聞の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月12日
- 読了時間: 8分

朝の「まちばこ」は、今日も空っぽだった。 空っぽは、来る場所。 来る場所があると、胸の中にも余地ができる気がする。
便りの箱の横で、貝殻の受け皿が、少しだけ光っている。 昨日割れた欠けは、紙やすりで丸くなって、もう刺さらない。
幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
息をひとつ入れてから、縁側のふちを指でなぞった。 丸い。 丸いと、こわくない。
縁側の端に父が立って、庭を見ていた。 見ているのに、目が遠くへ行っていない。 今ここで、見ている目。
父がぽつりと言った。
「……今日は……静かだな」
静か。 静かは好きだけど、静かすぎると、胸の奥から別の音が出てくる日がある。 出てこないように、幹夫は息を入れた。
――いき。
母が台所の境目から、湯気の匂いを連れて言った。
「静かな日は、波も静かだに。……飯、食うだ」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「静かでも腹は鳴る。鳴ったら飯だに」
鳴るのは、生きてる音。 幹夫はその言い方が好きで、喉の奥が熱くなりかけたから、息をひとつ入れた。
――いき。
昼前。 空が少し白くなって、海のほうが霞んできた。 霞は、音を運ぶ日がある。 見えないぶん、耳に来る。
父は縁側で、昨日の糸電話の糸を巻き直していた。 白い糸は細いのに、ちゃんと道になる。 道は、通れば慣れる。
幹夫は缶を一つ持って、庭の端に座った。 缶の底に耳を当ててみる。 耳を当てると、缶の中は少し暗い。 暗いと、音が丸く聞こえる気がする。
――いき。
そのとき。
う——。
遠くから、低い音が来た。 長くて、やわらかいのに、どこか胸の奥を撫でる音。
父の肩が、ふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。
――いき。
もう一度。
う——。
音は、海のほうから来る。 でも霞んでいるから、どこからか分からない。 分からない音は、こわい顔をして来る。
父の眉の間が、ほんの少し寄った。 寄って――でも、刃にならないところで止まった。 止まれた寄り方。
父がぽつりと言った。
「……あれ……」
言いかけて、言葉が止まる。 止まるとき、胸の奥で古い鍵が回りそうになる。
幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
母が台所の境目から、急がせない声で言った。
「汽笛(きてき)だに」
汽笛。 名前がつくと、音は音のままで座る。
父が、でも、まだ目を細めたまま言った。
「……サイレン、じゃ……」
言い終わる前に、父は息を吐いた。
ふう……。
吐くと、言葉の角が少し丸くなる。
祖母が鍋の向こうで淡々と言った。
「霞の日は船が鳴らす。……聞き分けろ。引っぱるな。息だに」
聞き分けろ。 その言葉が、今日の家の真ん中に落ちた。
――いき。
幹夫は缶に耳を当てたまま、音の“形”を探した。 う——は、長い。 でも、揺れ方が違う。 空襲のサイレンみたいに、波打って上がったり下がったりするんじゃなく、 ひとつの線が、まっすぐ伸びていく感じ。
父が、縁側の端で、いちど膝を折って座った。 座って、止まる。 止まって、少し。 その少しに、父の息が入るのが分かる。
父がぽつりと言った。
「……聞くと……違うな」
聞く。 “聞こえる”じゃなく、“聞く”。 自分から耳を向ける言い方。
母が頷いた。
「うん。……聞くと、怖いが小さくなるだに。勝手に来る音は、胸を走らす」
幹夫は缶を父のほうへ差し出した。 差し出す前に、息。
――いき。
「……父ちゃんも、これで聞く?」
父はすぐ受け取らなかった。 間があって、その間に父の肩が少し落ちる。
「……門(もん)みてぇだな」
父が缶の口を見て言った。 門。 入口。 中に耳を入れると、外が少しだけ遠くなる。
父は缶を、そっと受け取った。 受け取り方が、置くみたい。 ぎゅっと掴まない。 缶を驚かせない。
父は耳を当てた。 当てて、止まる。 止まって、息を吐く。
ふう……。
そして、もう一度。
う——。
缶の中の汽笛は、外で聞いたより丸かった。 丸いと、刺さらない。
父がぽつりと言った。
「……遠いな」
遠い。 遠いは、助かる遠さでもある。
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
父が、缶を耳から外して、空を見上げた。 霞の白。 白い空は、怖い日もある。 でも今日は、汽笛の“遠い”が付いている。
「……遠いなら……聞ける」
聞ける。 命令じゃない。 自分の足で立つ「聞ける」。
母が、急がせない声で言った。
「聞けたらええ。……聞こえた、だけだと刺さることあるだに」
祖母が淡々と言う。
「聞くなら飯も聞け。腹の音、聞いとけ。……腹が鳴ったら終いだ」
終い、という言い方が、暮らしの盾みたいに響いた。
午後。 父は戸口の「置き布」の横に、もう一枚、小さな布を置いた。 角を丸く縫ってある。 刺さらない角。
「……これは?」
幹夫が訊くと、父がぽつりと言った。
「……聞き布」
聞き布。 置き布みたいに、名前がつくと場所になる。
父はその布の上に、糸電話の缶を置いた。 布の上だと、置いた音が眠る。
「……外の音が来たら……ここへ持ってくる。……ここで、聞く」
ここで、聞く。 門の中の耳。 縁側の間。 家の中に、もう一つ“聞く場所”ができた。
幹夫は聞き布を指で押さえて、息をひとつ入れた。
――いき。
布は冷たくない。 冷たくないと、耳も落ち着く。
父がぽつりと言った。
「……聞くって……怖いのを増やすんじゃなくて……分けるんだな」
分ける。 解の字の匂い。 聞いて、名前をつけて、分けて、置く。
幹夫は、缶を見て、そっと言った。
「……父ちゃん、聞けた」
父は少し間を置いて、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「……おまえが……缶、持ってきたからだ」
“おまえが”。 その言葉が、幹夫の胸の奥を熱くした。 熱くなると走りそうだから、息。
――いき。
夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は今日も痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
