許の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月17日
- 読了時間: 10分

朝の軒下は、昨日より少しだけ静かだった。 静か、というより――“息が通っている”静か。
燕の巣の前に下げた網が、風にふわりと揺れている。 揺れても鳴らない。 鳴らない揺れは、怖くない。
幹夫は縁側のふちに座って、首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
巣のへりに燕がちょこんと止まり、網の“すきま”を確かめるみたいに首を傾げた。 それから、すっと中へ入る。 すっと、は刺さらない動き。
幹夫の胸の奥が、すとん、と座った。 座ったから、息。
――いき。
そのとき。
がさっ。
縁側の下で、硬いものが引っかかる音がした。 硬い音は、胸の奥の硬いところを呼びやすい。
幹夫の肩が、ふっと上がりかける。 上がりかけて――止める。
――いき。
覗き込むと、灰色の猫が、網に前足をひっかけていた。 爪が網目に絡んで、猫の体が半分浮いている。 浮いているのに、暴れる。 暴れると、網がきゅっと締まっていく。
猫が、声を出した。
にゃあ、にゃあ。
声が尖る。 尖る声は、胸を走らせる。
幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
「父ちゃん……!」
声が大きくなりそうで、途中で小さくした。
「……ねこ……からまった」
台所の境目から母が出てきて、すぐ状況を見た。 目が走らない。 走らない目は、守りの目。
「焦らん。……解く、だに」
“解く”。 昨日の字が、ここへ戻ってきた。
縁側の奥から、父の足音が来た。 急がない足音。 急がない足は、戻れる足。
父は猫の声を聞いて、肩がふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。
――いき。
父が口の中で小さく言った。
「……猫の声だ」
名前を置く。 置けると、音は音のままで座る。
ふう……。
父は、追い払うみたいに手を振らない。 まず、縁側の板の上に、ま札をそっと置いた。
とん。
小さい音。 小さい音は眠る。
父が低く言った。
「……ま」
それだけで、幹夫の胸の中の警報が尖らずに済む。
母が桶を持ってきて、底に布を敷いた。 布は、音を眠らせる。 眠ると、手が荒れない。
「落ちたらここだに。……受け皿、作る」
父は頷いて、猫の下へしゃがんだ。 しゃがみ方が、ゆっくり。 ゆっくりだと、猫の目も少しだけ丸くなる。
父がぽつりと言った。
「……おいで、じゃねぇ。……ここまでだ」
猫の前に、掌を“皿”みたいに差し出す。 掴む手じゃない。 支える手。
幹夫は猫の背中の毛が逆立っているのを見て、喉の奥が熱くなった。 熱いと走りそうだから、息。
――いき。
猫は爪が絡んでいるせいで、逃げたいのに逃げられない。 逃げられないと、声が尖る。
にゃあっ。
父の肩が跳ねかけて――止まる。 止まった「間」に、父は自分で息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、父は網を引っぱらない。 網目の“間”を指先で探す。 爪の先がどこに引っかかっているか、見る。 見ると、怖さが“形”になる。
母が低い声で言った。
「爪、網目、きついだに。……湯、落とす?」
父が頷いた。
「……うん。……濡らすと、ほどける」
母が湯をほんの少し指に含ませ、網目に落とした。 湯気が白く立つ。 白い湯気は、急ぎを溶かす。
祖母が鍋の向こうで淡々と言った。
「切るなよ。……切ると次が困る。ほどけ」
父が小さく頷いて、ぽつりと言った。
「……切らん。……解く」
父の指が、猫の爪の根元のところへゆっくり近づく。 近づく前に、いちど止まって息を吐く。
ふう……。
吐いてから、指先で網をほんの少し“戻す”。 戻すと、締まりが緩む。 緩むと、猫の爪が怒らない。
幹夫は桶の布の上に目を置いた。 落ちても大丈夫、という場所があると、胸が落ち着く。
――いき。
父がぽつり。
「……ほら。……一本、外れた」
猫の爪が一本、網から抜けた。 抜けた瞬間、猫の声が少しだけ丸くなる。
にゃ……
丸い声は、助けて、の声に近い。
父は焦らず、もう一本。 止まる。息。戻す。外す。 結び目をほどくみたいに、繰り返す。
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴る。 鳴るたびに、息。
――いき。
最後の一本が外れたとき、猫は父の掌の上にすとんと落ちた。 落ちたのに、音が鳴らない。 桶の布が受け止めたからだ。
猫は桶の布の上で、一度だけ体を丸くして――すぐ、ぴょんと跳んで逃げた。 逃げ方が、速い。 速いのに、もう尖っていない。
父が、逃げる猫を追わずに、ぽつりと言った。
「……行け。……もういい」
もういい。 それは、怒りの追い払いじゃなく、許す“放し”だった。
幹夫の目の奥が熱くなった。 熱いのに、走らない。 走らない熱さは、やさしい。
――いき。
猫が庭の塀を越えたころ、戸の外から慌てた声がした。
「ちょっと! うちの猫、見んかった!?」
おきぬさんの声。 少し尖っている。 尖るのは、心配の尖り。
母が戸口で返した。
「今、そこ行っただに。……網にからんだで、ほどいた」
「えっ……!」
おきぬさんが駆け込んでくる。 目が走っている。 走る目は、胸も走らせる。
父の肩がふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。
――いき。
父は、ま札を指で撫でた。 撫でると、手が戻る。 戻った手で、父は低く言った。
「……怪我は……たぶんない。……でも、怖がらせた」
“怖がらせた”。 父が自分のやったことを認める言い方。 責めるためじゃなく、整えるための言い方。
おきぬさんが、はっとして頭を下げた。
「こっちこそ、ごめんねぇ……! 巣、狙ってたんだら……」
謝る声は、尖りが落ちる。 落ちると、受け取れる。
父は一瞬、目を伏せて――息を吐いた。
ふう……。
「……いい。……猫も腹だ」
腹。 祖母の道。 生きものの道。
おきぬさんが、ぽつりと言った。
「でも……網……」
母がすぐ言った。 ぶつけない声で。
「守りだに。……けど、罠にしたくない。だから、今日はほどいた。……次は、からまんように直す」
父が頷いた。
「……直す。……俺が」
“俺が”。 父の“俺”が、外の人に向いて座った。
おきぬさんはもう一度頭を下げて、涙声になりかけて、でも止めた。
「……ありがとう。……許してくれて」
許してくれて。 その言葉が、畳の上にすとんと座った。
父は少し間を置いて、ぽつりと言った。
「……許す、って……大げさじゃねぇ。……ここまでだ、って言うだけだ」
“ここまで”。 境。 間。 父の声が、刺さらない形でそこにあった。
幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
おきぬさんが帰るとき、母が小さく手を振って言った。
「猫にも言っとけ。……次からは、通る道を選べ、って」
冗談みたいな言い方で、でも暮らしの線が太くなる。
午後。 父は網の守りをいったん外して、縁側の置き布の上に広げた。 広げる前に置く。 置いてから広げる。 順番があると、手が荒れない。
