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臨界値

  • 山崎行政書士事務所
  • 1月29日
  • 読了時間: 6分

「許認可の問題は、すべて法務部がかぶるしかない」会議室に乾いた声が響いた。法務部課長の貝原(かいばら)は、大手総合化学メーカー「神宝化学」の企業法務の責任者として、上層部の要望を無表情に受け止める。日本を代表する化学企業として神宝化学は膨大な数の化学物質を取り扱っており、その製造・輸入・販売には多種多様な許認可が必要だった。経営側は、新製品である新規フッ素化合物「VF-B24」の輸出を急ぎたい。しかし、外為法や化審法などの規制が絡み、不用意な輸出は行政からの処分につながりかねない。さらに海外の規制、特にEUのREACH適合性審査も完了していない。経営会議では、「市場を先に押さえろ」という一辺倒の声が強まっていた。

第一章:苦い決断

「中国側の顧客が『VF-B24』を一刻も早く欲しがっています。いくつかの軍事転用リスクがあることは承知ですが、現地のハイテク企業に売れば大きなビジネスチャンスです」営業本部長の郡司(ぐんじ)は興奮気味に語る。神宝化学の業績は、ここ数年は横ばい。革新的なフッ素化合物で一気に業績を伸ばそうというのが会社全体の方針だった。「法務としては、輸出が可能かどうかを判断する材料が欲しい。現地企業の実態調査は済んでいるのか? 最終用途が不透明な場合、化学兵器禁止法や外為法の規制強化が掛かる。最悪の場合、強制捜査を受ける可能性だってあるんですよ」貝原が問いただすと、郡司はわずかに言葉に詰まった。海外子会社を通じて取引相手は精査しているが、汚名高いコングロマリットの子会社という噂もある。軍部への横流しが行われるリスクもゼロとは言い切れない。

「とにかく、うちの社長は今回の契約に大きな期待を寄せています。もし断るようなことになれば、法務部が経営戦略を妨害したとみなされかねない」郡司の圧に、貝原は胸の奥に重い塊を感じた。ルールを守ることと会社の利益追求。企業法務で働く者として、どちらも無視できない。しかし、どちらも優先したときに生まれる矛盾は大きい。国際的な制裁対象に抵触しようものなら、ダメージは計り知れない。

第二章:規制の網

同時期に、労働安全衛生法やPRTR法の改正情報が舞い込む。数多くの化学物質の排出量や有害性情報の開示義務が強化される見込みだった。社内に戻ると、環境安全部の担当からSOSの連絡が入る。「貝原さん、毒劇法のライセンス更新で一部手続きが遅れています。このままだと工場が止まる可能性も…」さらに、法改正で指定毒物の区分が変わる見通しもあり、新規登録手続きと既存製品の再審査が必要になるかもしれない。営業部は海外展開を急ぐが、国内規制対応のリソースが逼迫していく。「社長はいつも『先手必勝』って言うけど、法務と環境安全を軽視しすぎている」貝原は独り言のように呟いた。少しでも気を抜けば、行政当局や海外の規制当局から是正命令が降り、巨額の罰金が科されるリスクがある。せっかくの新製品も道を誤れば会社の信用を失いかねない。

第三章:潜む影

貝原のもとに、社外から一本の匿名電話が入る。「『VF-B24』の用途、きちんと調べてますか? 一部の化学兵器研究への転用可能性が噂になっています。もし外為法違反があったら、あなた方はどうなると思います?」男の声は低く、静かな怒りをはらんでいた。正体はわからないが、おそらく業界内部の人間か、あるいは政府関係者か。不穏な気配に、貝原は背筋が凍った。これまで業務でさまざまな危機を潜り抜けてきたが、今回の案件は何かが違う。国内外の法規制だけでなく、軍事的な疑念さえ絡む。万一、化審法やCWC(化学兵器禁止条約)関連法に抵触する事実が判明したら、会社の存亡に関わる。

第四章:攻防

翌週、経営会議が開かれた。社長をはじめ役員が一堂に会する中、郡司が中国企業との大型契約を画面に投影する。「外為法に抵触する恐れはありません。輸出先は民間用途のみと確認できました。速やかに輸出許可申請をし、3か月で供給を開始したいと考えています」郡司は事務的な書類を示す。しかし貝原は、先日受け取った匿名の警告や海外子会社からの微妙な報告を鑑み、まだ不安を払拭できない。「許可申請書類には軍需転用を否定する資料が不足しています。先方の事業ライセンスは確認したのですか? また、今回のフッ素化合物は排出量が小さくても有害性が高いとされる。PRTR法や労働安全衛生法上の手続きも同時に進めなければならない」貝原が低い声で指摘する。会議室の空気が重くなった。社長は貝原に視線を投げる。「法務は慎重なのはいいが、このビジネスチャンスを逃せば株主に説明がつかない。何とかならないのか?」「もちろん、私も事業の重要性は理解しております。しかし、適法性をクリアにしないまま輸出を強行すれば、取り返しのつかないリスクを負うことになります。書類の裏付けが甘いまま進めることは不可能です」決然とした貝原の表情を見て、社長は小さく舌打ちし、議論を打ち切った。

第五章:真相

その夜、貝原は一人オフィスに残り、過去の取引記録や海外子会社の内部データを洗い直した。そして、重大な事実に気づく。今回の中国企業は表向きには先端材料メーカーを装っているが、裏には軍事産業に部品を供給している別会社がある。前年度には違法な人体実験の噂まで流れた企業だ。「これを許可申請の書類に載せられるはずもない…」貝原は頭を抱えた。事実を握り潰すこともできるが、それは法令遵守の精神に反するし、発覚すれば会社が終わる。かと言って取引中止を進言すれば、経営陣や営業部からの猛反発は必至だ。翌朝、貝原は社長室に直行した。「社長、取引先が危険企業である可能性が高いと判断しました。これを正直に行政当局に報告し、許可申請は断念すべきです」「そんなことが公になると、どうなると思ってるんだ! 株価は暴落、取引先からの信用も失う!」声を荒らげる社長に、貝原は深く頭を下げる。「申し訳ありません。しかし、今ここで引くことは、長い目で見て会社を守る行為です。外為法や化審法、毒劇法など、一度違反を犯せば再起不能になるレベルの制裁が下る。私たち法務部は、社内の誰よりもその現実を知っています。どうか、決断してください」長い沈黙の後、社長は一言、「わかった」と呟いた。

第六章:選択

結果として、中国企業との契約は白紙となり、「VF-B24」は国内外の規制対応を万全に整えてから、改めて別の市場へ売り込まれることになった。一時的に株価は下落し、マスコミからは「大手化学メーカーの経営戦略失敗」と批判も浴びた。しかし、半年後。神宝化学は環境安全を重視した企業姿勢を再アピールし、規制当局との信頼関係を強化。新たにEUのREACH認証を早期に取得し、欧米の大手自動車メーカーへの供給契約に成功した。社内の評価は意見が分かれたが、貝原は静かに安堵を覚えていた。「企業法務の役割は、会社を守るための盾になること。短期的に見れば“抵抗勢力”と思われるかもしれないが、長期的にはこの判断が正しかったと証明してみせる」窓の外で冬の空が白み始める。来週は毒劇法の改正対応、月末にはPRTR法の届出期限。法務の仕事に終わりはない。だが、一歩ずつ確実に進んでいけば、必ず未来は切り拓ける。貝原はシャツの袖を巻くり上げ、新たな書類の山と向き合う。化学物質の取扱いは世界の安全保障とも繋がっている。許認可関連の遵守が、企業の命運を握る最後の砦となるのだ。

 
 
 

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