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覚の字

 朝の光は、障子の紙をいちど白くしてから、畳の目に落ちた。 白くなると、家の輪郭がゆっくり戻る。 戻るとき、音はまだ小さい。小さい音ほど、胸に届く。

 父の息が、今日は「止まらずに」続いていた。 深い。 深いのに、途中で引っかからない。 引っかからないだけで、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴る。 鳴るのに、叫ばない。叫ばない鳴り方は、続きの鳴り方だ。

 幹夫は布団の中で、口の中だけで言った。

 ――いき。

 息をひとつ入れると、嬉しさが尖らない。 尖らないと、今日が壊れにくい。

 襖の隙間から覗くと、父が横を向いたまま眠っていた。 口は閉じている。 眉の上の細い傷が、朝の光で薄く見える。 傷が見えると、本当が増える。 本当が増えると、怖いのに――今日は、怖さより先に「よかった」が来た。

 母の足音が、畳を踏まないように動く。 動く音が、暮らしの音だ。 暮らしの音があると、眠りは眠りのままでいられる。

 朝飯の湯気が、ちゃぶ台の上で丸くほどけたころ、父が起きてきた。 起き方が、昨日より少しだけ「起きる」に近い。 近いのに、急がない。

 父は戸の敷居でいちど止まって、座敷の匂いを吸った。 味噌の匂い。 薪の匂い。 畳の匂い。 匂いは言葉より先に、帰り道を作る。

 父が小さく言った。

「……目、覚めた」

 目、覚めた。 その言葉が、幹夫の胸の奥に落ちた。 落ちたのに、跳ねない。跳ねない落ち方は、石に似ている。

 母はすぐに大げさに頷かなかった。 大げさに頷くと、嬉しさが刃になることを知っている。 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「うん。……よかった」

