top of page

間の字

 

 朝の潮は、昨日より少しだけ冷たかった。 冷たいのに、匂いはやさしい。 やさしい匂いは、胸の奥の角を丸くする。

 ちゃぶ台の端の「まちばこ」は、今日も空っぽだった。 空っぽは、来る場所。 来る場所があると、待つのが“こわい”じゃなく、“まだ”になる。

 幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 縁側に出ると、父がもう座っていた。 背中が少し丸い。 丸い背中は、怒っている背中じゃない。 疲れている背中だ。

 父は波のほうを見て、ぽつりと言った。

「……昨夜の座敷……まだ胸に残ってる」

 残ってる。 それは、嫌だ、じゃなくて、今の形の言葉だった。

 幹夫は返事を急がなかった。 急ぐと、言葉が尖る日がある。 だから、間。

 ――いき。

「……残ってる、って言えたね」

 父は一瞬、笑いそうになって、笑わないまま、息を吐いた。

 ふう……。

「……言えたら……少し外へ出るな」

 外へ出る。 語の字の匂い。 置の字の匂い。 胸の中に溜めない匂い。

 そのとき。

 遠くで、ガタン、と音がした。 線路のほう。 蒲原の道の奥を、列車が通る音。

 父の肩が、ふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。

 ――いき。

 もう一度。

 ガタン。

 音は同じなのに、毎回ちょっと違う。 同じみたいで違う音は、胸を迷わせる日がある。

 父が口の中で小さく言った。

「……車輪の音だ」

 名前を置く。 置けると、音は音のままで座る。

 父は、音が消えたあとを見て、ぽつりと言った。

「……音と音の……あいだがあるな」

 あいだ。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

「……あいだ?」

 父は縁側の板を指でとん、と叩きそうになって、途中で止めた。 止めてから、指先で、そっと撫でた。

「……ガタンとガタンの……間(ま)」

 間。 その言い方は、怖さに“形”を与える言い方だった。 形があると、入口が探せる。

 母が台所の境目から、急がせない声で言った。

「間があると、息が入るだに。……息が入ると、音が刺さらん」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「刺さりそうなら間を置け。……置けたら飯だに」

 間を置け。 置けたら飯。 家の中の太い道が、また一本増えた。

 父が、列車の音が遠くなるほうを見ながら、ぽつりと言った。

「……俺……間がないと……すぐ出る」

 “出る”。 怒りか、声か、手か。 父が全部を言わないところが、逆に胸に触れた。 言わないのは、隠すんじゃなく、まだ形にできないだけのときがある。

 幹夫は喉の奥が熱くなって、走りそうになったから、息をひとつ入れた。

 ――いき。

「……じゃあ……間を、作ろう」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

「……作る、か」

 作れる。 そう思えた瞬間、父の背中がほんの少しだけ軽く見えた。

 昼前。 父は納屋の隅から、小さな木の切れ端を持ってきた。 名札を削ったときの残り。 角はまだ少し尖っている。

 父はそれを、戸口の「置き布」の上に置いた。 置いてから、紙やすりを出す。 順番があると、手が荒れない。

 しゅり、しゅり。

 削る音は小さい。 小さいと、胸が走りにくい。

 父は二、三回擦って止まった。 止まって、息を吐く。

 ふう……。

 それからまた擦る。 息を挟む手つき。

 幹夫はその木片を見て訊いた。

「……それ、なに?」

 父がぽつりと言った。

「……間の札(ふだ)」

 間の札。 “間”が、紙の上だけじゃなく、手の中のものになる。

 父は鉛筆で、片面に大きく「ま」と書いた。 もう片面には、小さく「いき」。

「……これ、出したら……一回止まる」

 止まる。 止まるのが命令じゃなく、約束になる。

 母が、湯気の匂いを連れて言った。

「ええね。……ま札。喧嘩になりそうなとき、これ置けばええだに」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「札ぁ便利だに。……言葉より先に置ける」

 言葉より先に置ける。 置けると、刺さらない。

 父はま札を掌にのせて、しばらく見ていた。 見て、止まる。 止まって、少し。 その少しに、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 父がぽつりと言った。

