解の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月9日
- 読了時間: 8分

朝の庭は、まだ影が冷たかった。 軒下の燕の巣から、ちちち、と小さな声が落ちてくる。 その声は軽いのに、幹夫の胸の中ではちゃんと重い。 重いのに、痛くない――守りの重さだ、と昨日から思える。
幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと「ここ」にある。
――いき。
息をひとつ入れた、そのとき。 庭の隅で、細い声が、ほどけないまま引っかかった。
みゃっ。
猫の声。 昨日の猫だ。黒と茶が混じった痩せた猫。 でも今日は、動きが変だった。 塀際の板切れのところで、猫が半分だけ振り返りながら、身をよじっている。 しっぽの先が、怒っているんじゃなく、困っているみたいに揺れている。
そして――糸が見えた。 白い糸電話の糸が、庭の端の缶の穴から出て、たわんで、地面の上を這っている。 猫の足のあたりで、その糸が小さな結び目みたいに絡まっていた。
幹夫の胸が、きゅっと鳴った。 鳴ったのは、怖さだけじゃない。 「痛いかもしれない」が混じった鳴り方。
鳴ったから、息。
――いき。
幹夫は一歩だけ出た。 走らない。走ると音が尖る。 尖った音は、父の肩も、猫の体も、急に固くする。
「……だいじょうぶ……」
自分の声が、勝手に小さくなる。 小さい声は、猫の耳に刺さらない。
縁側の板が、きし、と鳴った。 父の足音。急がない足音。
父は庭を見て、すぐ状況を飲み込んだみたいに、ぽつりと言った。
「……糸、絡んだな」
絡んだ。 名前がつくと、焦りが少しだけ丸くなる。
父の眉の間が、ほんの少し寄った。 寄るのに、刃にならない。 刃にならない寄り方は、止まれる寄り方だった。
父は猫に近づく前に、まず糸電話の缶を布の上へ“置いた”。 置く。 投げない。 落とさない。 置くと、庭の音が眠る。
それから、父は猫と同じ高さまで、ゆっくりしゃがんだ。 しゃがんで、止まる。 止まって、少し。 その少しに、父の息が入るのが、幹夫には分かった。
「……こわいか」
父は猫に言うみたいに言った。 猫はみゃっ、ともう一度鳴いて、前足を引こうとして――引けない。 引けないのが、声の端に混ざっている。
幹夫は袋を押さえたまま、口の中で言った。
――いき。
父は糸に手を伸ばさなかった。 いきなり触ると、猫が跳ねる。 跳ねると、結び目がきつくなる。 きつくなると、解けにくくなる。
父は手のひらを見せるように、指を広げて、空気を撫でるだけで猫の前に置いた。 猫の目が、父の指を見て、巣を見るのをやめた。 見る先が変わると、体の固さも少し変わる。
父が小さく言った。
「……引っぱるな。……ほどく」
ほどく。 その言葉は、幹夫の胸の中の結び目まで、少し緩める言葉だった。
母が台所の境目から、急がせない声を落とした。
「切るなよ。……解けるなら、解け。切ると、また尖る」
切ると尖る。 尖るのは、音だけじゃない。心も尖る。
祖母が鍋の向こうで淡々と言った。
「絡んだら解け。解けんかったら、飯だに。腹減ると手が荒くなる」
飯だに。 暮らしへ戻す太い言葉。
父は糸の絡まりを、指先で“押さえた”。 押さえるのに、締めない。 締めない押さえ方。
それから、結び目の「入口」を探す。 入口は小さい。 小さいのに、そこが見つかると、怖さは少しだけ形になる。
父は息をひとつ吐いた。
ふう……。
吐く息は見えないのに、指が慌てなくなる。 父は糸の端を、ほんの少しだけ、戻した。 戻す。 戻すと、結び目は固くならない。
猫の足が、少し動いた。
みゃっ。
声が小さい。 小さい声は、助けを受け取る声だ。
父はもう一度、息を吐いた。
ふう……。
そして、指先で、結び目を“開いた”。
ぱら。
ほどける音は、鳴らない。 鳴らないほどけ方。 糸がするりと逃げ道を作って、猫の足が自由になった。
猫は一瞬、動かなかった。 動かないのに、目だけが丸く大きい。 丸い目は、こわい目。
父は猫を追わなかった。 追うと、また絡まる。 父はただ、糸を布の上に置いて、猫の前に“線”を作った。
「……行け」
声は小さい。 小さいのに、確か。
猫は、ひと呼吸ぶんだけ止まってから――ふい、と塀の向こうへ消えた。 消えたあと、庭の空気が一段やわらかくなる。 やわらかくなると、雛のちちちが、ちゃんと近くに戻ってくる。
父が、ふっと息を吐いた。
「……解けたな」
解けた。 その一言が幹夫の胸の奥へ落ちて、ぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、続きの鳴り方だ。
幹夫は喉の奥が熱くなって、走りそうになったから、息をひとつ入れた。
――いき。
「……父ちゃん、猫……悪くなかった」
言ってから、少し恥ずかしくなる。 でも恥ずかしいまま、ここに置く。
父は庭の板切れを見て、それから糸を見て、ぽつりと言った。
「……腹、減ってたんだろ」
それは許す声だった。 許すのに、甘やかさない声。 線も置く、でも解く。
母が低く言った。
「守るだけじゃなくてな。……絡んだのを解くのも守りだに」
守りが増えた。 幹夫は胸の袋を押さえて、口の中で言った。
――いき。
昼前、父は糸電話の糸を、庭の端でいちど全部ほどいて巻き直した。 巻き直すときも、きつくしない。 たわみを残す。 たわみがあると、切れない。
父がぽつりと言った。
「……絡まりってのは……引っぱると増えるな」
幹夫は頷いて、綴じた冊子を膝に置いた。 白い紙は今日は刺さらない。 白いままの場所が、戻れる場所になっている。
鉛筆で小さく書く。
きょうねこ の あしいと が からんだとうちゃんほどいたいき
“いき”は丸く書いた。 丸いと、刺さらない。
父がそれをちらりと見て、ぽつりと言った。
「……“ほどいた”って……書けると、胸もほどけるな」
ほどけるな。 父の声が、今日も刃じゃない。
夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目は今日も痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
解
