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証の字

 清水から戻った夜、母はよく眠れていない顔をしていた。 眠れていないのに、目は赤くない。赤くならないのは、泣かなかったからじゃなくて、泣く前に針を動かしたからだ、と幹夫は思った。母はいつも、声がこぼれそうになると、手で縫ってしまう。

 朝、縫い箱のふたが開く音が、かちりと鳴った。 母は控え帳を出し、昨日の紙――清水で書かされた「認」の紙――を、もう一度、指で端から端へなぞった。なぞる指が丁寧なのは、紙が飛ばないようにじゃない。胸の中の波が飛ばないように、だ。

 幹夫は上着のポケットの石を握っていた。 浜で拾った丸い石。 冷たいのに、重い。 重いと、息が戻る。

 母がぽつりと言った。

「……証言、もらいに行く」

 しょうげん。 音が長い。長いのに、胸の奥にすっと入ってくる。 言う、って音が入っているからだ。

 祖母が台所から、淡々と返した。

「近所の年寄りぁ覚えとる。床屋も行け」

 床屋。 髪を切る匂い。首に巻く布の匂い。 幹夫は、父の顔の写真の、あの眉のあたりを思い出してしまって、喉の奥が熱くなった。

 戸口の外で足音が止まり、あの空っぽの袖の男が立っていた。 今日は帽子を深くかぶっている。影が濃い。

「行くなら、俺も」

 男はそう言って、母の手元の紙束を見た。 紙を見る目は、胸を見ないようにする目でもある。 男の目も、そうだった。

 母は小さく頷いて、風呂敷を抱えた。 抱えるというより、腹の前で押さえる。祖母が言ったとおり、腹んとこに預ける押さえ方。

 幹夫は、ポケットの石を母に差し出した。

「これ……持って」

 言ってから、恥ずかしくなった。石なんか、役場の紙には効かない。 でも母は、その石を見て、ほんの少しだけ目を細めた。

「……ありがと」

 母は石を受け取って、紙束の上にそっと乗せた。 石が紙を押さえる。 紙が飛ばないように、じゃなくて、言葉が飛ばないように。

 その光景だけで、幹夫の胸の中の警報が丸く鳴った。

 床屋の戸を開けると、髪油と石鹸と、熱い湯の匂いがした。 匂いは生活の匂いで、戦争の匂いじゃない。生活の匂いは、胸を少しだけ緩める。

 椅子に座った男が一人いて、鏡の中で知らない顔が自分を見返していた。 鏡の顔は本当なのに、少し遠い。写真と似た遠さがある。

「いらっしゃい」

 床屋の親父が言って、母の風呂敷を見た。 風呂敷を見る目は、中身を先に知りたがる目だ。

 母は言葉を短くして出した。

「……証言、お願いしたくて」

 床屋の親父の眉が、ほんの少しだけ動いた。 動いて、すぐ生活の顔に戻る。

「……誰のだい」

 母は息をひとつ入れてから言った。 まず、いき。

「夫の」

 「夫」という音が床屋の匂いの中で、少しだけ固くなる。 固くなっても、割れない。母は割れない声の出し方を知っている。

 空っぽの袖の男が、横から小さく助け舟を出した。

「ほら、○○さんだ。あの、網直しの」

 床屋の親父は一度だけ、ふっと息を吐いた。 吐いた息が、髪油の匂いに混ざって消える。

「ああ……あの人か」

 床屋の親父は鏡のほうをちらりと見て、客に「少し待ってくれ」と言った。 客は何も言わず、頷いただけだった。 頷きは、言葉よりやさしいときがある。

 床屋の親父はカウンターの奥から、紙を一枚出してきた。 紙の上に線が引いてある。 線はまっすぐで、迷子にならない顔をしている。

「役場のか」

 母は頷いて、紙束をほどいた。 石がころり、と少しだけ動いた。 母が慌てて、石を手のひらで押さえる。押さえる動きが、返し縫いみたいだった。戻って、落ち着かせて、進む。

