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縁の字

 縁側の板は、朝のうちはまだ冷たい。 冷たいのに、日が差すと、ゆっくり温まっていく。 急がない温まり方は、胸の中の急ぎも、少しだけ遅くする。

 幹夫は縁側に座って、昨日の藁縄の蝶結びを指でくるくる回していた。 輪っかが二つ。 二つあると、ほどけても、また結べそうな気がする。

 ――いき。

 息をひとつ入れて、縁側の板の“ふち”を、指先でなぞった。 ふちは、ここが終わりで、ここから外、の境目。 境目は、好きだ。 中と外が混ざりすぎないから。 混ざりすぎると、音も匂いも一気に来て、胸が走る日がある。

 す、と指を滑らせた、その瞬間。

 ちく。

 小さい痛みが、指の腹に刺さった。 ほんの針先みたいな痛み。 でも“小さい”ほど、胸の奥へすぐ入ってくることがある。

 幹夫は手を引っ込めて、指を見た。 血は出ていない。 でも、皮膚の中に、木の欠片がちょん、と見える。

 喉の奥が熱くなって、声が出そうになった。 出そうになったから、息。

 ――いき。

「……いたい」

 言った声は、自分でも驚くくらい小さかった。 小さい声は、刺さらないで落ちる。

 縁側の板が、きし、と鳴った。 父の足音。急がない足音。

 父は幹夫の手を見て、眉の間がほんの少し寄った。 寄るのに、刃にならない。 刃にならない寄り方は、最近の父の寄り方だった。

「……刺さったか」

 刺さった。 名前がつくと、痛みは痛みのままで座る。

 母が台所の境目から、急がせない声で言った。

「ささくれだに。……縁側のふち、古いでな」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「縁はな、刺さるときゃ刺さる。……刺さったら抜け。抜いたら飯だに」

 飯だに、で世界が暮らしへ戻る。 戻ると、痛みも暴れにくい。

 父は幹夫の指を、いきなり掴まなかった。 まず、手拭いを一枚持ってきて、幹夫の膝の上にそっと敷いた。 敷くと、手が落ち着く。

「……見せろ」

 父の声は小さい。 小さいのに、逃げ道がある声。

 幹夫は指を差し出した。 差し出す前に、息。

 ――いき。

 父は縫い箱から、針じゃなく、細い毛抜きのようなものを出してきた。 金属の光が、少しだけ怖い。 怖いから、幹夫は袋を押さえる。

 ――いき。

 父は毛抜きを畳の上に“置いて”から、指でそっと押さえた。 置けると、道具は暴れない。 暴れないと、胸の奥の警報が尖らない。

「……動くなよ。……息」

 父が言った。 父が「息」と言うと、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴る。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 父は木の欠片の“入口”を探すみたいに、毛抜きの先を当てた。 当てて、止まる。 止まって、少し。 その少しに、父の息が入る。