父がぽつりと言った。
「……守りが……罠になりかけた」
幹夫は返事を急がなかった。 急ぐと、慰めが押しつけになる日がある。 だから、間。
――いき。
「……でも、解けた」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……解けた。……許せた、かもな」
かも。 余地。 余地があると、続きができる。
父は網の下のほうに、布の短い帯を結びつけた。 猫の爪が引っかかりにくいように、目を丸くする。 結び目には、ぎゅっとしない“ま”を残す。
「……通れる守り。……からまん守り」
父の言葉が、少しだけ軽い。 軽いと、息が通る。
燕がすきまから出入りするのを見て、父がぽつりと言った。
「……許すって……通すことだな」
通す。 守りの中の通り道。 胸の中の通り道。
幹夫は袋を押さえて、息。
――いき。
夕方。 飯の匂いが家の奥へ落ち着いたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は今日も痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
許
幹夫は、その字を見た瞬間、おきぬさんの「許してくれて」と、父の「ここまでだ」が重なって聞こえた。
母は左側を指でなぞった。
「こっちは言だに。……ことば」
ことば。 置くことば。 刺さらないことば。
母は右側をなぞった。
「こっちは午(うま)だに。……午前の午。真ん中の時間」
真ん中。 端じゃない。 走りきらない場所。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「許すってのはな……言葉で、ここまでって区切って、相手を通す字だに。怒りで締めるんじゃない。まを作って、息を通して、通してやる」
通してやる。 守りのすきま。 今日の猫の逃げ道。 全部がここへ座った。
母は続けた。
「許すって、忘れることじゃない。……覚えたままでも、刺さらんように置き直すことだに」
置き直す。 置の字の匂いが戻る。
父が新聞紙の「許」を見て、ぽつりと言った。
「……俺、許されたい日もある」
母は否定しなかった。 低く言った。
「うん。……今日みたいに、自分にも言え。『ここまででええ』って」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「自分を許せりゃ飯がうまい。……許せんと腹が荒れる」
父が小さく息を吐いた。
ふう……。
「……自分に、か」
その声は、まだ震えている。 でも、折れていない。
幹夫は鉛筆を握った。 許を書く。
一回目の「許」は、午が尖って、字が硬い顔になった。 硬いと、許しが“裁き”みたいに見える。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「尖ったらな……言を太らせりゃええ。許すのは、言葉の温度だに。……息、入れてから」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「許」は、言がふっくらして、字が座った顔になった。 座ると、通れる字になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「許」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、点を置いた。
「……点、置くと……“ここまで”が座るな」
母が小さく頷いた。
「うん。……座れりゃ通せる。通せりゃ、胸が走らん」
母は「許」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、通れるすきまの光みたいに見えた。
夜。 軒下の網の守りは、布の帯が増えて、少しだけ柔らかい顔になっていた。 揺れても、音は鳴らない。 鳴らない守りは、息を止めない。
父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。
ねこからまったかた うごいた けどま してとけたおきぬ さんごめん って いったいい って いえた許ここまでって いえた自分 に もいえたら いいいき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……許すの、こわい日もある」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……でも、許したら、走らなかった」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……走らんのが……一番の許しかもな」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「そうだに。……許しは、息の通り道だに」
祖母が淡々と言う。
「通り道がありゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 許せる明日。
幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
ゆるす ってことば でここまで って くぎってとおす じ なんだねきょうねこ からまったでもとうちゃんま してとけたいい って いえたぼくうれしかったいき
最後に、小さく「許」。 丸をひとつ。 すきまの丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは猫の尖った声の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
許 はことば で ここまでま を つくって とおすわすれん でも いいうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうねここわかった けどま できたとけたいい って いえた許 って じすこしむね が ほどける自分 に もここまで っていって みる
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――網に結びつけた布の短い帯。 端が丸く縫ってあって刺さらない。 帯のすみに、父の震える字で小さく、
ゆるし
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその布の帯を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
許す。 言葉で区切って、通す。 覚えたままでも、刺さらないように置き直す。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、猫の尖った声のあとに残った「いい」という父の小さい言葉は届いた。 届いた“通り道”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、胸の中に、刺さらない余地をそっと残していった。





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