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芯の黒

 鉛筆は、胸の近くに入れていると、心臓の音を少しだけ真面目にする。 幹夫は浜から帰ってきて、上着の内ポケットに差した短い鉛筆を、何度も指で確かめた。そこにある。硬い。折れそうで、折れなさそうな硬さ。

 家の戸を開けると、竈の匂いがした。薪が湿っている日の匂い。煙が薄く、台所の天井にゆっくり溜まる匂い。祖母が鍋をかき混ぜていて、母は布を畳んでいた。

「おかえり」

 祖母が言った。 母は顔を上げずに「おかえり」と返した。その返し方が、今日もちゃんと家が続いている、という感じで、幹夫は少し安心した。

 安心すると、すぐに別の気持ちが来る。 安心は、油断に似ているからだ。油断すると、見えないところから何かが減っていく気がする。砂糖みたいに。父みたいに。

 幹夫は上着を脱いで、鉛筆のある内ポケットを手で押さえたまま、畳に正座した。押さえていないと、鉛筆が自分の意思で転げ落ちて、音を立ててしまいそうだった。音を立てたら、母が気づく。母が気づいたら、眉間が固くなる気がした。

 夕方まで、幹夫は鉛筆を取り出さなかった。 取り出したくてたまらないのに、取り出せなかった。嬉しいものほど、早く使うのが怖い。使えば短くなる。短くなればなくなる。なくなれば、また胸の中がうるさくなる。

 夜、布団に入って、母と祖母の足音が遠くなってから、幹夫はそっと上着を引き寄せた。暗がりで手探りする。内ポケットの縫い目。そこから指が触れる硬さ。

 幹夫は鉛筆を掌にのせた。 掌の上で、黒い芯がかすかに光った。光る、というより、そこだけ暗さが濃い。芯の黒は、夜より黒い。夜より黒いのに、夜を怖くさせない黒だった。

 幹夫は、書きたくなった。 紙が欲しい。けれど紙は、家の中で勝手に使ってはいけないものだった。紙は軽いのに、重い。配給の券も紙だし、駅の壁の紙も紙だ。紙は人の時間を持っている。

 幹夫は枕元を探り、昨日の芋を包んだ新聞紙の切れ端を見つけた。インクの匂いが残っている。文字がぎっしり並んだ紙。読めないのに、紙は「知っているふり」をしている。

 幹夫はその紙を裏返した。 裏は白い。真っ白ではない。インクが薄く透けて、白が少し汚れている。でも、書ける白だった。

 鉛筆の先を紙に置く。 置いた瞬間、幹夫の胸がどくんと鳴った。怖い。けれど、怖いのに、先が紙に触れるのが嬉しい。

 幹夫は線を引いた。 すっと、一本。

 線は、消えなかった。

 砂の上の線みたいに、波が来て崩れることもない。指でなぞっても、少し黒が伸びるだけで、なくならない。幹夫は息を止めた。線が残る、ということが、こんなに驚くことだとは知らなかった。

 残るのが嬉しいのに、残るのが怖い。 残ってしまうと、そこに「ある」ができる。「ある」ができると、失くす怖さが生まれる。

 幹夫は、もう一本線を引いた。 今度は少し短く。短い線も、ちゃんと残った。

 残るのは、届くことに似ていた。 母の「甘いね」が胸に残るみたいに。男の「読む必要が来た」が残るみたいに。

 幹夫は、ゆっくり「幹」の形を思い出した。 砂に書いたときの、自分の手の迷い。あの迷いを、紙の上に持ってきたくなかった。迷いは線を弱くする。弱い線は、母の顔みたいにすぐ硬くなる。

 幹夫は鉛筆を持ち直した。 短い鉛筆は持ちにくい。持ちにくいのに、持ち直すと心がまっすぐになる気がした。

 幹夫は、書いた。 自分の名前の、幹夫。

 形は歪んでいる。線も揺れている。 それでも、それは「幹夫」だった。少なくとも、幹夫にはそう見えた。

 幹夫は、その字をしばらく見ていた。 字は言葉を持たないのに、そこにあるだけで自分が少しだけ確かになる。確かになると、胸の中の小さな警報がいったん静かになる。静かになるのが嬉しくて、幹夫は紙を畳んで、布団の隅にそっと挟んだ。