「……俺、今まで……止まる札、持ってなかった」

 幹夫は返事を急がなかった。 急ぐと、慰めが押しつけになる日がある。 だから、間。

 ――いき。

「……きょう、できた」

 父は少し間を置いて、ほんの少しだけ口の端を上げた。

「……できたな」

 午後。 正夫がやってきた。 足音が、たたた、って軽い。 軽い足音は、風みたいに来る。

「みきぼー! あのさ、今日も糸電話やろ!」

 正夫の声が大きくなりかけて、幹夫が小さく手を振った。

「……小さい声、ね。……門の中だと丸い」

「うん!」

 正夫はすぐ小さくして、でも目がきらきらしている。

 父は縁側に座っていた。 正夫を見るとき、父の目がいちど止まる。 止まって、息を吐く。

 ふう……。

 父がぽつりと言った。

「……正夫、来たか」

 “来たか”の語尾がやわらかい。 やわらかいと、子どもも刺さらない。

 正夫が縁側の端に置かれた小さな木片を見つけた。

「なにそれ?」

 父が、ま札を持ち上げて見せた。 見せ方が、投げない見せ方。

「……ま、って札だ」

「ま?」

 父がま札の「ま」を指でなぞって、ぽつりと言った。

「……声が尖りそうになったら……これ出して、間を作る」

 正夫は目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。

「かっこいい! “ま”って、空気みたいだね!」

 空気。 息。 その言い方が、幹夫の胸をふわっとさせた。

 そのとき、正夫が興奮して、缶を床に置きかけた。

 ごとっ。

 硬い音が出そうになって、でも――父がま札を、ちゃぶ台の端にそっと置いた。

 とん。

 音が眠った。

 父は何も怒らなかった。 ただ、低く言った。

「……ま」

 “ま”。 それだけで、家の中に小さい止まり木ができた。

 正夫ははっとして、声を小さくした。

「……ごめん。……置く、だね」

 父が頷いた。

「……うん。……置く。……その前に、ま」

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 正夫は缶を布の上にそっと置き直して、小さく言った。

「……ま、できた」

 父が、ほんの少しだけ笑った。 笑いきれないのに、笑いの形。

「……できたな」

 夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目は今日も痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 間

 幹夫はその字を見た瞬間、列車の「ガタン」と「ガタン」のあいだを思い出した。 そして、父が出した小さなま札。 止まるための道具。

 母は左側を指でなぞった。

「こっちは門だに。……きのうの“聞”の門と同じ」

 門。 境目。 縁側。 戸口。

 母は中の「日」をなぞった。

「中は日だに。……門の中に、日が入っとる」

 日。 光。 光が入ると、見える。 見えると、怖さは形になる。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「間ってのはな……門のすきまから日が差す字だに。すきまの光。時間のすきま。音と音のすきま。……そのすきまに、息が入る」

 すきまに息。 幹夫の胸の奥が、すとん、と座った。

 母は続けた。

「聞くは、門に耳だに。……間は、門に日。耳だけだと刺さることがあるけど、日が入ると“今”が見える。今が見えりゃ、戻れる」

 戻れる。 父の背中が少し丸くなった理由が、分かる気がした。

 父が新聞紙の「間」を見て、ぽつりと言った。

「……俺、門を閉めるか、開けるか、ばっかりだった」

 母は否定しなかった。

「うん。……でも、すきまを作ればええだに。全部閉めん。全部開けん。……間を置く」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「すきまがありゃ飯がうまい。……詰めると腹が荒れる」

 父が小さく息を吐いた。

 ふう……。

「……俺、ま札……いいな」

 “いいな”。 落とさない好き。

 幹夫は鉛筆を握った。 門を書いて、日を書く。

 一回目の「間」は、門が細くて、日が苦しそうに詰まった。 詰まると、息が入りにくい。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「詰まったらな……門を太らせりゃええ。日が座れるくらい、広くする。……間は、広さだに」

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「間」は、日がちゃんと中に座った。 座ると、字が“明るい顔”になる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「間」は、門の線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 日を書き終えたところで、父は息をいちど止めて――止めたあと、ふっと吐いた。

 ふう……。

「……日が入ると……胸も明るいな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……明るいと、刺さる前に気づけるだに」

 母は「間」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、門のすきまから見える小さい日みたいに見えた。

 夜。 ま札は、ちゃぶ台の端に置かれていた。 置かれているだけで、家の空気が少し静かだ。 静かは、閉じる静かじゃなく、余地のある静か。

 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。

がたんがたんあいだ が あったま って いえたまふだつくったまさお がおと だしそう に なった ときま できたおれとまれたいき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……間を作るの、難しい日もある」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……でも、札がある。門がある。日が入る」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

「……日、入れたいな」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「入れるだに。……すきま、作ればええ。すきまが守りだに」

 祖母が淡々と言う。

「守れりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 間のある明日。

 幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

ま ってもん の なか に ひ が はいる じ なんだねきょうがたん と がたん の あいだとうちゃんま って いえたまふだ つくったまさお もおく まえ に ま できたいき

 最後に、小さく「間」。 丸をひとつ。 すきまの丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは列車の「ガタン」の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

ま はもん の なか の ひすきま に いきつめんひ を すわらせるうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうがたん きた ときかた うごいたでもま って いえたまふだたすかったすこしおれ の むね にひ が はいった

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――小さな木の札。 片面に「ま」。もう片面に「いき」。 角は丸く削ってあって刺さらない。 札の端に、父の震える字で小さく、

あいだ

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその札を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 間は、すきま。 すきまは、守り。 門の中に日が入ると、胸の中にも光が入る。 光が入ると、止まれる。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、「ガタン」と「ガタン」のあいだの小さな日差しは届いた。 届いた“ま”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらないすきまを、そっと家の中に作っていった。

 
 
 

コメント


Instagram​​

Microsoft、Azure、Microsoft 365、Entra は米国 Microsoft Corporation の商標または登録商標です。
本ページは一般的な情報提供を目的とし、個別案件は状況に応じて整理手順が異なります。

※本ページに登場するイラストはイメージです。
Microsoft および Azure 公式キャラクターではありません。

Microsoft, Azure, and Microsoft 365 are trademarks of Microsoft Corporation.
We are an independent service provider.

​所在地:静岡市

©2024 山崎行政書士事務所。Wix.com で作成されました。

bottom of page