返の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月7日
- 読了時間: 8分

木の玉――「みき」と彫られた小さな玉は、朝の光を受けて、うっすらあたたかかった。 あたたかいのに、触るとまだ少し冷たい。 その冷たさが、幹夫には好きだった。 冷たいほうが、今ここがはっきりするから。
縁側で父が、その木の玉を指で転がしていた。 転がして、止めて、また転がす。 止めるときに、指がいちどだけぎゅっとなる。 ぎゅっとなるのに、壊さない。 壊さないぎゅっは、落とさないためのぎゅっだった。
路地のほうから、声がした。
「幹夫ぉー、いるかぁー」
近所の子の声。 夕方の名の字の話が、朝に少し混ざって聞こえた。 呼ばれると、胸の奥がぽん、と鳴る。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、もう幹夫の体が覚えてしまった鳴り方だ。
父の肩が、ふっと上がった。 上がって、止まる。 止まった「間」に、幹夫は息をひとつ入れた。
――いき。
母が台所から、生活の声で言った。
「外だに。返事してやれ」
返事。 その二文字が、畳の匂いを連れてきた。 縫い箱の下の紙の匂い。 返事は紙でもできる。 でも今、外の声は紙を待ってくれない。
幹夫は喉が少し熱くなって、それでも声を出した。
「いるー!」
声は少し裏返った。 裏返ったのに、刺さらない。 刺さらないのは、呼ばれた声をちゃんと返したからだ。
路地の向こうで「おー」と返って、足音が遠ざかる。 遠ざかる足音を聞きながら、幹夫は自分の胸にもう一度、息を入れた。
――いき。
父がぽつりと言った。
「……返したな」
返した。 その言い方が、嬉しいのに、少し怖い。 返すと、何かが動く。 動くと、次が来る。 次が来るのが怖い日がある。
でも今日は、父の声が硬くなりきらなかった。 父は木の玉を、掌の上でそっと止めた。
「……返す、って……戻るみてぇだな」
戻る。 帰る。 返す。 似ているのに、少し違う匂い。 返すには、相手がいる。 相手がいると、道ができる。
朝飯のあと、母が棚の上から小さな瓶を取り出した。 中身はもう空で、瓶の底に味噌の匂いだけが残っている。
「これ、隣へ返すだに」
母が言った。 返す、は生活の言葉だ。 借りたものを返す。 借りた言葉を返す。 借りた息を返す――そんなのはないのに、幹夫の胸は勝手にそこまで行ってしまう。
父がその瓶を見て、いちどだけ瞬きをした。 瞬きのあと、目が少し遠くなる。 遠くなるときほど、息。
――いき。
母は父を急がせない。 急がせないまま、瓶を布巾で拭きながら言った。
「幹夫、持ってくか?」
幹夫が頷こうとしたとき、父が先に言った。
「……俺、持つ」
持つ。 その一言が、幹夫の胸の奥でぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、「続き」の鳴り方だ。
母は驚いた顔をしそうになって、しなかった。 驚きを刃にしない顔。
「……ええよ。じゃあ、返してきて」
返してきて。 命令じゃない。 道を渡す言い方だった。
父は瓶を両手で受け取った。 受け取り方が、不器用で、でも丁寧だった。 丁寧すぎない丁寧さ。 生活の手つきに近い丁寧さ。
父が小さく言った。
「……投げねぇ。置く」
昨日の橋と同じ言葉。 同じ言葉は、家の中に道を作る。
幹夫はその背中を見ながら、ポケットの石を握った。 丸い石。冷たい。重い。 重いのに痛くない。 角がない重さは、背中を見送るときの手すりになる。
隣の家は、近いのに、今日は少し遠く感じた。 遠いのは距離じゃなく、父の足の中の距離だ。
父は戸口を出て、いちど止まった。 止まって、少し。 歩の字のとおり。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。
――いき。
父はゆっくり歩き出した。 歩幅は小さい。 小さいのに、確かだ。 確かだと、胸の中の警報は尖りにくい。
隣の戸の前で、父はさらにいちど止まった。 止まって、瓶を持つ手が少しだけ震える。 震えるのに、落とさない。 落とさない震えは、戻ってくる途中の震えだ。
父が、喉の奥で息を整えるのが見えた気がした。 整えるとき、肩がふっと落ちる。 落ちると、息が入る。
父は戸を、こん、こん、と叩いた。 叩く音は小さい。 小さいのに、家と家の間をちゃんと渡る音。
中から女の声がした。
「はいよ」
戸が開いて、隣のおばさんが顔を出した。 顔が見えた瞬間、父の目がいちど遠くなりかけた。 かけたところへ――
幹夫は、胸の中で息を入れた。
――いき。
父は瓶を少し持ち上げて、言った。
「……これ……返す」
返す。 声は小さい。 小さいのに、ちゃんと届いた。
おばさんは瓶を見て、すぐ大げさに笑わなかった。 大げさに笑うと、刃になるのを知っている人の笑わなさだった。 おばさんは、ただ頷いて、両手で瓶を受け取った。
「ありがとね。……助かったよ」
助かったよ。 その言葉が柔らかい。 柔らかい言葉は、受け取りやすい。
父は返事の「間」を少し長くした。 その間に、幹夫は息を入れた。
――いき。
父は、やっと言えた。
「……どうも」
どうも。 短い。 短いのに、そこに「返した」が入っている。
おばさんは、瓶を抱えたまま、声を落として言った。
「無理せんでいいからね。……少しずつで」
少しずつ。 その言葉が、外でも刺さらずに使える言葉になっていた。 幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。
父は、ほんの少しだけ頷いた。 頷きの角が、丸い。
「……ああ」
その「ああ」が、戻る音だった。
帰り道、父は何も喋らなかった。 喋らないのに、黙ってもいなかった。 足音が「居る」足音だった。
家の戸口が見えてきたとき、父がぽつりと言った。
「……返せた」
返せた。 過去形。 でも「終わった」じゃない過去形。 次に繋がる過去形。
幹夫は喉が熱くなって、返事をする前に息をひとつ入れた。
――いき。
「……うん」
