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道の字

 浜の砂の小さな包みは、ちゃぶ台の隅で、朝の光を受けていた。 紙の角が丸い袋。丸い袋の中で、砂はさらさらと落ち着かない。 落ち着かないのに、飛び散らない――それが、なんだか父に似ている気がして、幹夫は見ているだけで胸の奥がきゅっとした。

 父は縁側に座って、その砂の包みを指でつまんだ。 つまんで、少しだけ傾ける。 さら、と砂が紙の中で動く音がした。

「……これ、道みてぇだな」

 父がぽつりと言った。 道。 その音が落ちた瞬間、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。叫ばない鳴り方は、ここ最近ずっと増えてきた「続き」の鳴り方だ。

 幹夫は上着のポケットの石を握った。 丸い石。冷たい。重い。 重いのに痛くない。 角がない重さは、言葉を受け止める場所になる。

「どうして?」

 幹夫が聞くと、父は砂の包みを見たまま、少しだけ口の端を上げた。 笑いきれない上がり方。 でも、今日はその上がり方が昨日より丸い。

「足跡、つけても……波で消えるだら。消えても、またつけられる。……道も、そうだべ」

 消えても、また。 その「また」が、幹夫の胸にあたたかく座った。 「また」は怖いときもある。 でも今の「また」は、戻れる「また」だった。

 台所の境目に立った母が、声を急がせないまま言った。

「……歩くか」

 父はすぐ頷かなかった。 頷かない間が、やっぱり少し長い。 その長い間に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 父はゆっくり頷いて、言った。

