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謝の字

 朝の光は、台所の鍋のふちを一度だけ白くしてから、畳の目に落ちた。 白いところがあると、家の中の「ここ」が増える。 増えると、胸の中の走りは少し遅くなる。

 祖母が味噌を溶く音。 母が布巾を絞る音。 そして、縁側で木の玉が転がる音。

 くる、くる。 止まって、少し。 また、くる。

 「みき」と彫られた木の玉は、父の指の腹に乗ると、どこか嬉しそうに回った。 回るのに、急がない回り方。 急がない回り方は、息に似ている。

 父が玉を止めて、ぽつりと言った。

「……今日は……買いに行く」

 買いに行く。 それだけの言葉なのに、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、「続き」の鳴り方だ。

 母は鍋の火を見ながら、声を急がせないまま返した。

「魚か」

「……干し芋、もらったで。……礼、終わったら……次は、こっちも暮らす」

 暮らす。 父の口から「暮らす」が出るのが、幹夫にはまだ不思議だった。 不思議なのに、嬉しい。 嬉しいと胸が走りそうになるから、幹夫はポケットの石を握って、口の中で言った。

 ――いき。

 母は「うん」とだけ頷いて、草履を玄関へ寄せた。 寄せ方が丁寧すぎない。 丁寧すぎないと、生活の手つきになる。

「幹夫、行くか」

 幹夫は頷いた。 頷く前に、いちど息を入れる。

 ――いき。

 父は戸口で、いちど止まった。 止まって、少し。 歩の字のとおり。 止まった「間」に、幹夫の胸も落ち着く。

 父が小さく言った。

「……みき坊、頼む」

 頼む。 手がつながる言葉。 幹夫は小さく返した。

「……うん」

 父の肩が、ふっと落ちた。 落ちると、息が入る。

 道は朝の湿り気を残していた。 砂利の黒。 潮の匂い。 遠くの波は、相変わらず丸い。

 市場のほうへ近づくと、声が増える。 伸びる声。 短い声。 笑い声。 桶の水が跳ねる音。

 音が増えると、胸も増える。 増える胸は、走りやすい。 走りそうになったから、幹夫は息をひとつ入れた。

 ――いき。

 父の歩幅は小さい。 小さいのに、確か。 確かな足は、音の中でも転びにくい。

 魚屋の前で、父は少し離れて立った。 近づきすぎない距離。 近づきすぎないと、逃げなくてすむ。

 魚屋の親方が、父に気づいて、声を落とした。

「……おう。戻ったか」

 戻ったか。 余計な飾りのない言葉。 飾りがないと、痛くない。

 父は返事まで少し間があった。 その間に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

「……ああ。……少しずつだら」

 少しずつ。 父の口から出ると、その言葉は道に座る。

 親方は頷いて、魚を並べた桶のふちを布で拭いた。 拭く音は、さら、さら。 さら、さらは、縫い箱の紙の音に似ている。

「今日は、何にする」

 父は桶を見た。 見て、見て、見て――それから口を開いた。

「……小さいの……二尾」

