舟の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月7日
- 読了時間: 9分

紙の舟は、ちゃぶ台の隅で一晩、乾いていた。 乾くと、紙の腹が少しだけへこむ。 へこんでも、舟の形は舟のままだった。 形が残っているだけで、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴る。鳴るのに、叫ばない。叫ばない鳴り方は、この家に増えてきた鳴り方だ。
祖母が朝の鍋をかき回す音の向こうで、母が小さく言った。
「……それ、浮かべてみるか」
浮かべる。 浮かべる、は“落ちない”の反対みたいで、幹夫は少しだけ怖かった。 浮くものは、流れていってしまう気がする。 でも、流れていくなら、戻る道も欲しい――そんなふうに、胸の中が勝手に道を探す。
縁側のところで、父が紙の舟を見ていた。 見方が遠いのに、逃げない。 父は紙の舟を指でつまんで、軽く息を吐いた。
「……水、いるな」
水。 昨日の「解」の水。 結び目を柔らかくする水。 今日は舟を浮かせる水。
母は桶に水を張って、縁側の板の上へ置いた。 桶の水面が、朝の光を四角く抱えている。 抱える光は、刺さらない。
幹夫は上着のポケットの石を握ってから、そっと舟を持った。 紙の軽さが指にくっつく。 軽いのに、落としたくない軽さ。
「……いくよ」
自分に言い聞かせるみたいに言って、舟の腹を水へ近づけた。 水面が舟に触れた瞬間、紙がふわっと浮いた。 浮く音はしないのに、胸の中で「ふわ」が鳴った。
幹夫の胸が、ぽん。 ぽん、と鳴ったから、息。
――いき。
舟は水面の上で、少しだけ揺れた。 揺れるのに倒れない。 揺れるのは、波の小さい版みたいだった。 小さい波なら、怖くない。
父が、ふっと口の端を上げた。 笑いきれない上がり方。 でも今日は、上がり方が少し丸い。
「……浮くな」
浮く。 その一言が、幹夫には嬉しかった。 舟が浮くことだけじゃない。 父の言葉が、ちゃんと水の上に乗っていることが。
ところが、桶の縁に小さな風が当たって、水面が揺れた。 舟が桶の端へ寄って、紙の先が縁にこつん、と当たった。
こつん。
小さい音。 小さいのに、父の肩が一瞬で固くなった。 固くなると、空気が尖る。 尖りかけたから、幹夫は石を握り直した。
――いき。
母が低く言った。
「桶の音だに。……こつん、って」
父はすぐ頷かなかった。 でも、目を逸らさなかった。 そして、息をひとつ、ゆっくり出した。
「……桶、だな」
言えた。 言えると、音は音のままでいられる。 舟は、まだ浮いている。
幹夫は指先でそっと水面を押して、舟を真ん中へ戻した。 戻る舟。 戻れる舟。
戻れる、というだけで、胸の中の道が一本、太くなる気がした。
「……外の水でもやるか」
父がぽつりと言った。 外の水。 用水路。 畑へ流れる水。 家の外を通って、またどこかへ行く水。
幹夫は嬉しくて、でも嬉しさが走りそうで――息をひとつ入れてから頷いた。
――いき。「……うん」
母はすぐ支度をしなかった。 支度を急がせない。 急がせないことが、今の家のいちばんの支度だった。
「草履、履いてけ。舟、濡れるで、もう一枚折っとけ」
母の声は生活の声だった。 生活の声は、痛くない。
幹夫は新聞紙を一枚もらって、ちゃぶ台の上で舟を折った。 折り目をつける指が、少し震える。 震えは怖さじゃない。 落としたくないときの震えだ。
父は隣で見ていた。 見ているだけなのに、幹夫の胸は少し落ち着く。 見ている目が、逃げない目だからだ。
幹夫が二つ目の舟を折り終えると、父が小さく言った。
「……舟ってのはな、腹が丸いほうがええ」
腹が丸い。 丸。 刺さらない形。 波の上で転ばない形。
幹夫は紙の腹を指でそっと膨らませた。 膨らませると、舟が舟の顔になる。 顔になると、浮ける気がする。
用水路は、家から少し歩いたところにあった。 水は透明じゃなく、土の色を少し混ぜている。 混ぜた水は、生活の水だ。
父は用水路の縁へ近づいて、いちど足を止めた。 止まって、少し。 歩の字のとおり。 その「止まって」の間に、幹夫は息を入れた。
――いき。
父は用水を見て、ぽつりと言った。
「……流れ、速いな」
速い、は怖いときがある。 でも父の言い方は、怖さじゃなく、確かめる言い方だった。
幹夫は二つの舟を両手で抱えた。 抱える紙が軽い。軽いのに、胸は少し重い。 重いのは、飛んでいってしまう気がするから。
母が後ろから声を落として言った。
