top of page

茶の星


 茶の星は、空にはなかった。

 少なくとも、その夜、幹夫少年が見つけた星は、夜空ではなく、湯呑みの底に沈んでいた。

 それは、雨の降る晩だった。

 家の外では、細い雨が静かに降り続いていた。激しい雨ではない。屋根を叩く音も、窓を打つ音も弱く、ただ町全体を薄い灰色の布で包むような雨だった。

 幹夫は、台所のテーブルに座っていた。

 母が淹れてくれたお茶が、湯呑みの中で少しずつ冷めていく。白かった湯気は、もうほとんど見えなくなっていた。けれど、湯呑みを両手で包むと、まだほんの少し温かい。

 幹夫は、その温かさを手のひらで確かめていた。

 その日、幹夫は学校で、また小さな言葉に傷ついていた。

 図書の時間に、幹夫は古い本のページの間から、一枚の押し葉を見つけた。薄く乾いた茶色の葉だった。誰が挟んだのか、いつからそこにあったのか、わからない。けれどその葉は、紙の間で長い時間を眠っていたらしく、葉脈だけが細く浮かび、光に透かすと小さな地図のように見えた。

 幹夫は思わず言った。

 「きれいだね」

 すると、隣にいた子が笑った。

 「枯れ葉じゃん」

 それだけだった。

 ただそれだけ。

 でも幹夫の胸には、その言葉が夜まで残った。

 枯れ葉。

 たしかにそうだ。 もう緑ではない。 水も吸わない。 枝にもついていない。

 でも、幹夫にはそれがただの枯れ葉には見えなかった。そこには、かつて光を受けた時間があり、風に揺れた日があり、誰かの手で本に挟まれた静かな理由があるように思えた。

 それを「枯れ葉じゃん」と言われた時、幹夫は、その葉だけでなく、自分の見方ごと小さく折られたような気がした。

 家に帰っても、その葉のことが頭から離れなかった。

 母に話そうかと思ったが、うまく言葉にならなかった。

 古い押し葉がきれいに見えたこと。 それを笑われて、胸が痛んだこと。 でも、笑った子に悪気はなかったと思うこと。 それなのに、まだ悲しいこと。

 どれも本当で、どれも小さすぎる気がした。

 だから幹夫は、黙ってお茶を飲んでいた。

 そのときだった。

 湯呑みの底で、何かが光った。

 幹夫は目を凝らした。

 お茶の色は、薄い緑から少し金色に変わっている。その底の真ん中に、小さな光がひとつあった。

 星だった。

 夜空の星のように鋭くはない。 豆粒ほどの、小さな、柔らかい星。

 お茶の中に沈んでいるのに、濡れているようには見えなかった。むしろ、湯呑みの底で静かに呼吸しているようだった。

 幹夫は息を止めた。

 すると、星が言った。

 「見つかった」

 声は、とても小さかった。

 お茶の表面にできた波紋が、そのまま言葉になったような声だった。

 幹夫は湯呑みに顔を近づけた。

 「きみは、何?」

 星は少しだけまたたいた。

 「茶の星」

 「茶の星?」

 「お茶の中にだけ生まれる星」

 幹夫は、台所を見回した。

 母は隣の部屋で洗濯物をたたんでいる。雨の音が窓の外で細く続いている。いつもの家の夜だった。けれど湯呑みの底には、確かに星があった。

 「空の星じゃないの?」

 幹夫が聞くと、茶の星は静かに答えた。

 「空の星は、遠くで光る。茶の星は、人の胸の近くで光る」

 幹夫は、その言葉をすぐには理解できなかった。

