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迎の字

 「明後日、午の刻」――その二日目の朝、母はまだ暗いうちに起きていた。 暗いうちの家は、音が少ない。音が少ないと、ひとつの音が大きくなる。 布巾が桶の水を吸う音。 縫い箱のふたが、かちり、と鳴る音。 控え帳の紙をそろえる音。

 母は机を拭いて、拭き終わっても、また拭いた。 拭くのは、汚れを取るためだけじゃない。 「ここに居る」を確かめるためだ、と幹夫は思った。 手が動いていると、心が散らばりにくい。

 ちゃぶ台の上に、紙が並んでいる。 許可。 届出の控え。 面会の紙。 受領証。 束ねた紐の結び目。

 母は、幹夫の丸い石をいちど手に取り、指の腹で撫でた。 冷たい。 冷たいのに、落ち着く冷たさ。 母はその石を、紙の端じゃなく、結び目の真上にそっと置いた。

 結び目が跳ねないように。 言葉がほどけないように。

「……よし」

 母が小さく言った。 その「よし」は、嬉しいよしじゃなくて、崩れないよしだった。

 幹夫は布団から出て、内ポケットの鉛筆を確かめた。 竹の継ぎ目。硬い。 硬さがあると、今日みたいな日に自分の形が崩れにくい。

 台所から祖母の声。

「握り飯、固めにしといたで。昼、口が乾くら」

 固め。 固めるのは、崩れないため。 崩れないための固さは、泣かないための固さにも似ている。

 母は風呂敷をもう一枚出した。 いつもの風呂敷の上に、さらに重ねる。 重ねると、薄い紙が少しだけ厚くなる。厚くなると、怖さが飛びにくい。

 押し入れの奥から、父の古い上着が出てきた。 潮の匂いが、まだ薄く残っている。 古い匂いなのに、胸の奥をいちばん新しく触る匂い。

 母はその上着を膝に広げ、縫い目を確かめた。 入って、出る。 戻って、進む。 針は今日も、声の代わりに働く。

「母ちゃん……それ、持ってくの?」

 幹夫が聞くと、母は針を止めずに頷いた。

「うん。……寒いかもしれんでな」

 寒い。 その「寒い」は、天気の寒さだけじゃない気がした。 白い面会室の匂い。 薬くさい匂い。 あの目の遠さ。 そういう寒さも、母は知っている。

 戸口の外で足音が止まった。 空っぽの袖の男が立っていた。帽子を手に持ち、今日は笑おうとして、笑いきれない顔をやめている。 やめている顔は、決める顔だった。

「行くか」

 男が言う。 母は短く頷いた。

「……行く」

 祖母は戸口で、母の背中を一度だけ撫でた。 撫で方が、送り出す撫で方だった。帰ってくる場所を残す撫で方。

「幹夫」

 祖母が言う。

「行ったら、息ぇ忘れんな。胸だけ走ると、足が転ぶ」

 幹夫は頷いた。 胸が走るのは止められない。 でも、息は入れられる。

 幹夫は上着のポケットの石を握った。 丸い石。冷たい。重い。 重いのに痛くない。角がないから。

 ――いき。

 口の中で言うと、石の重さが少しだけ息に変わる。

 汽車の中、母は窓を見なかった。 見ない代わりに、風呂敷包みを腹んとこで押さえ続けた。 押さえる指が、ときどき強くなる。強くなるたび、幹夫は石を握り直した。

 空っぽの袖の男は、窓の外を見ていた。 海は遠い青で、港へ近づくほど匂いが濃くなる。 潮に油が混じる匂い。木と縄が濡れている匂い。 匂いが多い場所は、声も多い。声が多いと、胸の中の警報は一度、どこに合わせればいいか迷って静かになる。

