謝の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月7日
- 読了時間: 9分

朝の光は、台所の鍋のふちを一度だけ白くしてから、畳の目に落ちた。 白いところがあると、家の中の「ここ」が増える。 増えると、胸の中の走りは少し遅くなる。
祖母が味噌を溶く音。 母が布巾を絞る音。 そして、縁側で木の玉が転がる音。
くる、くる。 止まって、少し。 また、くる。
「みき」と彫られた木の玉は、父の指の腹に乗ると、どこか嬉しそうに回った。 回るのに、急がない回り方。 急がない回り方は、息に似ている。
父が玉を止めて、ぽつりと言った。
「……今日は……買いに行く」
買いに行く。 それだけの言葉なのに、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、「続き」の鳴り方だ。
母は鍋の火を見ながら、声を急がせないまま返した。
「魚か」
「……干し芋、もらったで。……礼、終わったら……次は、こっちも暮らす」
暮らす。 父の口から「暮らす」が出るのが、幹夫にはまだ不思議だった。 不思議なのに、嬉しい。 嬉しいと胸が走りそうになるから、幹夫はポケットの石を握って、口の中で言った。
――いき。
母は「うん」とだけ頷いて、草履を玄関へ寄せた。 寄せ方が丁寧すぎない。 丁寧すぎないと、生活の手つきになる。
「幹夫、行くか」
幹夫は頷いた。 頷く前に、いちど息を入れる。
――いき。
父は戸口で、いちど止まった。 止まって、少し。 歩の字のとおり。 止まった「間」に、幹夫の胸も落ち着く。
父が小さく言った。
「……みき坊、頼む」
頼む。 手がつながる言葉。 幹夫は小さく返した。
「……うん」
父の肩が、ふっと落ちた。 落ちると、息が入る。
道は朝の湿り気を残していた。 砂利の黒。 潮の匂い。 遠くの波は、相変わらず丸い。
市場のほうへ近づくと、声が増える。 伸びる声。 短い声。 笑い声。 桶の水が跳ねる音。
音が増えると、胸も増える。 増える胸は、走りやすい。 走りそうになったから、幹夫は息をひとつ入れた。
――いき。
父の歩幅は小さい。 小さいのに、確か。 確かな足は、音の中でも転びにくい。
魚屋の前で、父は少し離れて立った。 近づきすぎない距離。 近づきすぎないと、逃げなくてすむ。
魚屋の親方が、父に気づいて、声を落とした。
「……おう。戻ったか」
戻ったか。 余計な飾りのない言葉。 飾りがないと、痛くない。
父は返事まで少し間があった。 その間に、幹夫は息を入れた。
――いき。
「……ああ。……少しずつだら」
少しずつ。 父の口から出ると、その言葉は道に座る。
親方は頷いて、魚を並べた桶のふちを布で拭いた。 拭く音は、さら、さら。 さら、さらは、縫い箱の紙の音に似ている。
「今日は、何にする」
父は桶を見た。 見て、見て、見て――それから口を開いた。
「……小さいの……二尾」
小さいの。 少し。 父は、無理のない言葉を選ぶようになっていた。
そのとき、後ろで――がん、と金属がぶつかる音がした。 釘の入った箱か、秤の鎖か。 硬い音。
父の背中が、一瞬で固くなった。 固くなると、空気が尖る。 尖ると、幹夫の胸の中の警報も尖りかける。
だから、息。
――いき。
父の手が、持っていた銭を落としそうになって、指がぎゅっとなる。 ぎゅっとなって、でも落とさない。 落とさないぎゅっは、戻ろうとするぎゅっだ。
幹夫は、声を大きくしないまま言った。
「……がん、って音。……秤だに。たぶん」
たぶん、の逃げ道。 逃げ道があると、言葉は刃になりにくい。
父はすぐ頷かなかった。 目が遠い。遠いのに、逃げない。 そして、息をひとつ、ゆっくり吐いた。
「……秤、か」
言えた。 言えると、音は音のままでいられる。
ところが、父の肘が桶の縁に当たって――桶が少し揺れた。 水が跳ねて、魚が一尾、桶の外へ滑った。
ぱしゃ。 ぴち。
魚が地面で跳ねる音。 跳ねる音は小さいのに、胸の奥へ刺さりやすい。
父の顔が固くなった。 固さの中に、怖さと、別のものが混じった。 怖さだけじゃない。 恥ずかしさの固さだった。
幹夫の胸がきゅっと鳴った。 きゅっと鳴ったから、息。
――いき。
父が、魚へ手を伸ばしかけて、止まった。 止まる。 止まって、少し。 でも「少し」が、今日は動かない「少し」だった。
