置の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月10日
- 読了時間: 8分

朝の「まちばこ」は、今日もちゃぶ台の端で静かに息をしていた。 布の上は空っぽ。 空っぽは、来る場所。
その横に、白い貝殻の受け皿がある。 内側が少し光って、縁が丸い。 丸い縁は刺さらない。 刺さらないと、見ているだけで胸の角が丸くなる。
幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
息をひとつ入れて、貝殻をそっと撫でた。 冷たい。 冷たいと、今ここがはっきりする。
そのとき、戸の外から足音が弾んで来た。
たたた。
「みきぼー!」
正夫の声。 声が大きいのに、刃じゃない声。
母が台所の境目から、急がせない声で返す。
「朝っぱらから元気だに。……入れ」
正夫が上がってきて、まず目に入ったのが貝殻だった。
「うわ、これ、きれい! それ何? 皿?」
正夫の手が、もう伸びていた。 伸びる手は悪くない。 ただ、伸びる速さが早いと、ものが驚く日がある。
幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
「それ、受け皿……」
言い終わる前に――
つるっ。
正夫の指が、貝殻の光る内側で滑った。 貝殻が空中で一瞬だけ回って、次の瞬間、縁側の板へ落ちた。
かしゃん。
硬い音。 割れる音は、胸の奥のどこかを急に叩く。
父の肩が、ふっと跳ねた。 跳ねて――叫びそうな形で止まる。
止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。
――いき。
正夫が固まった。 顔が白くなる白さ。 白いと、言葉が出にくい。
「……ご、ごめ……」
その声が細い。 細い声は、受け取れる声だ。
父は縁側に出てきた。 足音が急がない。 急がない足は、まだ戻れる足。
父は割れた貝殻を見て、眉の間がほんの少し寄った。 寄るのに、刃にならない。 でも、刃になりかける気配は、空気の端にある。
父は、いちどだけ息を吐いた。
ふう……。
「……貝の音だ」
名前を置く。 置けると、音は音のままで座る。
母が台所の境目から、低い声を落とした。
「手で拾うなよ。……欠け、刺さるだに」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「刺さるもんぁ、まず置け。……拾うのはそのあとだ」
置け。 その二文字が、ちゃぶ台の上にすとんと座った。
父はすぐ拾わなかった。 まず、古い布を一枚持ってきて、割れた貝殻の下へそっと差し込んだ。 差し込むだけ。 叩かない。 追わない。
父がぽつりと言った。
「……いったん、置く」
いったん、置く。 その言葉が、幹夫の胸の奥に落ちて、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
父は布ごと、貝殻の欠片をまとめて、ちゃぶ台の上に“座らせた”。 欠片の尖ったところが、布の上なら刺さらない。
正夫が震える声で言った。
「……おじさん、ごめん……」
父は正夫を見すぎずに、でも届く声で言った。
「……ええ。……でもな」
言葉を急がせない「でもな」。
「落としたら、拾う前に、置く。……尖いのは、走る」
走る。 尖いものは、心も走らせる。
正夫が小さく頷いた。
「……うん」
その“うん”が、幹夫の胸をやわらかくした。
割れた貝殻は、父が紙やすりを持ってきて、縁を丸く削った。 削る音は小さい。 小さいと、肩が上がりにくい。
しゅり、しゅり。
父は二、三回擦って止まった。 止まって、息を吐く。
ふう……。
吐いてから、また擦る。 刃を出す前に、息を入れる手つき。
幹夫はその様子を見て、喉の奥が熱くなった。 熱いと走りそうだから、息。
――いき。
母が、割れた欠片をひとつ手に取って、光にかざした。
「これ、まだ使えるだに。……ちいさい受け皿になる」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「割れたら終いじゃねぇ。……割れたぶん、置き方覚えりゃええ」
置き方。 今日の家の真ん中の言葉になった。
正夫はずっと申し訳なさそうに立っていて、幹夫はその背中が痛かった。 謝りたいのに、どうしたらいいか分からない背中。
幹夫は、言葉を急がせずに置いた。
「……正夫。……いっしょに、丸くしよう」
言う前に、息。
――いき。
正夫が、目を見開いて、それから小さく頷いた。
「……うん。……やる」
父がぽつりと言った。
「……やるなら、布の上だ」
母がすぐ、布を一枚広げた。 布は音を眠らせる。 眠ると、心も眠りやすい。
四人で、紙やすりを交代で擦った。 正夫の手は最初速かったけれど、父の「急ぐな」を受け取って、少し遅くなった。
遅くなると、削り屑がやわらかく巻く。 巻くと、糸みたいに見える。
幹夫がぽつりと言った。
「……貝の糸」
父がほんの少しだけ口の端を上げた。
「……丸くなる糸だな」
丸くなる糸。 それは、刺さらない道の形だった。
昼前、父が戸口の横に、小さな布の四角を置いた。 古い手拭いを切ったもの。 縁を折って、角を丸くしてある。
「……ここ」
父がぽつりと言った。
「外から何か持ってきたら……いったん、ここに置く」
母が頷く。
「ええな。……置き布だに」
置き布。 名前がつくと、そこが場所になる。 場所があると、手が迷子になりにくい。
正夫が目を丸くした。
「置き布って、かっこいい」
父は笑わないまま、でも声がやわらかい。
「……かっこよくねぇ。……がん、って鳴らさんためだ」
鳴らさんため。 守りのため。 でも、守りが牢屋じゃない守り。
幹夫は置き布を指で押さえて、息をひとつ入れた。
――いき。
布の上は、冷たくない。 冷たくないと、置ける。
正夫が帰り際に、頭を下げた。
「……ごめん。……でも、丸くできた」
父が短く言った。
「……うん。……次は、置く」
正夫が小さく、でも確かに言った。
「……うん。置く」
その一言が、幹夫の胸の奥でぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は今日も痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
置
幹夫はその字を見た瞬間、父の「いったん置く」を思い出した。 割れた貝殻を、怒りと一緒に抱え込まないで、布の上に座らせた朝。