「ひとつは、ここ(岸)に残しとけ。……戻れんと、泣くで」
戻れんと、泣く。 母の言い方は当たり前みたいなのに、幹夫には“戻る道を作る”言い方に聞こえた。 幹夫は頷いて、一つの舟を母の手に渡した。 母はそれを布巾の上に置いて、風で飛ばないよう、石をひとつ乗せた。
丸い石じゃない。 角のある小さな石。 でも今は、それでいい。 飛ばないことが大事だから。
父が小さく言った。
「……みき坊、投げるんじゃねぇぞ。置く」
置く。 置く、は丁寧な言葉だ。 落とすと違う。 投げると違う。
幹夫は舟を両手で支えて、水面へ近づけた。 水が舟の腹に触れる。 舟がふわっと浮く。 浮いた瞬間、幹夫の胸がぽん、と鳴った。
――いき。
舟は流れに乗って、すーっと前へ進んだ。 進むのに、慌てない。 進むのは、道の上を歩くのと同じ顔だった。
ところが、少し先で水が石に当たって、泡が立った。 ぱしゃ。 小さい水音なのに、父の肩がまたふっと上がった。
幹夫はすぐ、口の中で言った。
――いき。
父は足を止めなかった。 止めないで、舟のあとを追って歩いた。 止まらないのに、走らない。 走らない歩き方。
舟が小さな渦に吸い込まれそうになって、傾いた。 紙の腹が少し濡れて、重くなる。 重くなると、沈む気がして胸がきゅっとした。
「……父ちゃん!」
幹夫が思わず声を出すと、父がすぐじゃなく、でもちゃんと返した。
「……見てろ」
見てろ。 命令みたいなのに、怖くない。 怖くないのは、“一緒に見てる”が入っている声だからだ。
舟は傾いて、いちどだけ水を飲んだ。 飲んだのに、沈まない。 沈まないで、少しだけ姿勢を戻した。
戻した。 戻した瞬間、幹夫の胸の奥が熱くなった。 熱いのに、息ができる熱さ。
父がぽつりと言った。
「……舟はな、いっぺん傾いても、戻る腹を持っとる」
戻る腹。 息の戻る。 道の戻る。 父の「もどれた」。 全部がひとつの言葉の中で結ばれたみたいだった。
舟はしばらく進んで、用水の曲がり角の草に引っかかって止まった。 止まって、少し。 舟も歩いている。
幹夫は川縁へ降りて、濡れた舟をそっと拾い上げた。 紙はふやけて、角が丸くなっている。 丸くなっていると、刺さらない。 刺さらない濡れ方は、少しだけ優しかった。
父は、それを見て、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「……帰ってきたな」
帰。 帰ってきた舟。 帰ってきた父。 帰っていい声。
幹夫は、喉の奥の熱を、息で丸くしながら言った。
「……うん」
家へ戻る途中、父は道の端の流木をひとつ拾った。 拾い方が急がない。 急がない拾い方は、落とさない拾い方だ。
父はその流木を指で転がしながら、ぽつりと言った。
「……小さい舟なら、木でも作れる」
作れる。 その「作れる」は、未来の言葉だった。 未来の言葉が出ると、幹夫の胸がぽん、と鳴る。 鳴るのに、叫ばない。叫ばない鳴り方は、続きの鳴り方だ。
母はすぐ大げさに頷かなかった。 でも、声を落として言った。
「……ええな」
ええな。 許しと、期待と、生活が混ざった「ええ」。
昼前、母が新聞紙の裏を広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
舟
幹夫は目をこらした。 ほんとうに、舟みたいな形だった。 底があって、横があって、真ん中に一本、筋が通っている。
母は指で上からなぞった。
「舟はな、昔の絵だに。舟の形そのまま」
そのまま。 そのまま、という言い方が好きだと幹夫は思った。 無理に飾らない。無理に早くしない。 そのままでいい、の匂いがする。
父が新聞紙の「舟」を見て、ぽつりと言った。
「……これ、俺の腹の形だな」
言ってから、父は少し照れたみたいに鼻の下を擦った。 照れ方が、どこか子どもみたいで――幹夫は嬉しくなりすぎそうになった。
だから、息。
――いき。
母は笑わなかった。笑って刃にしない。 代わりに、低く言った。
「うん。……腹が丸いと、波に負けん」
祖母が台所から、淡々と混ぜた。
「腹ぁ丸くしとけ。角立てると沈むぞ」
沈むぞ、の言い方が乱暴なのに、怖くなかった。 祖母の乱暴は、暮らしの毛布みたいに温かいときがある。
母は少し間を置いて、息をひとつ入れてから言った。
「舟はな……浮くための形だに。浮くってのは、逃げるじゃない。沈まんってこと」
沈まんってこと。 その言葉が、幹夫の胸にすとんと座った。 逃げるのは怖い。 でも沈まないのは、怖さと違う。 沈まない、は“ここにいる”の形だ。