親方がすぐしゃがんで、魚を布で包むように拾った。 拾い方が急がない。 急がないのに、落とさない。
「大丈夫だ。魚ぁ、跳ねるもんだに」
親方の言い方は、祖母の言い方に少し似ていた。 暮らしの言い方。 暮らしの言い方は、胸の角を丸くする。
父の喉が、ごくりと動いた。 動いて、言葉が出ない。 出ない言葉が喉に詰まると痛い。
幹夫は石を握りしめて、胸の中で言った。
――いき。
すると父が、やっと声を出した。
「……すまねぇ」
小さい声。 小さいのに、ちゃんと届いた。 届いたのは親方にだけじゃない。 幹夫の胸にも届いた。
父は続けて、さらに小さく言った。
「……迷惑、かけた」
迷惑。 その言葉には、父の「申し訳ねぇ」が丸められて入っていた。 丸められているから、刺さらない。
親方は、笑わなかった。 大げさに笑うと刃になるのを知っている笑わなさで、ただ頷いた。
「迷惑じゃねぇ。戻ってきて、ここに立ったのが上等だに」
上等。 その言葉で、父の肩がほんの少し下がった。 下がると、息が入る。
父は、銭を親方の手へ置くように渡した。 投げない。 落とさない。 置くように。
親方が包み紙に魚を入れて、父へ渡した。 渡す。 受ける。 父の手が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……ありがとう」
父が言った。 「すまねぇ」のあとに、「ありがとう」。 二つの言葉が並ぶと、幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、胸の奥の道が太くなっている鳴り方だ。
帰り道、父はしばらく何も喋らなかった。 喋らないのに、黙ってもいなかった。 足音が「居る」足音だった。
家の角が見えたころ、父がぽつりと言った。
「……すまねぇ、って……言うの、腹が要るな」
腹が要る。 祖母の言葉みたいなのに、父の声は優しかった。 腹の奥から出した声だからだ。
幹夫は返事の前に、息をひとつ入れた。
――いき。
「……言えた」
自分でも少し乱暴な言い方だと思った。 でも父は怒らなかった。 父は、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「……言えた。……助かった」
助かった。 その「助かった」が、幹夫の胸をあたためた。 幹夫が何かをしたというより、父が父を戻した、その途中で出た「助かった」だった。
母が台所から顔を出しすぎずに言った。
「買えた?」
父は短く答えた。
「……買えた。……落としたけど、拾ってもらった」
落としたけど。 隠さない言い方。 隠さないと、胸の中で固くならない。
母は「うん」とだけ返した。 縫い箱の下の「うん」みたいな、折り目のある「うん」。
祖母が鍋をかき回しながら、淡々と混ぜた。
「落としたら拾えばいい。拾ってもらったら礼だ。飯だ」
飯だ、で話が終わる。 終わり方が、家を家に戻す。
昼前。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
謝
幹夫は、その字を見て、さっきの父の「すまねぇ」を思い出した。 言えた「すまねぇ」。 言えたから、魚は魚のままでいられた。 音は音のままでいられた。
母は左側を指でなぞった。
「こっちは言だに。言葉」
次に右側をなぞった。 細かい線が、どこか矢みたいに見える。
「こっちは……“射る”みたいな形だに。矢を放つやつ」
矢。 矢はまっすぐ飛ぶ。 まっすぐ飛ぶものは、刺さることもある。
母は少し間を置いて、息をひとつ入れた。
「謝るってのはな……言葉を、刺さらんように出すことだに」
刺さらんように。 丸くして。 置くように。
母は続けた。
「それとな、これ……“感謝”も同じ字だに。ありがとうも、すまんも、同じ“謝”が入っとる」
同じ。 ありがとうと、すまん。 違うのに、同じ字。 幹夫の胸の奥が、すとん、と座った。
父が新聞紙の「謝」を見て、ぽつりと言った。
「……俺、謝ると……向こうの顔が浮かぶ」
向こう。 遠い場所。 番号で呼ばれた場所。 幹夫の胸がきゅっとなる。
きゅっとなったから、息。
――いき。
母は否定しなかった。 息をひとつ入れて、低く言った。
「うん。……浮かんでもええ。浮かんだら、ここへ戻す。謝るってのは、戻す道にもなるだに」