 けれど、湯呑みを包む手の温かさと、その底に沈んだ小さな光が、どこかでつながっているような気がした。

 茶の星は言った。

 「幹夫の胸に、今日は枯れ葉の影があるね」

 幹夫は、はっとした。

 「見えるの?」

 「お茶は、飲む人の胸の曇りを少しだけ映すから」

 茶の星は、湯呑みの底でゆっくり回った。

 「でも、曇りは悪いものばかりじゃない。曇っているから見える光もある」

 幹夫は、湯呑みの底を見つめた。

 「ぼくは、変なのかな」

 やっと言葉が出た。

 「枯れ葉を見てきれいだと思ったり、古いもののことを考えたり、小さなことで悲しくなったりする。みんなが通り過ぎるものの前で、ぼくは止まってしまう」

 茶の星は、すぐには答えなかった。

 お茶の中に、雨の音が細く混じっていた。

 やがて星は言った。

 「茶葉も、止まるよ」

 「茶葉が?」

 「摘まれる前、茶葉は風の中で止まっているように見える。けれど、止まりながら光を受け、水を吸い、苦みと香りを育てている。止まることは、何もしていないことではない」

 幹夫は、胸の中のどこかが少しほどけるのを感じた。

 止まること。 見つめること。 すぐに通り過ぎられないこと。

 それらは、ただ遅れることではないのかもしれなかった。

 茶の星は、湯呑みの中で少し明るくなった。

 「幹夫、茶畑へ行こう」

 「今から?」

 「雨の夜にだけ開く茶畑がある。そこでは、枯れた葉も、言えなかった言葉も、まだ香りになる前の星も眠っている」

 幹夫は戸惑った。

 外は雨だ。 夜も深い。 本当なら出かけてはいけない。

 けれど、湯呑みの底の星は、幹夫を責めるでも急かすでもなく、ただ静かに光っていた。

 その光を見ていると、行かなければならないような気がした。

 幹夫は湯呑みの残りのお茶を、そっと飲んだ。

 苦みが舌に広がった。

 そのあと、かすかな甘みが来た。

 最後に、小さな星の光が、胸の中へ入ってきたような気がした。

 次の瞬間、幹夫は茶畑に立っていた。

 雨は降っていた。

 けれど、濡れなかった。

 雨粒は幹夫の体を通り抜け、茶葉の上へ静かに落ちていく。夜の茶畑は深い緑ではなく、少し青く光っていた。畝の一つ一つが、湯呑みの内側に描かれた模様のように丸く続いている。

 空には星が見えなかった。

 雨雲が覆っているからだろう。 けれど茶畑のあちこちに、小さな星があった。

 茶葉の上。 根元の土。 古い農道の石の隙間。 茶摘み籠の影。 雨を受けた枯れ葉の上。

 星たちは、空ではなく、地上で光っていた。

 幹夫の胸の中の茶の星が言った。

 「ここは、茶の星が生まれる場所」

 声は、胸の内側から聞こえた。

 「茶の星は、強い光からは生まれない。小さな苦み、言えなかった気持ち、誰にも見つけられなかった美しさが、お茶の温かさに触れた時に生まれる」

 幹夫は、畝の間を歩いた。

 足もとの土はやわらかく、雨を吸っていた。茶葉は夜の雨を静かに受けている。葉に落ちた雨粒が、時々小さな星に変わった。

 茶畑の奥に、一本の古い木があった。

 茶の木ではなかった。 低く広がる茶畑の中に、一本だけ細い木が立っている。枝には葉が少なく、幹は少し曲がっていた。その根元に、昼間見た押し葉によく似た葉が一枚、落ちていた。

