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聞の字

 朝、海はまだ起ききっていなかった。 波の音が大きくなる手前の、低いざわめきだけが、蒲原の家々の下を流れている。

 幹夫は布団の中で、耳を澄ました。 祖母の咳。 竈の薪がはぜる音。 母が桶の水を絞る音。 そして――もうひとつ。

 外で、砂を踏む音。

 ぎゅ、ぎゅ、と、板の上じゃない音。 畳の上の足音と違って、土の音は少し湿っている。湿った音は、夜と朝の境目の音だ。

 幹夫はそっと起きた。 畳の目に足を合わせる。合わせると、家が家のまま目を覚まさない。 襖を少しだけ開けると、冷たい空気が頬に触れた。

 縁側に、父がいた。 昨日より少しだけ「座っている」背中。 背中は細いのに、折れていない。折れていない細さは、遠い富士の輪郭に似ている。

 父は、何もしていなかった。 網も縄も、手の中にない。 ただ、膝に手を置いて、海の方を見ている。

 幹夫は上着のポケットの石を握った。 丸い石。冷たい。重い。 重いのに痛くない。 角がない重さは、近づく勇気を少しだけくれる。

 幹夫が縁側の端に座ると、父はすぐ振り向かなかった。 振り向かないのは無視じゃない。 父の「間」は、まだ長い。 でも、その長い間があるから、幹夫は息を入れられる。

 ――いき。

 父が、ぽつりと言った。

「……聞こえるか」

 聞こえる。 その言葉は、声そのものより先に、幹夫の胸の奥へ届いた。 届くと、胸がぽん、と鳴る。 鳴るのに、叫ばない。叫ばない鳴り方は、「続き」の鳴り方だ。

「なにが?」

 幹夫が小さく聞くと、父は海から目を離さないまま、顎でほんの少しだけ示した。

「……波。……あと、鳥」

 耳を澄ますと、確かに、波が低く鳴っている。 そして遠くで、鳥が一度だけ鳴いた。 きゅ、と短い声。短いのに、朝の青を連れてくる声。

 幹夫は、なぜだか嬉しくなった。 父が「聞こえる」と言ったことが。 父の中で、世界がまた音になっていることが。

 でも嬉しくなるときほど、胸が走る。 走りそうになったから、幹夫は口の中で言った。

 ――いき。

 父が、もう一度ぽつりと言った。

「……ここ、静かだな」

 静か。 静か、は怖い日もある。 でも今日は、静かが「怖い」だけの言葉じゃなかった。 静かの中に、波と鳥がいる。 静かの中に、父の息がいる。

 幹夫は、やっと言えた。

「……父ちゃんの声も、聞こえる」

 言ってしまった瞬間、胸がきゅっとした。 声が聞こえるって言ったら、聞こえなかった日々が背中から覆いかぶさってくる気がしたからだ。

 でも父は、否定しなかった。 否定しないかわりに、ふっと息を吐いた。

「……そうか」

 その「そうか」は、受け取る「そうか」だった。

 朝飯のちゃぶ台で、父は椀を持つまでの「間」を、昨日より少しだけ短くした。 短いのに、急がない。落とさないための短さ。

 祖母が味噌汁をよそいながら、淡々と言った。

「聞こえるうちは、生きとるだに。飲め」

 父は小さく頷いて、椀を持った。 湯気が、父の鼻先で丸くほどけた。

「……うめぇな」

 掠れが少ない声。 湯気の匂いが混じった声。 その声が出るだけで、家の中の空気が少しだけ柔らかくなる。

 母は言葉を急がせないまま、茶を足した。 足して、息をひとつ入れてから、ぽつりと言った。

「……昨夜、目、番せんかった?」

 父は一度だけ瞬きをして、首を少し横に振った。

「……少し、起きた。……でも、戻れた」

 戻れた。 その言葉は、眠の字と帰の字がいっしょに座る音だった。

 母は「うん」とだけ返した。 縫い箱の下の「うん」みたいな、預かる「うん」。

 父が幹夫を見る。 目が来るまでの「間」は、まだ長い。 でもその間に、幹夫は息を入れられる。

 ――いき。

「……みき坊」

「……うん」

 声の「うん」はすぐ消える。 でも消えていい「うん」だった。 また呼ばれたら戻れる「うん」。

 昼前、母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆が、いつもより少しだけ長く机の上に止まる。 止まる時間があると、言葉が刃になりにくい。