戻す。 返。 渡。 受。 礼。 そして、謝。 字が、道の上で手をつないでいく。
父はしばらく「謝」を見ていて、それから小さく言った。
「……今日の“すまねぇ”は……ここへ置けた気がする」
置けた。 投げないで、置く。 父の合言葉が、また増えた。
幹夫は鉛筆を握った。 言を書く。 射を書く。 一回目の「謝」は、射が大きくなりすぎて、字が尖った顔になった。 尖ると刺さりそうで、胸がきゅっとする。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「尖ったらな……言葉のほうを太らせりゃええ。言葉は、相手の胸に置くもんだに」
置く。 置く言葉。 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「謝」は、少し落ち着いた。 落ち着くと、字が「謝の顔」をする。 謝の顔は、痛くない。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
母が父を見て、頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。
父の「言」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 父の「射」は、最後の払いが少し尖った。 尖るのに刺さらない。 刺さらないのは、その尖りが“まっすぐ”を守ろうとしている尖りだからだ。
書き終えた父が、ふっと息を吐いた。 軽い息。 軽いのに、笑いじゃない。 軽い息は「ここまで」の息。
「……謝、って字……ありがとうと一緒ってのが、いいな」
母は「うん」とだけ返した。 折り目のある「うん」。
「謝れるってのはな……まだ“返せる”ってことだに。声で」
返せる。 幹夫は胸の奥で、息をひとつ転がした。
――いき。
母は「謝」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、言葉の角を丸くする印みたいに見えた。
夜。 灯りが落ちる前、父が布団の中から小さく言った。
「……幹夫」
呼ばれると、胸の奥がぽん、と鳴る。 鳴ったから、息。
――いき。
「……うん」
父は少し間を置いて、ぽつりと言った。
「……今日、魚、落としただら」
落とした。 言える。 言えると、痛さは少し丸くなる。
「……すまねぇ、って言ったら……戻れた」
戻れた。 その言葉で、幹夫の喉の奥が熱くなった。 熱いのに、息ができる熱さ。
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「うん。……謝は、道だに」
父の息が、ふっと落ちていった。 落ちていく息は、布団の奥へ戻っていく息だった。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
> あやまる も> ありがとう も> しゃ だに> ことば を> おく ように> いき> うん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
> みきぼう
> きのう
> さかな おとした
> すまねぇ いえた
> ありがとう も いえた
> すこし
> かるい
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――小さな紙片に、鉛筆で矢みたいなものが一本描いてある。 先が尖っているのに、紙の端が丸く切られている。 丸い端。 刺さらないための丸。 紙片の隅に、父の震える字で小さく、
> しゃ
とだけ書いてあった。
幹夫はその紙片を胸に当てて、息をひとつ入れた。
――いき。
謝る。 ありがとう。 どっちも、言葉を置く。 置けたら、少し軽い。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、「すこしかるい」という父の字は届いた。 届いた軽さを落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日の言葉も、刺さらない形で、そっと置いていこうとしていた。





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