母は上の四角い形を指でなぞった。
「ここ、罒(あみ)だに。網。……父ちゃん、網直しただら。あれの網」
網。 父の指先。 網の目。 絡まり。ほどけ。 全部がそこに繋がる。
母は下の形をなぞった。
「こっちは直(なお)だに。まっすぐ、って字。……まっすぐそこに座らせる」
座らせる。 布の上。 箱の布。 貝殻の皿。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「置くってのはな……網みたいに受けて、まっすぐそこに座らせておく字だに。抱えたまま走らん。いったん置く。……置けたら、息が入る」
息が入る。 幹夫は頷いた。頷く前に息。
――いき。
母は続けた。
「置くってな、捨てるじゃない。見捨てるじゃない。……“ここにいる”ままにする。あとで、ほどくために」
あとで。 待の字の匂い。 解の字の匂い。
父が新聞紙の「置」を見て、ぽつりと言った。
「……俺、怒りを置けなかった」
母は否定しなかった。 低く言った。
「うん。……でも今日は置けた。置いたら、丸くできた。……置けると、手が荒くならん」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「置けりゃ勝ちだに。……抱えたままだと、手ぇ滑る。腹も滑る」
父が小さく笑った。 笑いきれないのに、笑いの形。
「……置く、って……助かるな」
助かる。 その言葉が、ちゃぶ台の上に丸く座った。
幹夫は鉛筆を握った。 網を書く。 直を書く。
一回目の「置」は、直がきつくなって、字が硬い顔になった。 硬いと、息が入りにくい。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「直がきついときはな……網を太らせりゃええ。受けるほうを大きくする。……皿みたいに」
皿みたいに。 受の字が手をつないだ。
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「置」は、少し丸い顔になった。 丸いと、置いておける字になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「置」は、網の線が少し揺れた。 揺れるのに、折れていない。 直の最後の横を引くとき、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、線を置いた。
「……線を置く、って……置くの字だな」
母が小さく頷いた。
「うん。……線を置けば、境目ができる。境目ができれば、守れる。……置くは、守りの入口だに」
母は「置」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、置き布の四角みたいに見えた。
夜。 割れた貝殻は、小さな受け皿として、便りの箱の横に座っていた。 欠けたところは丸い。 丸い欠けは刺さらない。 欠けても、使える。 そのことが、幹夫にはとても大きかった。
父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。
かい われたかた うごいたでもいったん おいたおいたらまるく できたまさお もおく って いえたいき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……置くの、難しい日もある」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……でも、置けたら、あとで丸くできる」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
「……丸くする前に……置く、か」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「うん。……置けたら、走らん。走らんかったら、戻れるだに」
祖母が淡々と言う。
「戻れりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 置ける明日。
幹夫は首の袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
おく ってあみ みたい に うけてまっすぐ そこに すわらせる って こと なんだねきょうかい が われたでもとうちゃん いったん おいたまるく できたまさお も おく って いえたいき
最後に、小さく「置」。 丸をひとつ。 布の丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは「かしゃん」の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
おく はあみ で うけてなお(まっすぐ) に すわらせるすてる じゃないいったん おいていき を いれるうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうかい が われた ときおこり が でそう だったでもおけたぬの の うえおけたまるく できたすこしおれ も まるく なった
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――戸口に置いた小さな四角い布。 角が丸く縫ってある。 刺さらない角。 布の端に、父の震える字で小さく、
おく
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその布を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
置く。 抱えたまま走らない。 布の上に、箱の布に、皿の上に――いったん座らせる。 座らせたら、丸くする時間ができる。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、戸口の小さな置き布は届いた。 届いた四角い余地を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらない置き方を、そっと増やしていった。





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