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聞の字

 朝の潮の匂いは、台所の味噌の匂いと混ざると、少しだけ丸くなる。 丸くなると、胸の奥の角が立ちにくい。

 幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 息をひとつ入れると、胸の真ん中が「ここ」に座る。

 縁側で父が、昨日の小さな紙切れ――障子の桟に挟んだやつ――を指で撫でていた。 角が丸い。 丸い角は刺さらない。 父は刺さらないものを、少しずつ増やしている。

 そのとき、路地のほうから声が来た。

「みきぼー! 踏切、見に行くー?」

 近所の子の声。 踏切、という言葉は、音を連れてくる言葉だった。 門が下りて、鈴が鳴って、線が走る。

 幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、行きたい鳴り方だ。

 でも、行きたいの奥に、もうひとつある。 父の肩が上がるかもしれない、の奥の、細い怖さ。

 幹夫は返事をする前に、息を入れた。

 ――いき。

「……行きたい」

 言いながら、父の横顔を見た。 見た瞬間、父の眉の間が、ほんの少しだけ寄った。 寄ると、空気が少し硬くなる。

 母が台所の境目から、声を急がせないまま言った。

「踏切は、音が鳴るだに」

 父の肩が、ふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえ、息を入れた。

 ――いき。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言った。

「鳴るもんぁ鳴る。行くなら“鳴る”って分かって行け。分かってりゃ、驚きが減る」

 分かってりゃ、減る。 減る、は救いの言葉になる日がある。

 父はしばらく黙って、畳の目を見ていた。 黙りは長い。 でも今日は、長さが怖くない。 父の黙りの中に、昨日の隙間の光がまだ残っている気がしたからだ。

 父が、ぽつりと言った。

「……行く」

 その一言が、幹夫の胸の奥でぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばないけれど、喉の奥が熱くなる。

 ――いき。

 父は続けて、少し照れたみたいに言い直した。

「……見に行く。……遠くから」

 遠くから。 余地。 たわみ。 きつくしない線。

 母は驚きを刃にしない顔で頷いた。

「ええよ。止まったら止まってええ。……“間”置け」

 父が小さく頷いた。

「……間、だな」

 踏切までの道は、海の匂いと、線路の鉄の匂いが、少しずつ混ざっていく。 鉄の匂いは硬いのに、朝だとまだ冷たくて、どこか澄んでいる。

 父の歩幅は小さい。 小さいのに確か。 確かな足は、音の前でも転びにくい。

 踏切の手前で、父は立ち止まった。 止まって、少し。 その「少し」に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 近所の子が先にいて、目をきらきらさせている。

「もうすぐ来るよ! 黒いやつ!」

 黒いやつ。 蒸気機関車のことだろうか。 幹夫は見たことがあるような、ないような。 思い出の端が、ふわっと揺れる。

 揺れるときほど、息。

 ――いき。

 線路の向こうの空が、いちどだけ、変な静かになった。 静かが来ると、次に音が来る。 次が来る前の静かは、胸をきゅっとさせやすい。

 カン。

 遠くのほうで、最初の一つ。

 カン、カン。

 踏切の鐘が鳴りはじめた。 小さいのに、決まったリズム。 決まったリズムは、逃げ道がないみたいに聞こえる日がある。

 父の肩が、ふっと上がった。 上がって止まる。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて、息を入れた。

 ――いき。

 父の喉がごくりと動く。 目が、少し遠くへ飛びかける。 飛びかけたところで――父は、口を開いた。

「……踏切の音だ」

 踏切の音。 名前がついた。 名前がつくと、音は音のままでいられる。

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 遮断機が下りる。 棒が下りる音は、思ったより柔らかい。 ごとん、じゃなく、すう、っと落ちる。

