間の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月17日
- 読了時間: 9分

朝の潮は、昨日より少しだけ冷たかった。 冷たいのに、匂いはやさしい。 やさしい匂いは、胸の奥の角を丸くする。
ちゃぶ台の端の「まちばこ」は、今日も空っぽだった。 空っぽは、来る場所。 来る場所があると、待つのが“こわい”じゃなく、“まだ”になる。
幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
縁側に出ると、父がもう座っていた。 背中が少し丸い。 丸い背中は、怒っている背中じゃない。 疲れている背中だ。
父は波のほうを見て、ぽつりと言った。
「……昨夜の座敷……まだ胸に残ってる」
残ってる。 それは、嫌だ、じゃなくて、今の形の言葉だった。
幹夫は返事を急がなかった。 急ぐと、言葉が尖る日がある。 だから、間。
――いき。
「……残ってる、って言えたね」
父は一瞬、笑いそうになって、笑わないまま、息を吐いた。
ふう……。
「……言えたら……少し外へ出るな」
外へ出る。 語の字の匂い。 置の字の匂い。 胸の中に溜めない匂い。
そのとき。
遠くで、ガタン、と音がした。 線路のほう。 蒲原の道の奥を、列車が通る音。
父の肩が、ふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。
――いき。
もう一度。
ガタン。
音は同じなのに、毎回ちょっと違う。 同じみたいで違う音は、胸を迷わせる日がある。
父が口の中で小さく言った。
「……車輪の音だ」
名前を置く。 置けると、音は音のままで座る。
父は、音が消えたあとを見て、ぽつりと言った。
「……音と音の……あいだがあるな」
あいだ。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
「……あいだ?」
父は縁側の板を指でとん、と叩きそうになって、途中で止めた。 止めてから、指先で、そっと撫でた。
「……ガタンとガタンの……間(ま)」
間。 その言い方は、怖さに“形”を与える言い方だった。 形があると、入口が探せる。
母が台所の境目から、急がせない声で言った。
「間があると、息が入るだに。……息が入ると、音が刺さらん」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「刺さりそうなら間を置け。……置けたら飯だに」
間を置け。 置けたら飯。 家の中の太い道が、また一本増えた。
父が、列車の音が遠くなるほうを見ながら、ぽつりと言った。
「……俺……間がないと……すぐ出る」
“出る”。 怒りか、声か、手か。 父が全部を言わないところが、逆に胸に触れた。 言わないのは、隠すんじゃなく、まだ形にできないだけのときがある。
幹夫は喉の奥が熱くなって、走りそうになったから、息をひとつ入れた。
――いき。
「……じゃあ……間を、作ろう」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
「……作る、か」
作れる。 そう思えた瞬間、父の背中がほんの少しだけ軽く見えた。
昼前。 父は納屋の隅から、小さな木の切れ端を持ってきた。 名札を削ったときの残り。 角はまだ少し尖っている。
父はそれを、戸口の「置き布」の上に置いた。 置いてから、紙やすりを出す。 順番があると、手が荒れない。
しゅり、しゅり。
削る音は小さい。 小さいと、胸が走りにくい。
父は二、三回擦って止まった。 止まって、息を吐く。
ふう……。
それからまた擦る。 息を挟む手つき。
幹夫はその木片を見て訊いた。
「……それ、なに?」
父がぽつりと言った。
「……間の札(ふだ)」
間の札。 “間”が、紙の上だけじゃなく、手の中のものになる。
父は鉛筆で、片面に大きく「ま」と書いた。 もう片面には、小さく「いき」。
「……これ、出したら……一回止まる」
止まる。 止まるのが命令じゃなく、約束になる。
母が、湯気の匂いを連れて言った。
「ええね。……ま札。喧嘩になりそうなとき、これ置けばええだに」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「札ぁ便利だに。……言葉より先に置ける」
言葉より先に置ける。 置けると、刺さらない。
父はま札を掌にのせて、しばらく見ていた。 見て、止まる。 止まって、少し。 その少しに、幹夫は息を入れた。
――いき。
父がぽつりと言った。
「……俺、今まで……止まる札、持ってなかった」
幹夫は返事を急がなかった。 急ぐと、慰めが押しつけになる日がある。 だから、間。
――いき。
「……きょう、できた」
父は少し間を置いて、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「……できたな」
午後。 正夫がやってきた。 足音が、たたた、って軽い。 軽い足音は、風みたいに来る。
「みきぼー! あのさ、今日も糸電話やろ!」
正夫の声が大きくなりかけて、幹夫が小さく手を振った。
「……小さい声、ね。……門の中だと丸い」
「うん!」
正夫はすぐ小さくして、でも目がきらきらしている。
父は縁側に座っていた。 正夫を見るとき、父の目がいちど止まる。 止まって、息を吐く。
ふう……。
父がぽつりと言った。
「……正夫、来たか」
“来たか”の語尾がやわらかい。 やわらかいと、子どもも刺さらない。
正夫が縁側の端に置かれた小さな木片を見つけた。
「なにそれ?」
父が、ま札を持ち上げて見せた。 見せ方が、投げない見せ方。
「……ま、って札だ」
「ま?」
父がま札の「ま」を指でなぞって、ぽつりと言った。
「……声が尖りそうになったら……これ出して、間を作る」
正夫は目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
「かっこいい! “ま”って、空気みたいだね!」
空気。 息。 その言い方が、幹夫の胸をふわっとさせた。
そのとき、正夫が興奮して、缶を床に置きかけた。
ごとっ。
硬い音が出そうになって、でも――父がま札を、ちゃぶ台の端にそっと置いた。
とん。
音が眠った。
父は何も怒らなかった。 ただ、低く言った。
「……ま」
“ま”。 それだけで、家の中に小さい止まり木ができた。
正夫ははっとして、声を小さくした。
「……ごめん。……置く、だね」
父が頷いた。
「……うん。……置く。……その前に、ま」
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
