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解の字

 朝の軒下で、音が急いでいた。

 ばさ、ばさ、ばさ。

 小さいのに、逃げる音。 逃げる音は、胸を走らせる。

 幹夫は縁側のふちに手をついて、首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 息をひとつ入れて、音のほうを見る。 軒の影に、燕(つばめ)がぶら下がっていた。 脚に、細い糸が絡んでいる。 糸は白くて、朝の光を少しだけ返して、余計に細く見えた。

 燕は、羽をばたつかせるたび、糸がきゅっと締まって、また足が引かれる。 引かれると、声も出せない。

 幹夫の喉の奥が熱くなった。 熱いと走りそうだから、もう一度息を入れる。

 ――いき。

「母ちゃん……!」

 声が尖りそうになって、途中で小さくした。

「……つばめ……」

 母が台所の境目から出てきて、燕を見ると、眉がほんの少し寄った。 寄るのに、刃にならない。

「糸だに……どっから絡んだ」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「慌てるな。……鳥ぁ軽い。軽いもんほど、締まる」

 締まる。 その一言で、幹夫の胸がきゅっとした。 だから、息。

 ――いき。

 縁側の奥で、父の足音が止まった。 父も、羽音を聞いていた。 父の肩が、ふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。

 ――いき。

 父が口の中で小さく言った。

「……羽の音だ」

 名前を置く。 置けると、音は音のままで座る。

 ふう……。

 父は燕へ近づく前に、戸口の「置き布」を一枚持ってきて、縁側の下へそっと敷いた。 布があると、もし燕が落ちても、音が眠る。 眠ると、みんなの肩も跳ねにくい。

 母が小さく言った。

「切るか……」

 “切る”は速い。 速い言葉は、今日の燕には刃になる気がした。

 父はすぐ頷かなかった。 間がある。 その間に、父の手が懐へ行って――止まる。 止めて、息を吐いた。

 ふう……。

「……切らん。……解く」

 解く。 その一言が、幹夫の胸の奥でぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 父は燕の下にしゃがんで、手のひらを差し出した。 差し出し方が、掴まない差し出し方。 “受け皿”みたいな手。