幹夫は、その字を見た瞬間、猫の足のところの白い糸を思い出した。 引っぱったら固くなる。 戻したらゆるむ。 ゆるむと、逃げ道ができる。
母は左側を指でなぞった。
「こっちは角(つの)だに。……動物の角」
角。 角は尖い。 尖いのに、今日の父は尖さを使わなかった。
母は右側をなぞった。 小さな刀の形と、牛みたいな形。
「こっちは刀(かたな)と、牛(うし)みたいな形が入っとる。……昔の字は、切って分ける、って意味もあるだに」
分ける。 絡まりを分ける。 怖さと今を分ける。 音と心を分けて、名前をつける。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「解くってのはな……絡まったのを、ほどいて離す字だに。結び目も、胸の固さも。……それから“わかる”って意味もある。わからんのが、ほどける」
わかる。 ほどける。 幹夫の胸の奥が、すとん、と座った。
父が新聞紙の「解」を見て、ぽつりと言った。
「……俺の胸も……絡まってる」
言えた。 言えると、絡まりは形になる。 形になると、入口が探せる。
母は否定しなかった。 低く言った。
「うん。……引っぱらん。戻す。間を置く。……それが解き方だに」
祖母が鍋の向こうで淡々と言った。
「解けたら飯がうまい。解けんでも飯は食え。……それが暮らしだ」
父が小さく笑った。 笑いきれないのに、笑いの形。
幹夫は鉛筆を握った。 角を書いて、右を書いて。
一回目の「解」は、角が尖りすぎて、字が怖い顔になった。 怖い顔だと、胸がきゅっとする。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「尖ったらな……右を太らせりゃええ。解くほうを大きくするだに。……角は、守りの尖さ。解は、逃げ道のほう」
逃げ道。 余地。 たわみ。 全部がここへ戻る。
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「解」は、少し丸い顔になった。 丸いと、ほどける字になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
母が父を見て頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。
父の「解」は、角の線が少し揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置くとき、父は息をいちど止めて――止めたあと、ふっと吐いた。
「……点を置くと……ほどける入口みてぇだ」
入口。 縫い目の点々。 間の隙間。 息の戻り口。 点は、道の始まり。
母は「解」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、ほどけた結び目みたいに見えた。
夜。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。
ねこからまったほどいたたたかんで すんだかた うごいた けどもどしたかい って じすきだいき
“すきだ”。 父の口から時々出る、落とさない好き。
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……俺、絡まると……昔の手が出そうで怖い」
怖い。 言える。 言えると、怖さは角が丸くなる。
幹夫は返事を急がなかった。 急ぐと、言葉が尖るときがある。 だから、間。
――いき。
「……うん。……でも、父ちゃん、戻した。……引っぱらなかった」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
「……戻すのも……解くのうちか」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「うん。……戻すのが解き方だに。急がん。切らん。……ほどける入口探す」
祖母が淡々と言う。
「入口が見えん日は飯食え。飯食ったら寝ろ。……明日見りゃええ」
明日見りゃええ。 明日が、続きの言葉になる。
幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
ほどく ってひっぱる んじゃなくてもどす って こと なんだねきょうねこ の あしいと が からんだとうちゃんしずか に ほどいたたたかない で すんだいき
最後に、小さく「解」。 丸をひとつ。 ほどけ口の丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは猫の声の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
とく はからまった の を ほどくひっぱらんもどすま を おくいきうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうねこ の あしからんだ ときかた うごいたでもとまれたもどせたほどけたすこしかい た
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――白い糸の小さな結び目。 きつくない。 引けばほどける。 ほどけたら、また結べる。 糸の端は、父の手で少しだけ丸く切りそろえられていて、刺さらない。 そのそばに、父の震える字で小さく、
ほどけ
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその糸を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
解く。 引っぱらない。 戻す。 入口を探す。 ほどけたら、胸も少しだけ軽くなる。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、ほどける余地のある小さな結び目は届いた。 届いた“解き方”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、絡まりの前で、刺さらない戻り道をそっと探していった。





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