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許の字

 瓶の栓は、朝のちゃぶ台でまた小さく回っていた。 くる、くる。 止まって、少し。 また、くる。

 回るたび、幹夫の胸の中の何かもいっしょに回って、止まって、少しだけ落ち着く。 落ち着くときほど、音はよく聞こえる。

 祖母の鍋をかき回す音。 母の布巾を絞る音。 父の、ゆっくりした息。

 幹夫は指先で栓をもう一度押した。 今度は少し強く。

 くる、くる、くる――

 栓は、ふらっと大きく揺れて、最後に指先から逃げた。 逃げた栓が、ちゃぶ台の縁に当たって、

 がん。

 硬い音。 桶の「がん」と同じ匂いの音。

 その瞬間、父の肩が跳ねた。 跳ねて、背中が固くなる。 固くなると、空気の角が立つ。

「……やめろッ……!」

 父の声が、刃になりかけた。 刃になりかけた声は、幹夫の胸の奥を一気に冷たくする。

 幹夫は凍ったみたいに動けなくなって、ポケットの石をぎゅっと握った。 冷たい。重い。 重いのに痛くない。

 ――いき。

 口の中で「いき」を入れたのに、喉の奥が熱い。 熱いのに、声が出ない。

 母の低い声が、すぐ落ちた。 急がせない、倒れない声。

「ここだに。……桶でも、秤でもねぇ。栓だに」

 父の目が、いちど遠くへ行きかけて、そこで止まった。 止まる、があると戻れる。

 父の喉がごくりと動いて、息がひとつ、ふっと出た。 出た息は、まだ硬い。 硬いのに、切れてはいない。

 幹夫は栓を拾おうとして、指が震えた。 震えるのは怖いからだけじゃない。 落としたくないときの震えだ。

「……ごめんなさい」

 ようやく声が出た。 小さい声。 小さいのに、自分の耳にちゃんと届いた。

 父は、しばらく動かなかった。 動かない時間が、長い。 でもその長さは、前みたいに「怖い長さ」じゃなくて、「戻ろうとする長さ」だった。

 父はゆっくりしゃがんで、床に転がった栓を拾った。 拾い方が、投げない拾い方。 落とさない拾い方。

 そして、幹夫の顔を見た。 目が来るまでの「間」はまだある。 でも今日は、その間に幹夫は息を入れられた。

 ――いき。

 父がぽつりと言った。

「……怒鳴った。……すまねぇ」

 その「すまねぇ」は、さっきの刃じゃなかった。 置くように落ちた言葉だった。

 父は続けて、もっと小さく言った。

「……みき坊。……許してくれ」

 許してくれ。 その言葉が、胸の奥へすとんと落ちた。 落ちたのに、跳ねない。 跳ねない落ち方は、丸い石の落ち方だった。

 幹夫は、返事がすぐ出なかった。 出ないのは意地じゃない。 胸の中で、痛いと嬉しいがいっぺんに来たからだ。

 痛いのは、さっきの声の刃。 嬉しいのは、父が「許してくれ」と言えたこと。

 幹夫は石を握って、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 それから、やっと言った。

「……うん。……父ちゃん、いいよ」

 「いいよ」は、簡単な言葉なのに、言うのに腹がいる。 腹がいる言葉を言えたとき、胸の角が少し丸くなる。

 父は、息をふっと吐いた。 軽くも重くもない息。 ただ、「ここまで」の息。

 母は、何も大げさに言わなかった。 ただ、ちゃぶ台の縁を布巾で一度拭いて、低く言った。

「……今のは、これで終いだに」

 終いだに。 「ここまで」の線引き。 線引きがあると、怖さが続かない。

 祖母が鍋の向こうで、淡々と混ぜた。

「栓ぁ回る。音ぁ鳴る。人ぁ驚く。……でも、戻りゃええ。飯食え」

 飯食え、で暮らしが戻る。 戻ると、幹夫の胸も戻れる。

 昼前。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 許

 幹夫はその字を見て、さっきの父の「許してくれ」を思い出した。 言えた。 言えたから、刃が刃のまま残らなかった。

 母は左側を指でなぞった。

「こっちは言だに。言葉」

 言葉。 謝の字の言葉。 礼の字の示す気持ち。 全部、口から出る。

 次に右側をなぞった。 午の形。

「こっちはな……午(うま)って読む字だに。形はな、杭みたいにも見えるだろ」

 杭。 地面に打って、「ここまで」を決める棒。 決めると、迷子になりにくい。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「許すってのはな……言葉で“ここまで”を決めることだに」