「みき坊。……ここ」

 父が言う「ここ」は、怖さを呼び戻すための「ここ」じゃない。 今のための「ここ」。

 幹夫はそっと燕の腹の下に手を入れた。 羽毛はあたたかい。 あたたかいのに、震えている。 震えは、逃げたい震え。

 ――いき。

「……大丈夫……」

 燕へ言ったのか、自分へ言ったのか分からない言葉。 でも言うと、胸の角が少し丸くなる。

 母が、湯を少し持ってきた。 湯気は白い。 白い湯気は、急ぎを少し溶かす。

「糸、濡らすだに。乾いてると締まる」

 父が頷き、糸に湯をほんの少しだけ落とした。 湯が糸を濡らすと、糸がふわっと柔らかい顔になる。

 祖母が淡々と言う。

「濡れりゃ解ける。……雪も解ける。焦るな」

 雪も解ける。 冬の富士の白。 溶ける白。

 父は燕の足を直接引っぱらない。 糸の結び目を探して、指先で“間”を作る。 ま札を出す代わりに、指先でまを作る。

 父の指が、糸と糸のあいだへ入る。 入って、止まる。 止まって、息を吐く。

 ふう……。

 それから、ほんの少しだけ糸を戻す。 戻すと、結び目が怒らない。

 燕が、ふっと羽ばたこうとして、また止まる。 幹夫の掌の上で、燕の胸が小さく上下する。 息。 鳥にも、息がある。

 幹夫は口の中で小さく言った。

 ――いき。

 父がぽつりと言った。

「……ほら。……ほどけた」

 糸の輪が、ひとつゆるんだ。 ゆるむと、燕の足の色が戻る。 戻ると、そこに“生きてる”が座る。

 母が、息をひとつ落とした。

 ふう……。

「よかっただに……」

 父は最後の糸を、切らずに外した。 外れた糸は、ひとつの細い輪になって、父の指に乗った。

 父がその輪を布の上に置いた。 とん。 音が眠る。

「……解けた。……鳥も、糸も」

 幹夫は燕を両手でそっと包んだ。 包むと、燕は暴れない。 暴れないと、幹夫の胸も暴れない。

 燕は一瞬だけ幹夫の手の中で目を細めて――次の瞬間、ふわっと跳んだ。 軒の影を抜けて、青いほうへ上がっていく。 飛び方が、軽い。 軽いのに、確か。

 幹夫の目の奥が熱くなった。 熱いのは、怖さじゃない。 ほどけた、の熱さ。

 ――いき。

 父が空を見上げて、ぽつりと言った。

「……結んだもんは……解けるんだな」

 母が頷く。

「うん。……切らんでも、戻れるだに」

 祖母が淡々と言う。

「戻れりゃ飯がうまい。……さ、飯だに」

 飯。 太い道。 幹夫の胸の奥が、すとん、と座った。

 昼過ぎ。 父は、ほどいた糸の輪を小さな皿――貝殻の受け皿の欠片のほう――に置いた。 貝の内側が少し光って、糸がそこに座った。

「……これは?」

 幹夫が訊くと、父がぽつりと言った。

「……解けた印」

 印。 消印の丸じゃない印。 指先の印。

 父は懐から「ま/息」の札を出して、指で撫でた。 撫でて、止まる。 止まって、息を吐く。

 ふう……。

「……俺の胸も……少し解けた」

 幹夫は返事を急がなかった。 急ぐと、喜びが刺さる日がある。 だから、間。

 ――いき。

「……うん。……父ちゃん、やさしかった」

 父は一瞬、照れたみたいに鼻の下を擦って、ぽつりと言った。

「……やさしい、じゃねぇ。……焦らんようにしただけだ」

 “だけ”。 でも、その“だけ”が燕を助けて、父も助けた。

 夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は今日も痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 解

 幹夫はその字を見た瞬間、朝の白い糸の輪が、貝殻の上で光ったのを思い出した。 結び目の顔が、ゆるんだ瞬間。

 母は左の形を指でなぞった。

「ここ、角(つの)だに。……かたいとこ。ひっかかるとこ」

 かたいとこ。 父の胸の奥の硬いところ。 糸の結び目の硬いところ。

 母は右をなぞった。

「こっちは刀(かたな)みたいなのと、牛みたいなのが入っとる。……昔の字は難しいだに」

 刀。 刃。 でも、今日は切らなかった。 刃じゃなく、指と湯と、間でほどいた。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「解くってのはな……固いところを、切らずにほどいて戻す字だに。糸も、気持ちも、雪も。……それとな、“わかる”も解るだに。ほどけると、見える」

 ほどけると、見える。 門に日が入るみたいに。 幹夫の胸の奥が、すとん、と座った。

 父が新聞紙の「解」を見て、ぽつりと言った。

「……切るのは……終いだな」

 母が頷く。

「うん。……終いじゃなく、続きにしたいなら、解くだに」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「解けりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 幹夫は鉛筆を握った。 解を書く。

 一回目の「解」は、角が尖って見えて、胸がきゅっとした。 尖ると、また締まる気がする。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ”。

「尖ったらな……角を丸く書け。……結び目も丸くするとほどけるだに。息、入れてから」

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「解」は、少し丸い顔になった。 丸いと、ほどける字になる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「解」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、点を置いた。

「……点、置くと……結び目がほどける入口みてぇだな」

 入口。 門。 間。 息。 全部が、今日の字に座った。

 母は「解」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、ほどけた糸の輪みたいに見えた。

 夜。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。

つばめいと からんだかた うごいた けどま していき してきらず にとけたつばめ とんだおれ の むね もすこし とけたいき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……解くの、難しい日もある」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……でも、解けたら、わかる」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……わかる、か。……それ、いいな」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「わかるってのは、ほどけたあとに来るだに。……焦らんでええ」

 祖母が淡々と言う。

「焦らんで飯食え。飯食って寝ろ。……それで明日がほどける」

 幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

とく ってかたい ところ をきらず に ほどいて もどす じ なんだねきょうつばめいと からんだでもとうちゃんきらず に とけたつばめ とんだぼくうれしかったいき

 最後に、小さく「解」。 丸をひとつ。 ほどけた輪の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは朝の羽音の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

とく はかたい ところ をきらず に ほどいて もどすとけたらわかるうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうつばめたすけたいときらず にとけたむねすこしとけたすこしわかった

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――ほどいた白い糸の小さな輪。 結び目がなくて、刺さらない輪。 輪のそばに、父の震える字で小さく、

とけた

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその糸の輪を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 解く。 切らない。 ほどいて戻す。 ほどけたぶんだけ、胸の中が少し見える。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、白い糸の輪と、飛んでいった燕の息は届いた。 届いた“ほどけた”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらない戻り道を、そっと指先で探していった。

 
 
 

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