「幹夫」

 母の声は低い。倒れない低さ。

「今日は、これだに」

 母はゆっくり書いた。

 聞

 幹夫は目をこらした。 大きな門の中に、耳がひとつ入っている。

 母が指で外側をなぞった。

「これが門。……入り口だに。開けたり閉めたりする」

 次に中の耳をなぞる。

「こっちは耳。……耳を門の中に入れると、“聞く”になる」

 門の中に耳。 その形が、急に現実の形になった。 父が家の門をくぐって帰ってきたこと。 家の中で、父が波の音を聞いたこと。 門の中に耳が入ると、外の音が「中の音」になる。

 母は少しだけ間を置いて、息をひとつ入れた。

「聞くってのはな……入れることだに。音を入れる。人の言葉を入れる」

 入れる。 湯たんぽを布団へ入れるみたいに。 丸い石をポケットへ入れるみたいに。 怖いときほど、入れるものを選ぶ。

 父が新聞紙の「聞」を見て、ぽつりと言った。

「……門、閉めちまう日もある」

 声は低い。倒れない低さ。 倒れないのに、底が少しだけ震えていた。

 母はすぐに否定しなかった。 息をひとつ入れてから、静かに言った。

「うん。……閉めてもええ」

 閉めてもいい。 許の字の、ゆるめる許し。 母の「ええ」は、閉めることまで抱える。

 母は続けた。

「でもな、閉めっぱなしだと……こっちの声も出ていかん」

 出ていかん。 幹夫は、縫い箱の下の紙を思った。 声が出せない日に、紙で声を出す。 門が閉まっていても、紙の門は少しだけ開く。

 父はしばらく黙って、それから小さく言った。

「……みき坊の声、聞こえる」

 それは、簡単な言葉なのに、幹夫には胸が熱くなる言葉だった。 熱いのに、息ができる熱さ。

 幹夫は鉛筆を握った。 竹の継ぎ目が掌に当たる。硬い。 硬いと、胸が走っても戻れる気がする。

 門を書いて、耳を書く。 一回目の「聞」は、門が大きすぎて、耳が小さくなった。 小さい耳は、音が入らなさそうで、胸がきゅっとした。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「門が大きくなったらな……耳を、もうちょい太らせりゃええ。聞く気持ちを大きくする」

 聞く気持ち。 気持ちは、形にならないのに、字にすると形になる。

 幹夫は息をひとつ入れた。

 ――いき。

 二回目の「聞」は、耳が少しだけ座った。 座ると、字が「入れる顔」になる。

 父が、新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 母が父を見て、頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父は鉛筆を握った。 ぎこちない握り方。 ぎこちないのに、落とさない。

 父の門は、少し歪んだ。 歪むのに、門の顔をしている。 耳は、父らしく小さめだった。 小さいのに、ちゃんと中に入っている。

 最後の横線を引くとき、父の息がいちど止まって――止まった間に、幹夫は自分の息を入れた。

 ――いき。

 父の「聞」ができた。 少し歪んでいる。 歪んでいるのに、刺さらない。 刺さらないのは、そこに「入れよう」とする手があるからだ。

 父はその字を見て、ふっと息を吐いた。 軽い息。 軽いのに、笑いじゃない。 軽い息は、「ここまで」の息。

 母は「聞」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。

 夜。 灯りが落ちたあと、幹夫はしばらく眠れなかった。 眠れないのは怖いからじゃない。 父の息を聞いていたいからだ。

 父の息は、ときどき引っかかる。 引っかかるたび、幹夫の胸がきゅっとなる。 きゅっとなったら、息を入れる。

 ――いき。

 ふと、隣の部屋から小さな声がした。 父の声。 布団の中の声は、まだ柔らかくない。柔らかくないけど、刃でもない。

「……みき坊」

 幹夫は返事をしようとして、声が出なかった。 代わりに、布団の中で石を握った。 冷たい。重い。 重いのに痛くない。 角のない重さが、「ここだよ」を作る。

 母の声が、もっと低く返した。

「聞こえとるだに。……ここだに」

 少し間があって、父の息がふっと落ちた。 落ちた息は、布団の奥へ戻っていく息だった。 戻る息があると、夜は夜のままでいられる。

 幹夫は目を閉じる前に、口の中で小さく言った。

 ――聞こえる。

 それだけで、胸の角が少し丸くなる気がした。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

 > きく は > みみ を もん の なか に いれる こと > ひらく も > とじる も > いき が いる> うん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

 > みきぼう> きのう よる> きこえた> ここ の なみ

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――小さな貝殻がひとつ。 耳みたいな形。 貝殻の内側に、海の音が少しだけ残っている気がした。

 幹夫は貝殻を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 聞こえた。 ここ、の波。 それは、父の中の門が少し開いた音だった。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、貝殻みたいな小さな「聞こえた」が届いた。 届いた音を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――家の中の門を、ゆっくり、やさしく開け閉めしていこうとしていた。

 
 
 

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