迎の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月7日
- 読了時間: 8分

「明後日、午の刻」――その二日目の朝、母はまだ暗いうちに起きていた。 暗いうちの家は、音が少ない。音が少ないと、ひとつの音が大きくなる。 布巾が桶の水を吸う音。 縫い箱のふたが、かちり、と鳴る音。 控え帳の紙をそろえる音。
母は机を拭いて、拭き終わっても、また拭いた。 拭くのは、汚れを取るためだけじゃない。 「ここに居る」を確かめるためだ、と幹夫は思った。 手が動いていると、心が散らばりにくい。
ちゃぶ台の上に、紙が並んでいる。 許可。 届出の控え。 面会の紙。 受領証。 束ねた紐の結び目。
母は、幹夫の丸い石をいちど手に取り、指の腹で撫でた。 冷たい。 冷たいのに、落ち着く冷たさ。 母はその石を、紙の端じゃなく、結び目の真上にそっと置いた。
結び目が跳ねないように。 言葉がほどけないように。
「……よし」
母が小さく言った。 その「よし」は、嬉しいよしじゃなくて、崩れないよしだった。
幹夫は布団から出て、内ポケットの鉛筆を確かめた。 竹の継ぎ目。硬い。 硬さがあると、今日みたいな日に自分の形が崩れにくい。
台所から祖母の声。
「握り飯、固めにしといたで。昼、口が乾くら」
固め。 固めるのは、崩れないため。 崩れないための固さは、泣かないための固さにも似ている。
母は風呂敷をもう一枚出した。 いつもの風呂敷の上に、さらに重ねる。 重ねると、薄い紙が少しだけ厚くなる。厚くなると、怖さが飛びにくい。
押し入れの奥から、父の古い上着が出てきた。 潮の匂いが、まだ薄く残っている。 古い匂いなのに、胸の奥をいちばん新しく触る匂い。
母はその上着を膝に広げ、縫い目を確かめた。 入って、出る。 戻って、進む。 針は今日も、声の代わりに働く。
「母ちゃん……それ、持ってくの?」
幹夫が聞くと、母は針を止めずに頷いた。
「うん。……寒いかもしれんでな」
寒い。 その「寒い」は、天気の寒さだけじゃない気がした。 白い面会室の匂い。 薬くさい匂い。 あの目の遠さ。 そういう寒さも、母は知っている。
戸口の外で足音が止まった。 空っぽの袖の男が立っていた。帽子を手に持ち、今日は笑おうとして、笑いきれない顔をやめている。 やめている顔は、決める顔だった。
「行くか」
男が言う。 母は短く頷いた。
「……行く」
祖母は戸口で、母の背中を一度だけ撫でた。 撫で方が、送り出す撫で方だった。帰ってくる場所を残す撫で方。
「幹夫」
祖母が言う。
「行ったら、息ぇ忘れんな。胸だけ走ると、足が転ぶ」
幹夫は頷いた。 胸が走るのは止められない。 でも、息は入れられる。
幹夫は上着のポケットの石を握った。 丸い石。冷たい。重い。 重いのに痛くない。角がないから。
――いき。
口の中で言うと、石の重さが少しだけ息に変わる。
汽車の中、母は窓を見なかった。 見ない代わりに、風呂敷包みを腹んとこで押さえ続けた。 押さえる指が、ときどき強くなる。強くなるたび、幹夫は石を握り直した。
空っぽの袖の男は、窓の外を見ていた。 海は遠い青で、港へ近づくほど匂いが濃くなる。 潮に油が混じる匂い。木と縄が濡れている匂い。 匂いが多い場所は、声も多い。声が多いと、胸の中の警報は一度、どこに合わせればいいか迷って静かになる。
静かになると、逆に怖さが輪郭を持つ。
清水に着くと、日が高かった。 午の刻へ向かって、光がまっすぐ落ちている。 まっすぐな光は、影を短くする。短い影は、逃げない影だ。
役場の廊下は相変わらず白い。 白い壁。白い紙。白い天井。 白はきれいなのに冷たい。冷たい白は、決める前の白。
案内された先の札に、太い字があった。
