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聞の字

 朝の「まちばこ」は、今日も空っぽだった。 空っぽは、来る場所。 来る場所があると、胸の中にも余地ができる気がする。

 便りの箱の横で、貝殻の受け皿が、少しだけ光っている。 昨日割れた欠けは、紙やすりで丸くなって、もう刺さらない。

 幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 息をひとつ入れてから、縁側のふちを指でなぞった。 丸い。 丸いと、こわくない。

 縁側の端に父が立って、庭を見ていた。 見ているのに、目が遠くへ行っていない。 今ここで、見ている目。

 父がぽつりと言った。

「……今日は……静かだな」

 静か。 静かは好きだけど、静かすぎると、胸の奥から別の音が出てくる日がある。 出てこないように、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 母が台所の境目から、湯気の匂いを連れて言った。

「静かな日は、波も静かだに。……飯、食うだ」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「静かでも腹は鳴る。鳴ったら飯だに」

 鳴るのは、生きてる音。 幹夫はその言い方が好きで、喉の奥が熱くなりかけたから、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 昼前。 空が少し白くなって、海のほうが霞んできた。 霞は、音を運ぶ日がある。 見えないぶん、耳に来る。

 父は縁側で、昨日の糸電話の糸を巻き直していた。 白い糸は細いのに、ちゃんと道になる。 道は、通れば慣れる。

 幹夫は缶を一つ持って、庭の端に座った。 缶の底に耳を当ててみる。 耳を当てると、缶の中は少し暗い。 暗いと、音が丸く聞こえる気がする。

 ――いき。

 そのとき。

 う——。

 遠くから、低い音が来た。 長くて、やわらかいのに、どこか胸の奥を撫でる音。

 父の肩が、ふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。

 ――いき。

 もう一度。

 う——。

 音は、海のほうから来る。 でも霞んでいるから、どこからか分からない。 分からない音は、こわい顔をして来る。

 父の眉の間が、ほんの少し寄った。 寄って――でも、刃にならないところで止まった。 止まれた寄り方。

 父がぽつりと言った。

「……あれ……」

 言いかけて、言葉が止まる。 止まるとき、胸の奥で古い鍵が回りそうになる。

 幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 母が台所の境目から、急がせない声で言った。

「汽笛(きてき)だに」

 汽笛。 名前がつくと、音は音のままで座る。

 父が、でも、まだ目を細めたまま言った。

「……サイレン、じゃ……」

 言い終わる前に、父は息を吐いた。

 ふう……。

 吐くと、言葉の角が少し丸くなる。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言った。

「霞の日は船が鳴らす。……聞き分けろ。引っぱるな。息だに」

 聞き分けろ。 その言葉が、今日の家の真ん中に落ちた。

 ――いき。

 幹夫は缶に耳を当てたまま、音の“形”を探した。 う——は、長い。 でも、揺れ方が違う。 空襲のサイレンみたいに、波打って上がったり下がったりするんじゃなく、 ひとつの線が、まっすぐ伸びていく感じ。

 父が、縁側の端で、いちど膝を折って座った。 座って、止まる。 止まって、少し。 その少しに、父の息が入るのが分かる。

 父がぽつりと言った。

「……聞くと……違うな」

 聞く。 “聞こえる”じゃなく、“聞く”。 自分から耳を向ける言い方。

 母が頷いた。

「うん。……聞くと、怖いが小さくなるだに。勝手に来る音は、胸を走らす」

 幹夫は缶を父のほうへ差し出した。 差し出す前に、息。

 ――いき。

「……父ちゃんも、これで聞く?」

 父はすぐ受け取らなかった。 間があって、その間に父の肩が少し落ちる。

「……門(もん)みてぇだな」

 父が缶の口を見て言った。 門。 入口。 中に耳を入れると、外が少しだけ遠くなる。

 父は缶を、そっと受け取った。 受け取り方が、置くみたい。 ぎゅっと掴まない。 缶を驚かせない。

 父は耳を当てた。 当てて、止まる。 止まって、息を吐く。

 ふう……。

 そして、もう一度。

 う——。

 缶の中の汽笛は、外で聞いたより丸かった。 丸いと、刺さらない。

 父がぽつりと言った。

「……遠いな」

 遠い。 遠いは、助かる遠さでもある。

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 父が、缶を耳から外して、空を見上げた。 霞の白。 白い空は、怖い日もある。 でも今日は、汽笛の“遠い”が付いている。

