返の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月2日
- 読了時間: 6分

その朝、家の前の道を、自転車の鈴が通った。 ちりん、という音は小さくて、波の音に負けそうなのに、なぜか耳の奥まで届く。届く音は、時々、怖い。
「郵便でーす」
外の声。 声が聞こえた瞬間、母の背中が少しだけ固くなった。固くなるのは怒りじゃない。固くならないと、形が崩れるからだ。
祖母が戸へ行こうとして、母が先に立った。
「……はい」
母は戸を開け、郵便屋の手から一通を受け取った。 受け取っただけなのに、その紙の重さが空気を変えた。紙は軽いはずなのに、知らない場所を通ってきた紙は、軽さを捨てている。
母はそのまま、戸の前で一度だけ封筒を見た。 見て、目を伏せた。 伏せ方が、線香の煙みたいだった。見えるのに、触れない。
幹夫は畳の上に正座したまま、母の手元だけを見た。 封筒の角が少し潰れている。遠い誰かの手の癖がついた角。 それから――丸い黒。
消印の丸だ。
幹夫の胸の中の警報が、ひとつ鳴った。 あの「どん」という音を思い出す。消す印。消える印。けれど残る丸。
母が、封筒を胸の高さまで持ち上げた。 そこに、もうひとつ印があった。
大きな字。 赤黒い、四角い印。
幹夫は読めないのに、その字が怖いと分かった。怖い字は、形が先に怖い顔をする。
母が、かすかに息を吸った。 吸った息が、紙に絡まって戻らない。
「……上、脱ぎ」
母はそれだけ言って、封筒を持ったまま座敷へ入った。 幹夫は慌てて立ち上がり、草履のまま入らないように足を拭いた。足を拭きながら、胸がうるさい。うるさい胸を黙らせるために、幹夫は封筒の角の潰れを思い浮かべた。潰れた角は、戻れない旅の証拠みたいで、目を逸らせなかった。
母はちゃぶ台の上に封筒を置かなかった。 置かずに、畳の上にそっと置いた。 畳の上は、落としても音が出にくい場所だ。音を出さないために、母は場所を選ぶ。
祖母が台所から顔を出した。
「来たか」
祖母の声は強いようで、どこか弱い。強く言わないと折れる声だ。
母は短く頷いただけで、封筒の裏を返した。 返したとき、幹夫はそこに自分の字を見つけてしまった。
――おとうさんへ。
ふらふらした、幹夫のひらがな。 母が横で見て、ゆっくり書かせた「おとうさんへ」。 それが、封筒の上で、どこかよそのものみたいに揺れていた。
幹夫の喉が、きゅっと縮んだ。 胸が熱いのに、手が冷たい。
「……これ」
幹夫が言う前に、母が言った。
「返ってきた」
返ってきた。 言葉は短いのに、長い道を引きずっていた。
母は封筒の四角い印のところを指で押さえ、幹夫のほうへ少しだけ向けた。 向けたのは見せるためじゃない。隠せないから、見せる、という形になっただけだ。
「ここ、読める?」
母が聞いた。 聞き方が優しいのに、幹夫は胸が痛んだ。読めるようになりたいと願ったのに、読めると痛いものが増える気がした。
幹夫は目を凝らした。 四角い印の中の一字。 歩くみたいな形がついている。しんにょう。 それがあると、幹夫の頭は勝手に「帰」を思い出す。
「……かえ、る」
幹夫が言うと、母は小さく首を横に振った。
「これは、“返す”の返」
返。 帰と似ている。歩くところが同じだ。 同じなのに、違う。
母は畳の上に、指先でそっと字を書いた。 空気に書く字は残らないのに、母の指の動きは残る。幹夫の目に残る。
「帰るは、人が帰る。……返るは、ものが返る」
母の声は低かった。 低いのに、今日の低さは、叱るためじゃなかった。教えるための低さだった。崩れないように、言葉を置く低さ。
幹夫は封筒を見た。 自分の「かえってきて」が入っているはずの封筒。 それが、返ってきた。
胸の奥で、警報が尖って鳴った。 尖ると、全部が自分のせいに見えてくる。字が下手だったから。願い方が悪かったから。宛名が白かったから。 そんなはずないのに、尖った音は勝手に責める。
