謝の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月17日
- 読了時間: 9分

朝の海は、きのうより少しだけ白かった。 白いのに、冷たくない。 冷たくない白は、胸の奥の角を丸くする。
ちゃぶ台の端の「まちばこ」は、今日も空っぽだった。 空っぽは、来る場所。 来る場所があると、胸の中にも余地ができる。
幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
縁側の端で、父が何かを探していた。 探し方が、荒くない。 荒くないけれど、手が同じところを何度も触っている。 “ここにあるはず”の触り方。
父がぽつりと言った。
「……布……どこだ」
布。 会うときの布。 戸口に敷く布。
幹夫は、胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
「……父ちゃん、布、なくなった?」
父は一瞬だけ眉の間を寄せて、それから、寄ったままでも刃にならない声で言った。
「……おきぬさんの家の前に……敷いた。……たぶん、置いてきた」
置いてきた。 置いたはずのものが、戻ってこない。 “戻らない”は、胸を走らせる日がある。
父の肩がふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。
――いき。
台所の境目から母が顔を出した。 鍋の湯気の匂いを連れている。
「布なら……返してもらいに行けばええだに。置いたんじゃなくて、忘れただけだに」
“忘れただけ”。 その言い方が、重いものを軽くする。
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「忘れたら謝れ。……謝って、返してもらえ。終いだに」
謝れ。 その一言が、父の胸の奥の硬いところを叩いたみたいに見えた。
父が小さく息を吐いた。
ふう……。
「……謝るの……苦手だ」
苦手。 父が“苦手”と言うとき、そこには怖さが混ざっている。 怖さを“苦手”に言い換えると、入口が見つかる。
幹夫は返事を急がなかった。 急ぐと、励ましが押しつけになる日がある。 だから、間。
――いき。
母が急がせない声で言った。
「苦手でもええ。……布は、借りたもんじゃないけど、相手の家に置いてきたもんだに。『すみません』って置けば、胸が刺さらん」
“置けば”。 言葉も置ける。 置けると、投げないで済む。
父はしばらく黙って、それからぽつりと言った。
「……みき坊……一緒に行くか」
一緒に。 その二文字が、幹夫の胸の奥でぽん、と鳴った。
鳴ったから、息。
――いき。
「うん」
父は懐に手を入れて、丸い角の札――「ま/息」を指でつまんだ。 つまんで、撫でる。 撫でると、手が戻る。
父が低く言った。
「……ま、持ってく」
道は潮と砂と、どこか鉄の匂いが混ざっていた。 蒲原の道は、混ざる匂いでできている。 混ざるけれど、ちゃんと分かれる。 海の匂いと、線路の匂いと、人の匂い。
おきぬさんの家の前で、父の足が止まった。 止まって、少し。 その少しに、幹夫は息を入れた。
――いき。
父は、戸口の硬い地面にいきなり立つんじゃなく、いったん端へ寄った。 端は逃げ道がある。 逃げ道があると、胸が潰れにくい。
父が懐から小さな布を出した。 自分の置き布の切れ端。 それを戸口の前にそっと敷く。
とん。
音が眠る。
父が戸を叩く。
とん、とん。
戸が開いて、おきぬさんが顔を出した。 今日は猫の耳が、戸の陰からちらりと見えた。 見えたのに、出てこない。 出てこないのは、家の中に“ここまで”ができたからかもしれない。
「あら、兄さん。みき坊も。……どうしただに」
父の肩がふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、父は自分で息を吐いた。
ふう……。
父は、いきなり言葉を投げない。 まず、戸口の布の上に、ま札をそっと置いた。
とん。
小さい音。 小さい音は眠る。
父が低く言った。
「……ま」
それから、置き布を探すみたいに、目だけで戸口の端を見た。 おきぬさんが、気づいたように言った。
「ああ! これだに!」
おきぬさんは、戸の内側から、父の布を持ってきた。 ……布は、洗ってあった。 潮の匂いが落ちて、ほんの少し石けんの匂いがする。 匂いが変わると、同じ布でも“戻ってきた”感じがする。
角のところに、小さい縫い目。 返し縫い。 抜けないように、戻って固めた縫い目。
「勝手に洗ってごめんねぇ。……置き布、ええなと思ってさ。うちも真似しようと思っただよ。角、ほつれとったで縫っといた」
縫っといた。 おきぬさんの“返し”。 返された布が、少しだけ強くなっている。
幹夫の喉の奥が熱くなった。 熱いと走りそうだから、息をひとつ入れる。
――いき。
父は布を受け取ろうとして、いきなり掴まない。 まず、戸口の布の上にそっと置いて、目で確かめた。 確かめると、胸の中に皿ができる。
父の口が動きかけて、止まる。 止まるとき、言葉が胸の中で引っかかっている。
父は懐のま札の角を指で撫でた。 撫でて、間を作る。 間に、息。
――いき。
父が、やっと言った。
「……すみません」
小さい声。 でも、ちゃんと外へ出た声。 “謝り”が、刃じゃなく置かれた。
おきぬさんが目を丸くして、それから首をぶんぶん振った。
「そんな、そんな! 謝ることじゃないだに。……布、助かったくらいだに」
父はそこで、言葉がもう一つ引っかかっている顔をした。 引っかかっているのは、“ありがとう”。
父の喉がごくりと動く。 動いて――息を吐く。
ふう……。
「……ありがとう」
昨日より、少しだけ丸い声だった。 丸いと、刺さらない。 刺さらないと、相手の胸が落ちる。
おきぬさんの肩が、ふっと落ちた。
「……こっちこそだに。兄さんが“ありがとう”って言ってくれると、なんか……ほんと、落ち着く」
落ち着く。 返ってくる言葉。 返ってきた言葉は、父の胸の中の道を広げる。
父は布を畳みながら、ぽつりと言った。
「……縫い目……返し縫い、だな」
おきぬさんが笑った。
「知らんでやっただに。……でも、抜けんようにって気持ちは同じだに」
抜けんように。 続くように。 結び目の“ま”みたいに。
戸の陰の猫が、父のほうをちらりと見て、すぐ目を逸らした。 逸らす目は、まだ恥ずかしい目。
父が低く言った。
「……巣は……ここまでだ」
“ここまで”。 境の言葉。 でも、今日は怒りじゃなく、守りの言い方だった。
おきぬさんが頷く。
「うん。……わかった。うちも“ここまで”作る。布も敷く」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……それが……ええ」
短い“ええ”。 短いのに、やわらかい。
帰り道、父は布の縫い目を指で撫でながら歩いた。 撫でると、手が戻る。 手が戻ると、胸も戻る。
父がぽつりと言った。
「……すみません、って……言うと……胸が軽くなるな」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……言葉、出たら、ほどける」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……でも……言葉って……刺さることもあるだろ」