「……遠いなら……聞ける」

 聞ける。 命令じゃない。 自分の足で立つ「聞ける」。

 母が、急がせない声で言った。

「聞けたらええ。……聞こえた、だけだと刺さることあるだに」

 祖母が淡々と言う。

「聞くなら飯も聞け。腹の音、聞いとけ。……腹が鳴ったら終いだ」

 終い、という言い方が、暮らしの盾みたいに響いた。

 午後。 父は戸口の「置き布」の横に、もう一枚、小さな布を置いた。 角を丸く縫ってある。 刺さらない角。

「……これは?」

 幹夫が訊くと、父がぽつりと言った。

「……聞き布」

 聞き布。 置き布みたいに、名前がつくと場所になる。

 父はその布の上に、糸電話の缶を置いた。 布の上だと、置いた音が眠る。

「……外の音が来たら……ここへ持ってくる。……ここで、聞く」

 ここで、聞く。 門の中の耳。 縁側の間。 家の中に、もう一つ“聞く場所”ができた。

 幹夫は聞き布を指で押さえて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 布は冷たくない。 冷たくないと、耳も落ち着く。

 父がぽつりと言った。

「……聞くって……怖いのを増やすんじゃなくて……分けるんだな」

 分ける。 解の字の匂い。 聞いて、名前をつけて、分けて、置く。

 幹夫は、缶を見て、そっと言った。

「……父ちゃん、聞けた」

 父は少し間を置いて、ほんの少しだけ口の端を上げた。

「……おまえが……缶、持ってきたからだ」

 “おまえが”。 その言葉が、幹夫の胸の奥を熱くした。 熱くなると走りそうだから、息。

 ――いき。

 夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は今日も痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 聞

 幹夫は、その字を見た瞬間、缶の口を思い出した。 門みたいな口。 その中へ耳を入れると、外が少し遠くなる。

 母は左側を指でなぞった。

「こっちは門だに。……門の中」

 門。 縁側の境目。 戸口の置き布。 家と外の間。

 母は右側をなぞった。

「こっちは耳だに。……耳を、門の中へ入れる」

 門の中の耳。 “聞く”は、外の風を、いきなり胸へ入れない字。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「聞くってのはな……門の中で耳を澄まして、外を知る字だに。勝手に来る“聞こえる”じゃなくて、自分で“聞く”」

 自分で聞く。 それは、選べること。 選べると、怖さは固まりにくい。

 母は続けた。

「それとな、聞くは“訊く”にもなるだら。……分からんのを、刺さる前に確かめる。『これは何の音だ』って」

 確かめる。 今日の「汽笛だに」。 名前がついて、音が丸く座った瞬間。

 父が新聞紙の「聞」を見て、ぽつりと言った。

「……門があると……助かるな」

 母が頷く。

「うん。……門は、閉めるためだけじゃない。間を作るためだに。間があれば、息が入る」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「耳を守れ。耳が刺さると腹も荒れる。……荒れたら飯がまずい」

 祖母の言い方は乱暴なのに、太い道だった。

 幹夫は鉛筆を握った。 門を書いて、耳を書く。

 一回目の「聞」は、耳が尖って見えて、胸がきゅっとした。 耳が尖ると、音が全部刃みたいに見える日がある。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「尖ったらな……門を太らせりゃええ。門の中を広くする。……広いと、音が走らん」

 広いと走らん。 受け皿と同じ匂い。

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「聞」は、少し丸い顔になった。 丸いと、耳が落ち着く字になる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「聞」は、門の線が少し揺れた。 揺れるのに、折れていない。 耳の最後の線を引く前に、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、線を置いた。

「……耳を書くとき……息がいるな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……息が入ると、耳がやわらかくなる。やわらかい耳は、聞き分けられる」

 母は「聞」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、缶の口みたいに見えた。

 夜。 霞は薄くなったけれど、遠くでまだ、汽笛が一度だけ鳴った。

 う——。

 今度は、父の肩が上がらなかった。 上がらないのに、父は口の中で小さく言った。

「……船だ」

 名前を置く。 置いたら、息が戻る。

 ふう……。

 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。

きてききこえたでもきいたかん で きいたふね の おと だ って いえたむね が ささらん かったいき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……聞くの、怖い日もある」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……でも、門がある。缶がある。布がある」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

「……そうだな。……聞く場所があると……俺、戻れる」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「聞く場所は、守りだに。……刺さる前に、いったん門に入れる」

 祖母が淡々と言う。

「門に入れたら飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 聞ける明日。

 幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

きく ってもん の なか に みみ を いれてそと を しる って こと なんだねきょうきてき きこえたでもとうちゃん きいたふね の おと って いえたかん と ききぬのもん みたいいき

 最後に、小さく「聞」。 丸をひとつ。 缶の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは最初の“う——”の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

きく はもん の なか の みみきこえる じゃなくえらんで きくなまえ を つけてま と いきうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうおと きた ときかた うごいたでもとまれたきけたふね の おと だ って いえたかん が もん みてぇ だすこしみみ が やわらかい

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――糸電話の糸の短い切れ端。 端が丸く結んであって、刺さらない。 糸のそばに、父の震える字で小さく、

きく

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその糸を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 聞く。 門の中で耳を澄ます。 名前を置いて、刺さる前に分ける。 そして、やさしい音なら、ちゃんと胸まで届かせる。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、遠い汽笛と「船だ」という父の声は届いた。 届いた“聞けた”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、門の中の耳を、そっとやわらかくしていった。

 
 
 

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