縫の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月8日
- 読了時間: 9分

首から下げた布の袋は、朝の支度の間じゅう、幹夫の胸の真ん中で小さく揺れていた。 揺れているのに、鳴らない。 鳴らないのに、重い。 重いのに痛くない。
――いき。
息をひとつ入れると、袋はきちんと座った。
だけど、今日は紐の結び目が、いつもより少しだけ頼りなく見えた。 蝶結びの輪が、朝の手の動きに擦れて、ちょん、と傾く。 傾くと、ほどけてしまいそうな気がする。 ほどけたら、石が落ちる。 落ちたら、音が鳴る。
音が鳴る、と思っただけで、胸の奥がきゅっとなる。 きゅっとなったから、石じゃないほうの手を握って――
――いき。
幹夫が結び目を指先で押さえたとき、縁側から父の声が落ちた。
「……ほどけそうか」
ほどけそう。 その言葉は、怖さの名前をつける言葉だった。 名前がつくと、少しだけ持てる形になる。
「……うん。ちょっと」
声にすると、胸のきゅっが少し丸くなる。
父は立ち上がらなかった。 立ち上がらないで、縁側の板に指を置いて、ぽつりと言った。
「……縫うか」
縫う。 その音が、畳の目の上に静かに座った。 縫う、は“結ぶ”と似ているのに、どこか違う。 結び目は外にある。 縫い目は中にある。
母が台所の境目から、声を急がせないまま言った。
「縫っておけば、ほどけんだに。……でも、きつくしすぎるなよ」
きつくしすぎるなよ。 ほどける余地。 余地があると、息が入る。
祖母が鍋の向こうで淡々と言った。
「縫い目は、ほどけにくい。結び目は、ほどけやすい。……両方あると上等だに」
両方。 守りが増える言い方だった。
母の縫い箱は、畳の上に置かれると、少しだけ木の匂いを立てた。 蓋を開けると、糸の匂い。 布の匂い。 小さな金物の匂い。
針が、かすかに触れ合って、ちり、と鳴りかけた。
その瞬間、父の肩がふっと上がる。 上がって止まる。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。
――いき。
母は、すぐに針を指で押さえて、音を止めた。 止め方が丁寧すぎない。 丁寧すぎないと、生活の手つきになる。
「音、出さんでええ。……布、敷く」
母は小さな布切れを一枚取り出して、針山の下に敷いた。 敷くと、針の音は眠る。 眠ると、父の肩が少し落ちる。
父は黙って、それを見ていた。 見ている目は遠くない。 遠くない目は、今ここにいる目だ。
母が糸を引き出して、指で撚りを整えた。 糸は細い。 細いのに、切れないようにする手つきがある。
「幹夫、袋、外して」
幹夫は袋を外して、掌に乗せた。 石の重さが、布越しにちゃんと分かる。 分かると、胸が落ち着く。
父が袋を受け取った。 受け取り方が、投げない。 落とさない。 置くみたいに受け取る。
「……ここ、縫う」
父は袋の口の折り目を見て、そこへ指先をそっと当てた。 当てるだけで、押しつけない。 押しつけないのに、逃げない。
母が針に糸を通した。 糸通しの小さな金具が、きら、と光った。 光は丸い。 丸い光は刺さらない。
父は針を見た。 針の先は、やっぱり尖っている。 尖っているものを見ると、胸の奥がひゅっと狭くなる日がある。
ひゅっとしたから、幹夫は息を入れた。
――いき。
父は、針を握らなかった。 いちど、針の先を布の上に置いて、指でそっと押さえた。 “置く”。 昨日の合言葉の置き方だった。
「……針は、刺すもんじゃねぇな」
父がぽつりと言った。
母が低く返す。
「うん。……つなぐもんだに」
つなぐ。 その言葉が、糸の細さに似ていた。 細いのに、ちゃんと渡る。
父は、針を持った。 持つ指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
針先が布に触れる。 ぷす、とは鳴らない。 鳴らない刺さり方。 刺さるのに、布は声を上げない。
父は針を通した。 通して、糸を引く。 引くとき、ぎゅっとしない。 ぎゅっとしないで、すーっと戻す。
行って、戻る。 針が行って、糸が戻る。 それを見ているだけで、幹夫の胸の奥が少し丸くなる。
父の息が、ふっと落ちた。
「……縫うの、歩くのに似てるな」
止まって、少し。 行って、戻って、少し。 それが道になる。
幹夫は、袋の中の石を指で押さえた。 押さえると、石は鳴らない。 鳴らないと、息が入る。
――いき。
父は二針、三針と進めた。 縫い目が小さく並ぶ。 並ぶと、布の縁が落ち着く。 落ち着くと、心も少し落ち着く。
そのとき、父の指がほんのわずかに揺れて、針先が指の腹に触れた。
ちく。
痛いほどじゃない。 でも、赤い点がひとつ浮いた。
幹夫の胸が、ひゅっとなる。 ひゅっとなったから、息。
――いき。
「父ちゃん……」
父はすぐに手を引かなかった。 引かないで、針を布の上に置いて、布で指をそっと押さえた。 押さえると、赤い点は丸く隠れる。
「……大丈夫だに。……点だ」
“点”。 その言い方が、祖母みたいに暮らしの言い方で、幹夫の胸が少しだけほどけた。
母は慌てなかった。 慌てないで、小さな布切れを取り、父の指に巻いた。
「尖いもんは、点で済ませりゃええ。……広げん」
広げん。 続きを持ち込まん。 許の字の匂いがした。
父は、布巻きの指で、また針を持った。 持てた。 持てたことが、幹夫の胸をあたためた。
縫い終わると、袋の口は少しだけしっかりした。 しっかりしているのに、きつくない。 きつくないしっかりは、息の入るしっかりだ。
父が、糸を切る前に、結び目を作った。 固く縛らない。 ほどける余地を残して、ちいさく留める。
「……引けば、ほどける。……でも勝手にはほどけん」
昨日の結びと同じ言葉。 同じ言葉は、家の中の道を太くする。
父は袋を幹夫の掌に戻した。 戻す手が、置く手だった。
幹夫は首に下げた。 胸の真ん中に布が当たる。 当たって、鳴らない。 鳴らないのに、重い。 重いのに痛くない。
――いき。
息を入れると、縫い目が胸の中でも整う気がした。
祖母が鍋の向こうから淡々と言った。
「縫い目があると、ほどけても戻れる。……腹も同じだに」
母が笑いそうになって、笑わないで、低く言う。
「幹夫、父ちゃんに言っとけ」