幹夫は、その問いの“やさしさ”に胸が熱くなった。 父が“刺さる”を気にしている。 そのまま熱くすると走りそうだから、息。
――いき。
「……うん。……だから、ま。……息」
父は小さく頷いた。
「……ま、と……息……それが弓みてぇだな」
弓。 父の言い方は、刃の話じゃない。 “放つ”ための仕組みの話だった。
「……言葉は……放つ。……胸に溜めると……重くなる」
放つ。 外へ出す。 出したら、戻ってくることもある。 戻ってきたら、固まる。
幹夫は袋を押さえて、胸の中で言った。
――いき。
夕方。 飯の匂いが家の奥へ落ち着いたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は今日も痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
謝
幹夫はその字を見た瞬間、父の「すみません」と「ありがとう」が、戸口の布の上に置かれたみたいに思えた。 置けた言葉は、刺さらない。
母は左側を指でなぞった。
「こっちは言だに。……ことば」
ことば。 置くことば。 伝えることば。 返すことば。
母は右側をなぞった。
「こっちは射(しゃ)だに。……射る、って字。放つってこと」
放つ。 外へ出す。 でも、撃つじゃない。 刺すじゃない。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「謝るってのはな……言葉を、胸の中から外へ放って、相手に届くところへ置く字だに。溜め込むと胸が重くなる。放つと軽くなる。……でも狙いが尖ると刺さるでな。だから、ま。息。丸く放つ」
丸く放つ。 その言い方が、幹夫の胸の奥にすとん、と座った。
母は続けた。
「それとな、謝るは“ごめんね”だけじゃない。……“ありがとう”も謝だに。どっちも、言葉を外へ出して、相手の胸を落ち着かす」
父が新聞紙の「謝」を見て、ぽつりと言った。
「……俺、謝って……負けるみてぇで……嫌だった」
母は否定しなかった。 低く言った。
「負けじゃないだに。……胸の重さを相手に投げないための“守り”だに。謝るのは、自分も相手も守る」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「謝れりゃ飯がうまい。……謝れんと腹が荒れる。荒れたら負けだに」
父が小さく息を吐いた。
ふう……。
「……守りか」
その声は、まだ震えている。 でも、折れていない。
幹夫は鉛筆を握った。 謝を書く。
一回目の「謝」は、射の線が尖って、字が硬い顔になった。 硬いと、言葉が刃に見える。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「尖ったらな……言を太らせりゃええ。言葉に飯の温度を入れる。……息、入れてから」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「謝」は、言がふっくらして、射が少し丸く座った。 座ると、刺さらない字になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「謝」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、点を置いた。
「……点、置くと……言葉が落ち着くな」
母が小さく頷いた。
「うん。……落ち着いた言葉は、刺さらん。刺さらんと、続く」
母は「謝」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、戸口の布の上に置いた言葉みたいに見えた。
夜。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。
おきぬ さんぬのかえって きたすみませんいえたありがとういえた謝 って じことば を はなすま と 息 が いるむねすこし かるいいき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……謝るの、こわい日もある」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……でも、言えたら、返ってくる。……落ち着くって」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……落ち着く、って返ってくるの……嬉しいな」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「嬉しいって言えるのも謝だに。……言葉、放てただに」
祖母が淡々と言う。
「放てりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 謝れる明日。
幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
あやまる と ありがとう はおなじ 謝 の じ なんだねきょうとうちゃんすみません いえたありがとう も いえたこえまるかったぼくうれしかったいき
最後に、小さく「謝」。 丸をひとつ。 置いた言葉の丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは父の「すみません」が出る前の“間”の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
謝 はことば を はなしてま を つくってささらん ように おくありがとう も ここうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうすみませんいえたありがとういえたこわかった けどま して息 してはなせた謝 って じすこしおれ の むね の かたさとける
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――小さな木の札。 片面に「すまん」。もう片面に「ありがとう」。 角は丸く削ってあって刺さらない。 札の端に、父の震える字で小さく、
謝
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその札を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
謝る。 ありがとう。 どっちも、言葉を外へ出して、相手の胸に置く。 まを作って、息を通して、丸く放つ。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、「すみません」と「ありがとう」の小さな札は届いた。 届いた“放てた言葉”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、胸の中の重さを、刺さらない形で外へ置いていった。







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