返の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月6日
- 読了時間: 6分

束を出してから三日、鈴は鳴ったり鳴らなかったりした。 鳴っても、隣の家。 鳴っても、町内の回覧。 鳴るたびに胸が走って、止まるたびに恥ずかしくなる。
幹夫はその「走る」と「止まる」の間に、母の言った言葉を置くようになった。
――いき。
声にすると薄いのに、口の中で言うと少し重い。 重いと、落ちない。落ちないと、散らばらない。
母は控え帳の端に棒を増やしていた。 増やし方が丁寧で、棒が一本増えるたび、畳の目がひとつ揃うみたいだった。 揃うと、家が家の顔をする。 顔をしていないと、鍋が焦げる。
その日の昼下がり、縁側の光が少しだけ斜めになったころ、鈴が鳴った。
ちりん。
細い音。 細いのに、胸の奥をいちばん先に叩く音。
幹夫は立ち上がりかけて、すぐ座り直した。 止まる。 止まれることが、今日は少し偉かった。束を落とさないための止まり。
「郵便でーす」
母が立った。 立ち上がり方が、ほんの少し遅い。 遅いのは迷いじゃない。迷いがあるのに、逃げない遅さだ。
戸が開く。 外の光が一瞬、畳の影を揺らす。 紙の擦れる音がして、母の手に白い封筒が渡る。
白い封筒。角がぴしっとして、字がまっすぐで、紙が「役目」の顔をしている。 母はその場で裏返し、差出人を見た。
清水。 役場。
母の喉が、ほんの少し動いた。 その動きを幹夫は見てしまう。 見てしまうと、見なかったことにできない。 見なかったことにできないと、胸の中の警報が尖りそうになる。
母は封筒をちゃぶ台に置かなかった。 控え帳の横へ、そっと置いた。落とさない置き方。飛ばさない置き方。 紙を紙のままにしておく置き方。
祖母が台所から聞いた。
「来たか」
母はすぐ答えず、封筒の口に指を入れた。 ぱき、と小さな音。 固い封筒は、開くときに「決める」音を出す。
中から出てきた紙は二枚。 一枚は役場の文。 もう一枚は、薄い封筒――小さな封筒だった。封筒の表に小さく印刷された字がある。
返信用
母の目が、その二文字でいったん止まった。 止まって、息をひとつ入れた。 まず、いき。
「……返信用封筒、だって」
母が言った。 その声は低い。倒れない低さ。 倒れないのに、声の底に小さな砂が混じっていた。喉が乾いた砂。
幹夫は胸がきゅっとした。 返す、という言葉が頭の中で跳ねたからだ。
母は文面をゆっくり読んだ。 読みながら、眉間を固くしない。固くする代わりに、唇を結ぶ。結ぶ口は、声を外へ出さない口だ。
読み終わると、母は紙の端を指で押さえたまま、ぽつりと言った。
「……もう一回、来いって」
清水。 窓口。 紙の匂い。 人の背中。 幹夫の胸の中で、港の汽笛まで低く鳴った気がした。
「なにを……」
幹夫が言いかけると、母は紙の一行を指で叩いた。
「“面会”……って書いてある」
めんかい。 音が硬くて、口の中で角ばる。 角ばるのに、胸の奥が熱い。 会う。会える。会ったら、決まる。
母は続けた。
「……該当者の人に、会って確かめる。顔とか、声とか……呼び方とか」
呼び方。 「みき坊」。 床屋の匂いが一瞬、胸の奥で蘇った。
祖母が鍋をかき回しながら、淡々と言った。
「会って違ったら、また紙が増える。会って同じでも、また紙が増える。……どっちでも、腹ぁ決めとけ」
腹ぁ決めとけ。 祖母の声は淡々としているのに、底が強い。 強いのは、泣く人の分まで強くしているからだ。
母は返事をしなかった。 代わりに、紙を折った。折り目を揃えて、控え帳の間に挟んだ。 挟むと、紙は飛ばない顔になる。 飛ばない顔にしてから、母は小さな返信用封筒を指で撫でた。
撫でる指が、ほんの少し震えた。 震えは寒さじゃない。 「返す」の先にあるものが、怖いからだ。
幹夫は我慢できずに聞いた。
「……へんしんって、なに」
母はちゃぶ台に新聞紙の裏を広げた。 真っ白じゃない白。 この白の上なら、言葉が転んでも大丈夫な気がする。
母は竹を継いだ鉛筆を取り、ゆっくり書いた。
返
幹夫は目をこらした。 左に、辶――歩くところ。 右に、反――ひっくり返すみたいな形。
「これな」
母は左の辶を指でなぞった。
「歩くとこ」
次に右側をなぞる。
「反はな……向きを変える、ってこともある。そっぽ向くんじゃなくて……向き直す」
向き直す。 幹夫は、手が離れた「間」を思い出した。 向き直すのは、逃げないことに似ている。