 小さいの。 少し。 父は、無理のない言葉を選ぶようになっていた。

 そのとき、後ろで――がん、と金属がぶつかる音がした。 釘の入った箱か、秤の鎖か。 硬い音。

 父の背中が、一瞬で固くなった。 固くなると、空気が尖る。 尖ると、幹夫の胸の中の警報も尖りかける。

 だから、息。

 ――いき。

 父の手が、持っていた銭を落としそうになって、指がぎゅっとなる。 ぎゅっとなって、でも落とさない。 落とさないぎゅっは、戻ろうとするぎゅっだ。

 幹夫は、声を大きくしないまま言った。

「……がん、って音。……秤だに。たぶん」

 たぶん、の逃げ道。 逃げ道があると、言葉は刃になりにくい。

 父はすぐ頷かなかった。 目が遠い。遠いのに、逃げない。 そして、息をひとつ、ゆっくり吐いた。

「……秤、か」

 言えた。 言えると、音は音のままでいられる。

 ところが、父の肘が桶の縁に当たって――桶が少し揺れた。 水が跳ねて、魚が一尾、桶の外へ滑った。

 ぱしゃ。 ぴち。

 魚が地面で跳ねる音。 跳ねる音は小さいのに、胸の奥へ刺さりやすい。

 父の顔が固くなった。 固さの中に、怖さと、別のものが混じった。 怖さだけじゃない。 恥ずかしさの固さだった。

 幹夫の胸がきゅっと鳴った。 きゅっと鳴ったから、息。

 ――いき。

 父が、魚へ手を伸ばしかけて、止まった。 止まる。 止まって、少し。 でも「少し」が、今日は動かない「少し」だった。

 親方がすぐしゃがんで、魚を布で包むように拾った。 拾い方が急がない。 急がないのに、落とさない。

「大丈夫だ。魚ぁ、跳ねるもんだに」

 親方の言い方は、祖母の言い方に少し似ていた。 暮らしの言い方。 暮らしの言い方は、胸の角を丸くする。

 父の喉が、ごくりと動いた。 動いて、言葉が出ない。 出ない言葉が喉に詰まると痛い。

 幹夫は石を握りしめて、胸の中で言った。

 ――いき。

 すると父が、やっと声を出した。

「……すまねぇ」

 小さい声。 小さいのに、ちゃんと届いた。 届いたのは親方にだけじゃない。 幹夫の胸にも届いた。

 父は続けて、さらに小さく言った。

「……迷惑、かけた」

 迷惑。 その言葉には、父の「申し訳ねぇ」が丸められて入っていた。 丸められているから、刺さらない。

 親方は、笑わなかった。 大げさに笑うと刃になるのを知っている笑わなさで、ただ頷いた。

「迷惑じゃねぇ。戻ってきて、ここに立ったのが上等だに」

 上等。 その言葉で、父の肩がほんの少し下がった。 下がると、息が入る。

 父は、銭を親方の手へ置くように渡した。 投げない。 落とさない。 置くように。

 親方が包み紙に魚を入れて、父へ渡した。 渡す。 受ける。 父の手が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……ありがとう」

 父が言った。 「すまねぇ」のあとに、「ありがとう」。 二つの言葉が並ぶと、幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、胸の奥の道が太くなっている鳴り方だ。