 幹夫は、そっとしゃがんだ。

 枯れ葉だった。

 茶色く、薄く、縁が少し欠けている。けれど雨に濡れたその葉は、街灯も月もないのに、内側から淡く光っていた。

 「枯れ葉じゃん」

 昼間の声が胸に戻る。

 幹夫の胸が痛んだ。

 すると、枯れ葉の上に、小さな茶の星が降りた。

 星は葉脈に沿って転がり、葉の真ん中で止まった。すると、枯れ葉の中に、過去の景色が浮かび上がった。

 春の光。

 まだ若かった葉が、枝の先で震えている。 夏の雨。 強い日差し。 虫が葉の端を少しかじった朝。 秋の風。 誰かの手が、その葉を拾い、本の間へそっと挟んだ時間。

 幹夫は、息をのんだ。

 枯れ葉は、終わったものではなかった。

 その薄い体の中に、たくさんの季節が畳まれていた。

 茶の星は言った。

 「枯れることは、何もなくなることではない。色を失うかわりに、時間を透かすようになるものもある」

 幹夫は、枯れ葉を見つめた。

 たしかに、その葉は緑ではない。 けれど、緑だった時間を失ったわけではなかった。

 むしろ、薄くなったからこそ、葉脈の道が見えた。 乾いたからこそ、光を透かした。 古くなったからこそ、そこにいた時間が静かに浮かび上がった。

 「ぼくがきれいだと思ったのは、間違いじゃなかった?」

 幹夫が聞くと、茶の星はやさしくまたたいた。

 「間違いではないよ。ただ、そのきれいさは、急いで見る人には見えにくかっただけ」

 幹夫の目に涙が浮かんだ。

 見えにくいものがある。

 それを見たからといって、変なのではない。

 ただ、見る速さが違うだけなのかもしれない。

 雨は、茶畑に降り続けていた。

 茶の星は、枯れ葉の上からふわりと浮かび、幹夫の前を進んだ。

 「次に行こう」

 幹夫は星を追った。

 茶畑の中央に、小さな茶小屋があった。

 小屋の中には、古い囲炉裏と、急須と、湯呑みが並んでいた。壁には、たくさんの葉が干されている。緑の葉、黄色の葉、茶色の葉。どれも星の光を少しずつ含んでいた。

 囲炉裏のそばには、一人の女の人が座っていた。

 白い手ぬぐいを頭に巻き、手には茶葉を揉むための古い道具を持っている。顔ははっきり見えるのに、目を離すと湯気の中へ溶けてしまいそうだった。

 女の人は、幹夫を見ると静かに笑った。

 「茶の星に呼ばれてきたのね」

 幹夫はうなずいた。

 「ここでは、何をしているんですか」

 「星をお茶にするの」

 女の人は答えた。

 「茶の星は、そのままでは小さすぎて、人の胸に長く留まれない。茶葉の苦みと、湯の温かさと、人の手の記憶を通ると、香りになって残る」

 女の人は、幹夫に一枚の茶葉を渡した。

 それは緑ではなく、少し茶色がかった葉だった。けれど葉脈に沿って、小さな星がいくつも宿っている。

 「これは、枯れかけた茶葉?」

 幹夫が聞くと、女の人は首を横に振った。

 「熟した葉」

 「熟した?」

 「若い葉には若い香りがある。古い葉には古い香りがある。枯れかけたものには、終わりに近づいたものだけが持つ静けさがある。それをすぐ捨ててしまうと、茶は浅くなる」

 幹夫は、葉を両手で持った。

 軽かった。

 でも、そこには時間の重さがあった。

 女の人は急須を手に取った。

 「幹夫の胸にも、茶の星が生まれている」

 「ぼくの胸に?」

 「今日、枯れ葉をきれいだと思ったこと。笑われて悲しかったこと。それでも、きれいだと思った気持ちを捨てられなかったこと。それらが混ざって、茶の星になった」

 幹夫は、胸に手を当てた。

 確かに、そこに小さな光がある気がした。

 でも、その光は強くなかった。 すぐ消えてしまいそうで、頼りない。

 「これを、どうすればいいんですか」

 幹夫が聞くと、女の人は言った。

 「飲みなさい」

 「飲む?」

 「自分の見つけた美しさを、自分で受け取るの」

 女の人は、星を含んだ葉を急須へ入れた。

 湯を注ぐ。

 湯気が上がった。

 湯気の中に、昼間の図書室が見えた。古い本。押し葉。笑い声。言えなかった幹夫の顔。

 幹夫は、少し胸が痛んだ。

 けれど湯気はその場面を責めるようには見せなかった。ただ、そこにあったものを、やわらかく包んでいた。

 女の人は湯呑みにお茶を注いだ。

 お茶は、淡い琥珀色をしていた。底に小さな星が一粒沈んでいる。

 幹夫は両手で湯呑みを受け取った。

 温かかった。

 幹夫は、ゆっくり飲んだ。

 苦みがあった。

 それは、笑われた時の苦みだった。 自分の見方を隠したくなった時の苦みだった。

 でも、そのあとに、深い香りが広がった。

 古い本の匂い。 紙の間で眠っていた葉の静けさ。 透けた葉脈の美しさ。 誰にも急がされない時間。

 最後に、ほんの少し甘みが残った。

 それは、自分が見つけたものを、自分だけは信じてよいと思える甘みだった。

 幹夫は湯呑みを見つめた。

 底の星は、もう見えなくなっていた。

 胸の中に入ったのだと思った。

 女の人は言った。