父はその「うん」を聞いて、ふっと息を吐いた。 軽くも重くもない息。 ただ、「ここまで」の息。
母が台所から、顔を出しすぎずに言った。
「返せた?」
父は短く言った。
「……返せた」
母は「うん」とだけ返した。 縫い箱の下の「うん」みたいな、折り目のある「うん」。
祖母が鍋をかき回しながら、淡々と混ぜた。
「返すもん返せりゃ、腹が減る。飯だ」
飯だ、で話が終わる。 終わり方が、家を家に戻す。
昼前、母が新聞紙の裏を広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
返
幹夫は目をこらした。 右に「反」。 左じゃなく、右にいる反。 そして、左に――道の足みたいな形、辶。
母は辶を指でなぞった。
「こっちは道だに。歩くとこ」
次に反をなぞる。
「こっちは“反”。向きを変える、ひっくり返す、の反」
向きを変える。 ひっくり返す。 その言葉は少し怖い。 向きが変わると、景色が変わる。 景色が変わると、胸が走ることがある。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「返すってのはな……道の上で、向きを変えて戻ることだに」
道の上で向きを変える。 今日の父の足。 隣の戸口まで行って、戻ってきた足。 向きを変えられた足。
母は続けた。
「それとな……返事の“返”もこれだに。呼ばれたら、返す。声を戻す」
返事。 名の字で呼ばれて、返した「うん」。 外の子に返した「いるー」。 全部が、この字の中に入っている。
父が「返」を見て、ぽつりと言った。
「……返すって、減るんじゃねぇんだな」
父の声は低い。倒れない低さ。 倒れないのに、底が少しだけ震える。
母は否定しなかった。 息をひとつ入れて、静かに言った。
「うん。……返したら、軽くなることもある」
軽くなる。 軽いのに飛ばない軽さ。 少し、の軽さ。
幹夫は鉛筆を握った。 辶を書いて、反を書く。 一回目の「返」は、道が大きくなって、反が小さくなった。 道ばかりで、向きを変えるところが弱い字。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「道が大きくなったらな……反を太らせりゃええ。向きを変える気持ち、残す」
向きを変える気持ち。 止まって少し。 息を入れて少し。 それが、向きを変える前の準備だ。
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「返」は、反が少しだけ座った。 座ると、字が「戻れる顔」になる。
父が新聞紙の端に、そっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
母が父を見て、頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。
父の辶は、少し歪んだ。 歪むのに、ちゃんと道の顔。 父の反は、払いが少し尖った。 尖るのに刺さらない。 刺さらないのは、その尖りが「戻ろう」としている尖りだからだ。
父は書き終えて、ふっと息を吐いた。
「……返、って字……歩と似てるな」
母が一度だけ頷いた。
「うん。歩いて、向き変えるだに」
祖母が鍋の向こうから、淡々と混ぜた。
「向き変えるのに、腹がいる。飯だ」
飯だ、でまた終わる。 その終わり方が、あたたかかった。
母は「返」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、行って戻る道の端みたいに見えた。
夜。 灯りが落ちる前、父が縫い箱の前でいちど止まった。 止まる影が畳の上で揺れる。 揺れるのに、倒れない。
父は縫い箱を持ち上げなかった。 代わりに、布巾を小さく折って、箱の脇へそっと置いた。 さっきまで瓶を拭いていた布巾。 返したあとの、手の匂いの布巾。
そして父は、小さな紙片に震える字で書いた。
> へん
それだけ。 それだけなのに、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、「続き」の鳴り方だった。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に小さく足す。
> (とうちゃんへ も)
中に書く。
> かえす って> みち で むきを かえて> もどる こと なんだね> きょう とうちゃん が> びん かえして> どうも って いった> その へんじ が> ちゃんと とどいた> いき
最後に、小さく「返」。 丸をひとつ。 戻る道の丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは隣の戸の「こん、こん」の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
> かえす は> むきを かえて> もどる こと> へんじ も> かえす だに> いき> うん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
> みきぼう> きのう> びん かえした> どうも いえた> すこし> かるい
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――小さな瓶の栓がひとつ。 返した瓶の栓じゃない。 祖母が「予備だ」と言って置いた、余りの栓。 余りなのに、捨てない。 捨てない余りは、「また返せる」を残す余りだ。
幹夫はその栓を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
返す。 返事する。 向きを変えて、戻る。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、「すこしかるい」という父の字は届いた。 届いた“軽い”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、呼ばれたら返せる道を、胸の奥にそっと敷いていった。





コメント