覚の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月7日
- 読了時間: 8分

朝の光は、障子の紙をいちど白くしてから、畳の目に落ちた。 白くなると、家の輪郭がゆっくり戻る。 戻るとき、音はまだ小さい。小さい音ほど、胸に届く。
父の息が、今日は「止まらずに」続いていた。 深い。 深いのに、途中で引っかからない。 引っかからないだけで、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴る。 鳴るのに、叫ばない。叫ばない鳴り方は、続きの鳴り方だ。
幹夫は布団の中で、口の中だけで言った。
――いき。
息をひとつ入れると、嬉しさが尖らない。 尖らないと、今日が壊れにくい。
襖の隙間から覗くと、父が横を向いたまま眠っていた。 口は閉じている。 眉の上の細い傷が、朝の光で薄く見える。 傷が見えると、本当が増える。 本当が増えると、怖いのに――今日は、怖さより先に「よかった」が来た。
母の足音が、畳を踏まないように動く。 動く音が、暮らしの音だ。 暮らしの音があると、眠りは眠りのままでいられる。
朝飯の湯気が、ちゃぶ台の上で丸くほどけたころ、父が起きてきた。 起き方が、昨日より少しだけ「起きる」に近い。 近いのに、急がない。
父は戸の敷居でいちど止まって、座敷の匂いを吸った。 味噌の匂い。 薪の匂い。 畳の匂い。 匂いは言葉より先に、帰り道を作る。
父が小さく言った。
「……目、覚めた」
目、覚めた。 その言葉が、幹夫の胸の奥に落ちた。 落ちたのに、跳ねない。跳ねない落ち方は、石に似ている。
母はすぐに大げさに頷かなかった。 大げさに頷くと、嬉しさが刃になることを知っている。 母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「うん。……よかった」
よかった、は短いのに重かった。 重いのに刺さらない。 刺さらない重さは、丸い石の重さに似ていた。
祖母は味噌汁をよそいながら、淡々と言った。
「目が覚めたら、飲め。腹ぁ、正直だに」
父は「うん」と返して、椀を持った。 持ち上げるまでの「間」が、昨日より少し短い。 短いのに、急がない。急がない短さだ。
父はひと口、静かに飲んだ。 飲んで、湯気の向こうを見てから、ぽつりと言った。
「……夢、来なかった」
来なかった。 来なかった、が言えるだけで、胸の奥が少し軽くなる。 軽いのに飛ばない軽さ。少し、の軽さだ。
母は「うん」とだけ返した。 縫い箱の下の「うん」みたいな、預かる「うん」。
父は幹夫のほうへ目を動かした。 目が来るまでの「間」は、まだ長い。 でも今日は、その間に幹夫は息を入れられた。
――いき。
父の声が落ちる。
「……みき坊」
呼び方が落ちるたび、幹夫の胸の奥に折り目が増える。 増える折り目は、飛ばないための折り目。 幹夫は小さく言った。
「……うん」
父が、ほんの少しだけ口の端を上げた。 笑いきれない上がり方。 全部が急に明るくならない明るさは、目にやさしい。
午前、父は縁側に座って、網糸を手に取った。 昨日のほどけた糸の切れ端。 細いのに、そこにある糸。
父はそれを指先で撫でて、止まって、また撫でた。 撫でると、糸が糸の音を出す。 かすれた、さら、さら。
空っぽの袖の男が来て、縁側の端に腰を下ろした。 帽子を膝に置いて、父の手元を見た。 見届ける目。
「顔、少し違うな」
男が低く言うと、父は糸を見たまま、短く返した。
「……寝た」
寝た。 短い。 短いのに、そこに夜を越えた匂いがある。
男は頷いて、小さく息を吐いた。
「覚えとるか。蒲原の、潮の匂い」
覚えとる。 その言葉が、幹夫の胸に引っかかった。 引っかかるのに、嫌じゃない引っかかりだった。
父はしばらく黙って、糸を指で軽く引いた。 引くと、糸がほんの少し鳴る。 鳴ってから、父がぽつりと言った。
「……匂いは、覚えとる」
匂いは覚えとる。 目で見るより先に、匂いが覚えている。 幹夫は、胸の奥が熱くなるのを感じた。 熱いのに、息ができる熱さ。
父は続けて、さらに小さく言った。
「……味噌の匂いも。……竈の煙も」
母が台所から、声を落として返した。
「うん。……ここだに」
ここだに、が言葉になると、畳の匂いが濃くなる。 畳の匂いは、帰り道の匂いだ。
父は糸を指先でつまみ直して、ぽつりと言った。
「……でも、覚えとらんことが……多い」
覚えとらんこと。 その言葉が痛いのに、刃じゃないのは、父が逃げないで言ったからだ。 言えると、痛さは少し丸くなる。
母はすぐ「大丈夫」と言わなかった。 息をひとつ入れてから、低く言った。
「うん」
それから、少しだけ間を置いて、続けた。
「……覚えとらんでもええことも、ある」
覚えなくてもいい。 その許しが、縁側の光を少し丸くした。
昼前、母が新聞紙の裏を広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。
「幹夫」
母の声は低い。倒れない低さ。
「今日は、これ」
母はゆっくり書いた。
覚
幹夫は目をこらした。 下に「見」がいる。 目の字が、ちゃんと座っている。 上は、屋根みたいで、でも屋根だけじゃない形。
母は指で下をなぞった。
「ここは“見る”の見だに。……目」
次に上をなぞる。
「こっちはな……学ぶ、みたいな形だに。覚えるってのは、見て、覚えて……中に置く」
中に置く。 縫い箱の下に紙を置くみたいに。 折って、差し込んで、飛ばないようにするみたいに。
父が新聞紙の「覚」を見ていた。 見て、すぐ逸らさない。 逸らさない目は、少しだけ近い。
父がぽつりと言った。
「……目が覚める、の覚だな」