「歩いて、向きを変えて、戻る。……それが“返”」
戻る。 戻る、という音が、幹夫の胸の奥を少しだけ柔らかくした。 戻るのは負けじゃない。返し縫いの戻り。ほどけないための戻り。
母は続けた。
「返事の“返”だに。……返事ってのは、言葉を返すこと」
幹夫は、縫い箱の下の紙を思った。 自分の紙が消えて、母の「うん」が返ってくる。 あれも返事だ。声じゃない返事。折り目の返事。
「じゃあ……今日のは、役場の返事?」
幹夫が言うと、母は小さく頷いた。
「うん。……こっちが出した束が、向こうで読まれて、返ってきた」
返ってきた。 返ってきたのは紙だけじゃない。 父の呼び方。眉の傷。耳の後ろの黒子。 言葉が、少しずつ戻ってきている。
でも戻ってくるものは、前と同じじゃない。 折り目が増える。印が増える。 戻ってきた時点で、もう別の顔をしている。
幹夫は鉛筆を握った。 竹の継ぎ目が掌に当たる。硬い。 硬さがあると、胸が走りそうになっても少し押さえられる。
辶を書いて、反を書く。 一回目の「返」は、辶が大きすぎて、反が小さくなった。 小さい反は、戻れなさそうな顔をした。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「返すときほど、急ぐと戻れんでな」
急ぐと戻れん。 速の字の束を思い出す。 速くしたいほど、束を落とす。 返したいほど、息が足りなくなる。
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。 今度の「返」は、少しだけ落ち着いた。 落ち着くと、戻ってこれる顔になる。
母は「返」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。
夕方、空っぽの袖の男が戸口に来た。 今日は日が強く、男の影が濃い。 濃い影はくっついて歩く。
「来たか」
男は母の手元の封筒を見て言った。 母は小さく頷いた。
「……面会、だって」
男の口の端が、少しだけ固くなった。 固くなるのに、声は低いままだった。
「返ってきたな」
男がぽつりと言った。 返ってきた、は嬉しい言葉にも聞こえるのに、今日は少し怖い言葉にも聞こえた。 返ってくる、の先に「違う」がいるかもしれないからだ。 返ってくる、の先に「同じ」がいても、同じはもう昔の同じじゃないかもしれないからだ。
母は短く言った。
「……行く」
男は頷いた。
「俺も行く。……返し道、ひとりにせん」
返し道。 その言い方が、幹夫の胸にすとんと落ちた。 帰り道がある。返り道がある。 道があるなら、迷子になりにくい。
夜、幹夫は自分の帳面を開いて、「束」と「速」と「返」を並べた。 束ねて、歩かせて、返ってくる。 紙は、こうやって家と役場の間を行ったり来たりする。 行ったり来たりの間に、息を入れないと、胸が先に走ってしまう。
寝る前、幹夫は小さな紙を切って、封筒の形を描いた。 宛名に「おかあちゃんへ」。
> へん って > あるいて もどる ってことだね > こわいけど みち が ある
最後に、小さく「返」を書いて、丸をひとつ描いた。 戻る道が飛ばないように置く丸。 胸の走りが尖らないように置く丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは恥ずかしさと、明日の怖さの名残。 でも差し込めた。差し込めたぶんだけ、胸の中の警報は尖らない。
翌朝、縫い箱が畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、母の字だった。
> みち が あるのは > かえる ばしょ が あるってこと > こわいときほど > いき > うん
最後に、小さな丸。
幹夫は紙を胸に当てた。 紙が体温を吸って、少しだけしなる。 しなる音が、返事の音に聞こえた。
返る道がある。 返る場所がある。 そのことだけで、明日の「面会」は、少しだけ持てる形になる気がした。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、返ってくる紙は届いた。 届いた「返」の字を胸の奥でそっとなぞりながら、幹夫は明日のために、息の間をひとつ、静かに作っていた。







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