記の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月8日
- 読了時間: 8分

綴じた小さな冊子は、朝のちゃぶ台の上で、まだ新しい紙の匂いがした。 でもその匂いは、買った紙の匂いじゃない。 人の手が触れて、息がかかって、少しずつ丸くなっていく匂いだった。
幹夫は表紙の端を指でなぞった。 父が丸く削った角。 丸い角は刺さらない。 刺さらないと、ページをめくる指が急がない。
――いき。
息をひとつ入れてから、そっと一枚目を開く。 「みきぼうの つづり」の字が、ゆらっとしている。 ゆらっとしているのに、折れていない。 折れていない字を見ると、胸の奥が少しだけ落ち着く。
縁側で父が、空を見ていた。 今日は風が、海のほうからまっすぐ来る。 潮の匂いが少し濃い。 濃い匂いは、遠いのに「ここ」を連れてくる。
父がぽつりと言った。
「……浜、行くか」
浜。 その二文字が落ちただけで、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。叫ばない鳴り方は、もう家の中に増えてきた鳴り方だ。
嬉しいは走りやすい。 走りそうになったから、首の袋を掌で押さえて――
――いき。
「……行く」
母が台所の境目から、声を急がせないまま言った。
「行くなら、冊子持ってけ。……風で飛ぶで、紐で縛っとけ」
縛る、じゃなく――と思ったのか、母はすぐ言い直した。
「……結んどけ。ほどけるやつで」
ほどける結び。 余地。 息の入る形。
父は幹夫の首の袋を見て、短く言った。
「……鳴らないの、いいな」
いいな。 父の口から出る“いい”は、まだ珍しい。 珍しいのに、押しつけない“いい”だった。
幹夫は冊子を布で包んで、父が結んだ蝶結びに指を入れて確かめた。 引けばほどける。 でも勝手にはほどけない。
――いき。
それで、外へ出た。
蒲原の浜は、砂が細かいところと、丸い小石が多いところが、日によって場所を変える。 今日は小石が多い。 小石は波に揉まれて角がない。 角がないのは、長い時間の守りみたいだった。
父は浜に出ると、いちど足を止めた。 止まって、少し。 止まった「間」に、幹夫は息を入れる。
――いき。
父は波を見て、ぽつりと言った。
「……波は……消すな」
消す。 波が砂を撫でて、足跡を消していく。 消すのに、怒っていない。 消すのが仕事みたいに、淡々としている。
幹夫は父の横に並んで歩いた。 足を出す。 砂に、かかとが沈む。 次に、つま先が沈む。 沈むのに、怖くない沈み方。
歩くと、足跡が残る。 残ると、そこに「来た」ができる。 「来た」ができると、戻る道もできる気がする。
幹夫は自分の足跡を見た。 小さい。 小さいのに、ちゃんと人の足跡だ。
父の足跡は大きい。 大きいのに、踏みつけない大きさだった。 砂が痛がらない踏み方。
父が幹夫の足跡を見て、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「……おまえの、ここにいるな」
ここにいる。 名を呼ぶのと似ている。 見えないものに形をつける言い方。
そのとき、遠くで――汽笛みたいな音がひとつ、伸びた。 海のほうの、低い音。 低いのに、突然の音。
父の肩がふっと上がった。 上がって止まる。 止まった「間」に、幹夫は首の袋を押さえて、息を入れた。
――いき。
父は目を遠くへ飛ばしかけて、でも今日はそこで止まれた。 止まれたまま、ぽつりと言った。
「……船だ。……船の音」
言えた。 言えると、音は音のままでいられる。
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、「守り」が増えた鳴り方だ。
波が寄せて、父の足跡の端を少し舐めた。 足跡の輪郭が、ふわっと崩れる。 崩れるのに、痛くない崩れ方。
父がそれを見て、ぽつりと言った。
「……消えるのは……悪くないな」
悪くない。 その言い方が、幹夫の胸の奥で静かに座った。 消えることで、刺さらなくなることもある。 消えないと、いつまでも尖ることもある。
父は砂の上に、指で小さな丸をひとつ描いた。 丸はすぐに崩れそうなのに、描いた瞬間だけは確かにそこにある。
「……でもな」
父が続けた。
「消える前に……置いときたいときがある」
置いときたい。 置く。 投げないで、置く。
父は幹夫の持っている布包みを顎で示した。
「……それに、書け」
書け。 命令みたいなのに、怖くない。 怖くないのは、そこに“守る”が入っているからだ。
幹夫は浜の端の石に腰を下ろして、布包みをほどいた。 ほどくときも、引けばほどける結び目。 余地があると、手が急がない。
――いき。
冊子を開く。 白い紙は、まだ何も知らない顔をしている。 知らない顔は、怖い日もある。 でも今日は、父が隣にいる。 隣にいると、白い顔も刺さらない。
幹夫は鉛筆を握って、小さく書いた。
> きょう > はま > とうちゃん と > あるいた
字は丸くて、まだふにゃっとしている。 ふにゃっとしているのに、落ちない。 落ちないのは、紙が受け止めてくれるからだ。
書けたとたん、波が来て、さっきの足跡を全部消した。 消す波は、仕事の顔。 でも幹夫の胸は、きゅっとならなかった。 紙に、もう「来た」が残っているからだ。
――いき。
父がそれを見て、ふっと息を吐いた。
「……記したな」
記した。 その音が、浜の風の中でもちゃんと残った。
家へ戻ると、母は何も聞きすぎなかった。 聞きすぎると刃になることがあるのを知っている人の、聞かなさだった。
ただ、ちゃぶ台に冊子が置かれるのを見て、低く言った。
「書いたか」