 静かになると、逆に怖さが輪郭を持つ。

 清水に着くと、日が高かった。 午の刻へ向かって、光がまっすぐ落ちている。 まっすぐな光は、影を短くする。短い影は、逃げない影だ。

 役場の廊下は相変わらず白い。 白い壁。白い紙。白い天井。 白はきれいなのに冷たい。冷たい白は、決める前の白。

 案内された先の札に、太い字があった。

 引渡し

 母の喉が、ほんの少し動いた。 幹夫はその動きを見てしまう。 見てしまうと、見なかったことにできない。 でも今日は、見て、息を入れた。

 ――いき。

 扉の前で、役場の人が言った。

「準備ができたら、お呼びします」

 準備。 準備は、もうずっと続いている。 紙をそろえて、束ねて、歩かせて、返ってきて、また束ねる。 準備は終わったことがなくて、今日も続きの準備だ。

 待合いの椅子は硬かった。 硬い椅子に座ると、背中が勝手にまっすぐになる。 まっすぐになると、心もまっすぐでいなければいけない気がして、苦しい。

 母は膝の上で風呂敷包みを押さえた。 押さえているのに、指先が少し震える。 震えは寒さじゃない。 「来る」が、現実になる震えだ。

 空っぽの袖の男が、低い声で言った。

「……迎え、ってやつだな」

 迎え。 その音が、幹夫の胸に引っかかった。 迎えは、駅で誰かを待つ音。 迎えは、手を伸ばす音。 迎えは、知らない誰かが知っている人になる音。

「むかえ、って……」

 幹夫が言いかけたとき、母が小さく頷いて、新聞紙じゃなく、控え帳の端に鉛筆を走らせた。 こんな場所でも、母は「字」で息を作ろうとする。

 母は、空中に小さく書いた。

 迎

「左は、歩くとこ。辶だに」

 母の指が空中をなぞる。

「右は……顔を上げるみたいな形。人を迎えるとき、顔、上げるだろ」

 顔を上げる。 幹夫は昨日の白い部屋で、あの男がゆっくり顔を上げた瞬間を思い出した。 顔が上がった瞬間、目が合って、息がどこかへ行った。

 迎える、というのは、あの一瞬を受け止めることなのかもしれない。

 母は続けた。

「迎えに行くってのはな……向こうから来るのを待つだけじゃない。こっちも歩く」

 こっちも歩く。 その言い方が、幹夫の胸を少しだけ押した。 押されると、逃げたくなるのに、今日は逃げたくなかった。 歩く、って言葉が、道を作るからだ。

 ちょうどそのときだった。 窓の外から、長い音がした。

 うぅ――――。

 サイレンみたいな音。 工場の合図か、港の合図か、幹夫には分からない。 でも、その音は確かに胸に届いた。 蒲原では聞こえなかった種類の、腹の底まで届く音。

 幹夫の肩が、きゅっと上がった。 怖い、が先に来る。 来た瞬間、母の手が幹夫の手首を掴んだ。

「だいじょうぶ」

 母は低く言った。倒れない低さ。 倒れない低さがあると、音は音のままでいられる。 音が刃にならない。

 空っぽの袖の男が、ぽつりと言った。

「……ここじゃ届くら」

 ここじゃ届く。 蒲原じゃ届かなかった。 場所が違うだけで、胸の中の音も変わる。 幹夫はそのことが、少し悔しくて、少し安心だった。 届く場所があるなら、届くものもある。

 「みき坊」みたいに。

「お呼びします」

 役場の人が言った。 言っただけで、母の背中が一段固くなった。 固いのに、立つ。 立てる固さは、崩れないための固さだ。

 扉が開く。 中から、薬くさい匂いが流れてくる。 白い匂い。消毒の匂い。 その匂いの向こうに、男が立っていた。

 面会のときより、もう少しちゃんと服を着せられている。 でも服の中の骨が細いのが分かる。 細いのに、折れていない。折れていない細さだった。

 男が顔を上げた。 左の眉の上の細い傷が、光で少しだけ見えやすい。

 母が息を吸った。 吸う音は聞こえないのに、幹夫には分かった。 吸って、吐かないで、いったん胸の中へしまう。 そのしまい方は、縫い箱の下へ紙を差し込むときと似ていた。

