解の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月7日
- 読了時間: 8分

結び目の切れ端は、縫い箱の下から拾われたあと、ちゃぶ台の隅に置かれていた。
麻縄の短い欠片。
ざらざらして、掌に小さな痛みを残す。
痛いのに、嫌じゃない痛さ。
朝の光が当たると、その結び目は影まで少し角ばって見えた。
丸じゃない形。
丸じゃないのに、そこに「ほどけない」安心が入っている。
父は縁側に座って、その欠片を指で撫でた。
撫でて、止めて、また撫でる。
撫でるたびに、麻の繊維が小さく鳴る。
ざり。
ざり、の音は、針の音より太い。
太いのに、静かだった。
幹夫は上着のポケットの石を握りながら、縁側に腰を下ろした。
丸い石。冷たい。重い。
重いのに痛くない。
角がない重さは、見ている胸を少しだけ遅くしてくれる。
父がぽつりと言った。
「……結ぶのは、できる」
それから、欠片をひとつつまんで、目を細めた。
「……でも、解くのが、むずい」
解く。
その音が、幹夫の口の中で引っかかった。
引っかかるのに、怖いだけじゃない。
「次がある」音みたいに聞こえた。
昼前、父は庭先で網を広げた。
昔の網じゃない。近所から回ってきた、手直し待ちの網。
穴の周りがほつれて、糸が毛羽立っている。
毛羽立つ糸は、触るとすぐ引っかかる。
父は黙って、その引っかかりを指先で探した。
探し方が丁寧だった。
丁寧なのに、どこかぎこちない。
ぎこちなさは、手のせいじゃない。手が追いつく前に、胸が先に「間」を思い出してしまうせいだ、と幹夫は思った。
父が糸を引いた。
引いた瞬間、結び目がきゅっと固くなる。
「……くそ」
父の声が、ほんの少しだけ尖った。
尖ると、幹夫の胸の中の警報がきゅっと鳴る。
きゅっと鳴ったから、幹夫は口の中で言った。
――いき。
息をひとつ入れると、父の声は刃になりきらずに、声のままに戻る。
父は、すぐに次の言葉を言わなかった。
言わないで、親指の腹で結び目を押さえた。
押さえ方が、強い。
強いのに、壊す強さじゃない。
落とさないための強さだ。
そこへ母が、水を入れた椀を持ってきた。
湯気じゃない水。
冷たい水。
冷たい水は、火みたいに勝手に暴れない。静かに、そこにいる。
「指、切れとらんか」
母の声は低い。倒れない低さ。
父は首を横に振った。
「……切れてねぇ」
母は椀を縁側の板に置いて、父の手元を覗いた。
覗き方が、叱る覗き方じゃない。
見届ける覗き方だった。
「固くなっただに」
母が言った。
「固い」は、今日の家の中にもある言葉だった。
父は短く言った。
「……解けん」
解けん。
その一言が、網の結び目より先に、幹夫の胸の奥に絡まった。
母は、返事を急がせなかった。
間をひとつ作って、その間に息を入れてから言った。
「ぬらすと、ほどける」
母は椀の水を指で少しすくって、結び目に落とした。
水が糸に吸われて、黒っぽくなる。
黒っぽくなると、結び目が少しだけ柔らかく見えた。
父の指が、もう一度、動いた。
今度は押さえる指が少しだけゆるんでいる。
ゆるむと、糸の中に息の通り道ができる。
父がぽつりと言った。
「……ぬらすと、切れにくいな」
縄の話なのに、胸の話みたいだった。
母は「うん」とだけ返した。
その「うん」は、縫い箱の下の「うん」みたいだった。
受け止めて、預けて、折り目にする「うん」。
幹夫は、我慢できずに言った。
「ぼく、押さえる」
父が幹夫を見た。
見方が遠いのに、今日は少しだけ近い。
父は小さく頷いた。
「……頼む」
頼む、が父の口から出るのは、まだ少し珍しい。
珍しいのに、嫌じゃない。
頼む、は手が繋がる言葉だ。
幹夫は網の端を両手で押さえた。
糸が掌に擦れて、ちくりと痛い。
ちくりは小さい。
小さいのに、今ここにいる痛さだ。
父は結び目の糸を、爪の先でそっと持ち上げた。
持ち上げて、ゆっくり引く。
引くとき、父の息が一度だけ止まった。
止まる息の「間」に、幹夫は自分の息を入れた。
――いき。
父の指が、もう一度ゆっくり動く。
糸が、ほどける。
ほどけると、結び目が「結び目じゃない顔」になる。
顔が変わると、怖いのに――今日は、その変わり方が少しだけ嬉しかった。
「……解けた」
父が言った。
言い方が小さい。
小さいのに、腹に届く。
母が椀を持ち上げて、ふっと息を吐いた。
軽い息。
軽いのに、笑いじゃない。
軽い息は、落ちなかった息だ。
祖母が台所から覗いて、淡々と言った。
「解けるなら、今日は飯がうまいら。腹減ったら、先に食え」
祖母の言い方は、いつも生活へ戻す言い方だ。
戻す言葉は、家の匂いがする。
午後、母はちゃぶ台に新聞紙の裏を広げた。
竹を継いだ鉛筆を取り、いつものように字を置いた。
紙の上に、ゆっくり。
解
幹夫は目をこらした。
左に角みたいな形。
右に刀みたいな線。
下に牛みたいな形が座っている。
母が指でなぞった。
「これな、角と刀と……牛だに」
幹夫は、少しだけ顔をしかめた。
牛、という言葉が、どこか痛い匂いを連れてくる気がしたからだ。
切る、って匂い。
母はそれを知っているみたいに、声を落とした。
「昔の意味はいろいろだに。……でも今は、こう思えばええ」
