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話の字

 


 貝殻は、ちゃぶ台の隅で朝の光を拾っていた。 白い外側より、内側の淡い桃色のほうが、幹夫には不思議にあたたかく見える。あたたかいのに、冷たい海の匂いがする――そういう矛盾が、今の家の中にいちばん似ていた。

 父は朝飯のあと、縁側に出て、貝殻を指でつまんだ。 つまんで、耳のあたりへ持っていく。 子どもみたいな仕草なのに、父の顔は子どもじゃない。目の奥が遠いまま、でも逃げない顔。

「……波、入っとるな」

 ぽつり。 声が、畳の目を越えて届く。

 幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。叫ばない鳴り方は、昨日の「聞こえた」と同じ鳴り方だ。

 ――いき。

 父は貝殻を元の場所へ戻してから、幹夫を見た。 目が来るまでの「間」が、やっぱり少し長い。 でも今日は、その間に息が入る。入ると、待てる。

「……浜、行くか」

 行く。 浜。 その二つが並ぶだけで、幹夫の喉の奥が熱くなった。

 母が台所から顔を出した。 驚いた顔をしそうになって、しない。 驚きを刃にしない顔。

「潮、強いで。……靴、履いてけ」

 母はそれだけ言って、また鍋のほうへ戻った。 「行っていい」を、生活の言葉で渡す。 その渡し方が、いちばん強い。

 浜へ向かう道で、父はあまり喋らなかった。 喋らないのに、黙ってもいなかった。 砂を踏む音を、ちゃんと聞いている背中だった。

 ぎゅ、ぎゅ。

 砂は足の下で、ほどけたり結ばれたりする。 足跡がついて、次の波で消える。 消えるのに、またつけられる。 それが、少し、安心だった。

 父が、急に振り向かずに言った。

「……波の音、近いな」

 近い。 近い、という言葉は、怖いときもある。 でも今日は、近いが「戻ってきた」に似て聞こえた。

 父は海を見たまま、さらにぽつりと言った。

「……ここは、鳴り方が丸い」

 丸い。 幹夫はポケットの石を握りしめた。 冷たい。重い。 重いのに痛くない。

 父は、波の白い頭が崩れるところを見ながら、少し間を置いた。

「……向こうの音は、角が立つ」

 向こう。 その言葉だけで、幹夫の胸の奥がきゅっとなる。 きゅっとなったから、息。

 ――いき。

 父は続けなかった。 続けないで、拾った小さな流木を指で転がした。 転がすと、角が少しずつ丸くなるみたいに。

 幹夫は、波打ち際で貝殻をひとつ拾った。 昨日のより小さい。 小さいのに、欠けていない。 欠けていない小ささは、「少し」の形だ。

 父がそれを見て、ほんの少しだけ口の端を上げた。

「……ええの、拾ったな」

 褒める声は小さい。 小さいのに、胸の奥が熱くなる。 熱いのに、息ができる熱さ。

 幹夫は、言いたいことが喉まで上がって、でもそこで引っかかった。 引っかかったときほど、息。

 ――いき。

「父ちゃん……」

 声に出しただけで、胸がまたぽん、と鳴る。 父が、ゆっくり「ん」と返した。

 幹夫は、言葉を探して、やっと出した。

「……きょう、しゃべった」

 しゃべった、が、少し乱暴な言い方に聞こえて、幹夫はすぐ恥ずかしくなった。 でも父は怒らなかった。 父は海を見たまま、ぽつりと言った。

「……話すの、むずい」

 むずい。 その一言が、幹夫には救いだった。 むずいって言えるのは、むずいを持てる形にすることだから。

 父が、少しだけ目を細めた。

「……でも、聞くのは……できる」

 聞くのはできる。 「聞」の字が、胸の奥で静かに座った。 門の中の耳。 父の中の門が、少し開いている。

 幹夫は、拾った貝殻を握って、小さく頷いた。

「……ぼくも、聞く」

 父は、返事のかわりに、砂を踏みしめた。 ぎゅ、ぎゅ。 その音が、返事みたいに聞こえた。

 家へ戻ると、母がちゃぶ台を拭いていた。 拭き方が、丁寧すぎない。 丁寧すぎないと、生活の手つきになる。

 父は縁側に腰を下ろし、拾ってきた流木を脇に置いた。 幹夫は貝殻を二つ、ちゃぶ台の隅に並べた。 大きいのと、小さいの。 親子みたいな貝殻。

 母がそれを見て、小さく言った。

「……話、できた?」

 できた、という聞き方じゃない。 「できた?」の中に、「できなくてもええ」がちゃんと入っている。

 父は一度だけ頷いて、言葉を少し探してから答えた。

「……波の話だけ」

 波の話だけ。 その「だけ」が、幹夫には嬉しかった。 だけ、は少し、に似ている。無理をしない形だ。

 母は「うん」とだけ返し、新聞紙の裏を広げた。 竹を継いだ鉛筆を取る。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。

