速の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月6日
- 読了時間: 5分

束を出した翌朝、海は妙に静かだった。 波が低いと、音が少ない。音が少ないと、胸の中の音だけが目立つ。 幹夫は布団の中で、昨日の「どん」を思い出していた。朱肉の匂い。受領証の紙の薄さ。母の指の遅さ。
台所では祖母が竈の火を起こしていた。 ぱち、ぱち、と薪がはぜる。 火の音は、急がせない。火は勝手に速くならない。火は、ちゃんと待てる。
母は座敷の隅で控え帳を開いていた。 受領証が挟まっている場所を指で確かめて、端の棒を一本増やす。 棒は短い。短いのに、増えると列になる。列になると、待つが形になる。
「母ちゃん」
幹夫が呼ぶと、母は帳面を閉じずに「なに」と返した。 返し方が柔らかい。柔らかいと、言葉が刺さらない。
「……速達って、ほんとに速い?」
言ってしまってから、幹夫は少し恥ずかしくなった。 速いか遅いかなんて、子どもみたいな聞き方だ。 でも胸は、速い、と言いたがっている。胸は勝手に走る。
母は、控え帳をそっと閉じた。 閉じ方が丁寧だった。閉じると、紙が飛ばない顔になる。
「速い方だに」
母はそう言って、少しだけ間を置いた。
「……でもな。速くしても、待つ“間”は消えん」
間。 門の中の日。 手が離れた一瞬の長い間。 幹夫の胸が、きゅっとした。
母はちゃぶ台に新聞紙の裏を広げ、鉛筆を取った。 竹を継いだ鉛筆。 母の指が継ぎ目を越えるとき、幹夫の胸がちくりとした。大事な硬さが、大事な言葉に使われるちくり。
「今日はな……“速”を書く」
母はゆっくり書いた。
速
幹夫は目をこらした。 左に、歩くところの字――辶。 右に、昨日書いた字が、ちゃんといる。
「……束」
幹夫が言うと、母は小さく頷いた。
「そう。束が入っとる」
母は指で左の辶をなぞった。
「これが“行く”とこ。歩くとこ」
次に右側をなぞる。
「こっちが束。……束が歩くと、速くなる」
束が歩く。 その言い方が、幹夫の胸にすとんと落ちた。 昨日、束ねた紙が、歩き出した。 歩くと、届く。 届くと、何かが動く。 動くのが怖いのに、動かないのも怖い。
「じゃあ……束に、足が生えた字だね」
幹夫が言うと、母はほんの少しだけ笑った。 湯気みたいな笑い。
「そうだに。……でも、足が生えても、息は要る」
息。 母がいつも言う、まず、いき。 速い字の前にも、息がいる。
幹夫は鉛筆を握った。 竹の継ぎ目が掌に当たる。硬い。 硬さがあると、走りそうになる胸を、少し押さえられる。
辶を書いて、束を書く。 束は昨日より少しだけ上手く書けた。 書けた束に足がつくと、字が急に走り出しそうな顔になる。 それが、少し怖くて、少し嬉しい。
一回目の「速」は、辶が大きすぎて、束が小さくなった。 小さい束は、転がりそうだった。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「速くしたいときほど、束を落とすでな」
落とす。 落とすと散る。散ると戻らない。 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。 二回目の「速」は、束が少しだけ落ち着いた。
母は「速」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。
昼前、幹夫は縁側へ出た。 日が高くて、影が短い。短い影は、急がない影だ。 浜の方から、汽車の音が遠くに聞こえた。 ごとん、ごとん。 速い音じゃないのに、止まらずに進む音。
幹夫は、思った。 速い、は走ることだけじゃない。 止まらずに進むことも、速いのかもしれない。
そのとき、道の方から鈴が鳴った。
ちりん。
細い音が、胸の奥を先に叩く。 叩かれると、息が一拍遅れる。遅れても、胸だけは先に走る。
幹夫は立ち上がりかけて、止まった。 止まる。 止まれるのが、今日は少し偉かった。 昨日の「速」を思い出したからだ。束を落とさないための止まり。
鈴は、隣の家の前で止まった。 「郵便でーす」と声がして、別の戸が開く。 幹夫の胸の中の走りが、急に恥ずかしくなる。恥ずかしいと、喉の奥が熱くなる。
幹夫は縁側の板を見て、短い自分の影に小さく言った。
「……いき」
息をひとつ入れると、胸の走りが少しだけ丸くなる。 丸くなると、待てる。 待てると、今日が壊れにくい。
夕方、母は控え帳を開いて、棒を一本増やした。 増やしたあと、帳面の端に小さく書き足した。
> そくたつ
ひらがな。 ひらがなは子どもの字だ。 でも今日は、ひらがなが頼もしく見えた。ひらがなは、刃を立てないからだ。
「母ちゃん、それ……」
幹夫が言うと、母は頷いた。
「速達で出した、って控え」
控え。 残す。 残すと、迷子になりにくい。
母は幹夫の帳面を見て、ぽつりと言った。
「幹夫も、書いとけ。……速は、束の続きだで」
続き。 続き、という言葉が、少しだけ救いだった。 昨日と今日が、ちゃんと糸で繋がっている感じがする。
幹夫は帳面を開き、今日のページに書いた。
> そく > たば が あるく > でも いき は いる
そして「速」をひとつ置いた。 辶と束。 足のついた束。
最後に、丸をひとつ描いた。 走り出した胸が、飛ばないように置く丸。 ここまで、と息を入れる丸。
夜、縫い箱の下へ差し込む紙には、短く書いた。 宛名は「おかあちゃんへ」。
> そく って > たば に あし が つくんだね
小さく「速」。 丸をひとつ。
差し込む指先が少し震えた。震えは恥ずかしさと、待つ手の疲れの名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝、縫い箱が畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、母の字だった。
> そく は > はやい だけじゃない > おとさない ってこと > うん
最後に、小さな丸。
幹夫は紙を胸に当てた。 体温を吸って、紙が少しだけしなる。 しなる音が、返事の音に聞こえた。
速いのは、胸。 落とさないのは、手。 その間に息を入れれば、走りながらでも束は散らばらない――そんなふうに、幹夫は思ってみたかった。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、束に足をつけた「速」は届いた。 届いた字を胸の奥でそっと撫でながら、幹夫は今日も、鈴の「ちりん」と自分の息の「間」を、静かに守っていた。





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