幹夫は鉛筆を握った。 舟を書く。 一画ずつ、ゆっくり。 途中で胸が走りそうになったから、息。
――いき。
一回目の「舟」は、底が細くなって、転びそうな舟になった。 転びそうだと、浮く前に沈みそうで胸がきゅっとした。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「底が細いときはな……腹を太らせりゃええ。舟は腹だに」
腹を太らせる。 丸。 刺さらない形。
二回目の「舟」は、少しだけ落ち着いた。 落ち着くと、字が“浮ける顔”をする。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
母が父を見て、頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。
父の「舟」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 底が少し尖った。尖るのに刺さらない。 刺さらないのは、そこに「浮こう」が入っている尖りだからだ。
父は書き終えて、ふっと息を吐いた。 軽い息。 軽いのに、笑いじゃない。 軽い息は「ここまで」の息。
「……舟って字、書くと……腹が落ち着くな」
落ち着く。 その言葉が、幹夫の胸をあたためた。
母は「舟」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、舟の両側の浮きみたいに見えた。
夜。 父は布団に入る前に、昼に拾った流木を小さく削っていた。 刃物じゃない。爪と、小さな石でこすって、角を少しずつ落としている。 少しずつ。 削りカスが指に付き、落ちる。落ちるのに、飛ばない。 飛ばない落ち方は、落ち着く。
できたものは、ほんの小さな舟の形だった。 底が丸い。 丸い底は、沈みにくい。
父はそれを掌にのせて、縫い箱の前でいちど止まった。 止まる影が畳の上で揺れる。 揺れるのに、倒れない。
父は縫い箱を持ち上げなかった。 代わりに、箱の脇へ、その小さな木の舟をそっと置いた。 舟の腹に、鉛筆の先で小さく、いびつな丸がひとつ描かれていた。
幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。叫ばない鳴り方は、「続き」の鳴り方だった。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
> (とうちゃんへ も)
中に書く。
> ふね が ういた> いちど かたむいても> もどった> とうちゃんも> すこし もどった> みず みたいに> いき を いれて> しずまない で いたい
最後に、小さく「舟」。 丸をひとつ。 沈まないための丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは用水の「ぱしゃ」の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
> ふね は> うく ため の かたち> しずまない って> ここ に いる ってこと> いき> うん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
> みきぼう> きのう> ふね かえった> すこし> うれしかった> もどる って> ふね だな
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――濡れてふやけた紙の舟が、乾いて、もう一度舟の形に戻されていた。 腹はへこんでいる。 へこんでいるのに、舟だ。 舟の脇に、ちいさく「舟」と書いてある。父の震える字。
幹夫はその舟を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
へこんでも、舟。 揺れても、舟。 沈まないための形。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、用水の上で戻ってきた小さな舟は届いた。 届いた“少し”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、沈まない形を胸の中でそっと整えた。





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