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間の字

 朝の障子は、全部閉めきらないほうが、家がやわらかくなる。 閉めきると、光は入らない。 入らないと、音が音のまま大きく聞こえる。 大きい音は、胸の奥のどこかを急に叩く。

 幹夫は目を覚ますと、首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。 重いのに痛くない。

 ――いき。

 息をひとつ入れると、胸の真ん中が「ここ」に座る。

 縁側のほうで、障子が小さく鳴った。

 から、から。

 風が、海のほうから真っすぐ入ってきて、紙を撫でた音。 紙の音は柔らかいのに、突然だと角が立つ。

 父の肩が、ふっと上がった。 上がって、止まる。 止まった「間」に、幹夫は袋の上から石を押さえ、息を入れた。

 ――いき。

 父は縁側に座っていた。 海を見ていない。 畳の縁を見ている。 目は遠くへ行きかけるのに、行ききらない。 行ききらないのは、戻り道が増えたせいかもしれなかった。

 から、から、から。

 もう一度、音。 父の喉がごくりと動いて、言葉が出そうで出ない。 出ない言葉は、喉の奥を少し痛くする。

 そこへ、母の足音が台所から落ちてきた。 急がせない、倒れない足音。

「……鳴るだに」

 母はそう言って、障子の桟のところに指を入れた。 閉めない。 でも開けすぎない。 ほんの指一本ぶん、ずらす。

 ずらした「隙間」に、細い光が一本できた。 細いのに、ちゃんと明るい。 明るいと、空気が息をしはじめる。

 母は、折った紙切れをひとつ持ってきて、桟の間にすっと差し込んだ。 きゅっと押さえつけない。 ただ、そこに「座らせる」だけ。

 から、から、が止まった。 止まると、家がいちど静かになって、その静かが今日は刺さらなかった。 静かの中に、光の線があるからだ。

 父が、小さく息を吐いた。

「……音が、止んだ」

 止んだ。 その言葉が、幹夫の胸の奥へ落ちて、ぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、続きの鳴り方だ。

 父は障子の隙間を見て、ぽつりと言った。

「……閉めると、息が苦しい日がある」

 苦しい。 言える。 言えると、苦しさは少し丸くなる。

 母は父のほうを見すぎずに、でも父へ届く声で言った。

「だから、間を残すだに」

 間。 その二文字は、畳の目の上に静かに座った。

 祖母が鍋の向こうで、淡々と言う。

「隙間ぁ、風の道だ。風が通りゃ、息も通る」

 息も通る。 幹夫は袋の上から石を押さえ直して、口の中で言った。

 ――いき。

 朝飯のあと、父は縁側に戻って、隙間の光を見ていた。 光は一本。 一本なのに、家の中を二つに分けない。 二つに分けない光は、やさしい。

 幹夫は冊子を膝に置いて、昨日の「憶」のページを開いた。 “きてき”の字。 “いま の こと”。 丸く書いた“いき”。

 父がそのページを見て、しばらく黙った。 黙りは長い。 でも今日は、長さが怖くない。 その黙りの中に、隙間の光があるからだ。

「……みき坊」

 呼ばれて、幹夫の胸がぽん、と鳴る。 鳴ったから、息。

 ――いき。

「……うん」

 父が、少しだけ言いにくそうに、でも置くように言った。

「……さっきの音で……怒鳴りそうになった」

 怒鳴りそうになった。 言える。 言えると、怒鳴りそうは“過ぎたもの”になる。

 幹夫は石を握りしめて、言葉を探した。 言葉は尖ることがある。 尖るのが怖いとき、幹夫は「間」を思い出す。

 言わない。 でも、いなくならない。

 ――いき。

 父はその「言わない」を見て、ふっと息を吐いた。

「……今の“間”……助かった」

 間が助ける。 そんなふうに言われると、幹夫の喉の奥が熱くなった。 熱くなりすぎて走りそうになったから、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 母が茶碗を片しながら、低く言った。

「間は、息の友だに」

 友。 その言葉が、家の中で丸く転がった。

 昼前。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目は今日も痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 間