 役場の人が淡々と言う。

「では……引き渡します。こちら、書類に署名を」

 紙が出る。 紙が出ると、世界が紙の速度になる。 速いのに遅い。 遅いのに決まる。

 母が署名をした。 文字がまっすぐで、最後の一画だけが少し震えた。 震えは怖さだけじゃない。触れてしまった証拠だ。

 男が、母を見た。 見方が遠いのに、今日は少しだけ近かった。

「……おまえさん」

 声が出た。 声が出た瞬間、母の肩がほんの少しだけ落ちた。 落ち方が、安心の落ち方だった。

 次に男の目が、幹夫へ来る。 目が来るまでの“間”が、やっぱり長い。 でも今日は、その間に幹夫は息を入れられた。

 ――いき。

 幹夫は石を握り直した。 冷たさが、熱くなりすぎた胸を丸くする。

 男の口が動く。 動いて、止まって、もう一度動いて――

「……みき坊」

 声は小さかった。 小さいのに、届いた。 届いた声は、紙より先に胸へ来る。

 幹夫は、なぜだか頷けなかった。 頷いたら、全部が本当になってしまう気がしたからだ。 本当になるのが怖い。 でも怖いのに、逃げたくはない。

 母が、幹夫の背中を指の腹で一度だけ押した。 押し方が、押すんじゃなく、支える押し方だった。

 幹夫は、小さく息を吐いて、やっと言えた。

「……うん」

 声の「うん」はすぐ消える。 でも、その「うん」は、消えていい「うん」だった。 消えても、もう一度呼ばれたら戻れる「うん」だった。

 空っぽの袖の男が、帽子を胸に押さえたまま、低く言った。

「……迎え、できたな」

 迎え。 迎えは、足が止まる。 でも迎えは、そこから一緒に歩き始める。

 役場の扉を出ると、午の光がまっすぐだった。 まっすぐな光が、三人と一人――四つの影を地面に並べた。 影はくっついて歩く。 今日は、そのくっつき方が少しだけ変わった。

 夜、蒲原へ戻る汽車の中で、母は何度も何も言わずに窓の外を見た。 見て、見て、見て――そして一度だけ、目を伏せた。 伏せた目は、折り畳んだ声の形だった。

 幹夫は、自分の帳面を開いて、揺れる車内でひらがなを書いた。

 > むかえ って > こわいけど > いっしょに あるく はじまり

 その横に、母の空書きを思い出して「迎」を置こうとした。 辶が走りすぎて、右の形が小さくなった。 小さくなった右の形が、顔を上げられないみたいで、胸がきゅっとした。

 母が、隣で小さく言った。

「ええ」

 転んでもいい「ええ」。

「迎はな……きれいに書く字じゃない。歩きながら、覚える字だに」

 歩きながら、覚える。 その言葉が、幹夫の胸の奥に静かに座った。

 家に着くと、祖母が戸口に立っていた。 祖母は何も言わず、ただ一度だけ、母の顔を見て頷いた。 頷きは、言葉よりやさしいときがある。

 幹夫は、その夜、小さな紙に封筒の形を描いて、宛名に「おかあちゃんへ」と書いた。

 > むかえ って > ほんとに あし が とまるね > でも いき を いれたら > あるけた

 最後に、小さく「迎」。 丸をひとつ。 足が止まった場所にも、息の場所を残す丸。

 縫い箱の下へ差し込む指先が、少し震えた。 震えは恥ずかしさと、今日の熱の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝、縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、母の字だった。

 > むかえる は > まつ じゃなくて > いっしょに あるく ってこと > こわいときほど > いき > うん

 最後に、小さな丸。

 幹夫は紙を胸に当てた。 紙が体温を吸って、少しだけしなる。 しなる音が、返事の音に聞こえた。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、清水の長い音は届いた。 そして――「みき坊」という呼び方も、また届いた。

 届いたものを落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして、四つになった影の歩幅を、そっと自分の中で揃えようとしていた。

 
 
 

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