引渡し
母の喉が、ほんの少し動いた。 幹夫はその動きを見てしまう。 見てしまうと、見なかったことにできない。 でも今日は、見て、息を入れた。
――いき。
扉の前で、役場の人が言った。
「準備ができたら、お呼びします」
準備。 準備は、もうずっと続いている。 紙をそろえて、束ねて、歩かせて、返ってきて、また束ねる。 準備は終わったことがなくて、今日も続きの準備だ。
待合いの椅子は硬かった。 硬い椅子に座ると、背中が勝手にまっすぐになる。 まっすぐになると、心もまっすぐでいなければいけない気がして、苦しい。
母は膝の上で風呂敷包みを押さえた。 押さえているのに、指先が少し震える。 震えは寒さじゃない。 「来る」が、現実になる震えだ。
空っぽの袖の男が、低い声で言った。
「……迎え、ってやつだな」
迎え。 その音が、幹夫の胸に引っかかった。 迎えは、駅で誰かを待つ音。 迎えは、手を伸ばす音。 迎えは、知らない誰かが知っている人になる音。
「むかえ、って……」
幹夫が言いかけたとき、母が小さく頷いて、新聞紙じゃなく、控え帳の端に鉛筆を走らせた。 こんな場所でも、母は「字」で息を作ろうとする。
母は、空中に小さく書いた。
迎
「左は、歩くとこ。辶だに」
母の指が空中をなぞる。
「右は……顔を上げるみたいな形。人を迎えるとき、顔、上げるだろ」
顔を上げる。 幹夫は昨日の白い部屋で、あの男がゆっくり顔を上げた瞬間を思い出した。 顔が上がった瞬間、目が合って、息がどこかへ行った。
迎える、というのは、あの一瞬を受け止めることなのかもしれない。
母は続けた。
「迎えに行くってのはな……向こうから来るのを待つだけじゃない。こっちも歩く」
こっちも歩く。 その言い方が、幹夫の胸を少しだけ押した。 押されると、逃げたくなるのに、今日は逃げたくなかった。 歩く、って言葉が、道を作るからだ。
ちょうどそのときだった。 窓の外から、長い音がした。
うぅ――――。
サイレンみたいな音。 工場の合図か、港の合図か、幹夫には分からない。 でも、その音は確かに胸に届いた。 蒲原では聞こえなかった種類の、腹の底まで届く音。
幹夫の肩が、きゅっと上がった。 怖い、が先に来る。 来た瞬間、母の手が幹夫の手首を掴んだ。
「だいじょうぶ」
母は低く言った。倒れない低さ。 倒れない低さがあると、音は音のままでいられる。 音が刃にならない。
空っぽの袖の男が、ぽつりと言った。
「……ここじゃ届くら」
ここじゃ届く。 蒲原じゃ届かなかった。 場所が違うだけで、胸の中の音も変わる。 幹夫はそのことが、少し悔しくて、少し安心だった。 届く場所があるなら、届くものもある。
「みき坊」みたいに。
「お呼びします」
役場の人が言った。 言っただけで、母の背中が一段固くなった。 固いのに、立つ。 立てる固さは、崩れないための固さだ。
扉が開く。 中から、薬くさい匂いが流れてくる。 白い匂い。消毒の匂い。 その匂いの向こうに、男が立っていた。
面会のときより、もう少しちゃんと服を着せられている。 でも服の中の骨が細いのが分かる。 細いのに、折れていない。折れていない細さだった。
男が顔を上げた。 左の眉の上の細い傷が、光で少しだけ見えやすい。
母が息を吸った。 吸う音は聞こえないのに、幹夫には分かった。 吸って、吐かないで、いったん胸の中へしまう。 そのしまい方は、縫い箱の下へ紙を差し込むときと似ていた。
役場の人が淡々と言う。
「では……引き渡します。こちら、書類に署名を」
紙が出る。 紙が出ると、世界が紙の速度になる。 速いのに遅い。 遅いのに決まる。
母が署名をした。 文字がまっすぐで、最後の一画だけが少し震えた。 震えは怖さだけじゃない。触れてしまった証拠だ。