「……浜の角じゃなくて……街道のほう、少し」

 街道。 蒲原の家々を縫う道。 宿場の道。 海の匂いと山の影が、いっしょに置かれている道。

 母は驚いた顔をしそうになって、しなかった。 驚きを刃にしない顔。

「……少しなら」

 母がそう言ったとき、幹夫は分かった。 「少しなら」は、「行っていい」の形だ。 紙みたいに、折り目のついた許し。

 外へ出ると、道は朝の匂いをしていた。 土の匂い。 潮の匂い。 薪の煙の匂い。 それらが混じると、道は「暮らしの匂い」になる。

 父は最初の一歩を、昨日より小さく踏んだ。 小さいのに、確かだ。 確かだと、胸の中の警報は尖りにくい。

 道を曲がって、旧街道のほうへ出ると、家並みが少しだけ変わる。 軒が深い。 戸が重い。 柱の木が黒い。 昔からの「通り道」の顔。

 父は立ち止まって、道の先を見た。 見方が、遠いのに逃げない。

「……ここ、俺、歩いとった」

 過去形。 でも、ちゃんと「ここ」に触れている過去形だった。

 幹夫の胸が、ぽん、と鳴る。 鳴るのに、言葉は出ない。 出ないから、息だけ入れる。

 ――いき。

 通りの向こうから、荷車の軋む音がして、男の声がした。

「どいてどいて――」

 声の角は立っていない。 生活の声だからだ。 でも、車輪が石に当たる音が硬くて、父の肩がふっと上がった。

 上がって止まる。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 母が低く言った。

「荷車だに。……土の音だに」

 土の音。 桶の「がん」より丸い言い方。 丸い言い方は、刃になりにくい。

 父は荷車が通り過ぎるまで、道の端に寄った。 寄り方が、急がない。 急がないで寄れると、怖さが少し丸くなる。

 荷車を引く男が、父に気づいて、視線をいちどだけ落とした。 落としてから、何でもないふうに言った。

「……おう。久しぶりだな」

 言葉は短い。 短いのに、痛くない。 痛くないのは、余計なことを言わない優しさが入っているからだ。

 父は返事まで少し間があった。 その間に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

「……おう。……少し、歩いとる」

 少し。 歩いとる。 父の口から出たその二つが、道の上でちゃんと座った気がした。

 男は「いいな」とだけ頷いて、荷車を引いて行った。 去っていく車輪の音は、遠ざかるほど丸くなる。

 道の途中に、小さな石碑みたいなものがあった。 角が削れて、字が薄い。 でも、そこに何かが書いてあるのが分かる。

 幹夫が覗き込むと、父が横から、ぽつりと言った。

「……道しるべ」

 道しるべ。 その言葉が、幹夫の胸にすとんと落ちた。 しるべ、は知らない言葉のはずなのに、意味は分かる気がする。 迷子にならないためのもの。

 父は石碑を指で触れなかった。 触れないで、目だけでなぞった。 なぞる目は、覚えようとする目だった。

「……俺、これ見て、港へ行った」

 港。 潮の匂い。 縄の匂い。 網の匂い。

 父の喉が、ほんの少し動いた。 動いて止まる。 止まった間に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 父はそれ以上言わなかった。 言わないで、道の端の砂利を靴底で軽く擦った。 ざり、という音。 さっきの網糸の音にも似ていた。

 道の向こうから、また声が来た。

「さかなぁ――」

 伸びる声。 伸びて、角を丸くして、家の軒先に触れてから流れていく声。

 父が、ほんの少しだけ口を開いた。 開いて、閉じた。 閉じたあと、息をひとつ吐いた。

 幹夫の胸がきゅっとして、でも、急がせたくなくて――息だけ入れた。

 ――いき。

 すると父が、今度は閉じないまま、小さく言った。

「……さかな」

 声は小さかった。 小さいのに、届いた。 届いたのは、通りの向こうじゃない。 まず、幹夫の胸に届いた。

 幹夫の喉の奥が熱くなった。 熱いのに、息ができる熱さだった。

 さかな売りの男が振り向いて、父の顔を見た。 一瞬、何か言いそうになって――言わなかった。 代わりに、いつもの声より少しだけ低い声で言った。

「……いるか」

 いるか。 その「いるか」は、商いの「いるか」なのに、どこか「ここにいるか」にも聞こえた。

 父は答えまで少し間があった。 その間に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

「……少し。……小さいの」

 父が言えた。 「少し」と「小さい」がいっしょに出た。 出た言葉が、道の上でころがらずに止まった。

 さかな売りの男は頷いて、小さな魚を二尾、紙に包んで渡した。 包み紙が擦れる音は、紙の音。 紙の音は、縫い箱の下の声に似ている。

 父は銭を出す手を少し震わせながら、でも落とさずに渡した。 落とさない指。 戻ってくる途中の指。

 母は横で何も言わず、ただ一度、父の手元を見て、息をひとつ入れた。 その息が、幹夫には見えた気がした。

 帰り道、父は紙包みを両手で抱えた。 抱え方が、少し不器用で、でも丁寧だった。 丁寧さが、丁寧すぎない。 丁寧すぎない丁寧さは、生活の匂いがする。

 父がぽつりと言った。

「……道、覚えとると……怖さが減るな」

 覚。 聞。 歩。 息。 字が、道の上で手をつないだ。

 幹夫は、思わず言った。

「道しるべ、みたい」

 言ってから、少し恥ずかしくなった。 でも父は笑わなかった。 父は、ほんの少しだけ口の端を上げた。

「……そうだな。……道しるべ、いる」

 いる。 必要だ、と言えたことが、幹夫の胸をあたためた。 必要だ、と言えると、必要なものを置ける。 置けると、迷子になりにくい。

 家に戻ると、祖母が鍋をかき回していた。 父が魚の包みを見せると、祖母は淡々と言った。

「道で買い物してきたか。上等だに。……食うもんは生きもんだ」

 生きもん。 その言い方が、どこか乱暴なのに、あたたかかった。

 母は包みを受け取って、台所へ運びながら、声を急がせないまま言った。

「……歩けた?」

 父は草履を脱ぎながら、短く言った。

「……歩けた。……声、出た」

 声、出た。 その二つが並ぶと、胸の奥がぽん、と鳴る。 鳴るのに、叫ばない。叫ばない鳴り方は、今日も「続き」の鳴り方だった。

 母は「うん」とだけ頷いて、新聞紙の裏を広げた。 竹を継いだ鉛筆を取る。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。

