許の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月8日
- 読了時間: 7分

瓶の栓は、朝のちゃぶ台でまた小さく回っていた。 くる、くる。 止まって、少し。 また、くる。
回るたび、幹夫の胸の中の何かもいっしょに回って、止まって、少しだけ落ち着く。 落ち着くときほど、音はよく聞こえる。
祖母の鍋をかき回す音。 母の布巾を絞る音。 父の、ゆっくりした息。
幹夫は指先で栓をもう一度押した。 今度は少し強く。
くる、くる、くる――
栓は、ふらっと大きく揺れて、最後に指先から逃げた。 逃げた栓が、ちゃぶ台の縁に当たって、
がん。
硬い音。 桶の「がん」と同じ匂いの音。
その瞬間、父の肩が跳ねた。 跳ねて、背中が固くなる。 固くなると、空気の角が立つ。
「……やめろッ……!」
父の声が、刃になりかけた。 刃になりかけた声は、幹夫の胸の奥を一気に冷たくする。
幹夫は凍ったみたいに動けなくなって、ポケットの石をぎゅっと握った。 冷たい。重い。 重いのに痛くない。
――いき。
口の中で「いき」を入れたのに、喉の奥が熱い。 熱いのに、声が出ない。
母の低い声が、すぐ落ちた。 急がせない、倒れない声。
「ここだに。……桶でも、秤でもねぇ。栓だに」
父の目が、いちど遠くへ行きかけて、そこで止まった。 止まる、があると戻れる。
父の喉がごくりと動いて、息がひとつ、ふっと出た。 出た息は、まだ硬い。 硬いのに、切れてはいない。
幹夫は栓を拾おうとして、指が震えた。 震えるのは怖いからだけじゃない。 落としたくないときの震えだ。
「……ごめんなさい」
ようやく声が出た。 小さい声。 小さいのに、自分の耳にちゃんと届いた。
父は、しばらく動かなかった。 動かない時間が、長い。 でもその長さは、前みたいに「怖い長さ」じゃなくて、「戻ろうとする長さ」だった。
父はゆっくりしゃがんで、床に転がった栓を拾った。 拾い方が、投げない拾い方。 落とさない拾い方。
そして、幹夫の顔を見た。 目が来るまでの「間」はまだある。 でも今日は、その間に幹夫は息を入れられた。
――いき。
父がぽつりと言った。
「……怒鳴った。……すまねぇ」
その「すまねぇ」は、さっきの刃じゃなかった。 置くように落ちた言葉だった。
父は続けて、もっと小さく言った。
「……みき坊。……許してくれ」
許してくれ。 その言葉が、胸の奥へすとんと落ちた。 落ちたのに、跳ねない。 跳ねない落ち方は、丸い石の落ち方だった。
幹夫は、返事がすぐ出なかった。 出ないのは意地じゃない。 胸の中で、痛いと嬉しいがいっぺんに来たからだ。
痛いのは、さっきの声の刃。 嬉しいのは、父が「許してくれ」と言えたこと。
幹夫は石を握って、息をひとつ入れた。
――いき。
それから、やっと言った。
「……うん。……父ちゃん、いいよ」
「いいよ」は、簡単な言葉なのに、言うのに腹がいる。 腹がいる言葉を言えたとき、胸の角が少し丸くなる。
父は、息をふっと吐いた。 軽くも重くもない息。 ただ、「ここまで」の息。
母は、何も大げさに言わなかった。 ただ、ちゃぶ台の縁を布巾で一度拭いて、低く言った。
「……今のは、これで終いだに」
終いだに。 「ここまで」の線引き。 線引きがあると、怖さが続かない。
祖母が鍋の向こうで、淡々と混ぜた。
「栓ぁ回る。音ぁ鳴る。人ぁ驚く。……でも、戻りゃええ。飯食え」
飯食え、で暮らしが戻る。 戻ると、幹夫の胸も戻れる。
昼前。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
許
幹夫はその字を見て、さっきの父の「許してくれ」を思い出した。 言えた。 言えたから、刃が刃のまま残らなかった。
母は左側を指でなぞった。
「こっちは言だに。言葉」
言葉。 謝の字の言葉。 礼の字の示す気持ち。 全部、口から出る。
次に右側をなぞった。 午の形。
「こっちはな……午(うま)って読む字だに。形はな、杭みたいにも見えるだろ」
杭。 地面に打って、「ここまで」を決める棒。 決めると、迷子になりにくい。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「許すってのはな……言葉で“ここまで”を決めることだに」
ここまで。 母がさっき言った「終いだに」と同じ匂い。
「怒鳴ったらな、怒鳴ったとこで終わりにする。……許すってのは、続きを持ち込まんためでもある」
続きを持ち込まん。 その言い方が、幹夫の胸にすとんと座った。 夜が夜のままでいられるように。 暗さが刺さらないように。
父が新聞紙の「許」を見て、ぽつりと言った。