「……この人の特徴、覚えとること、書いてくれって」

 母の声が少し掠れた。掠れは、息が足りない掠れだ。

 床屋の親父は、しばらく考える顔をした。 考える顔は、髭の泡を置く前の顔に似ていた。 手を動かす前の、短い止まり。

「左の眉の上」

 親父がぽつりと言った。

 母の指が、紙の端で止まった。

「……傷、あった」

 親父は、鏡の自分の眉の上を指でなぞった。 なぞり方が丁寧で、嘘の匂いがしなかった。

「糸みてぇに細いのが一本。笑うと、そこだけちょい上がる」

 昨日、汽車の中で空っぽの袖の男が言ったのと、同じ言葉だった。 同じ言葉が、別の口から出ると、重みが変わる。 変わる重みは、石みたいに少しだけ確かになる。

 母は、息をひとつ吐いて、それを飲み込んだ。 吐ききると崩れそうで、飲み込むと刃になりそうで、その間に息を置いた。

「……呼び方は」

 役場の紙の枠を指で叩きながら、母が聞いた。

 床屋の親父は、少し笑った。

「お前さんのこと、“幹夫”って言わんかったな。……“みき坊”って」

 幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 みき坊。 知らないのに、知っている音。 音が胸のどこかに触れて、そこが少し熱くなる。

 母も、一瞬だけ目を細めた。 細めた目は泣きそうじゃなく、懐かしそうな目だった。

「母ちゃんのことは」

 空っぽの袖の男が、少し声を足した。

 床屋の親父は、唇を結んでから言った。

「“おまえさん”って言ったり、“かかぁ”って言ったり。……あと、照れるとき、最後に“ら”が付く」

 ら。 蒲原の言い方。 幹夫は、自分が「〜だら」「〜ら」と言うときの口の形を思い出してしまって、喉の奥がきゅっとした。

 母は紙に書いた。 まっすぐ書こうとして、でも線は少しだけ震える。 震える線は、怖さじゃなく、触れてしまった証拠みたいだった。

 床屋の親父は、最後に言った。

「あと、耳の後ろに……小さい黒子、あった気がする。髪、刈ると見える」

 母の鉛筆が止まった。 止まって、また動いた。 戻って、進む。返し縫いの動きで、母は「気がする」と書き足した。断言しない。嘘を混ぜない。

 親父は書き終えた紙を母へ差し出し、引き出しから印鑑を取り出した。 朱肉をつけて――

 どん。

 音が小さいのに、床屋の空気が一段変わった。 印は、残る。残ると、言葉が逃げにくくなる。

 幹夫は、その「どん」を見て、思わず自分の帳面を出した。 白い綴じ糸の結び目。 鉛筆の竹の継ぎ目。 書くことで、逃げにくくする。控えることで、迷子になりにくくする。

