解の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月17日
- 読了時間: 8分

朝の軒下で、音が急いでいた。
ばさ、ばさ、ばさ。
小さいのに、逃げる音。 逃げる音は、胸を走らせる。
幹夫は縁側のふちに手をついて、首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
息をひとつ入れて、音のほうを見る。 軒の影に、燕(つばめ)がぶら下がっていた。 脚に、細い糸が絡んでいる。 糸は白くて、朝の光を少しだけ返して、余計に細く見えた。
燕は、羽をばたつかせるたび、糸がきゅっと締まって、また足が引かれる。 引かれると、声も出せない。
幹夫の喉の奥が熱くなった。 熱いと走りそうだから、もう一度息を入れる。
――いき。
「母ちゃん……!」
声が尖りそうになって、途中で小さくした。
「……つばめ……」
母が台所の境目から出てきて、燕を見ると、眉がほんの少し寄った。 寄るのに、刃にならない。
「糸だに……どっから絡んだ」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「慌てるな。……鳥ぁ軽い。軽いもんほど、締まる」
締まる。 その一言で、幹夫の胸がきゅっとした。 だから、息。
――いき。
縁側の奥で、父の足音が止まった。 父も、羽音を聞いていた。 父の肩が、ふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。
――いき。
父が口の中で小さく言った。
「……羽の音だ」
名前を置く。 置けると、音は音のままで座る。
ふう……。
父は燕へ近づく前に、戸口の「置き布」を一枚持ってきて、縁側の下へそっと敷いた。 布があると、もし燕が落ちても、音が眠る。 眠ると、みんなの肩も跳ねにくい。
母が小さく言った。
「切るか……」
“切る”は速い。 速い言葉は、今日の燕には刃になる気がした。
父はすぐ頷かなかった。 間がある。 その間に、父の手が懐へ行って――止まる。 止めて、息を吐いた。
ふう……。
「……切らん。……解く」
解く。 その一言が、幹夫の胸の奥でぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
父は燕の下にしゃがんで、手のひらを差し出した。 差し出し方が、掴まない差し出し方。 “受け皿”みたいな手。
「みき坊。……ここ」
父が言う「ここ」は、怖さを呼び戻すための「ここ」じゃない。 今のための「ここ」。
幹夫はそっと燕の腹の下に手を入れた。 羽毛はあたたかい。 あたたかいのに、震えている。 震えは、逃げたい震え。
――いき。
「……大丈夫……」
燕へ言ったのか、自分へ言ったのか分からない言葉。 でも言うと、胸の角が少し丸くなる。
母が、湯を少し持ってきた。 湯気は白い。 白い湯気は、急ぎを少し溶かす。
「糸、濡らすだに。乾いてると締まる」
父が頷き、糸に湯をほんの少しだけ落とした。 湯が糸を濡らすと、糸がふわっと柔らかい顔になる。
祖母が淡々と言う。
「濡れりゃ解ける。……雪も解ける。焦るな」
雪も解ける。 冬の富士の白。 溶ける白。
父は燕の足を直接引っぱらない。 糸の結び目を探して、指先で“間”を作る。 ま札を出す代わりに、指先でまを作る。
父の指が、糸と糸のあいだへ入る。 入って、止まる。 止まって、息を吐く。
ふう……。
それから、ほんの少しだけ糸を戻す。 戻すと、結び目が怒らない。
燕が、ふっと羽ばたこうとして、また止まる。 幹夫の掌の上で、燕の胸が小さく上下する。 息。 鳥にも、息がある。
幹夫は口の中で小さく言った。
――いき。
父がぽつりと言った。
「……ほら。……ほどけた」
糸の輪が、ひとつゆるんだ。 ゆるむと、燕の足の色が戻る。 戻ると、そこに“生きてる”が座る。
母が、息をひとつ落とした。
ふう……。
「よかっただに……」
父は最後の糸を、切らずに外した。 外れた糸は、ひとつの細い輪になって、父の指に乗った。
父がその輪を布の上に置いた。 とん。 音が眠る。
「……解けた。……鳥も、糸も」
幹夫は燕を両手でそっと包んだ。 包むと、燕は暴れない。 暴れないと、幹夫の胸も暴れない。
燕は一瞬だけ幹夫の手の中で目を細めて――次の瞬間、ふわっと跳んだ。 軒の影を抜けて、青いほうへ上がっていく。 飛び方が、軽い。 軽いのに、確か。
幹夫の目の奥が熱くなった。 熱いのは、怖さじゃない。 ほどけた、の熱さ。
――いき。
父が空を見上げて、ぽつりと言った。
「……結んだもんは……解けるんだな」
母が頷く。
「うん。……切らんでも、戻れるだに」
祖母が淡々と言う。
「戻れりゃ飯がうまい。……さ、飯だに」
飯。 太い道。 幹夫の胸の奥が、すとん、と座った。
昼過ぎ。 父は、ほどいた糸の輪を小さな皿――貝殻の受け皿の欠片のほう――に置いた。 貝の内側が少し光って、糸がそこに座った。
「……これは?」
幹夫が訊くと、父がぽつりと言った。
「……解けた印」
印。 消印の丸じゃない印。 指先の印。
父は懐から「ま/息」の札を出して、指で撫でた。 撫でて、止まる。 止まって、息を吐く。
ふう……。
「……俺の胸も……少し解けた」
幹夫は返事を急がなかった。 急ぐと、喜びが刺さる日がある。 だから、間。
――いき。
「……うん。……父ちゃん、やさしかった」
父は一瞬、照れたみたいに鼻の下を擦って、ぽつりと言った。
「……やさしい、じゃねぇ。……焦らんようにしただけだ」
“だけ”。 でも、その“だけ”が燕を助けて、父も助けた。
夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は今日も痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
解
幹夫はその字を見た瞬間、朝の白い糸の輪が、貝殻の上で光ったのを思い出した。 結び目の顔が、ゆるんだ瞬間。
母は左の形を指でなぞった。
「ここ、角(つの)だに。……かたいとこ。ひっかかるとこ」
かたいとこ。 父の胸の奥の硬いところ。 糸の結び目の硬いところ。
母は右をなぞった。
「こっちは刀(かたな)みたいなのと、牛みたいなのが入っとる。……昔の字は難しいだに」
刀。 刃。 でも、今日は切らなかった。 刃じゃなく、指と湯と、間でほどいた。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「解くってのはな……固いところを、切らずにほどいて戻す字だに。糸も、気持ちも、雪も。……それとな、“わかる”も解るだに。ほどけると、見える」
ほどけると、見える。 門に日が入るみたいに。 幹夫の胸の奥が、すとん、と座った。
父が新聞紙の「解」を見て、ぽつりと言った。
「……切るのは……終いだな」
母が頷く。
「うん。……終いじゃなく、続きにしたいなら、解くだに」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「解けりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
幹夫は鉛筆を握った。 解を書く。
一回目の「解」は、角が尖って見えて、胸がきゅっとした。 尖ると、また締まる気がする。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ”。
「尖ったらな……角を丸く書け。……結び目も丸くするとほどけるだに。息、入れてから」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「解」は、少し丸い顔になった。 丸いと、ほどける字になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「解」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、点を置いた。
「……点、置くと……結び目がほどける入口みてぇだな」
入口。 門。 間。 息。 全部が、今日の字に座った。
母は「解」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、ほどけた糸の輪みたいに見えた。
夜。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。
つばめいと からんだかた うごいた けどま していき してきらず にとけたつばめ とんだおれ の むね もすこし とけたいき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……解くの、難しい日もある」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……でも、解けたら、わかる」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……わかる、か。……それ、いいな」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「わかるってのは、ほどけたあとに来るだに。……焦らんでええ」
祖母が淡々と言う。
「焦らんで飯食え。飯食って寝ろ。……それで明日がほどける」
幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
とく ってかたい ところ をきらず に ほどいて もどす じ なんだねきょうつばめいと からんだでもとうちゃんきらず に とけたつばめ とんだぼくうれしかったいき
最後に、小さく「解」。 丸をひとつ。 ほどけた輪の丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは朝の羽音の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
とく はかたい ところ をきらず に ほどいて もどすとけたらわかるうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうつばめたすけたいときらず にとけたむねすこしとけたすこしわかった
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――ほどいた白い糸の小さな輪。 結び目がなくて、刺さらない輪。 輪のそばに、父の震える字で小さく、
とけた
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその糸の輪を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
解く。 切らない。 ほどいて戻す。 ほどけたぶんだけ、胸の中が少し見える。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、白い糸の輪と、飛んでいった燕の息は届いた。 届いた“ほどけた”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらない戻り道を、そっと指先で探していった。







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