 それから、眠った。

 翌日、駅へ行くのだと母が言ったのは、朝の味噌汁がまだ湯気を出しているときだった。

「また、紙が増えたって」

 母はそう言って、湯呑みを置いた。置き方が少し硬い。硬い音が出ないように、硬い手つきだけが出る。そういう硬さ。

 幹夫は鉛筆のことを言えなかった。 言ったら、母の眉間が固くなる気がした。鉛筆は嬉しいものなのに、嬉しいものが母の眉間を固くするのは嫌だった。

 母は上着のポケットに、昨日入れた白い石がまだあるか確かめた。指が布の上から、石の輪郭をなぞる。なぞる指が、ほんの少しだけ震えた。

 幹夫は、その震えを見て、鉛筆の硬さを思い出した。 硬さは支えになる。支えになるものを、自分も持っている。胸の内ポケットに。

 駅までの道は、風が強かった。 強い風は、海の匂いだけを連れてくる。家の匂いを連れてこない。家の匂いが薄まると、幹夫の胸の中の警報はまた少し尖る。

 駅前の壁には、今日も人が集まっていた。 紙が見えない。字が見えない。見えるのは背中だけだ。背中はみんな少し丸く、少し固い。丸いのは、見上げるため。固いのは、崩れないため。

 母はいつものように背伸びをした。 背伸びの仕方が、昨日より少し急いでいる。急ぐ背伸びは、心の背伸びだ。胸が追いつかない背伸びだ。

 幹夫は、母の袖をそっと引いた。 引いて、近づいた。近づくと、紙の匂いがした。インクの匂い。人の息の匂い。汗の匂い。匂いが混ざって、頭の中がぼやける。

 幹夫は内ポケットの鉛筆に触れた。 触れた瞬間、「今だ」と胸の中の音が言った。

 幹夫は、母の手を一瞬だけ離した。 離しただけで怖い。怖いのに、怖さより「したい」が勝った。

 上着の内ポケットから鉛筆を抜き、同じポケットに忍ばせてきた小さな紙――昨夜、幹夫が名前を書いた新聞紙の裏を、そっと出した。折り目のついた、薄い紙。薄いのに、今日はそれが盾みたいに思えた。

 幹夫は紙に鉛筆の先を当てた。 紙が硬い。駅の壁の紙と違う硬さだ。自分の紙の硬さ。

 母の目が、ある一点で止まった。 止まって、ほんのわずかに動いた。目だけが「見つけた」と言う。見つけたのが何なのか、母は言わない。言わないまま、口の中で何かを噛み砕くように、喉が動いた。

 幹夫は、その目の止まったあたりの字を見た。 読めない。読めないけれど、形は掴める気がした。掴める形だけでも残したいと思った。

 幹夫は、その字の形を、紙に写した。 写すというより、真似をした。黒い虫みたいな字を、黒い芯でなぞる。線は歪む。歪むのに、残る。残るのが救いだった。

 幹夫が書いている間、母は何も言わなかった。 言わないけれど、母の肩が、幹夫のほうへほんの少し寄った。寄っただけ。寄っただけで、幹夫は「一緒に見ている」気がした。

 隣で、またあのおばあさんが「見えん」と言っていた。 今日は別の人に腕を取られている。腕を取られる手が、少しだけ軽く揺れている。

 幹夫はその揺れを見ると、胸の音がまた鳴った。鳴ったけれど、今日は動かなかった。動かない自分を嫌だと思わなかった。今日は、母の横でやることがある。母の横でやることがあるとき、幹夫の優しさは、あちこちに散らないで一つに集まる。