幹夫は喉の奥が熱くなって、でも熱さを走らせないように、息をひとつ入れてから言った。
――いき。「……ありがとう。……縫ってくれて」
父は少し間を置いて、ぽつりと言った。
「……うん。……逢えた気がする」
逢えた。 その言葉が、糸の匂いと一緒に胸の奥へ入った。 入ったのに、刺さらない。
夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
縫
幹夫は、字を見ただけで、縫い箱の匂いが戻ってきた。 糸。 針。 父の指の赤い点。 赤い点なのに、怖くない点。
母は左側を指でなぞった。
「こっちは糸だに。……結のときの糸」
次に右側をなぞった。
「こっちは……逢(あう)だに。会う、よりちょっと深い。……偶然じゃなく、ちゃんと会う」
ちゃんと会う。 幹夫は、父の目が遠くなくなってきたことを思い出した。
母は少し間を置いて、息をひとつ入れた。
「縫うってのはな……糸で逢う字だに。布と布が、針の行き来で逢う。人も、少しずつ逢い直す」
逢い直す。 言葉が胸の奥で、ゆっくり結び目を作った。 固くしない結び目。 ほどける余地のある結び目。
父が新聞紙の「縫」を見て、ぽつりと言った。
「……逢う、って……怖ぇ日もある」
母は否定しなかった。 息をひとつ入れて、低く言った。
「うん。……だから糸が要る。細くでええ。切れそうなら、二本にする」
二本。 三本。 支える数を増やす言い方。
父はしばらく「縫」を見て、それから小さく言った。
「……縫うと、戻れる道が見えるな。……針が行っても、糸が戻る」
戻る。 返。 渡。 結。 守。 全部が、縫い目の中に入っていた。
幹夫は鉛筆を握った。 糸を書いて、逢を書く。 一回目の「縫」は、逢が大きくなりすぎて、糸が細くなった。 逢いたいが先に走って、支えが弱い字。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「逢が大きくなったらな……糸を太らせりゃええ。糸があると、逢っても落ちん」
落ちん。 落ちないは、守りの言葉。
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「縫」は、糸が少し太って、字が落ち着いた。 落ち着くと、字が“逢える顔”になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が、布巻きの上で少しだけ震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
母が父を見て頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。
父の「縫」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 糸の最後が少し尖った。 尖るのに刺さらない。 刺さらないのは、その尖りが“つなぐ”ほうへ向いているからだ。
父は書き終えて、ふっと息を吐いた。
「……縫、って字……逢うのを、糸が支えてるな」
母は「うん」とだけ返した。 縫い箱の下の「うん」みたいな、折り目のある「うん」。
母は「縫」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、縫い目の小さな点々みたいに見えた。
夜。 布団に入る前、父が幹夫の首の袋を見て、ぽつりと言った。
「……きつくないか」
きつくないか。 それは結びのときと同じ、守りの問いだった。
幹夫は指を入れて確かめた。 指が一本入る。 一本入ると、苦しくない。
――いき。
「……だいじょうぶ。……縫い目も、だいじょうぶ」
父は少し間を置いて、ぽつりと言った。
「……今日は、俺の指、点で済んだ。……広がらんかった」
広がらんかった。 それは、痛さも怖さも、続きにしない言い方だった。
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「縫い目は点だに。点を並べると線になる。……線が道になる」
父の息が、ふっと落ちていった。 落ちていく息は、布団の奥へ戻っていく息だった。
幹夫は、袋の上から石を押さえ、口の中で小さく言った。
――いき。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
ぬう っていと で あう って こと なんだねきょうふくろ を ぬってくれていし が おちないおと も ならないとうちゃんの ゆび の あかい てんこわく ならなかったいき
最後に、小さく「縫」。 丸をひとつ。 点の丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは針の尖さの名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
ぬう はいと で あうてん を ならべるおと も こころ もすこし ずついきうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうふくろ ぬえたて が ふるえてもてん で よかったすこしあえた
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――小さな糸巻き。 紙を細く切って巻いた即席の糸巻きに、白い糸が少し巻かれている。 端っこが、短く垂れていて、引けばほどける。 ほどけたら、また巻ける。 糸巻きの隅に、父の震える字で小さく、
いと
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫は糸巻きを掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
縫う。 糸で逢う。 点を並べる。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、袋の縫い目の点々は届いた。 届いた“点”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、逢い直すための細い糸を、胸の中にそっと通していった。





コメント