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置の字


 朝の「まちばこ」は、今日もちゃぶ台の端で静かに息をしていた。 布の上は空っぽ。 空っぽは、来る場所。

 その横に、白い貝殻の受け皿がある。 内側が少し光って、縁が丸い。 丸い縁は刺さらない。 刺さらないと、見ているだけで胸の角が丸くなる。

 幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 息をひとつ入れて、貝殻をそっと撫でた。 冷たい。 冷たいと、今ここがはっきりする。

 そのとき、戸の外から足音が弾んで来た。

 たたた。

「みきぼー!」

 正夫の声。 声が大きいのに、刃じゃない声。

 母が台所の境目から、急がせない声で返す。

「朝っぱらから元気だに。……入れ」

 正夫が上がってきて、まず目に入ったのが貝殻だった。

「うわ、これ、きれい! それ何? 皿?」

 正夫の手が、もう伸びていた。 伸びる手は悪くない。 ただ、伸びる速さが早いと、ものが驚く日がある。

 幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

「それ、受け皿……」

 言い終わる前に――

 つるっ。

 正夫の指が、貝殻の光る内側で滑った。 貝殻が空中で一瞬だけ回って、次の瞬間、縁側の板へ落ちた。

 かしゃん。

 硬い音。 割れる音は、胸の奥のどこかを急に叩く。

 父の肩が、ふっと跳ねた。 跳ねて――叫びそうな形で止まる。

 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。

 ――いき。

 正夫が固まった。 顔が白くなる白さ。 白いと、言葉が出にくい。

「……ご、ごめ……」

 その声が細い。 細い声は、受け取れる声だ。

 父は縁側に出てきた。 足音が急がない。 急がない足は、まだ戻れる足。

 父は割れた貝殻を見て、眉の間がほんの少し寄った。 寄るのに、刃にならない。 でも、刃になりかける気配は、空気の端にある。

 父は、いちどだけ息を吐いた。

 ふう……。

「……貝の音だ」

 名前を置く。 置けると、音は音のままで座る。

 母が台所の境目から、低い声を落とした。

「手で拾うなよ。……欠け、刺さるだに」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「刺さるもんぁ、まず置け。……拾うのはそのあとだ」

 置け。 その二文字が、ちゃぶ台の上にすとんと座った。

 父はすぐ拾わなかった。 まず、古い布を一枚持ってきて、割れた貝殻の下へそっと差し込んだ。 差し込むだけ。 叩かない。 追わない。

 父がぽつりと言った。

「……いったん、置く」

 いったん、置く。 その言葉が、幹夫の胸の奥に落ちて、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 父は布ごと、貝殻の欠片をまとめて、ちゃぶ台の上に“座らせた”。 欠片の尖ったところが、布の上なら刺さらない。

 正夫が震える声で言った。

「……おじさん、ごめん……」

 父は正夫を見すぎずに、でも届く声で言った。

「……ええ。……でもな」

 言葉を急がせない「でもな」。

「落としたら、拾う前に、置く。……尖いのは、走る」

 走る。 尖いものは、心も走らせる。

 正夫が小さく頷いた。

「……うん」

 その“うん”が、幹夫の胸をやわらかくした。

 割れた貝殻は、父が紙やすりを持ってきて、縁を丸く削った。 削る音は小さい。 小さいと、肩が上がりにくい。

 しゅり、しゅり。

 父は二、三回擦って止まった。 止まって、息を吐く。

 ふう……。

 吐いてから、また擦る。 刃を出す前に、息を入れる手つき。

 幹夫はその様子を見て、喉の奥が熱くなった。 熱いと走りそうだから、息。

 ――いき。

 母が、割れた欠片をひとつ手に取って、光にかざした。

「これ、まだ使えるだに。……ちいさい受け皿になる」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「割れたら終いじゃねぇ。……割れたぶん、置き方覚えりゃええ」

