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解の字


 結び目の切れ端は、縫い箱の下から拾われたあと、ちゃぶ台の隅に置かれていた。

 麻縄の短い欠片。

 ざらざらして、掌に小さな痛みを残す。

 痛いのに、嫌じゃない痛さ。



 朝の光が当たると、その結び目は影まで少し角ばって見えた。

 丸じゃない形。

 丸じゃないのに、そこに「ほどけない」安心が入っている。



 父は縁側に座って、その欠片を指で撫でた。

 撫でて、止めて、また撫でる。

 撫でるたびに、麻の繊維が小さく鳴る。



 ざり。



 ざり、の音は、針の音より太い。

 太いのに、静かだった。



 幹夫は上着のポケットの石を握りながら、縁側に腰を下ろした。

 丸い石。冷たい。重い。

 重いのに痛くない。

 角がない重さは、見ている胸を少しだけ遅くしてくれる。



 父がぽつりと言った。



「……結ぶのは、できる」



 それから、欠片をひとつつまんで、目を細めた。



「……でも、解くのが、むずい」



 解く。

 その音が、幹夫の口の中で引っかかった。

 引っかかるのに、怖いだけじゃない。

 「次がある」音みたいに聞こえた。


 昼前、父は庭先で網を広げた。

 昔の網じゃない。近所から回ってきた、手直し待ちの網。

 穴の周りがほつれて、糸が毛羽立っている。

 毛羽立つ糸は、触るとすぐ引っかかる。



 父は黙って、その引っかかりを指先で探した。

 探し方が丁寧だった。

 丁寧なのに、どこかぎこちない。

 ぎこちなさは、手のせいじゃない。手が追いつく前に、胸が先に「間」を思い出してしまうせいだ、と幹夫は思った。



 父が糸を引いた。

 引いた瞬間、結び目がきゅっと固くなる。



「……くそ」



 父の声が、ほんの少しだけ尖った。

 尖ると、幹夫の胸の中の警報がきゅっと鳴る。

 きゅっと鳴ったから、幹夫は口の中で言った。



 ――いき。



 息をひとつ入れると、父の声は刃になりきらずに、声のままに戻る。



 父は、すぐに次の言葉を言わなかった。

 言わないで、親指の腹で結び目を押さえた。

 押さえ方が、強い。

 強いのに、壊す強さじゃない。

 落とさないための強さだ。



 そこへ母が、水を入れた椀を持ってきた。

 湯気じゃない水。

 冷たい水。

 冷たい水は、火みたいに勝手に暴れない。静かに、そこにいる。



「指、切れとらんか」



 母の声は低い。倒れない低さ。

 父は首を横に振った。



「……切れてねぇ」



 母は椀を縁側の板に置いて、父の手元を覗いた。

 覗き方が、叱る覗き方じゃない。

 見届ける覗き方だった。



「固くなっただに」



 母が言った。

 「固い」は、今日の家の中にもある言葉だった。



 父は短く言った。



「……解けん」



 解けん。

 その一言が、網の結び目より先に、幹夫の胸の奥に絡まった。



 母は、返事を急がせなかった。

 間をひとつ作って、その間に息を入れてから言った。



「ぬらすと、ほどける」



 母は椀の水を指で少しすくって、結び目に落とした。

 水が糸に吸われて、黒っぽくなる。

 黒っぽくなると、結び目が少しだけ柔らかく見えた。



 父の指が、もう一度、動いた。

 今度は押さえる指が少しだけゆるんでいる。

 ゆるむと、糸の中に息の通り道ができる。



 父がぽつりと言った。



「……ぬらすと、切れにくいな」



 縄の話なのに、胸の話みたいだった。



 母は「うん」とだけ返した。

 その「うん」は、縫い箱の下の「うん」みたいだった。

 受け止めて、預けて、折り目にする「うん」。


 幹夫は、我慢できずに言った。



「ぼく、押さえる」



 父が幹夫を見た。

 見方が遠いのに、今日は少しだけ近い。

 父は小さく頷いた。



「……頼む」



 頼む、が父の口から出るのは、まだ少し珍しい。

 珍しいのに、嫌じゃない。

 頼む、は手が繋がる言葉だ。



 幹夫は網の端を両手で押さえた。

 糸が掌に擦れて、ちくりと痛い。

 ちくりは小さい。

 小さいのに、今ここにいる痛さだ。



 父は結び目の糸を、爪の先でそっと持ち上げた。

 持ち上げて、ゆっくり引く。

 引くとき、父の息が一度だけ止まった。



 止まる息の「間」に、幹夫は自分の息を入れた。



 ――いき。



 父の指が、もう一度ゆっくり動く。

 糸が、ほどける。

 ほどけると、結び目が「結び目じゃない顔」になる。

 顔が変わると、怖いのに――今日は、その変わり方が少しだけ嬉しかった。



「……解けた」



 父が言った。

 言い方が小さい。

 小さいのに、腹に届く。



 母が椀を持ち上げて、ふっと息を吐いた。

 軽い息。

 軽いのに、笑いじゃない。

 軽い息は、落ちなかった息だ。



 祖母が台所から覗いて、淡々と言った。



「解けるなら、今日は飯がうまいら。腹減ったら、先に食え」



 祖母の言い方は、いつも生活へ戻す言い方だ。

 戻す言葉は、家の匂いがする。


 午後、母はちゃぶ台に新聞紙の裏を広げた。

 竹を継いだ鉛筆を取り、いつものように字を置いた。

 紙の上に、ゆっくり。



 解



 幹夫は目をこらした。

 左に角みたいな形。

 右に刀みたいな線。

 下に牛みたいな形が座っている。



 母が指でなぞった。



「これな、角と刀と……牛だに」



 幹夫は、少しだけ顔をしかめた。

 牛、という言葉が、どこか痛い匂いを連れてくる気がしたからだ。

 切る、って匂い。



 母はそれを知っているみたいに、声を落とした。



「昔の意味はいろいろだに。……でも今は、こう思えばええ」