 すっ。

 抜けた。 抜けた瞬間、痛みがすっと引いた。 引くと、涙も引き返すみたいに止まった。

 父は抜いた欠片を、手拭いの上に置いた。 置いた欠片は、ほんの米粒みたいに小さい。

「……こんだけで、痛いんだな」

 父がぽつりと言った。 その言い方が、幹夫の胸をそっと撫でた。 小ささを、馬鹿にしない声だった。

 母が指に薬をちょんと塗って、布を当てた。

「今日の縁側、ささくれ直すだに」

 父が縁側の板を見て、少しだけ顎を引いた。

「……俺が、やる」

 その一言が、幹夫の胸の奥でぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、続きの鳴り方だ。

 ――いき。

 父は道具を持ってきた。 鉋(かんな)と、小さな紙やすり。 鉋は木の匂いがする。 木の匂いは、怖さと違うところへ鼻を連れていく。

 でも、刃がある。 刃があると、父の胸の奥の古い場所が、ちょっとだけ騒ぐ日がある。

 父は鉋を“使う前に”、布を縁側の板の上に敷いた。 布があると、木の音が眠る。 眠ると、肩が上がりにくい。

 父は鉋を布の上に置いて、しばらく見た。 見て、止まる。 止まって、少し。 その少しに、幹夫は息を入れる。

 ――いき。

 父がぽつりと言った。

「……縁が……尖ってた」

 縁。 ふち。 今朝、刺さったところ。

 父は鉋を持ち上げて、縁側の板のふちに、そっと当てた。 当てて、押すんじゃなく、滑らせる。

 しゅっ。

 音は小さい。 小さいのに、木の表面が変わる音。 削れた木の薄い膜が、ふわっと立つ。

 しゅっ。 しゅっ。

 父は二度削って、止まった。 止まって、息を吐いた。

 ふう……。

 吐く息が落ちると、肩も落ちる。 落ちると、空気が柔らかくなる。

 鉋から、木の薄い削り屑が出てきた。 長くて、くるん、と巻いている。 まるで、ほどけかけの糸みたいだ。

 幹夫はその削り屑を見て、思わず言った。

「……糸みたい」

 父が削り屑を見て、ほんの少しだけ口の端を上げた。

「……木の糸だな」

 木の糸。 その言葉が、幹夫の胸の奥にすとんと座った。

 父は紙やすりで、ふちを“丸く”した。 角を落とす。 落とすのに、壊すんじゃない。 刺さらない形にする。

「……刺さらんように」

 父がぽつりと言った。 それは縁側の板のことでもあり、どこか父自身のことでもある気がした。

 幹夫は父の手を見た。 手は震えないわけじゃない。 でも、震えが刃になっていない。 止まって、息を入れて、戻している。

 ――いき。

 父は仕上げに、縁側のふちを指で撫でた。 撫でて、確かめる。

「……ほら」

 幹夫も恐る恐る、指先で触ってみた。 ふちが、やわらかい。 刺さらないふち。 境目なのに、痛くない。

 胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

「……父ちゃん、すごい」

 父は照れたみたいに鼻の下を擦った。

「……すごくねぇ。……縁、直しただけだ」

 “だけ”。 でも、その“だけ”が、この家では大きい。 刺さらない“だけ”が、続きを作るからだ。

 昼前、幹夫は縁側に座って、綴じた冊子を膝に置いた。 白い紙は、今日は刺さらない。 刺さらない縁側があると、白い紙も刺さらない気がする。

 鉛筆で小さく書いた。

きょうゆび に き が ささったでもとうちゃん ぬいたえんがわ の ふちまるく したいき

 “いき”は丸く書いた。 丸いと、刺さらない。

 父がそれをちらりと見て、ぽつりと言った。

「……書くと……縁も残るな」

 縁も残る。 ふちのこと。 つながりのこと。 両方が一緒に座った気がした。

 夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目は今日も痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 縁

 幹夫はその字を見た瞬間、縁側のふちの“丸さ”を思い出した。 境目なのに、痛くない。 境目だから、落ち着ける。

 母は左側を指でなぞった。

「こっちは糸だに。……結ぶ糸。綴じる糸。つなぐ糸」

 糸。 家の中の続きの匂い。

 母は右側をなぞって、少しだけ笑いそうになって、笑わないまま言った。

「こっちはな……難しい形だに。でも、“へり”って読むだら。ふち、って意味もある」

 へり。 ふち。 さっき丸くしたところ。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「縁ってのはな……**糸でつながる“ふち”**の字だに。人の縁、って言うだら。出会いのふち。近づきすぎず、遠すぎずの場所」

 近づきすぎず、遠すぎず。 今日、父が猫を追わずに線を置いた距離。 踏切で、遠くから見た距離。 あれも、縁の距離だった。

 母は続けた。

「縁側の縁も同じだに。家と外の間。……間があるから、息が入る」

 間。 息。 字がまた、手をつないだ。

 父が新聞紙の「縁」を見て、ぽつりと言った。

「……俺、縁側が……好きだ」

 父の“好き”は、まだ少ない。 少ないのに、落とさない好き。

「……中に居ると……胸が詰まる日がある。外に出ると……怖い日がある。……縁は、その間だ」

 間。 言えた。 言えると、縁側は縁側のままで座っていられる。

 母は否定しなかった。 低く言った。

「うん。……縁があると、戻れるだに。境目があると、守れる。……今日の“刺さらんふち”みたいに」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言った。

「縁はな、切るな。……きつく結ぶな。ほどけるまま、飯食って繋げ」

 乱暴なのに、太い道の言い方だった。

 幹夫は鉛筆を握った。 糸を書いて、右を書いて。

 一回目の「縁」は、右がごちゃっとして、胸がきゅっとした。 難しい形は、息が浅くなりやすい。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「難しいときはな……“ふち”を思い出せ。縁側のふち。丸くしたとこ。……手で覚えるだに」

 手で覚える。 今日の、刺さらない丸さ。

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「縁」は、少し落ち着いた顔になった。 落ち着くと、字が“座れる顔”になる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 母が父を見て頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父の「縁」は、糸の線が少し揺れた。 揺れるのに、折れていない。 右の難しいところで、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、点を置いた。 置いた点は小さい。 小さいのに、そこに“入口”ができる。

 父が字を見て、ぽつりと言った。

「……縁、って……丸くする字だな」

 母は「うん」とだけ返した。 折り目のある「うん」。

「うん。……刺さらんように、角を落とす。人の声も、心も。……縁は、丸くする場所」

 母は「縁」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、縁側のふちの丸さみたいに見えた。

 夜。 縁側の板は、昼の温かさを少しだけ残していた。 幹夫はそこに座って、指の絆創膏を見た。 痛くはない。 でも、今日の朝の“ちく”は、まだ小さく残っている。

 残っているから、思い出せる。 思い出せるから、次はそっと触れる。

 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書き足した。

ささったぬいたえんがわ まるくしたえんって いいなここ と そと の あいだいき

 “えん って いいな”。 その一行が、幹夫の胸の奥をあたためた。

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……俺、縁がないと……すぐ尖る」

 尖る。 言える。 言えると、尖りは“尖りのまま”座れる。

 幹夫は返事を急がなかった。 急ぐと、言葉が刺さるときがある。 だから、間。

 ――いき。

「……うん。……でも、父ちゃん、きょう、ふち、まるくした」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

「……ふち、丸くすると……胸も丸くなるな」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「縁は戻り口だに。……中でも外でもない場所があると、人はほどける」

 祖母が淡々と言う。

「ほどけりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 続きの言葉。

 幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

えん っていと で つながる ふち なんだねきょうゆび ちく したとうちゃん ぬいたえんがわ の ふちまるく したささらない ふちいき

 最後に、小さく「縁」。 丸をひとつ。 ふちの丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは朝の“ちく”の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

えん はいと と ふちちかづきすぎんとおすぎんあいだ に いき が はいるうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうき が ささった ときあせったでもとまれたぬけたえんがわ まるくしたすこしおれ の ふち も まるく なった

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――鉋の削り屑がひとつ。 木の薄い糸みたいに、くるん、と巻いている。 端っこが、父の手で少し丸く切りそろえられていて、刺さらない。 そのそばに、父の震える字で小さく、

えん

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその“木の糸”を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 縁は、境目。 境目は、痛くないように丸くできる。 糸みたいに、続きも作れる。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、掌の上の薄い木の糸は届いた。 届いた“刺さらないふち”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、ここから先へ行ける縁を、そっと増やしていった。

 
 
 

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