 幹夫は、字を二つ、三つ、紙に残した。 残して、母の顔を見上げた。

 母は紙の壁から目を離さずに言った。

「……何してる」

 声は低い。 低いけれど、叱りの低さではなかった。知らないものに触れるときの低さだった。

「これ、あとで……読めるようにしたい」

 幹夫はそう言った。言ってしまった。言うつもりは半分しかなかったのに、口が勝手に動いた。勝手に動くのは、胸の音が押すからだ。

 母の目が、紙から外れた。 幹夫を見る。幹夫の手を見る。鉛筆を見る。折り畳んだ紙を見る。

 母の眉間が固くなると思った。 固くなる前に、幹夫は息を止めた。

 けれど母の眉間は、固くならなかった。 固くならない代わりに、母の目が少しだけ濡れたように見えた。濡れたのか、光がそう見せただけなのか、幹夫には分からない。分からないけれど、分からないまま胸が熱くなった。

「……誰にも、見せるなよ」

 母は小さく言った。 見せるなよ、というのは、叱りじゃない。守りだ。母の守りはいつも、短い言葉の形をしている。

 幹夫は頷いた。頷きすぎて、首が少し痛くなった。 首が痛いのは、大きなものを見上げた証拠だ。今日は紙を見上げた。母の心を見上げた。

 母はもう一度、紙を見た。 見て、それから、幹夫の紙のほうへ目を落とした。

「……それ、貸して」

 母が言った。

 幹夫は紙を差し出した。差し出す指が震えた。 母は鉛筆で書かれた歪んだ形を見て、しばらく黙っていた。

 母の指が、紙の上の一つの字をそっとなぞった。 なぞる指は震えていない。震えていない指のほうが怖いときがある。震えていないのは、震える余裕がないからだ。

「……これ」

 母は、紙の壁に目を戻して、同じ字を指で探した。探して、そこを軽く押した。押す指が、やっぱり少しだけ震えた。

「これが……」

 母はその先を言わなかった。 言わなかったけれど、言わない声の中に、幹夫は「覚えておけ」が入っているのを感じた。

 幹夫は、その字をもう一度紙に書いた。 今度は少し丁寧に。線を急がせないように。母の呼吸の速さに引っ張られないように。

 書き終えると、母が小さく息を吐いた。 吐いた息が、紙の匂いに混ざって消えた。湯気みたいに。湯気は届く。消えるのに届く。

「帰ろ」

 母が言った。

 今日の「帰ろ」は、昨日と少し違った。 昨日は、名前が読めない「帰ろ」だった。 今日は、読めないままでも「残した」帰ろだった。

 駅を離れると、汽笛が鳴った。 届く音。遠いのに、今日は少しだけ味方みたいに聞こえた。

 家へ向かう道で、母は一度だけ幹夫の内ポケットを見た。 そこに鉛筆が戻っているのを確かめるみたいに。

「……どこで手に入れた」

 母がぽつりと聞いた。 声は低い。けれど今度は、怖い低さじゃない。

 幹夫は迷った。 あの男のことを言ったら、母の眉間が固くなるかもしれない。借りが増える。借りが増えると、母は自分の嬉しさをまた後回しにする。

 幹夫は少し黙って、それから小さく言った。

「……浜で、もらった」

 嘘ではない。全部でもない。 幹夫の優しさは、時々こういう形をする。守るために小さくする。届かせるために薄める。

 母はそれ以上聞かなかった。 聞かない、ということも母の優しさだと幹夫は知っている。知っているから、胸が少し痛む。

 家の戸の前で、幹夫は内ポケットの鉛筆と紙を確かめた。 鉛筆は硬い。 紙は薄い。 薄いのに、今日はそれが、サイレンより確かなものに思えた。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、芯の黒は残る。 残る黒があるなら、次に母の目が走るとき、幹夫は母の横で少しだけ立っていられる気がした。

 「読める」までは遠い。 でも、「残す」はできる。

 幹夫はそのことを、今日の帰り道の風の匂いと一緒に、胸の奥へそっとしまった。

 
 
 

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