幹夫は頷いて、冊子を開いて見せた。 母はそれを見て、口の端だけで「うん」と言った。 折り目のある「うん」。
父は縁側に座って、足の裏の砂を払っていた。 払う音は、さら、さら。 さら、さらは、縫い箱の紙の音に似ている。
父がぽつりと言った。
「……消える前に……置けた」
置けた。 浜の丸。 足跡。 それが、紙の上に。
幹夫は喉の奥が熱くなって、走りそうになったから、息をひとつ入れた。
――いき。
夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目の糸が、今日も痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
記
幹夫はその字を見た瞬間、浜で書いた「きょう」を思い出した。 きょう、を紙に置いた。 置けたから、波が消しても怖くなかった。
母は左側を指でなぞった。
「こっちは言だに。言葉」
言葉。 名も、返も、謝も、許も、みんなここに住んでいる。
次に右側をなぞった。
「こっちは己(おのれ)だに。自分。……自分の形」
自分。 父が「番号だと薄くなる」と言った日のことが、胸の奥で小さく鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
母は少し間を置いて、息をひとつ入れてから言った。
「記すってのはな……言葉で、自分をここに置く字だに」
ここに置く。 浜の丸。 冊子の「きょう」。 全部が、同じ場所へ座った。
母は続けた。
「記はな、“記憶”の記だに。思い出は勝手に来ることもある。……でも、紙に置くと、胸の中で暴れにくい」
暴れにくい。 それは、父の肩が上がっても止まれるようになってきたことと似ていた。
父が新聞紙の「記」を見て、ぽつりと言った。
「……己、って……俺のことだな」
俺のこと。 父が自分を言葉にできるとき、家の空気は少し柔らかくなる。
母は否定しない。 低く言った。
「うん。……己を言葉で置けたら、薄くならん」
薄くならん。 その言葉が、幹夫の胸の奥をそっと撫でた。
幹夫は鉛筆を握った。 言を書く。 己を書く。
一回目の「記」は、己が小さくなって、字が頼りなく見えた。 自分が小さいと、消えそうで胸がきゅっとする。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「己が小さいときはな……言葉を太らせりゃええ。言葉で支えるだに」
言葉で支える。 父の「船の音」。 母の「ここだに」。 祖母の「飯だ」。 支える言葉が、確かにある。
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「記」は、少し落ち着いた顔になった。 落ち着くと、字が“ここにいる顔”になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
母が父を見て頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。
父の「記」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 己の最後が少し尖った。 尖るのに刺さらない。 刺さらないのは、その尖りが“自分”を立たせようとしている尖りだからだ。
父は書き終えて、ふっと息を吐いた。
「……記す、って……置くのと同じだな」
母は「うん」とだけ返した。 折り目のある「うん」。
「うん。……置いたら、戻れる。波が来ても、どこかに残る」
夜。 幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
きょうはま の あしあとなみ が けしたでもぼく ここ に かいたとうちゃん もふね の おと って いえたき してすこしこわく なくなったいき
最後に、小さく「記」。 丸をひとつ。 置いた印の丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは遠い汽笛の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
き はことば でじぶん を ここ に おくおもいで は くるでも かみ に おけばすこし まるく なるいきうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうはま で かいたあしあと は けえたでもここ に のこったおれ もおと を おと って いえたすこしもどれた
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――小さな貝殻がひとつ。 白くて、内側が少しだけ桃色。 角がなくて、掌に乗せると冷たい。 貝殻の外側に、父の震える字で小さく、
き
とだけ書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫は貝殻を胸に当てて、息をひとつ入れた。
――いき。
波は消す。 でも、紙は置ける。 言葉は、自分をここに留められる。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、浜の貝殻の小さな「き」は届いた。 届いた“置ける”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、消える前に、刺さらない形で、ひとつずつ記していこうとしていた。





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