線の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月8日
- 読了時間: 8分

首から下げた布の袋は、朝の動きに合わせて、胸の真ん中で小さく揺れた。 揺れるのに、鳴らない。 鳴らないのに、重い。 重いのに痛くない。
――いき。
息をひとつ入れると、縫い目の点々が、胸の中でも整う気がした。
ちゃぶ台の隅には、昨日の小さな糸巻きが置かれている。 紙を細く切って巻いた、白い糸。 端っこが短く垂れていて、引けばほどける。 ほどけたら、また巻ける。
幹夫はその糸の端を、指先でそっと撫でた。 細い。 細いのに、切れないようにする手つきがある。 切れないように、急がない。 急がないと、音も心も尖りにくい。
縁側で父が、外の空を見ていた。 風の音が、今日は少し乾いている。 乾いた風は、布を早く乾かす。
父がぽつりと言った。
「……物干しの線、張るか」
線。 その一言が落ちた瞬間、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。叫ばない鳴り方は、続きの鳴り方だ。
母が台所の境目から、声を急がせないまま返した。
「張るなら、ゆるみ残せよ。……きついと、切れるで」
きついと、切れる。 昨日の“ほどける余地”。 今日も、余地が必要。
祖母が鍋の向こうで淡々と混ぜる。
「線ぁ引くな。張るな。……置け。置いて、干せ」
置け。 祖母の乱暴な言い方の中に、ちゃんと“落とさない”が入っている。 置く、はこの家の合言葉になってきた。
父は小さく頷いて、草履を履いた。 履き方が急がない。 急がないと、朝が刺さらない。
「……みき坊、来い」
呼ばれて、幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
「……うん」
庭の端に、古い竹が二本立っている。 洗濯物を干すために、昔からそこにある竹。 竹の表は日に焼けて、色が薄い。 薄いのに、しっかり立っている。
父は麻紐を持って出てきた。 昨日の結びの紐より少し太い。 太いと、手に食い込む。 食い込むと、胸がきゅっとなる日がある。
幹夫はポケットの石を握って、口の中で言った。
――いき。
父は竹の一本に紐を回して、結び目を作ろうとした。 結ぶところで、父の眉の間がほんの少し寄る。 寄るとき、空気が少し硬くなる。
父はそこで手を止めた。 止まって、息をひとつ入れてから、ぽつりと言った。
「……縛るな。……結ぶ」
昨日の言葉。 同じ言葉を自分で言えると、結び目が固くならない気がした。
父は紐を“置く”みたいに重ねて、小さく結んだ。 きゅっと締め上げない。 ふわっと座らせる。 座らせると、結び目は刺さらない。
次は、もう一本の竹へ紐を渡す。 渡す距離。 距離があると、胸が走りそうになる日がある。
父は紐を持ったまま、いちど立ち止まった。 止まって、少し。 その「少し」に、幹夫は息を入れた。
――いき。
父はゆっくり歩いて、反対の竹へ紐を回した。 回して、引いて――そこで、父の手が一瞬だけ強くなった。
張りすぎた紐は、音を持つ。 張りすぎた空気は、尖る。
幹夫の胸がきゅっと鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
母が庭先に出てきて、低く言った。
「……父ちゃん。ゆるみ、残せ」
残せ。 命令みたいなのに、刃じゃない。 暮らしの命令だからだ。
父は一瞬、固くなりかけて――でも、そこで止まった。 止まれるようになってきた“止まる”。
父が、ふっと息を吐いた。
「……ああ。……張ると、怖くなる」
怖くなる。 言える。 言えると、怖さは少し丸くなる。
父は紐を少し戻した。 戻す。 戻すと、線が“線の顔”になる。 ぴん、と張った刃じゃなく、たわみのある道。
祖母が縁側から、淡々と混ぜる。
「張ったら切れる。たわんだら続く。……続くほう選べ」
続くほう。 その言い方が、縫い目の点々の並び方に似ていた。 一気に行かない。 少しずつ、続く。
母が洗い桶から、濡れた手拭いを一枚持ってきた。 白い布。 水を含んで、重い。 重いのに、柔らかい。
「まず、これ干す」
母は布を線にかけた。 かけると、線が少したわむ。 たわむと、音が眠る。 眠ると、胸の角が丸くなる。
父が、そのたわみを見て、ぽつりと言った。
「……線ってのは……まっすぐじゃなくていいんだな」
まっすぐじゃなくていい。 その言葉で、幹夫の喉の奥が少し熱くなった。 熱いのに、息ができる熱さ。
――いき。
幹夫は自分の袋を、線の近くにかざしてみた。 揺れても、鳴らない。 鳴らないのが嬉しくて、でも嬉しさが走りそうで――息を入れた。
――いき。
そのとき、風が一段強くなって、干していた布がぱたん、と鳴った。
ぱたん。
柔らかい音。 でも“突然”の音は、父の肩を一瞬だけ跳ねさせた。 跳ねたのに、今日は声が刃にならなかった。
父は布を見て、息をひとつ吐いた。
「……布だ。……布の音」
自分で言えた。 言えると、音は音のままでいられる。
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、「守り」が増えた鳴り方だった。
夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
線
幹夫は、その字を見た瞬間、庭の紐のたわみを思い出した。 ぴん、じゃなく。 少し、たわむ線。
母は左側を指でなぞった。
「こっちは糸だに。……縫のときの糸。結の糸」
糸。 縫い箱の匂い。 点々が並んで、線になる匂い。
次に右側をなぞった。
「こっちは泉(いずみ)だに。水が湧くとこ」
泉。 山のほうの冷たい水。 用水の始まりの匂い。
