間の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月8日
- 読了時間: 7分

朝の障子は、全部閉めきらないほうが、家がやわらかくなる。 閉めきると、光は入らない。 入らないと、音が音のまま大きく聞こえる。 大きい音は、胸の奥のどこかを急に叩く。
幹夫は目を覚ますと、首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。 重いのに痛くない。
――いき。
息をひとつ入れると、胸の真ん中が「ここ」に座る。
縁側のほうで、障子が小さく鳴った。
から、から。
風が、海のほうから真っすぐ入ってきて、紙を撫でた音。 紙の音は柔らかいのに、突然だと角が立つ。
父の肩が、ふっと上がった。 上がって、止まる。 止まった「間」に、幹夫は袋の上から石を押さえ、息を入れた。
――いき。
父は縁側に座っていた。 海を見ていない。 畳の縁を見ている。 目は遠くへ行きかけるのに、行ききらない。 行ききらないのは、戻り道が増えたせいかもしれなかった。
から、から、から。
もう一度、音。 父の喉がごくりと動いて、言葉が出そうで出ない。 出ない言葉は、喉の奥を少し痛くする。
そこへ、母の足音が台所から落ちてきた。 急がせない、倒れない足音。
「……鳴るだに」
母はそう言って、障子の桟のところに指を入れた。 閉めない。 でも開けすぎない。 ほんの指一本ぶん、ずらす。
ずらした「隙間」に、細い光が一本できた。 細いのに、ちゃんと明るい。 明るいと、空気が息をしはじめる。
母は、折った紙切れをひとつ持ってきて、桟の間にすっと差し込んだ。 きゅっと押さえつけない。 ただ、そこに「座らせる」だけ。
から、から、が止まった。 止まると、家がいちど静かになって、その静かが今日は刺さらなかった。 静かの中に、光の線があるからだ。
父が、小さく息を吐いた。
「……音が、止んだ」
止んだ。 その言葉が、幹夫の胸の奥へ落ちて、ぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、続きの鳴り方だ。
父は障子の隙間を見て、ぽつりと言った。
「……閉めると、息が苦しい日がある」
苦しい。 言える。 言えると、苦しさは少し丸くなる。
母は父のほうを見すぎずに、でも父へ届く声で言った。
「だから、間を残すだに」
間。 その二文字は、畳の目の上に静かに座った。
祖母が鍋の向こうで、淡々と言う。
「隙間ぁ、風の道だ。風が通りゃ、息も通る」
息も通る。 幹夫は袋の上から石を押さえ直して、口の中で言った。
――いき。
朝飯のあと、父は縁側に戻って、隙間の光を見ていた。 光は一本。 一本なのに、家の中を二つに分けない。 二つに分けない光は、やさしい。
幹夫は冊子を膝に置いて、昨日の「憶」のページを開いた。 “きてき”の字。 “いま の こと”。 丸く書いた“いき”。
父がそのページを見て、しばらく黙った。 黙りは長い。 でも今日は、長さが怖くない。 その黙りの中に、隙間の光があるからだ。
「……みき坊」
呼ばれて、幹夫の胸がぽん、と鳴る。 鳴ったから、息。
――いき。
「……うん」
父が、少しだけ言いにくそうに、でも置くように言った。
「……さっきの音で……怒鳴りそうになった」
怒鳴りそうになった。 言える。 言えると、怒鳴りそうは“過ぎたもの”になる。
幹夫は石を握りしめて、言葉を探した。 言葉は尖ることがある。 尖るのが怖いとき、幹夫は「間」を思い出す。
言わない。 でも、いなくならない。
――いき。
父はその「言わない」を見て、ふっと息を吐いた。
「……今の“間”……助かった」
間が助ける。 そんなふうに言われると、幹夫の喉の奥が熱くなった。 熱くなりすぎて走りそうになったから、息をひとつ入れた。
――いき。
母が茶碗を片しながら、低く言った。
「間は、息の友だに」
友。 その言葉が、家の中で丸く転がった。
昼前。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目は今日も痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
間
幹夫は、その字を見ただけで、障子の隙間の光が思い浮かんだ。 細い光。 鳴らないための紙切れ。 閉めきらない家。
母は左の大きい形を指でなぞった。
「こっちは門だに。……出入りの門」
門。 門は閉まる。 門は開く。 どっちもできるところ。
母は指を、門の中へ入れるみたいに動かして、真ん中の字をなぞった。
「ここが日だに。太陽」
門の中に日。 門が少し開いていると、そこに日が見える。 見えると、暗くならない。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「間ってのはな……門のあいだに日が見える字だに。閉めきらんで、少し開けて、光を入れる」
少し。 止まって少し。 ほどける余地。 たわみ。 今までの全部が、この字の中へ座った。
母は続けた。
「それとな、間は時間の間(あいだ)でもある。……返事する前、怒る前、怖くなる前に、ひとつ置く」
ひとつ置く。 投げない。 置く。 置けたら、続きにならない。