 「茶の星の効きめは、誰かを言い負かすことではない」

 幹夫は顔を上げた。

 「では、何ですか」

 「自分の見つけた小さな光を、自分で踏み消さないこと」

 その言葉は、幹夫の胸に深く沈んだ。

 昼間、笑われた時、幹夫は自分の感じ方を恥ずかしいものにしようとした。枯れ葉をきれいだと思った自分を、なかったことにしようとした。

 でも、それは自分の中の茶の星を踏み消すことだったのかもしれない。

 女の人は、棚から小さな包みを出した。

 中には、一枚の乾いた葉が入っていた。

 昼間見た押し葉に似ている。けれど、葉脈の交わるところに小さな星がひとつ光っていた。

 「これは持って帰れない」

 女の人は言った。

 「でも、形を覚えておきなさい」

 幹夫は、その葉をじっと見た。

 欠けた縁。 細い葉脈。 薄く透ける茶色。 中心に眠る小さな星。

 幹夫は目を閉じても、その形を思い浮かべられるように、静かに胸へしまった。

 茶小屋の外では、雨がやんでいた。

 東の空が、ほんの少し白みはじめている。

 女の人の姿も薄れていた。

 「もう朝ですか」

 幹夫が聞くと、女の人はうなずいた。

 「朝になると、茶の星は湯気の中に隠れる」

 「また会えますか」

 「お茶を飲む時に、底を急いで見ないこと。湯気を少し待つこと。古い葉や、見落とされるものを前にして、胸が静かに動いたら、そこに茶の星はいる」

 そう言うと、女の人は湯気のように消えた。

 幹夫は、茶畑の農道に戻っていた。

 雨上がりの朝だった。

 茶葉の上には露があり、空はゆっくり明るくなっている。小屋も、女の人も、茶の星が沈んだ湯呑みも、もうどこにも見えなかった。

 けれど幹夫の胸には、温かな苦みと、深い香りが残っていた。

 家に帰ると、母が台所で朝のお茶を淹れていた。

 湯呑みから白い湯気が立っている。

 幹夫は、それをじっと見た。

 母が言った。

 「どうしたの?」

 幹夫は少し迷った。

 けれど、言ってみた。

 「古い葉っぱって、きれいだと思う?」

 母は驚いたように幹夫を見た。

 「古い葉っぱ?」

 「うん。本にはさまってたような、乾いた葉っぱ」

 母は少し考えた。

 「きれいだと思うよ。緑の時とは違うけれど。葉脈がよく見えるでしょう」

 幹夫は胸の中で、茶の星が小さく光るのを感じた。

 「うん」

 それだけ答えた。

 学校へ行くと、図書室の古い本は、もう棚に戻されていた。

 幹夫は休み時間に、その本をそっと開いた。

 押し葉はまだそこにあった。

 昨日と同じように、ページの間に静かに挟まれている。けれど幹夫には、昨日より少し違って見えた。

 ただの枯れ葉ではない。 季節を透かす葉。 時間を抱いた葉。 茶の星に似た、小さな光を持つ葉。

 隣の子がまた近づいてきた。

 「まだ見てるの?」

 幹夫は、少しだけ胸が緊張した。

 けれど、今度はうつむかなかった。

 「うん」

 幹夫は言った。

 「葉脈が星図みたいに見えるんだ」

 その子は、首をかしげた。

 「星図?」

 「うん。昔この葉が通ってきた道みたいにも見える」

 その子は笑うかと思った。

 けれど、少しだけ本を覗きこんだ。

 「……ほんとだ。線がいっぱいある」

 それだけだった。

 でも、幹夫には十分だった。

 誰かが同じようにきれいだと思ってくれたわけではない。 完全に伝わったわけでもない。

 けれど、少しだけ見てくれた。

 幹夫の胸の茶の星は、静かにまたたいた。

 その日の夕方、幹夫は家でお茶を飲んだ。

 湯呑みの底には、星は見えなかった。

 でも、幹夫はもう知っていた。

 茶の星は、いつも見えるわけではない。

 笑われた小さな美しさを、自分で踏み消さずにいられた時。 古いものの中に、まだ残る光を見つけた時。 苦みのあとに、かすかな甘みを受け取れた時。

 茶の星は、胸の近くで静かに光る。

 幹夫少年は、湯呑みを両手で包んだ。

 お茶は少し苦く、少し甘かった。

 そしてその奥に、乾いた葉脈を流れる小さな星の道が、いつまでも消えずに続いていた。

 
 
 

コメント


Instagram​​

Microsoft、Azure、Microsoft 365、Entra は米国 Microsoft Corporation の商標または登録商標です。
本ページは一般的な情報提供を目的とし、個別案件は状況に応じて整理手順が異なります。

※本ページに登場するイラストはイメージです。
Microsoft および Azure 公式キャラクターではありません。

Microsoft, Azure, and Microsoft 365 are trademarks of Microsoft Corporation.
We are an independent service provider.

​所在地:静岡市

©2024 山崎行政書士事務所。Wix.com で作成されました。

bottom of page