母は少し間を置いて、息をひとつ入れた。
「線ってのはな……糸みたいに細いのに、泉みたいに続く字だに」
細いのに、続く。 幹夫の胸に、すとん、と座った。
母は続けた。
「線はな、引くもんだと思うだら。……でも、張りすぎると切れる。だから“たわみ”が要る」
たわみ。 余地。 ほどける結び。 きつくしない縫い目。 全部が、線の中に入っていく。
父が新聞紙の「線」を見て、ぽつりと言った。
「……俺、線って聞くと……境目、思い出す」
境目。 ここまで、の杭。 許の字の匂い。
幹夫の胸がきゅっとして、息を入れた。
――いき。
母は否定しなかった。 息をひとつ入れて、低く言った。
「うん。……境目は要る。……でも、境目は刃じゃなくてええ。線は、道にもなるだに」
道。 歩。 渡。 そして、線。
父はしばらく「線」を見ていて、それから小さく言った。
「……たわむ線なら……怖くない日がある」
怖くない日がある。 断言じゃなく、“日がある”。 無理をしない言い方が、幹夫には嬉しかった。
幹夫は鉛筆を握った。 糸を書いて、泉を書く。 一回目の「線」は、泉が大きくなりすぎて、糸が細くなった。 続く気持ちが先に走って、支えが弱い字。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「泉が大きいときはな……糸を太らせりゃええ。細いのは一本じゃなくてもええ」
二本、三本。 支える数を増やす言い方。
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「線」は、糸が少し太って、字が落ち着いた。 落ち着くと、字が“続く顔”になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
母が父を見て頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。
父の「線」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 泉の最後の払いが少し尖った。 尖るのに刺さらない。 刺さらないのは、その尖りが“湧く”ほうへ向いているからだ。
父は書き終えて、ふっと息を吐いた。
「……線、って字……水が入ってるの、いいな」
母は「うん」とだけ返した。 縫い箱の下の「うん」みたいな、折り目のある「うん」。
「水はな、止まってもまた流れるだに。……線も、止まっても続く」
止まっても続く。 その言い方が、父の“止まって少し”と手をつないだ。
母は「線」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、たわんだ紐の影みたいに見えた。
夜。 遠くで、火の用心の拍子木が鳴った。
カン、カン。
父の肩が上がりかけて、でも、今日はそこで止まった。 止まって、息をひとつ吐いた。
「……音の線、通っただけだな」
音の線。 その言い方が、幹夫の胸に静かに落ちた。 音も、一本の線みたいに、通っていく。 通っていくだけなら、刺さらないで済む。
幹夫は袋の上から石を押さえて、息をひとつ入れた。
――いき。
「……父ちゃん、線、たわんでる」
自分でも変な言い方だと思った。 でも父は笑わなかった。 父は少し間を置いて、ぽつりと言った。
「……ああ。……たわんでるほうが、守れる」
守れる。 未来の匂いの言葉。
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「守る線は、きつくせん。……息、入るぶん」
父の息が、ふっと落ちていった。 落ちていく息は、布団の奥へ戻っていく息だった。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
せん っていと みたいに ほそい のにいずみ みたいに つづく んだねきょうものほし の ひもたわんで よかったぴん って するとこわいいき が はいる ぶんたわんで いるいき
最後に、小さく「線」。 丸をひとつ。 たわみの丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは布の「ぱたん」の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
せん はほそい けど つづくきつく せんたわみ が いきうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうひも はったたわませたこわい の へったすこしつづいた
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――短い麻紐がひとつ。 結び目は固くない。 引けばほどける。 ほどけたら、また結べる。 紐の途中に、父の震える字で小さく、
せん
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその紐を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
線は、細い。 でも、続く。 たわんで、守れる。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、たわんだ紐のやわらかい影は届いた。 届いた“余地”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、胸の中の線を、きつくしすぎないで、そっと続けていった。







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