけたら、また結べる。 紐の途中に、父の震える字で小さく、

せん

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその紐を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 線は、細い。 でも、続く。 たわんで、守れる。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、たわんだ紐のやわらかい影は届いた。 届いた“余地”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、胸の中の線を、きつくしすぎないで、そっと続けていった。

 
 
 

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