「……許してもらうと……胸がほどける」
ほどける。 解の字のほどける。 網のほどける。 胸の結び目のほどける。
母は否定しなかった。 息をひとつ入れて、低く言った。
「うん。……許すほうも、ほどける」
許すほうも。 その「も」が、幹夫には嬉しかった。 許すのは相手のためだけじゃない。 自分の胸のためでもある。
幹夫は鉛筆を握った。 言を書く。 午を書く。
一回目の「許」は、午が大きくなりすぎて、字が硬い顔になった。 硬いと、杭が刺さりそうで胸がきゅっとする。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「杭が大きいときはな……言葉を太らせりゃええ。“いいよ”をちゃんと置く」
“いいよ”を置く。 置く言葉。 投げない言葉。
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「許」は、少しだけ柔らかい顔になった。 柔らかいと、字が刺さらない。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
母が父を見て、頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。
父の「許」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 言の縦が少し歪んで、午の払いが少し尖った。 尖るのに刺さらない。 刺さらないのは、その尖りが「戻ろう」としている尖りだからだ。
父は書き終えると、ふっと息を吐いた。
「……許、って字……杭があるのがいいな」
母が一度だけ頷いた。
「うん。……杭があると、心が行き過ぎん」
祖母が鍋の向こうで、淡々と混ぜた。
「行き過ぎる前に止まれ。止まったら飯だ」
飯だ。 それで家が家に戻る。
母は「許」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、「ここまで」の目印みたいに見えた。
夜。 灯りが落ちる前、父が縁側で小さな紙片を折っていた。 折り目をつけて、角を丸くする。 丸くすると刺さらない。 刺さらない紙は、縫い箱の下へ行ける紙だ。
父は布団の中へ入ってから、小さく言った。
「……みき坊。……さっきの、栓……怖かっただら」
父のほうから言ってくる。 言ってくると、幹夫の胸の中の痛いところが少し丸くなる。
幹夫は石を握って、息をひとつ入れた。
――いき。
「……ちょっと、こわかった」
正直に言う。 言うのに腹がいる。 でも言えると、痛さが胸の中で固まりにくい。
父は少し間を置いて、ぽつりと言った。
「……許してくれて……助かった」
助かった。 その言葉は、幹夫の胸をあたためた。 あたためるのに、重くしない言葉だった。
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「許したら終い。……終いにしたら眠れる」
父の息が、ふっと落ちていった。 落ちていく息は、布団の奥へ戻っていく息だった。
幹夫は、口の中で小さく言った。
――いき。
暗さは暗さのままで、刺さらなかった。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
> ゆるす は> ことば で> ここまで って きめる こと> つづきを もたん> いき> うん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
> みきぼう
> きのう
> どなった
> すまねぇ
> ゆるして くれて
> すこし
> もどれた
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――例の瓶の栓がひとつ。 昨日より、角が少しだけ丸く削られている。 父が夜のうちに、石でこすったのだろう。 栓の側面に、鉛筆で小さく丸がひとつ描かれていた。 “ここまで”の丸。
幹夫はその栓を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
許す。 終いにする。 戻る。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、角を丸くした小さな栓は届いた。 届いた“ここまで”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、胸の中に小さな杭を一本、そっと打った。





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