「幹夫。……今日はこれ」

 母がゆっくり書いた。

 話

 幹夫は目をこらした。 左に「言」。 右に「舌」。 舌の形が、どこか可笑しくて、でも可笑しいと言っていいのか分からなくて、幹夫は口を結んだ。

 母は指で左をなぞる。

「言う、の言だに。……言葉」

 次に右をなぞる。

「こっちは舌。……口の中の、動くやつ」

 動くやつ。 その言い方が、少し笑えて、でも笑いが喉で止まった。 止まった笑いのかわりに、幹夫は息をひとつ入れた。

 ――いき。

 母は続けた。

「話すってのはな、言葉を舌に乗せて……転がして、外へ出す」

 転がす。 丸い石みたいに。 角のある言葉も、転がしているうちに少し丸くなる。

 父が新聞紙の「話」を見て、ぽつりと言った。

「……舌が、固くなる日がある」

 固くなる。 結び目が固くなるみたいに。 固くなると、切れそうになる。

 母は否定しなかった。 息をひとつ入れてから、静かに言った。

「うん。……固い日は、出さんでええ」

 出さんでええ。 その許しが、ちゃぶ台の上の湯気を少し丸くした。

 母は、指で「話」の字の上を撫でるみたいになぞった。

「でもな。出したいのがひとつでもあったら……小さくでええ。少しでええ」

 少し。 少しずつ。 言葉にも、そのやり方がある。

 幹夫は、父の横顔を見た。 遠いのに、今日は少し近い。 父の口がほんの少し動いて、でも言葉にならずに止まる。 止まったから、幹夫は自分の胸に息を入れた。

 ――いき。

 幹夫は鉛筆を握った。 言を書いて、舌を書く。 一回目の「話」は、舌が大きくなりすぎて、字が妙にお喋りな顔になった。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「舌が大きくなったらな……言を太らせりゃええ。言葉のほうも、ちゃんと座らせる」

 座らせる。 居の字。 言葉にも居場所がいる。

 二回目は、少し落ち着いた。 字が落ち着くと、胸も少し落ち着く。

 父が、新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 母が父を見て、頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、舌じゃなくても、手が言葉を運べる。

 父は「言」を書いた。 線が揺れる。 揺れるのに、折れていない。 次に「舌」。最後の払いで父の息がいちど止まって――止まった間に、幹夫は自分の息を入れた。

 ――いき。

 父の「話」ができた。 少し歪んでいる。 歪んでいるのに、刺さらない。 刺さらないのは、そこに「出そう」とする手があるからだ。

 父は、できた字を見て、ふっと息を吐いた。

「……話、って字は……長いな」

 長い。 線が多い。 でも長いのは、悪くない。 長い間の中に、息を入れられるから。

 母は「話」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。

 夜。 灯りが消える前、父が布団の中から小さく言った。

「……みき坊」

 幹夫は返事をしようとして、声が出なかった。 代わりに石を握って、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 父は続けた。

「……きょうの波、丸かったな」

 それだけ。 それだけなのに、幹夫の胸の奥が熱くなった。 波の話だけ。 でも、話してくれた。 言葉が、舌を通って、家の中へ届いた。

 母が低く返す。

「うん。……明日も鳴るだに」

 明日も鳴る。 続く、ということ。 続くから、少しずつでいい。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

 > (とうちゃんへ も)

 中に書く。

 > はなす って > ことば を した に のせて > ころがす んだね > きょう なみ の はなし が きけて > うれしかった > いき を いれながら > すこし ずつ

 最後に、小さく「話」。 丸をひとつ。 言葉が刺さらないように置く丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは恥ずかしさと、あたたかさの名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

 > はなす は > だす でも > ととのえる でも ある > ことば を ころがして > いき > うん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

 > みきぼう> きのう> はなせた> なみ だけ> でも> すこし

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――小さな流木がひとかけら。 角が削れて、丸くなりかけている木。 握ると軽いのに、落としたくない軽さ。

 幹夫はその木片を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 波の話だけ。 でも、話せた。 少し。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、流木みたいに丸くなりかけた「話せた」が届いた。 届いた“少し”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――次の言葉の居場所を、家の中にそっと作っていこうとしていた。

 
 
 

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