母が頷いた。
「うん。……目が“中に戻る”ってことだに」
戻る。 帰る。 返る。 眠る。 夢。 少し。 字が畳の目みたいに並んで、一本の道になる。
幹夫は小さく聞いた。
「覚えるって……全部、戻ってくる?」
言ってしまってから、胸がきゅっとした。 全部戻ったら嬉しい。 でも全部戻ったら怖い。 戻ってこなかった時間が、いっぺんに胸に乗る気がするからだ。
母は幹夫を見て、目を細めた。 湯気みたいな目。
「全部じゃなくてもええ」
母は言った。 言い方が、丸い。
「少しずつでええ。……覚えた分だけ、今が楽になる」
今が楽になる。 その言葉が、幹夫の胸の角を少し丸くした。
父が、ゆっくり言った。
「……少し、覚えとる」
何を、とは言わない。 言わないのに、その一言だけで、幹夫の喉の奥が熱くなった。
父は、しばらく黙ってから、低く続けた。
「……おまえさんが、幹夫を抱いとった背中」
母の手が、布巾を握ったまま止まった。 止まって、息をひとつ入れたのが、幹夫には分かった。
――まず、いき。
母は顔を上げずに、小さく言った。
「……覚えとる?」
父は頷いた。 頷きが、昨日より少し丸い。
「……背中だけ」
背中だけ。 それが、父の「少し」だった。 少し、は嘘をつかない。 少し、は胸を走らせすぎない。
幹夫は鉛筆を握った。 竹の継ぎ目が掌に当たる。硬い。 硬いと、線がぶれても戻ってこられる気がする。
上の形を書いて、見を書く。 一回目の「覚」は、上が崩れて、見が大きくなった。 大きい見は、番犬の目に近い。 番犬の目は、眠れない。夢に捕らわれやすい。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「見が大きくなったらな……息を入れて、上をゆっくり置けばええ」
ゆっくり置く。 結ぶときのゆっくり。 解くときのゆっくり。 少しずつのゆっくり。
幹夫は息をひとつ入れた。
――いき。
二回目の「覚」は、上が少し落ち着いた。 落ち着くと、字が座る。 座る字は、「居」に似ていた。
父が、新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
母が父を見て、頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。
父は鉛筆を握った。 握り方がぎこちない。 ぎこちないのに、落とさない。
父の「覚」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の見の横線を引くとき、父の息がいちど止まって――止まった間に、幹夫は自分の息を入れた。
――いき。
父の「覚」ができた。 少し歪んでいる。 歪んでいるのに、ちゃんと「覚」の顔をしていた。 見が、番犬じゃなく、人の目に戻ろうとしている顔。
父はそれを見て、ふっと息を吐いた。 軽い息。 軽いのに、笑いじゃない。 軽い息は、「ここまで」の息だ。
母は「覚」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。
夜。 父が布団に入る前に、縫い箱の前でいちど止まった。 止まる影が畳の上で揺れる。 揺れるのに、倒れない。
父は縫い箱を持ち上げなかった。 代わりに、箱の脇へ、新聞紙の小さな切れ端をそっと置いた。 折り目がついている。 角が丸い。角が丸いと刺さらない。
切れ端の真ん中に、父の震える字で「覚」。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、続きの鳴り方だった。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に小さく足す。
> (とうちゃんへ も)
中に書く。
> おぼえる って > ぜんぶ じゃなくて いいんだね > せなか だけ でも > ここ に もどってくる > いき を いれながら > すこし ずつ
最後に、小さく「覚」。 丸をひとつ。 そして、もうひとつ。 二つの丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは恥ずかしさと、胸の熱の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝、縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
> おぼえる は > こころ の なか に > いき を いれる こと > すこし ずつ > うん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
> みきぼう > きのう より > すこし > ここ が わかる
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――小さな網糸の輪がひとつ。 昨日の輪より、少しだけ大きい。 大きいのに、ほどけない。
幹夫は輪を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
少し覚える。 少し分かる。 少し戻る。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、「ここがわかる」という父の字は届いた。 届いた“少し”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――家の中の「ここ」を、ゆっくり増やしていこうとしていた。





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