「幹夫。……今日は、これだに」

 母がゆっくり書いた。

 道

 幹夫は目をこらした。 左に、歩くとこの形――辶。 右に、首みたいな形。

 母は辶を指でなぞった。

「これは歩くとこ。……道の足だに」

 次に首をなぞった。

「こっちは首。……頭のついてるとこ」

 首。 首は、顔が向くところ。 どこを見るか、のところ。

 母は少し間を置いて、息をひとつ入れた。

「道ってのはな……だけじゃない。が向くほうだに」

 首が向くほう。 父が道しるべを目でなぞったこと。 父が波のほうへ顔を向けたこと。 父が魚売りの男へ小さく声を出したこと。

 父が新聞紙の「道」を見て、ぽつりと言った。

「……首、向けるのが……怖い日、ある」

 母は否定しなかった。 息をひとつ入れて、低く言った。

「うん。……怖い日は、足だけでもええ」

 足だけでもええ。 それは「歩」の字の許しに似ていた。 止まって、少し。 首が向けない日は、足だけで少し。

 母は続けた。

「でも、足が少し進むと、首も少し向く。……少しずつだに」

 少しずつ。 この家の合言葉になっていく言葉。

 幹夫は鉛筆を握った。 道を書く。 辶を走らせそうになって、胸が走る。 走りそうになったから、息。

 ――いき。

 一回目の「道」は、辶が大きくなって、首が小さくなった。 足ばかりの道。 足ばかりだと、どこへ行くか分からない道。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「足が走ったらな……首、戻す。首があると道になる」

 首があると道になる。 その言い方が、幹夫の胸にすとんと落ちた。

 二回目は、首が少しだけ大きくなって、道が落ち着いた。 落ち着くと、字が「行き先の顔」を持つ気がした。

 父が、新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 母が父を見て、頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父の辶は、少し歪んだ。 歪むのに、ちゃんと歩く形。 父の首は、少し尖った。 尖るのに刺さらない。 刺さらないのは、「向けよう」が入っている尖りだからだ。

 父は書き終えて、ふっと息を吐いた。

「……道、って……首があるんだな」

 母は「うん」とだけ返した。 その「うん」は、縫い箱の下の「うん」みたいだった。 受け取って、折り目にして、飛ばさない「うん」。

 母は「道」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、道の両端の目印みたいに見えた。

 夜。 父は布団に入る前に、魚の包み紙の端を小さく折っていた。 折って、角を丸くして、何かを包むみたいに畳む。 畳んでから、縫い箱の前でいちど止まった。

 止まる影が畳の上で揺れる。 揺れるのに、倒れない。

 父は縫い箱を持ち上げなかった。 代わりに、箱の脇へ、小さく畳んだ包み紙をそっと置いた。 中には何も入っていない。 空っぽの袋。 でも、角が丸い袋は刺さらない。 刺さらない空っぽは、明日の「入れる」を待てる空っぽだ。

 幹夫は胸に手を当てて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

 > (とうちゃんへ も)

 中に書く。

 > みち って > あし だけ じゃなくて > くび が むく ほう なんだね> きょう> とうちゃんの さかな が> ちゃんと みち を とおって> うち に きた> いき を いれて> すこし ずつ

 最後に、小さく「道」。 丸をひとつ。 迷子にならないための丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは「さかな」の小さい声の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

 > みち は> あし と> くび の あいだ> こわいときほど> いき> すこし> うん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

 > みきぼう> きのう> みち で> こえ が でた> すこし> ここ に もどった

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――小さな魚の包み紙で折った「舟」がひとつ。 船の形なのに、角が丸い。 握ると軽いのに、落としたくない軽さ。

 幹夫はその紙の舟を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 道は、足と首。 止まって、少し。 向けて、少し。 声も、少し。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、道の上で出た小さな「さかな」は届いた。 届いた小さな声と、紙の舟の軽さを落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日の道を、また少し、そっと歩き始めた。

 
 
 

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