 幹夫は、その字を見ただけで、障子の隙間の光が思い浮かんだ。 細い光。 鳴らないための紙切れ。 閉めきらない家。

 母は左の大きい形を指でなぞった。

「こっちは門だに。……出入りの門」

 門。 門は閉まる。 門は開く。 どっちもできるところ。

 母は指を、門の中へ入れるみたいに動かして、真ん中の字をなぞった。

「ここが日だに。太陽」

 門の中に日。 門が少し開いていると、そこに日が見える。 見えると、暗くならない。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「間ってのはな……門のあいだに日が見える字だに。閉めきらんで、少し開けて、光を入れる」

 少し。 止まって少し。 ほどける余地。 たわみ。 今までの全部が、この字の中へ座った。

 母は続けた。

「それとな、間は時間の間(あいだ)でもある。……返事する前、怒る前、怖くなる前に、ひとつ置く」

 ひとつ置く。 投げない。 置く。 置けたら、続きにならない。

 父が新聞紙の「間」を見て、ぽつりと言った。

「……門、か……」

 父の目が一瞬だけ遠くになりかけて、でも止まった。 止まった「間」に、幹夫は息を入れる。

 ――いき。

 父は、遠い目のまま戻ってきて、小さく言った。

「……門の前って……いつも“待て”って場所だった」

 待て。 命令の匂い。 でも今、父はそれを“ここ”に置けている。

 母は否定しなかった。 息をひとつ入れて、低く言った。

「うん。……だから今は、自分で“待つ”に変えるだに。待つとき、日を入れる。……隙間の光みたいに」

 待て、から、待つ。 命令が、自分の手つきになる。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言った。

「間がねぇと、箸が早ぇ。噛め。……噛むのが間だ」

 噛むのが間。 祖母の言い方は乱暴なのに、暮らしの太いところを踏ませる。

 幹夫は鉛筆を握った。 門を書く。 日を書く。

 一回目の「間」は、門がきつく閉まりすぎて、日が苦しそうに見えた。 苦しそうだと、胸がきゅっとする。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「門がきついときはな……少し広げりゃええ。日が座れる場所、作るだに」

 日が座れる場所。 それは、障子の隙間の一本の光だった。

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「間」は、門に少し余地ができて、日が落ち着いた顔になった。 落ち着いた顔は刺さらない。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 母が父を見て頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父の「間」は、門の縦が少し揺れた。 揺れるのに、折れていない。 日を書くとき、父は一度だけ息を止めて――止めたあと、ふっと吐いた。

「……日が入ると……違うな」

 違う。 それは、閉めきったときの苦しさから、少し離れた言い方だった。

 母は「間」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、門の隙間から見える小さな日みたいに見えた。

 夜。 風が強くなって、また障子が、から、と鳴りかけた。 鳴りかけたところで、母が朝の紙切れを指で押さえ、隙間を確かめる。

 音は大きくならなかった。 大きくならないと、父の肩は上がりきらない。

 父は布団の中から、小さく言った。

「……幹夫」

 呼ばれて、胸がぽん。 鳴ったから、息。

 ――いき。

「……うん」

 父は少し間を置いて、ぽつりと言った。

「……今日、怒鳴らんで済んだ。……間があったからだな」

 間があった。 その言葉は、幹夫の胸をそっと撫でた。

 幹夫は、言葉をたくさん出さなかった。 たくさん出すと、言葉が尖るときがある。 今日は、間を置く日だ。

 ――いき。「……うん」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「間があれば、息が戻るだに。……戻れば、夜は刺さらん」

 祖母が淡々と言う。

「刺さりそうなら、隙間見ろ。日が入る。……飯も食え」

 飯も食え、で暮らしが戻る。 戻ると、夜が夜のままでいられる。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

ま ってもん の あいだ に ひ が ある んだねきょうしょうじ の すきま の ひかりから から の おとでもとうちゃん どならなかったま が あったいき

 最後に、小さく「間」。 丸をひとつ。 隙間の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは「から、から」の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

ま はもん の あいだ の ひしめきらんすこし あけるその すこし が いきうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうしょうじ の おとどなりそう だったでもま が あったひ が みえたすこしもどれた

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――朝、母が挟んだ小さな紙切れ。 角が、父の手で少しだけ丸く切られている。 刺さらない角。 紙の端に、父の震える字で小さく、

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその紙切れを掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 間は、隙間。 隙間は、光。 光は、戻り道。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、障子の隙間の“ひ”は届いた。 届いた小さな光を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、言葉と音のあいだに、刺さらない「間」をそっと置いていった。

 
 
 

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