 置き方。 今日の家の真ん中の言葉になった。

 正夫はずっと申し訳なさそうに立っていて、幹夫はその背中が痛かった。 謝りたいのに、どうしたらいいか分からない背中。

 幹夫は、言葉を急がせずに置いた。

「……正夫。……いっしょに、丸くしよう」

 言う前に、息。

 ――いき。

 正夫が、目を見開いて、それから小さく頷いた。

「……うん。……やる」

 父がぽつりと言った。

「……やるなら、布の上だ」

 母がすぐ、布を一枚広げた。 布は音を眠らせる。 眠ると、心も眠りやすい。

 四人で、紙やすりを交代で擦った。 正夫の手は最初速かったけれど、父の「急ぐな」を受け取って、少し遅くなった。

 遅くなると、削り屑がやわらかく巻く。 巻くと、糸みたいに見える。

 幹夫がぽつりと言った。

「……貝の糸」

 父がほんの少しだけ口の端を上げた。

「……丸くなる糸だな」

 丸くなる糸。 それは、刺さらない道の形だった。

 昼前、父が戸口の横に、小さな布の四角を置いた。 古い手拭いを切ったもの。 縁を折って、角を丸くしてある。

「……ここ」

 父がぽつりと言った。

「外から何か持ってきたら……いったん、ここに置く」

 母が頷く。

「ええな。……置き布だに」

 置き布。 名前がつくと、そこが場所になる。 場所があると、手が迷子になりにくい。

 正夫が目を丸くした。

「置き布って、かっこいい」

 父は笑わないまま、でも声がやわらかい。

「……かっこよくねぇ。……がん、って鳴らさんためだ」

 鳴らさんため。 守りのため。 でも、守りが牢屋じゃない守り。

 幹夫は置き布を指で押さえて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 布の上は、冷たくない。 冷たくないと、置ける。

 正夫が帰り際に、頭を下げた。

「……ごめん。……でも、丸くできた」

 父が短く言った。

「……うん。……次は、置く」

 正夫が小さく、でも確かに言った。

「……うん。置く」

 その一言が、幹夫の胸の奥でぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は今日も痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 置

 幹夫はその字を見た瞬間、父の「いったん置く」を思い出した。 割れた貝殻を、怒りと一緒に抱え込まないで、布の上に座らせた朝。

 母は上の四角い形を指でなぞった。

「ここ、罒(あみ)だに。網。……父ちゃん、網直しただら。あれの網」

 網。 父の指先。 網の目。 絡まり。ほどけ。 全部がそこに繋がる。

 母は下の形をなぞった。

「こっちは直(なお)だに。まっすぐ、って字。……まっすぐそこに座らせる」

 座らせる。 布の上。 箱の布。 貝殻の皿。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「置くってのはな……網みたいに受けて、まっすぐそこに座らせておく字だに。抱えたまま走らん。いったん置く。……置けたら、息が入る」

 息が入る。 幹夫は頷いた。頷く前に息。

 ――いき。

 母は続けた。

「置くってな、捨てるじゃない。見捨てるじゃない。……“ここにいる”ままにする。あとで、ほどくために」

 あとで。 待の字の匂い。 解の字の匂い。

 父が新聞紙の「置」を見て、ぽつりと言った。

「……俺、怒りを置けなかった」

 母は否定しなかった。 低く言った。

「うん。……でも今日は置けた。置いたら、丸くできた。……置けると、手が荒くならん」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「置けりゃ勝ちだに。……抱えたままだと、手ぇ滑る。腹も滑る」

 父が小さく笑った。 笑いきれないのに、笑いの形。

「……置く、って……助かるな」

 助かる。 その言葉が、ちゃぶ台の上に丸く座った。

 幹夫は鉛筆を握った。 網を書く。 直を書く。

 一回目の「置」は、直がきつくなって、字が硬い顔になった。 硬いと、息が入りにくい。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「直がきついときはな……網を太らせりゃええ。受けるほうを大きくする。……皿みたいに」

 皿みたいに。 受の字が手をつないだ。

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「置」は、少し丸い顔になった。 丸いと、置いておける字になる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「置」は、網の線が少し揺れた。 揺れるのに、折れていない。 直の最後の横を引くとき、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、線を置いた。

「……線を置く、って……置くの字だな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……線を置けば、境目ができる。境目ができれば、守れる。……置くは、守りの入口だに」

 母は「置」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、置き布の四角みたいに見えた。

 夜。 割れた貝殻は、小さな受け皿として、便りの箱の横に座っていた。 欠けたところは丸い。 丸い欠けは刺さらない。 欠けても、使える。 そのことが、幹夫にはとても大きかった。

 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。

かい われたかた うごいたでもいったん おいたおいたらまるく できたまさお もおく って いえたいき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……置くの、難しい日もある」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……でも、置けたら、あとで丸くできる」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

「……丸くする前に……置く、か」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「うん。……置けたら、走らん。走らんかったら、戻れるだに」

 祖母が淡々と言う。

「戻れりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 置ける明日。

 幹夫は首の袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

おく ってあみ みたい に うけてまっすぐ そこに すわらせる って こと なんだねきょうかい が われたでもとうちゃん いったん おいたまるく できたまさお も おく って いえたいき

 最後に、小さく「置」。 丸をひとつ。 布の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは「かしゃん」の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

おく はあみ で うけてなお(まっすぐ) に すわらせるすてる じゃないいったん おいていき を いれるうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうかい が われた ときおこり が でそう だったでもおけたぬの の うえおけたまるく できたすこしおれ も まるく なった

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――戸口に置いた小さな四角い布。 角が丸く縫ってある。 刺さらない角。 布の端に、父の震える字で小さく、

おく

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその布を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 置く。 抱えたまま走らない。 布の上に、箱の布に、皿の上に――いったん座らせる。 座らせたら、丸くする時間ができる。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、戸口の小さな置き布は届いた。 届いた四角い余地を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらない置き方を、そっと増やしていった。

 
 
 

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