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速の字

 束を出した翌朝、海は妙に静かだった。 波が低いと、音が少ない。音が少ないと、胸の中の音だけが目立つ。 幹夫は布団の中で、昨日の「どん」を思い出していた。朱肉の匂い。受領証の紙の薄さ。母の指の遅さ。

 台所では祖母が竈の火を起こしていた。 ぱち、ぱち、と薪がはぜる。 火の音は、急がせない。火は勝手に速くならない。火は、ちゃんと待てる。

 母は座敷の隅で控え帳を開いていた。 受領証が挟まっている場所を指で確かめて、端の棒を一本増やす。 棒は短い。短いのに、増えると列になる。列になると、待つが形になる。

「母ちゃん」

 幹夫が呼ぶと、母は帳面を閉じずに「なに」と返した。 返し方が柔らかい。柔らかいと、言葉が刺さらない。

「……速達って、ほんとに速い?」

 言ってしまってから、幹夫は少し恥ずかしくなった。 速いか遅いかなんて、子どもみたいな聞き方だ。 でも胸は、速い、と言いたがっている。胸は勝手に走る。

 母は、控え帳をそっと閉じた。 閉じ方が丁寧だった。閉じると、紙が飛ばない顔になる。

「速い方だに」

 母はそう言って、少しだけ間を置いた。

「……でもな。速くしても、待つ“間”は消えん」

 間。 門の中の日。 手が離れた一瞬の長い間。 幹夫の胸が、きゅっとした。

 母はちゃぶ台に新聞紙の裏を広げ、鉛筆を取った。 竹を継いだ鉛筆。 母の指が継ぎ目を越えるとき、幹夫の胸がちくりとした。大事な硬さが、大事な言葉に使われるちくり。

「今日はな……“速”を書く」

 母はゆっくり書いた。

 速

 幹夫は目をこらした。 左に、歩くところの字――辶。 右に、昨日書いた字が、ちゃんといる。

「……束」

 幹夫が言うと、母は小さく頷いた。

「そう。束が入っとる」

 母は指で左の辶をなぞった。

「これが“行く”とこ。歩くとこ」

 次に右側をなぞる。

「こっちが束。……束が歩くと、速くなる」

 束が歩く。 その言い方が、幹夫の胸にすとんと落ちた。 昨日、束ねた紙が、歩き出した。 歩くと、届く。 届くと、何かが動く。 動くのが怖いのに、動かないのも怖い。

「じゃあ……束に、足が生えた字だね」

 幹夫が言うと、母はほんの少しだけ笑った。 湯気みたいな笑い。

「そうだに。……でも、足が生えても、息は要る」

 息。 母がいつも言う、まず、いき。 速い字の前にも、息がいる。

 幹夫は鉛筆を握った。 竹の継ぎ目が掌に当たる。硬い。 硬さがあると、走りそうになる胸を、少し押さえられる。

 辶を書いて、束を書く。 束は昨日より少しだけ上手く書けた。 書けた束に足がつくと、字が急に走り出しそうな顔になる。 それが、少し怖くて、少し嬉しい。

 一回目の「速」は、辶が大きすぎて、束が小さくなった。 小さい束は、転がりそうだった。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「速くしたいときほど、束を落とすでな」

 落とす。 落とすと散る。散ると戻らない。 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。 二回目の「速」は、束が少しだけ落ち着いた。

 母は「速」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。

 昼前、幹夫は縁側へ出た。 日が高くて、影が短い。短い影は、急がない影だ。 浜の方から、汽車の音が遠くに聞こえた。 ごとん、ごとん。 速い音じゃないのに、止まらずに進む音。

 幹夫は、思った。 速い、は走ることだけじゃない。 止まらずに進むことも、速いのかもしれない。

 そのとき、道の方から鈴が鳴った。

 ちりん。

 細い音が、胸の奥を先に叩く。 叩かれると、息が一拍遅れる。遅れても、胸だけは先に走る。

 幹夫は立ち上がりかけて、止まった。 止まる。 止まれるのが、今日は少し偉かった。 昨日の「速」を思い出したからだ。束を落とさないための止まり。

 鈴は、隣の家の前で止まった。 「郵便でーす」と声がして、別の戸が開く。 幹夫の胸の中の走りが、急に恥ずかしくなる。恥ずかしいと、喉の奥が熱くなる。

 幹夫は縁側の板を見て、短い自分の影に小さく言った。

「……いき」

 息をひとつ入れると、胸の走りが少しだけ丸くなる。 丸くなると、待てる。 待てると、今日が壊れにくい。

 夕方、母は控え帳を開いて、棒を一本増やした。 増やしたあと、帳面の端に小さく書き足した。

 > そくたつ

 ひらがな。 ひらがなは子どもの字だ。 でも今日は、ひらがなが頼もしく見えた。ひらがなは、刃を立てないからだ。

「母ちゃん、それ……」

 幹夫が言うと、母は頷いた。

「速達で出した、って控え」

 控え。 残す。 残すと、迷子になりにくい。

 母は幹夫の帳面を見て、ぽつりと言った。

「幹夫も、書いとけ。……速は、束の続きだで」

 続き。 続き、という言葉が、少しだけ救いだった。 昨日と今日が、ちゃんと糸で繋がっている感じがする。

 幹夫は帳面を開き、今日のページに書いた。

 > そく > たば が あるく > でも いき は いる

 そして「速」をひとつ置いた。 辶と束。 足のついた束。

 最後に、丸をひとつ描いた。 走り出した胸が、飛ばないように置く丸。 ここまで、と息を入れる丸。

 夜、縫い箱の下へ差し込む紙には、短く書いた。 宛名は「おかあちゃんへ」。

 > そく って > たば に あし が つくんだね

 小さく「速」。 丸をひとつ。

 差し込む指先が少し震えた。震えは恥ずかしさと、待つ手の疲れの名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝、縫い箱が畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、母の字だった。

 > そく は > はやい だけじゃない > おとさない ってこと > うん

 最後に、小さな丸。

 幹夫は紙を胸に当てた。 体温を吸って、紙が少しだけしなる。 しなる音が、返事の音に聞こえた。

 速いのは、胸。 落とさないのは、手。 その間に息を入れれば、走りながらでも束は散らばらない――そんなふうに、幹夫は思ってみたかった。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、束に足をつけた「速」は届いた。 届いた字を胸の奥でそっと撫でながら、幹夫は今日も、鈴の「ちりん」と自分の息の「間」を、静かに守っていた。

 
 
 

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