 父が、それを見てぽつりと言った。

「……下りるの、遅いな」

 遅い。 遅いのは、助かる。 急じゃないと、胸が走りにくい。

 近所の子がはしゃぐ。

「来るよ! 来るよ!」

 線路の向こうから、黒い塊が近づいてくる。 風が先に来て、頬を撫でた。 撫でる風は刺さらない。

 次に、音。 ごう、という腹に落ちる音。 でも父は、今日、声を出した。

「……機関車だ」

 機関車。 言えた。 言えると、胸の奥の警報は尖りきらない。

 幹夫は父の袖を、指先でほんの少し掴んだ。 掴むのに、引っぱらない。 ただ、ここにいる、の合図。

 ――いき。

 機関車が目の前を通る。 黒い鉄。 窓の小ささ。 煙の匂い。 煤の匂いが、潮の匂いと混ざって、苦いのにどこか甘い。

 音は大きい。 でも、父は叫ばなかった。 眉の間が寄っているのに、折れない。 折れないまま、息を吐いた。

 ふう……。

 吐く息は見えないのに、父の肩が少し落ちた。 落ちると、世界が少し丸くなる。

 機関車の後ろの客車が続く。 続く線。 たわんで、続く線。

 最後尾が過ぎると、鐘の音が止まった。

 カン、が消える。 消えたあとに、耳の中に、まだ少しだけ残る。

 残るものがあるとき、幹夫は思い出す。

 ――いき。

 父が、ぽつりと言った。

「……聞けた」

 聞けた。 それは勝ち負けの言葉じゃなくて、戻れた、の言葉だった。

 幹夫は頷いて、喉の奥の熱さを走らせないように、息をひとつ入れてから言った。

 ――いき。「……父ちゃん、聞いた」

 父は、ほんの少しだけ口の端を上げた。 笑いきれない上がり方。 でも今日は、その上がり方が丸い。

「……聞いたな。……俺も」

 俺も。 その“も”が、幹夫の胸をあたためた。

 帰り道、近所の子が、線路脇の小石を拾って見せた。 黒っぽい石。 煤がついたのか、手が少し汚れる。

「これ、機関車のだよ!」

 幹夫は欲しくて、でも父の顔を見た。 父は少し考える顔をして、それから短く言った。

「……一つだけ。……袋に入れろ。鳴らんように」

 鳴らんように。 守りの言葉。

 幹夫は黒い小石を一つ拾って、布の袋じゃなく、冊子を包んでいた布の隅にくるんで、ぎゅっとしないで結んだ。 ほどける結び。 余地のある結び。

 ――いき。

 夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目は今日も痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 聞

 幹夫は、その字を見た瞬間、踏切の鐘の音を思い出した。 カン、カン。 でも今日は、刺さらないカンだった。 名前がついたカンだった。

 母は字の外側を指でなぞった。

「これ、門だに」

 門。 昨日の「間」の門と同じ。 同じ門の中に、今日は別のものが入っている。

 母は門の中を、指でそっとなぞった。

「こっちは耳だに。……耳が門の中におる」

 門の中の耳。 幹夫は障子の隙間の光を思い出した。 門を少し開けて日を入れるのが間。 門を少し開けて耳を入れるのが聞。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「聞くってのはな……門の中で耳を立てる字だに。閉めきらんで、入れて、でも出られるようにしとく」

 出られるように。 余地。 たわみ。 きつくしない。

 母は続けた。

「聞こえる、は勝手に来るだに。……でも“聞く”は、自分で選べる。怖い音も、名前つけたら、聞き方が変わる」

 聞き方が変わる。 父の「踏切の音だ」。 それが、今日の一番の変わり方だった。

 父が新聞紙の「聞」を見て、ぽつりと言った。

「……間は日で、聞は耳か……」

 父は小さく笑った。 笑いきれないのに、笑いの形。

「……耳のほうが……俺には要るな」

 要る。 その言葉は、恥じゃない要るだった。 暮らしの要る。 守りの要る。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言った。

「聞くなら、口閉じろ。……口閉じるのも間だに」

 口閉じるのも間。 間と聞が手をつないだ。

 幹夫は鉛筆を握った。 門を書いて、耳を書く。

 一回目の「聞」は、門がきつく閉まりすぎて、耳が窮屈そうだった。 窮屈だと、音が出られなくて、胸の中で暴れそうになる。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「門がきついときはな……少し広げりゃええ。耳が座れる場所、作るだに」

 耳が座れる場所。 それは、踏切の手前で立ち止まった父の「少し」だった。

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「聞」は、門に少し余地ができて、耳が落ち着いた顔になった。 落ち着いた耳は、刺さらない。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 母が父を見て頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父の「聞」は、門の縦が少し揺れた。 揺れるのに、折れていない。 耳の最後の線を書くとき、父は息をいちど止めて――止めたあと、ふっと吐いた。

「……聞、って……外の音が入っても……戻れる字だな」

 戻れる字。 幹夫の胸の奥が、すとん、と座った。

 母は「聞」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、門の中の耳の形みたいに見えた。

 夜。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書き足した。

 > ふみきり > きけた > いき

 “いき”は、父も丸く書いた。 丸いと、刺さらない。

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……今日の鐘、俺……怖かった」

 怖かった。 言える。 言えると、怖さは角が丸くなる。

 幹夫はすぐ返事をしなかった。 言葉は、ときどき尖る。 だから、間を置く。

 ――いき。

「……うん。……でも、父ちゃん、聞いた」

 父は少し間を置いて、ぽつりと言った。

「……聞いたら……終わった。……鳴りっぱなしじゃなかった」

 鳴りっぱなしじゃなかった。 それは、音に“終い”があるってこと。 終いがあると、夜は刺さりにくい。

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「音は通るだに。……聞けたら、通して終い」

 祖母が淡々と言う。

「終いにできりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

きょうふみきり の かん かんおと おおきいでもとうちゃんふみきり の おと って いえたきけたおわった って いえたぼくくろい いし ひとつならない ように つつんだいき

 最後に、小さく「聞」。 丸をひとつ。 門の中の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは鐘の余韻。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

きく はもん の なか の みみしめきらんよち の ある ききかたなまえ つけてここ に もどるいきうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうふみきり の おとこわかったでもふみきり って いえたきけたおわったすこしもどれた

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――黒い小石がひとつ。 煤の匂いが、まだかすかに残っている。 布に包まれて、鳴らない。 包みの端に、父の震える字で小さく、

きく

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその包みを掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 聞く。 門の中に耳を座らせる。 名前をつけて、通して終いにする。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、鳴らない黒い小石の「きく」は届いた。 届いた“終いにできる音”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、音と自分のあいだに、刺さらない聞き方の余地を、そっと残していった。

 
 
 

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