 幹夫は、床屋の親父の言葉を、ひらがなで置いた。

 > ひだり まゆ うえ ほそい きず > みきぼう > みみ うしろ ほくろ

 置くたび、胸が少しだけ整う。 整うと、息ができる。

 母が紙を受け取り、深く頭を下げた。

「……ありがとう」

 今日は「う」を落とさなかった。 落とさない「ありがとう」は、重い。 重いのに、折れない。折れないのは、床屋の匂いが生活の匂いだったからかもしれない。

 床屋の親父は、照れたように手を振った。

「いや……“証”ってのは、言葉だけじゃ弱いからな。印がいる。……大変だら」

 大変だら、の「ら」が、蒲原の「ら」だった。 それが妙に嬉しくて、幹夫は胸の奥が少しだけ温かくなった。

 帰り道、母は紙を風呂敷の奥にしまった。 しまい方が、写真のときと同じだった。白い紙で挟んで、折り目を増やして、飛ばない形にする。

 幹夫は歩きながら、母の手を見た。 針を持つ手。紙を押さえる手。石を紙の上に置く手。 空っぽを押さえる手が、今日はひとつ「確か」に触れたように見えた。

「母ちゃん」

 幹夫が呼ぶと、母は「なに」と返した。 返し方が柔らかい。柔らかいと、門の中の口が刃にならない。

「みき坊、って……」

 幹夫は言いかけて、笑っていいのか泣いていいのか分からなくなった。 どっちでもなくて、喉が熱くなる。

 母は歩きながら、少しだけ空を見た。 空を見る目は、答えの代わりに広さを持ってくる目。

「……父ちゃん、そう呼んどった」

 母の声は低い。倒れない低さ。 倒れないのに、その低さの中に、少しだけ湯気みたいな柔らかさが混じっていた。

 空っぽの袖の男が、後ろからぽつりと言った。

「呼び方が残っとるってのは……残っとるってことだ」

 残っとる。 残る。 幹夫は、控え帳の中の紙の山を思った。 紙は増える。増えるのに、全部が重さになるわけじゃない。 残るものがあると、息ができる。

 夜。 母はちゃぶ台に新聞紙の裏を広げた。 今日の「どん」の音が、まだ耳の奥に残っている。

「幹夫、今日はな……“証”を書く」

 母が言った。 幹夫の胸が、またぽん、と鳴った。 証言。証拠。証明。 言葉が、少しずつ「形」を持ち始めている。

 母はゆっくり書いた。

 証

 幹夫は、左に見覚えのある形を見つけた。 言。 門の中の口より外へ出ている言葉の形。

 右は、まっすぐな形。 どこか畳の目みたいに、揃う形。

「左は“言う”の言」

 母が指でなぞった。

「右は“正しい”の正だに」

 正しい。 正しい、という言葉は、少し怖い。 正しくなかったら、どうなる。正しいじゃないと、父は父じゃなくなるのか。 そんな風に、幹夫の胸は勝手に飛びそうになる。

 母はそれを止めるみたいに、声を落とした。

「正しいってのはな……“まっすぐ揃う”ってこともある」

 揃う。 畳の目。 縫い箱がぴたりと戻る感じ。 揃うと、今日が片づく感じ。

「言葉を、まっすぐにする。……それが、証」

 母の言葉は刃じゃなかった。 正しい、を責める棒にしない言い方だった。 だから幹夫の胸の警報は、尖らずに丸く鳴った。

 幹夫は鉛筆を握った。 竹の継ぎ目。硬い。 硬さがあると、線がぶれても戻ってこられる。

 言、を書いて、正、を書く。 正の横線を、畳の目みたいに揃える気持ちで引く。 一回目の「証」は、少しよろけた。 よろけたのに、言の形が入っているだけで「言っている」顔になった。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「証はな、きれいじゃなくても……嘘じゃなきゃええ」

 嘘じゃなきゃええ。 その言い方が、幹夫の胸にすとんと落ちた。 嘘じゃないなら、よろけてもいい。よろけた線でも、持てる。

 母は「証」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、ここまでの丸。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名に「おかあちゃんへ」。 中に、今日の言葉を置く。

 > しょう って > ことばを まっすぐに するんだね > みきぼう って よばれたの うれしい

 最後に、小さく「証」を書いて、丸をひとつ描いた。 言葉が飛ばないように置く丸。 熱くなった胸が、尖らないように置く丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは恥ずかしさと、嬉しさが触れた震え。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は丸い。

 翌朝、縫い箱の位置が畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の紙を開くと、母の字があった。

 > みきぼう って > よんだの わたしも すき > しょうは > ただしい より > うそじゃない ってこと > うん

 最後に、小さな丸。

 幹夫は紙を胸に当てた。 紙が体温を吸って、少しだけしなる。 しなる音が、返事の音に聞こえた。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、床屋の「どん」は届いた。 眉の上の細い傷の話も届いた。 呼び方の「みき坊」も届いた。 届いた言葉を、幹夫は石みたいに丸く胸の中で転がして――次の「まだ」に、静かに備えていた。

 
 
 

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