 よかった、は短いのに重かった。 重いのに刺さらない。 刺さらない重さは、丸い石の重さに似ていた。

 祖母は味噌汁をよそいながら、淡々と言った。

「目が覚めたら、飲め。腹ぁ、正直だに」

 父は「うん」と返して、椀を持った。 持ち上げるまでの「間」が、昨日より少し短い。 短いのに、急がない。急がない短さだ。

 父はひと口、静かに飲んだ。 飲んで、湯気の向こうを見てから、ぽつりと言った。

「……夢、来なかった」

 来なかった。 来なかった、が言えるだけで、胸の奥が少し軽くなる。 軽いのに飛ばない軽さ。少し、の軽さだ。

 母は「うん」とだけ返した。 縫い箱の下の「うん」みたいな、預かる「うん」。

 父は幹夫のほうへ目を動かした。 目が来るまでの「間」は、まだ長い。 でも今日は、その間に幹夫は息を入れられた。

 ――いき。

 父の声が落ちる。

「……みき坊」

 呼び方が落ちるたび、幹夫の胸の奥に折り目が増える。 増える折り目は、飛ばないための折り目。 幹夫は小さく言った。

「……うん」

 父が、ほんの少しだけ口の端を上げた。 笑いきれない上がり方。 全部が急に明るくならない明るさは、目にやさしい。

 午前、父は縁側に座って、網糸を手に取った。 昨日のほどけた糸の切れ端。 細いのに、そこにある糸。

 父はそれを指先で撫でて、止まって、また撫でた。 撫でると、糸が糸の音を出す。 かすれた、さら、さら。

 空っぽの袖の男が来て、縁側の端に腰を下ろした。 帽子を膝に置いて、父の手元を見た。 見届ける目。

「顔、少し違うな」

 男が低く言うと、父は糸を見たまま、短く返した。

「……寝た」

 寝た。 短い。 短いのに、そこに夜を越えた匂いがある。

 男は頷いて、小さく息を吐いた。

「覚えとるか。蒲原の、潮の匂い」

 覚えとる。 その言葉が、幹夫の胸に引っかかった。 引っかかるのに、嫌じゃない引っかかりだった。

 父はしばらく黙って、糸を指で軽く引いた。 引くと、糸がほんの少し鳴る。 鳴ってから、父がぽつりと言った。

「……匂いは、覚えとる」

 匂いは覚えとる。 目で見るより先に、匂いが覚えている。 幹夫は、胸の奥が熱くなるのを感じた。 熱いのに、息ができる熱さ。

 父は続けて、さらに小さく言った。

「……味噌の匂いも。……竈の煙も」

 母が台所から、声を落として返した。

「うん。……ここだに」

 ここだに、が言葉になると、畳の匂いが濃くなる。 畳の匂いは、帰り道の匂いだ。

 父は糸を指先でつまみ直して、ぽつりと言った。

「……でも、覚えとらんことが……多い」

 覚えとらんこと。 その言葉が痛いのに、刃じゃないのは、父が逃げないで言ったからだ。 言えると、痛さは少し丸くなる。

 母はすぐ「大丈夫」と言わなかった。 息をひとつ入れてから、低く言った。

「うん」

 それから、少しだけ間を置いて、続けた。

「……覚えとらんでもええことも、ある」

 覚えなくてもいい。 その許しが、縁側の光を少し丸くした。

 昼前、母が新聞紙の裏を広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。

「幹夫」

 母の声は低い。倒れない低さ。

「今日は、これ」

 母はゆっくり書いた。

 覚

 幹夫は目をこらした。 下に「見」がいる。 目の字が、ちゃんと座っている。 上は、屋根みたいで、でも屋根だけじゃない形。

 母は指で下をなぞった。

「ここは“見る”の見だに。……目」

 次に上をなぞる。

「こっちはな……学ぶ、みたいな形だに。覚えるってのは、見て、覚えて……中に置く」

 中に置く。 縫い箱の下に紙を置くみたいに。 折って、差し込んで、飛ばないようにするみたいに。

 父が新聞紙の「覚」を見ていた。 見て、すぐ逸らさない。 逸らさない目は、少しだけ近い。

 父がぽつりと言った。

「……目が覚める、の覚だな」

 母が頷いた。

「うん。……目が“中に戻る”ってことだに」

 戻る。 帰る。 返る。 眠る。 夢。 少し。 字が畳の目みたいに並んで、一本の道になる。

 幹夫は小さく聞いた。

「覚えるって……全部、戻ってくる?」

 言ってしまってから、胸がきゅっとした。 全部戻ったら嬉しい。 でも全部戻ったら怖い。 戻ってこなかった時間が、いっぺんに胸に乗る気がするからだ。

 母は幹夫を見て、目を細めた。 湯気みたいな目。

「全部じゃなくてもええ」

 母は言った。 言い方が、丸い。

「少しずつでええ。……覚えた分だけ、今が楽になる」

 今が楽になる。 その言葉が、幹夫の胸の角を少し丸くした。

 父が、ゆっくり言った。

「……少し、覚えとる」

 何を、とは言わない。 言わないのに、その一言だけで、幹夫の喉の奥が熱くなった。

 父は、しばらく黙ってから、低く続けた。

「……おまえさんが、幹夫を抱いとった背中」

 母の手が、布巾を握ったまま止まった。 止まって、息をひとつ入れたのが、幹夫には分かった。

 ――まず、いき。

 母は顔を上げずに、小さく言った。

「……覚えとる?」

 父は頷いた。 頷きが、昨日より少し丸い。

「……背中だけ」

 背中だけ。 それが、父の「少し」だった。 少し、は嘘をつかない。 少し、は胸を走らせすぎない。

 幹夫は鉛筆を握った。 竹の継ぎ目が掌に当たる。硬い。 硬いと、線がぶれても戻ってこられる気がする。

 上の形を書いて、見を書く。 一回目の「覚」は、上が崩れて、見が大きくなった。 大きい見は、番犬の目に近い。 番犬の目は、眠れない。夢に捕らわれやすい。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「見が大きくなったらな……息を入れて、上をゆっくり置けばええ」

 ゆっくり置く。 結ぶときのゆっくり。 解くときのゆっくり。 少しずつのゆっくり。

 幹夫は息をひとつ入れた。

 ――いき。

 二回目の「覚」は、上が少し落ち着いた。 落ち着くと、字が座る。 座る字は、「居」に似ていた。

 父が、新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 母が父を見て、頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父は鉛筆を握った。 握り方がぎこちない。 ぎこちないのに、落とさない。

 父の「覚」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の見の横線を引くとき、父の息がいちど止まって――止まった間に、幹夫は自分の息を入れた。

 ――いき。

 父の「覚」ができた。 少し歪んでいる。 歪んでいるのに、ちゃんと「覚」の顔をしていた。 見が、番犬じゃなく、人の目に戻ろうとしている顔。

 父はそれを見て、ふっと息を吐いた。 軽い息。 軽いのに、笑いじゃない。 軽い息は、「ここまで」の息だ。

 母は「覚」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。

 夜。 父が布団に入る前に、縫い箱の前でいちど止まった。 止まる影が畳の上で揺れる。 揺れるのに、倒れない。

 父は縫い箱を持ち上げなかった。 代わりに、箱の脇へ、新聞紙の小さな切れ端をそっと置いた。 折り目がついている。 角が丸い。角が丸いと刺さらない。

 切れ端の真ん中に、父の震える字で「覚」。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、続きの鳴り方だった。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に小さく足す。

 > (とうちゃんへ も)

 中に書く。

 > おぼえる って > ぜんぶ じゃなくて いいんだね > せなか だけ でも > ここ に もどってくる > いき を いれながら > すこし ずつ

 最後に、小さく「覚」。 丸をひとつ。 そして、もうひとつ。 二つの丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは恥ずかしさと、胸の熱の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝、縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

 > おぼえる は > こころ の なか に > いき を いれる こと > すこし ずつ > うん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

 > みきぼう > きのう より > すこし > ここ が わかる

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――小さな網糸の輪がひとつ。 昨日の輪より、少しだけ大きい。 大きいのに、ほどけない。

 幹夫は輪を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 少し覚える。 少し分かる。 少し戻る。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、「ここがわかる」という父の字は届いた。 届いた“少し”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――家の中の「ここ」を、ゆっくり増やしていこうとしていた。

 
 
 

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