 帰り道、父はしばらく何も喋らなかった。 喋らないのに、黙ってもいなかった。 足音が「居る」足音だった。

 家の角が見えたころ、父がぽつりと言った。

「……すまねぇ、って……言うの、腹が要るな」

 腹が要る。 祖母の言葉みたいなのに、父の声は優しかった。 腹の奥から出した声だからだ。

 幹夫は返事の前に、息をひとつ入れた。

 ――いき。

「……言えた」

 自分でも少し乱暴な言い方だと思った。 でも父は怒らなかった。 父は、ほんの少しだけ口の端を上げた。

「……言えた。……助かった」

 助かった。 その「助かった」が、幹夫の胸をあたためた。 幹夫が何かをしたというより、父が父を戻した、その途中で出た「助かった」だった。

 母が台所から顔を出しすぎずに言った。

「買えた?」

 父は短く答えた。

「……買えた。……落としたけど、拾ってもらった」

 落としたけど。 隠さない言い方。 隠さないと、胸の中で固くならない。

 母は「うん」とだけ返した。 縫い箱の下の「うん」みたいな、折り目のある「うん」。

 祖母が鍋をかき回しながら、淡々と混ぜた。

「落としたら拾えばいい。拾ってもらったら礼だ。飯だ」

 飯だ、で話が終わる。 終わり方が、家を家に戻す。

 昼前。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 謝

 幹夫は、その字を見て、さっきの父の「すまねぇ」を思い出した。 言えた「すまねぇ」。 言えたから、魚は魚のままでいられた。 音は音のままでいられた。

 母は左側を指でなぞった。

「こっちは言だに。言葉」

 次に右側をなぞった。 細かい線が、どこか矢みたいに見える。

「こっちは……“射る”みたいな形だに。矢を放つやつ」

 矢。 矢はまっすぐ飛ぶ。 まっすぐ飛ぶものは、刺さることもある。

 母は少し間を置いて、息をひとつ入れた。

「謝るってのはな……言葉を、刺さらんように出すことだに」

 刺さらんように。 丸くして。 置くように。

 母は続けた。

「それとな、これ……“感謝”も同じ字だに。ありがとうも、すまんも、同じ“謝”が入っとる」

 同じ。 ありがとうと、すまん。 違うのに、同じ字。 幹夫の胸の奥が、すとん、と座った。

 父が新聞紙の「謝」を見て、ぽつりと言った。

「……俺、謝ると……向こうの顔が浮かぶ」

 向こう。 遠い場所。 番号で呼ばれた場所。 幹夫の胸がきゅっとなる。

 きゅっとなったから、息。

 ――いき。

 母は否定しなかった。 息をひとつ入れて、低く言った。

「うん。……浮かんでもええ。浮かんだら、ここへ戻す。謝るってのは、戻す道にもなるだに」

 戻す。 返。 渡。 受。 礼。 そして、謝。 字が、道の上で手をつないでいく。

 父はしばらく「謝」を見ていて、それから小さく言った。

「……今日の“すまねぇ”は……ここへ置けた気がする」

 置けた。 投げないで、置く。 父の合言葉が、また増えた。

 幹夫は鉛筆を握った。 言を書く。 射を書く。 一回目の「謝」は、射が大きくなりすぎて、字が尖った顔になった。 尖ると刺さりそうで、胸がきゅっとする。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「尖ったらな……言葉のほうを太らせりゃええ。言葉は、相手の胸に置くもんだに」

 置く。 置く言葉。 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「謝」は、少し落ち着いた。 落ち着くと、字が「謝の顔」をする。 謝の顔は、痛くない。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 母が父を見て、頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父の「言」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 父の「射」は、最後の払いが少し尖った。 尖るのに刺さらない。 刺さらないのは、その尖りが“まっすぐ”を守ろうとしている尖りだからだ。

 書き終えた父が、ふっと息を吐いた。 軽い息。 軽いのに、笑いじゃない。 軽い息は「ここまで」の息。

「……謝、って字……ありがとうと一緒ってのが、いいな」

 母は「うん」とだけ返した。 折り目のある「うん」。

「謝れるってのはな……まだ“返せる”ってことだに。声で」

 返せる。 幹夫は胸の奥で、息をひとつ転がした。

 ――いき。

 母は「謝」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、言葉の角を丸くする印みたいに見えた。

 夜。 灯りが落ちる前、父が布団の中から小さく言った。

「……幹夫」

 呼ばれると、胸の奥がぽん、と鳴る。 鳴ったから、息。

 ――いき。

「……うん」

 父は少し間を置いて、ぽつりと言った。

「……今日、魚、落としただら」

 落とした。 言える。 言えると、痛さは少し丸くなる。

「……すまねぇ、って言ったら……戻れた」

 戻れた。 その言葉で、幹夫の喉の奥が熱くなった。 熱いのに、息ができる熱さ。

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「うん。……謝は、道だに」

 父の息が、ふっと落ちていった。 落ちていく息は、布団の奥へ戻っていく息だった。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

 > あやまる も> ありがとう も> しゃ だに> ことば を> おく ように> いき> うん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

> みきぼう  
> きのう  
> さかな おとした  
> すまねぇ いえた  
> ありがとう も いえた  
> すこし  
> かるい

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――小さな紙片に、鉛筆で矢みたいなものが一本描いてある。 先が尖っているのに、紙の端が丸く切られている。 丸い端。 刺さらないための丸。 紙片の隅に、父の震える字で小さく、

 > しゃ

 とだけ書いてあった。

 幹夫はその紙片を胸に当てて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 謝る。 ありがとう。 どっちも、言葉を置く。 置けたら、少し軽い。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、「すこしかるい」という父の字は届いた。 届いた軽さを落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日の言葉も、刺さらない形で、そっと置いていこうとしていた。

 
 
 

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