 母は、結び目の切れ端を指先でつまんだ。

 ざらざらの麻。

 小さな痛み。



「結んだもんを、ほどく。……それが、解く」



 幹夫は、父の指がゆるんだ瞬間を思い出した。

 固くしすぎると切れる。

 ゆるめると息が入る。

 息が入ると、ほどける。



 母は続けた。



「あともうひとつ。……分からんものが、分かるようになるのも“解く”だに」



 分かるようになる。

 幹夫の胸がきゅっとなる。

 分かってしまうのが怖い日がある。

 でも分からないままだと、胸がずっと走ってしまう日もある。



 父が、新聞紙の「解」を見て、ぽつりと言った。



「……解けんことも、ある」



 声は低い。倒れない低さ。

 倒れないのに、底が少しだけ震えていた。

 震えは弱さじゃない。触れてしまった証拠みたいだった。



 母はすぐに「ない」と言わなかった。

 息をひとつ入れてから、静かに言った。



「うん」



 それから、母は指で「解」の字の上をなぞった。

 なぞり方が、撫でるみたいだった。



「……解けん日は、ぬらして、待つ」



 待つ。

 待つ、はこの家がずっとやってきたことだ。

 紙で待って、影で待って、丸で待って、結び目で待った。



 幹夫は、上着のポケットの石を握った。

 冷たい。重い。

 重いのに痛くない。

 丸い重さは、待つの形にも似ている。


 幹夫は鉛筆を握った。

 竹の継ぎ目が掌に当たる。硬い。

 硬いと、線がぶれても戻ってこられる気がした。



 「解」を真似して書く。

 一回目は、刀の線が尖りすぎた。

 尖ると、字が怒っている顔になる。

 怒っている顔は、今日の家には似合わない。



「ええ」



 母が言った。転んでもいい「ええ」。



「解はな、尖ってもええ。……でも最後、ほどく気持ちで丸めりゃええ」



 ほどく気持ちで丸める。

 その言い方が、幹夫の胸にすとんと落ちた。



 二回目を書いた。

 角も刀も牛も、まだよろけている。

 でも、字の中に「ほどく道」が見える気がした。



 父がそれを見て、小さく言った。



「……みき坊、解、むずいな」



 むずいな、の言い方が、責めない言い方だった。

 責めない声は、息が入る。



 幹夫は返事の言葉が見つからなくて、石を握り直した。

 冷たさが戻ってきて、やっと言えた。



「……ゆっくりでいい」



 言ってしまってから、幹夫は少し恥ずかしくなった。

 それは母の言葉だったからだ。

 でも父は、否定しなかった。



「……うん」



 父の「うん」は、短いのに重い。

 重いのに刺さらない。

 石みたいな「うん」だった。



 母は「解」の横に、小さな丸をひとつ描いた。

 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。

 ただ、「ここまで」の丸。


 夜、父は布団に入る前に、縫い箱の前で立ち止まった。

 立ち止まる影が畳の上で揺れる。

 揺れるのに、倒れない。



 父は縫い箱を持ち上げなかった。

 代わりに、箱の脇へ、今日ほどけた網糸の短い切れ端をそっと置いた。

 結び目じゃない糸。

 解けた糸。

 細いのに、ちゃんとそこにある。



 幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。

 鳴るのに、叫ばない。

 叫ばない鳴り方は、「続き」の鳴り方だった。



 寝る前、幹夫は小さな紙を切って封筒の形を描いた。

 宛名の下に小さく足す。



 > (とうちゃんへ も)



 中に書く。



 > とく って

 > きる じゃなくて

> ほどく なんだね

 > こわいときは

 > みず みたいに

 > いき を いれる



 最後に、小さく「解」。

 丸をひとつ。

 ほどける道を残す丸。



 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。

 指先が少し震えた。震えは恥ずかしさと、父の指の温かさの名残。

 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。



 翌朝、縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。

 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。



 箱の下の返事は、二つ重なっていた。



 一枚目、母の字。



 > とく は

 > ほどく でも

 > わかる でも ある

 > どっちも

 > いき が いる

 > うん



 最後に、小さな丸。



 二枚目、父の字。

 線が震えている。

 震えているのに、折れていない。



 > みきぼう

 > まだ とけん

 > でも

 > きのうより

 > すこし



 その下に、丸がひとつ。

 昨日より少しだけ丸い丸。



 幹夫は紙を胸に当てた。

 紙が体温を吸って、少しだけしなる。

 しなる音が、返事の音に聞こえた。



 まだ解けない。

 でも、少し。

 少し、は嘘をつかない言葉だ。

 少し、は胸を走らせすぎない言葉だ。



 蒲原には、サイレンは届かなかった。

 けれど、ほどけた糸の軽さは届いた。

 届いた軽さを落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――結び目と結び目のあいだに、静かな「少し」を、そっと置いていった。

 
 
 

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