母は、結び目の切れ端を指先でつまんだ。
ざらざらの麻。
小さな痛み。
「結んだもんを、ほどく。……それが、解く」
幹夫は、父の指がゆるんだ瞬間を思い出した。
固くしすぎると切れる。
ゆるめると息が入る。
息が入ると、ほどける。
母は続けた。
「あともうひとつ。……分からんものが、分かるようになるのも“解く”だに」
分かるようになる。
幹夫の胸がきゅっとなる。
分かってしまうのが怖い日がある。
でも分からないままだと、胸がずっと走ってしまう日もある。
父が、新聞紙の「解」を見て、ぽつりと言った。
「……解けんことも、ある」
声は低い。倒れない低さ。
倒れないのに、底が少しだけ震えていた。
震えは弱さじゃない。触れてしまった証拠みたいだった。
母はすぐに「ない」と言わなかった。
息をひとつ入れてから、静かに言った。
「うん」
それから、母は指で「解」の字の上をなぞった。
なぞり方が、撫でるみたいだった。
「……解けん日は、ぬらして、待つ」
待つ。
待つ、はこの家がずっとやってきたことだ。
紙で待って、影で待って、丸で待って、結び目で待った。
幹夫は、上着のポケットの石を握った。
冷たい。重い。
重いのに痛くない。
丸い重さは、待つの形にも似ている。
幹夫は鉛筆を握った。
竹の継ぎ目が掌に当たる。硬い。
硬いと、線がぶれても戻ってこられる気がした。
「解」を真似して書く。
一回目は、刀の線が尖りすぎた。
尖ると、字が怒っている顔になる。
怒っている顔は、今日の家には似合わない。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「解はな、尖ってもええ。……でも最後、ほどく気持ちで丸めりゃええ」
ほどく気持ちで丸める。
その言い方が、幹夫の胸にすとんと落ちた。
二回目を書いた。
角も刀も牛も、まだよろけている。
でも、字の中に「ほどく道」が見える気がした。
父がそれを見て、小さく言った。
「……みき坊、解、むずいな」
むずいな、の言い方が、責めない言い方だった。
責めない声は、息が入る。
幹夫は返事の言葉が見つからなくて、石を握り直した。
冷たさが戻ってきて、やっと言えた。
「……ゆっくりでいい」
言ってしまってから、幹夫は少し恥ずかしくなった。
それは母の言葉だったからだ。
でも父は、否定しなかった。
「……うん」
父の「うん」は、短いのに重い。
重いのに刺さらない。
石みたいな「うん」だった。
母は「解」の横に、小さな丸をひとつ描いた。
消す丸じゃない。受け取る丸でもない。
ただ、「ここまで」の丸。
夜、父は布団に入る前に、縫い箱の前で立ち止まった。
立ち止まる影が畳の上で揺れる。
揺れるのに、倒れない。
父は縫い箱を持ち上げなかった。
代わりに、箱の脇へ、今日ほどけた網糸の短い切れ端をそっと置いた。
結び目じゃない糸。
解けた糸。
細いのに、ちゃんとそこにある。
幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。
鳴るのに、叫ばない。
叫ばない鳴り方は、「続き」の鳴り方だった。
寝る前、幹夫は小さな紙を切って封筒の形を描いた。
宛名の下に小さく足す。
> (とうちゃんへ も)
中に書く。
> とく って
> きる じゃなくて
> ほどく なんだね
> こわいときは
> みず みたいに
> いき を いれる
最後に、小さく「解」。
丸をひとつ。
ほどける道を残す丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。
指先が少し震えた。震えは恥ずかしさと、父の指の温かさの名残。
でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝、縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。
ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、二つ重なっていた。
一枚目、母の字。
> とく は
> ほどく でも
> わかる でも ある
> どっちも
> いき が いる
> うん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。
線が震えている。
震えているのに、折れていない。
> みきぼう
> まだ とけん
> でも
> きのうより
> すこし
その下に、丸がひとつ。
昨日より少しだけ丸い丸。
幹夫は紙を胸に当てた。
紙が体温を吸って、少しだけしなる。
しなる音が、返事の音に聞こえた。
まだ解けない。
でも、少し。
少し、は嘘をつかない言葉だ。
少し、は胸を走らせすぎない言葉だ。
蒲原には、サイレンは届かなかった。
けれど、ほどけた糸の軽さは届いた。
届いた軽さを落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――結び目と結び目のあいだに、静かな「少し」を、そっと置いていった。





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