父が新聞紙の「間」を見て、ぽつりと言った。
「……門、か……」
父の目が一瞬だけ遠くになりかけて、でも止まった。 止まった「間」に、幹夫は息を入れる。
――いき。
父は、遠い目のまま戻ってきて、小さく言った。
「……門の前って……いつも“待て”って場所だった」
待て。 命令の匂い。 でも今、父はそれを“ここ”に置けている。
母は否定しなかった。 息をひとつ入れて、低く言った。
「うん。……だから今は、自分で“待つ”に変えるだに。待つとき、日を入れる。……隙間の光みたいに」
待て、から、待つ。 命令が、自分の手つきになる。
祖母が鍋の向こうで淡々と言った。
「間がねぇと、箸が早ぇ。噛め。……噛むのが間だ」
噛むのが間。 祖母の言い方は乱暴なのに、暮らしの太いところを踏ませる。
幹夫は鉛筆を握った。 門を書く。 日を書く。
一回目の「間」は、門がきつく閉まりすぎて、日が苦しそうに見えた。 苦しそうだと、胸がきゅっとする。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「門がきついときはな……少し広げりゃええ。日が座れる場所、作るだに」
日が座れる場所。 それは、障子の隙間の一本の光だった。
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「間」は、門に少し余地ができて、日が落ち着いた顔になった。 落ち着いた顔は刺さらない。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
母が父を見て頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。
父の「間」は、門の縦が少し揺れた。 揺れるのに、折れていない。 日を書くとき、父は一度だけ息を止めて――止めたあと、ふっと吐いた。
「……日が入ると……違うな」
違う。 それは、閉めきったときの苦しさから、少し離れた言い方だった。
母は「間」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、門の隙間から見える小さな日みたいに見えた。
夜。 風が強くなって、また障子が、から、と鳴りかけた。 鳴りかけたところで、母が朝の紙切れを指で押さえ、隙間を確かめる。
音は大きくならなかった。 大きくならないと、父の肩は上がりきらない。
父は布団の中から、小さく言った。
「……幹夫」
呼ばれて、胸がぽん。 鳴ったから、息。
――いき。
「……うん」
父は少し間を置いて、ぽつりと言った。
「……今日、怒鳴らんで済んだ。……間があったからだな」
間があった。 その言葉は、幹夫の胸をそっと撫でた。
幹夫は、言葉をたくさん出さなかった。 たくさん出すと、言葉が尖るときがある。 今日は、間を置く日だ。
――いき。「……うん」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「間があれば、息が戻るだに。……戻れば、夜は刺さらん」
祖母が淡々と言う。
「刺さりそうなら、隙間見ろ。日が入る。……飯も食え」
飯も食え、で暮らしが戻る。 戻ると、夜が夜のままでいられる。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
ま ってもん の あいだ に ひ が ある んだねきょうしょうじ の すきま の ひかりから から の おとでもとうちゃん どならなかったま が あったいき
最後に、小さく「間」。 丸をひとつ。 隙間の丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは「から、から」の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
ま はもん の あいだ の ひしめきらんすこし あけるその すこし が いきうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうしょうじ の おとどなりそう だったでもま が あったひ が みえたすこしもどれた
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――朝、母が挟んだ小さな紙切れ。 角が、父の手で少しだけ丸く切られている。 刺さらない角。 紙の端に、父の震える字で小さく、
ま
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその紙切れを掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
間は、隙間。 隙間は、光。 光は、戻り道。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、障子の隙間の“ひ”は届いた。 届いた小さな光を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、言葉と音のあいだに、刺さらない「間」をそっと置いていった。





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