「……父ちゃん、読んでない?」
幹夫の声は、紙みたいに薄かった。
母は封筒を見たまま、すぐには答えなかった。 答えない時間が、痛い。痛いのに、母はその痛さの上にちゃんと座った。
「……読めんとこへ行った、ってことだに」
母はそう言った。 言い方が、嘘をつかない言い方だった。 嘘をつかない言い方は優しいのに、優しいほど胸がしんどい。
祖母が台所から、ふっと息を吐いた。
「戻ってきたなら……消えてないっちゅうこった」
祖母はそう言って、鍋のふたを閉めた。 ふたの音が、生活の音として響いたのが救いだった。救いなのに、救いだけでは足りない。
母は封筒を開けなかった。 開けないまま、しばらく指で角を撫でた。潰れた角を、丸めるみたいに。 丸めても、角は元に戻らない。戻らないのに、丸める手つきは、誰かの痛みを刺さらなくする。
「……これも、預かる」
母が言った。
預かる。 返ってきたものを、母が預かる。 預かる、は、捨てない言葉だ。 幹夫の胸の奥の尖りが、ほんの少しだけ丸くなった。
「また、出せる?」
幹夫が聞くと、母は封筒の消印の丸を見た。 丸の中の細い字。読めないのに、そこに「日」があるのが分かる。日付は、紙に時間をくっつける。
「出せるよ」
母はそう言ってから、少しだけ間を置いた。 置いた間に、言えないものが通り過ぎた気がした。
「……宛名が分かったら」
また、その言葉。 幹夫の頭に、白い宛名欄が浮かぶ。空っぽの白。空っぽなのに、ちゃんと場所を取っている白。
母は封筒を布に包み、押し入れのほうへ持っていった。 押し入れが開く音は小さかった。 閉まる音も小さかった。 小さい音ほど、家の中を長く揺らす。
その日、母は約束どおり字を教えた。 新聞紙の裏を広げて、鉛筆を渡してくれた。竹を継いだ鉛筆の重さが、今日はいつもより頼もしくて、少しだけ怖かった。
「今日はな……“返”を書いてみ」
母が言った。
幹夫は頷いて、「返」を書こうとした。 書きながら、胸がざわざわする。 「返」は、封筒の上で見た字だ。 字が、さっきまで畳の上に置かれていた痛みの形だ。
線を引く。 引くと、黒が残る。 残る黒が、また胸を刺す。
幹夫は、途中で鉛筆を止めた。
「……帰、と、にてる」
幹夫が言うと、母は小さく頷いた。
「似とる。似とるけど……違う」
母は「帰」を隣に書いた。 並べると、ほんとうに似ている。歩くところが同じで、同じ方向へ行こうとする形だ。
「帰は、家へ入る字がある。……返は、反対する字がある」
母は、そこまで言って黙った。 反対。 その言葉の向こうに、言えないものがたくさん立っている気がした。
幹夫は「帰」を見た。 次に「返」を見た。 紙の上で二つの字が並ぶと、まるで兄弟みたいだった。似ているのに、同じ家に帰れない兄弟。
幹夫は、もう一度「返」を書いた。 今度は、さっきより丁寧に。 丁寧に書くと、痛みの角が少しだけ丸くなる気がした。
夕方、海のほうから風が入ってきた。 風が強いと波も強い。波が強いと、寄せて返す音がはっきり聞こえる。 返す。 返る。 返ってくる。
幹夫はふと思った。 封筒は返ってきた。 紙は返ってきた。 なら、いつか――人の「帰」も、どこかで道を間違えて、ここへ戻ってくることがあるのだろうか。
分からない。 分からないまま、幹夫は鉛筆を内ポケットに戻した。竹の継ぎ目が掌に当たる。硬さは支えになる。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 でも、返ってくる紙があった。 返ってきた紙は痛いのに、「消えてない」を残してくれる。 幹夫はその痛さを、今日から少しずつ、字の形にして抱えるのだと知り始めていた。





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