聞
幹夫は、その字を見た瞬間、缶の口を思い出した。 門みたいな口。 その中へ耳を入れると、外が少し遠くなる。
母は左側を指でなぞった。
「こっちは門だに。……門の中」
門。 縁側の境目。 戸口の置き布。 家と外の間。
母は右側をなぞった。
「こっちは耳だに。……耳を、門の中へ入れる」
門の中の耳。 “聞く”は、外の風を、いきなり胸へ入れない字。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「聞くってのはな……門の中で耳を澄まして、外を知る字だに。勝手に来る“聞こえる”じゃなくて、自分で“聞く”」
自分で聞く。 それは、選べること。 選べると、怖さは固まりにくい。
母は続けた。
「それとな、聞くは“訊く”にもなるだら。……分からんのを、刺さる前に確かめる。『これは何の音だ』って」
確かめる。 今日の「汽笛だに」。 名前がついて、音が丸く座った瞬間。
父が新聞紙の「聞」を見て、ぽつりと言った。
「……門があると……助かるな」
母が頷く。
「うん。……門は、閉めるためだけじゃない。間を作るためだに。間があれば、息が入る」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「耳を守れ。耳が刺さると腹も荒れる。……荒れたら飯がまずい」
祖母の言い方は乱暴なのに、太い道だった。
幹夫は鉛筆を握った。 門を書いて、耳を書く。
一回目の「聞」は、耳が尖って見えて、胸がきゅっとした。 耳が尖ると、音が全部刃みたいに見える日がある。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「尖ったらな……門を太らせりゃええ。門の中を広くする。……広いと、音が走らん」
広いと走らん。 受け皿と同じ匂い。
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「聞」は、少し丸い顔になった。 丸いと、耳が落ち着く字になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「聞」は、門の線が少し揺れた。 揺れるのに、折れていない。 耳の最後の線を引く前に、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、線を置いた。
「……耳を書くとき……息がいるな」
母が小さく頷いた。
「うん。……息が入ると、耳がやわらかくなる。やわらかい耳は、聞き分けられる」
母は「聞」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、缶の口みたいに見えた。
夜。 霞は薄くなったけれど、遠くでまだ、汽笛が一度だけ鳴った。
う——。
今度は、父の肩が上がらなかった。 上がらないのに、父は口の中で小さく言った。
「……船だ」
名前を置く。 置いたら、息が戻る。
ふう……。
父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。
きてききこえたでもきいたかん で きいたふね の おと だ って いえたむね が ささらん かったいき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……聞くの、怖い日もある」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……でも、門がある。缶がある。布がある」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
「……そうだな。……聞く場所があると……俺、戻れる」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「聞く場所は、守りだに。……刺さる前に、いったん門に入れる」
祖母が淡々と言う。
「門に入れたら飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 聞ける明日。
幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
きく ってもん の なか に みみ を いれてそと を しる って こと なんだねきょうきてき きこえたでもとうちゃん きいたふね の おと って いえたかん と ききぬのもん みたいいき
最後に、小さく「聞」。 丸をひとつ。 缶の丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは最初の“う——”の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
きく はもん の なか の みみきこえる じゃなくえらんで きくなまえ を つけてま と いきうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうおと きた ときかた うごいたでもとまれたきけたふね の おと だ って いえたかん が もん みてぇ だすこしみみ が やわらかい
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――糸電話の糸の短い切れ端。 端が丸く結んであって、刺さらない。 糸のそばに、父の震える字で小さく、
きく
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその糸を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
聞く。 門の中で耳を澄ます。 名前を置いて、刺さる前に分ける。 そして、やさしい音なら、ちゃんと胸まで届かせる。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、遠い汽笛と「船だ」という父の声は届いた。 届いた“聞けた”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、門の中の耳を、そっとやわらかくしていった。





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