 ここまで。 母がさっき言った「終いだに」と同じ匂い。

「怒鳴ったらな、怒鳴ったとこで終わりにする。……許すってのは、続きを持ち込まんためでもある」

 続きを持ち込まん。 その言い方が、幹夫の胸にすとんと座った。 夜が夜のままでいられるように。 暗さが刺さらないように。

 父が新聞紙の「許」を見て、ぽつりと言った。

「……許してもらうと……胸がほどける」

 ほどける。 解の字のほどける。 網のほどける。 胸の結び目のほどける。

 母は否定しなかった。 息をひとつ入れて、低く言った。

「うん。……許すほうも、ほどける」

 許すほうも。 その「も」が、幹夫には嬉しかった。 許すのは相手のためだけじゃない。 自分の胸のためでもある。

 幹夫は鉛筆を握った。 言を書く。 午を書く。

 一回目の「許」は、午が大きくなりすぎて、字が硬い顔になった。 硬いと、杭が刺さりそうで胸がきゅっとする。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「杭が大きいときはな……言葉を太らせりゃええ。“いいよ”をちゃんと置く」

 “いいよ”を置く。 置く言葉。 投げない言葉。

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「許」は、少しだけ柔らかい顔になった。 柔らかいと、字が刺さらない。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 母が父を見て、頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父の「許」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 言の縦が少し歪んで、午の払いが少し尖った。 尖るのに刺さらない。 刺さらないのは、その尖りが「戻ろう」としている尖りだからだ。

 父は書き終えると、ふっと息を吐いた。

「……許、って字……杭があるのがいいな」

 母が一度だけ頷いた。

「うん。……杭があると、心が行き過ぎん」

 祖母が鍋の向こうで、淡々と混ぜた。

「行き過ぎる前に止まれ。止まったら飯だ」

 飯だ。 それで家が家に戻る。

 母は「許」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、「ここまで」の目印みたいに見えた。

 夜。 灯りが落ちる前、父が縁側で小さな紙片を折っていた。 折り目をつけて、角を丸くする。 丸くすると刺さらない。 刺さらない紙は、縫い箱の下へ行ける紙だ。

 父は布団の中へ入ってから、小さく言った。

「……みき坊。……さっきの、栓……怖かっただら」

 父のほうから言ってくる。 言ってくると、幹夫の胸の中の痛いところが少し丸くなる。

 幹夫は石を握って、息をひとつ入れた。

 ――いき。

「……ちょっと、こわかった」

 正直に言う。 言うのに腹がいる。 でも言えると、痛さが胸の中で固まりにくい。

 父は少し間を置いて、ぽつりと言った。

「……許してくれて……助かった」

 助かった。 その言葉は、幹夫の胸をあたためた。 あたためるのに、重くしない言葉だった。

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「許したら終い。……終いにしたら眠れる」

 父の息が、ふっと落ちていった。 落ちていく息は、布団の奥へ戻っていく息だった。

 幹夫は、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 暗さは暗さのままで、刺さらなかった。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

 > ゆるす は> ことば で> ここまで って きめる こと> つづきを もたん> いき> うん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

> みきぼう  
> きのう  
> どなった  
> すまねぇ  
> ゆるして くれて  
> すこし  
> もどれた

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――例の瓶の栓がひとつ。 昨日より、角が少しだけ丸く削られている。 父が夜のうちに、石でこすったのだろう。 栓の側面に、鉛筆で小さく丸がひとつ描かれていた。 “ここまで”の丸。

 幹夫はその栓を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 許す。 終いにする。 戻る。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、角を丸くした小さな栓は届いた。 届いた“ここまで”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、胸の中に小さな杭を一本、そっと打った。

 
 
 

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