男が、母を見た。 見方が遠いのに、今日は少しだけ近かった。
「……おまえさん」
声が出た。 声が出た瞬間、母の肩がほんの少しだけ落ちた。 落ち方が、安心の落ち方だった。
次に男の目が、幹夫へ来る。 目が来るまでの“間”が、やっぱり長い。 でも今日は、その間に幹夫は息を入れられた。
――いき。
幹夫は石を握り直した。 冷たさが、熱くなりすぎた胸を丸くする。
男の口が動く。 動いて、止まって、もう一度動いて――
「……みき坊」
声は小さかった。 小さいのに、届いた。 届いた声は、紙より先に胸へ来る。
幹夫は、なぜだか頷けなかった。 頷いたら、全部が本当になってしまう気がしたからだ。 本当になるのが怖い。 でも怖いのに、逃げたくはない。
母が、幹夫の背中を指の腹で一度だけ押した。 押し方が、押すんじゃなく、支える押し方だった。
幹夫は、小さく息を吐いて、やっと言えた。
「……うん」
声の「うん」はすぐ消える。 でも、その「うん」は、消えていい「うん」だった。 消えても、もう一度呼ばれたら戻れる「うん」だった。
空っぽの袖の男が、帽子を胸に押さえたまま、低く言った。
「……迎え、できたな」
迎え。 迎えは、足が止まる。 でも迎えは、そこから一緒に歩き始める。
役場の扉を出ると、午の光がまっすぐだった。 まっすぐな光が、三人と一人――四つの影を地面に並べた。 影はくっついて歩く。 今日は、そのくっつき方が少しだけ変わった。
夜、蒲原へ戻る汽車の中で、母は何度も何も言わずに窓の外を見た。 見て、見て、見て――そして一度だけ、目を伏せた。 伏せた目は、折り畳んだ声の形だった。
幹夫は、自分の帳面を開いて、揺れる車内でひらがなを書いた。
> むかえ って > こわいけど > いっしょに あるく はじまり
その横に、母の空書きを思い出して「迎」を置こうとした。 辶が走りすぎて、右の形が小さくなった。 小さくなった右の形が、顔を上げられないみたいで、胸がきゅっとした。
母が、隣で小さく言った。
「ええ」
転んでもいい「ええ」。
「迎はな……きれいに書く字じゃない。歩きながら、覚える字だに」
歩きながら、覚える。 その言葉が、幹夫の胸の奥に静かに座った。
家に着くと、祖母が戸口に立っていた。 祖母は何も言わず、ただ一度だけ、母の顔を見て頷いた。 頷きは、言葉よりやさしいときがある。
幹夫は、その夜、小さな紙に封筒の形を描いて、宛名に「おかあちゃんへ」と書いた。
> むかえ って > ほんとに あし が とまるね > でも いき を いれたら > あるけた
最後に、小さく「迎」。 丸をひとつ。 足が止まった場所にも、息の場所を残す丸。
縫い箱の下へ差し込む指先が、少し震えた。 震えは恥ずかしさと、今日の熱の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝、縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、母の字だった。
> むかえる は > まつ じゃなくて > いっしょに あるく ってこと > こわいときほど > いき > うん
最後に、小さな丸。
幹夫は紙を胸に当てた。 紙が体温を吸って、少しだけしなる。 しなる音が、返事の音に聞こえた。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、清水の長い音は届いた。 そして――「みき坊」という呼び方も、また届いた。
届いたものを落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして、四つになった影の歩幅を、そっと自分の中で揃えようとしていた。





コメント