正夫は缶を布の上にそっと置き直して、小さく言った。
「……ま、できた」
父が、ほんの少しだけ笑った。 笑いきれないのに、笑いの形。
「……できたな」
夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目は今日も痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
間
幹夫はその字を見た瞬間、列車の「ガタン」と「ガタン」のあいだを思い出した。 そして、父が出した小さなま札。 止まるための道具。
母は左側を指でなぞった。
「こっちは門だに。……きのうの“聞”の門と同じ」
門。 境目。 縁側。 戸口。
母は中の「日」をなぞった。
「中は日だに。……門の中に、日が入っとる」
日。 光。 光が入ると、見える。 見えると、怖さは形になる。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「間ってのはな……門のすきまから日が差す字だに。すきまの光。時間のすきま。音と音のすきま。……そのすきまに、息が入る」
すきまに息。 幹夫の胸の奥が、すとん、と座った。
母は続けた。
「聞くは、門に耳だに。……間は、門に日。耳だけだと刺さることがあるけど、日が入ると“今”が見える。今が見えりゃ、戻れる」
戻れる。 父の背中が少し丸くなった理由が、分かる気がした。
父が新聞紙の「間」を見て、ぽつりと言った。
「……俺、門を閉めるか、開けるか、ばっかりだった」
母は否定しなかった。
「うん。……でも、すきまを作ればええだに。全部閉めん。全部開けん。……間を置く」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「すきまがありゃ飯がうまい。……詰めると腹が荒れる」
父が小さく息を吐いた。
ふう……。
「……俺、ま札……いいな」
“いいな”。 落とさない好き。
幹夫は鉛筆を握った。 門を書いて、日を書く。
一回目の「間」は、門が細くて、日が苦しそうに詰まった。 詰まると、息が入りにくい。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「詰まったらな……門を太らせりゃええ。日が座れるくらい、広くする。……間は、広さだに」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「間」は、日がちゃんと中に座った。 座ると、字が“明るい顔”になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「間」は、門の線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 日を書き終えたところで、父は息をいちど止めて――止めたあと、ふっと吐いた。
ふう……。
「……日が入ると……胸も明るいな」
母が小さく頷いた。
「うん。……明るいと、刺さる前に気づけるだに」
母は「間」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、門のすきまから見える小さい日みたいに見えた。
夜。 ま札は、ちゃぶ台の端に置かれていた。 置かれているだけで、家の空気が少し静かだ。 静かは、閉じる静かじゃなく、余地のある静か。
父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。
がたんがたんあいだ が あったま って いえたまふだつくったまさお がおと だしそう に なった ときま できたおれとまれたいき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……間を作るの、難しい日もある」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……でも、札がある。門がある。日が入る」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
「……日、入れたいな」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「入れるだに。……すきま、作ればええ。すきまが守りだに」
祖母が淡々と言う。
「守れりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 間のある明日。
幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
ま ってもん の なか に ひ が はいる じ なんだねきょうがたん と がたん の あいだとうちゃんま って いえたまふだ つくったまさお もおく まえ に ま できたいき
最後に、小さく「間」。 丸をひとつ。 すきまの丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは列車の「ガタン」の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
ま はもん の なか の ひすきま に いきつめんひ を すわらせるうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうがたん きた ときかた うごいたでもま って いえたまふだたすかったすこしおれ の むね にひ が はいった
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――小さな木の札。 片面に「ま」。もう片面に「いき」。 角は丸く削ってあって刺さらない。 札の端に、父の震える字で小さく、
あいだ
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその札を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
間は、すきま。 すきまは、守り。 門の中に日が入ると、胸の中にも光が入る。 光が入ると、止まれる。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、「ガタン」と「ガタン」のあいだの小さな日差しは届いた。 届いた“ま”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらないすきまを、そっと家の中に作っていった。





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