頼の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月17日
- 読了時間: 9分

朝の風が、軒下を急がせていた。 急ぐ風は、音を連れてくる。
ぱた、ぱた、ぱた。
燕の巣の前の“守りの網”が、軽く揺れている。 揺れるだけならいい。 でも今日は、揺れが少し尖っていた。 尖ると、網の結び目も忙しくなる。
幹夫は縁側のふちに座って、首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
父はもう外に出ていた。 網の端の結び目を見て、指先で“ま”を探している。 探し方が、荒くない。 荒くないのは、息が入っている手つきだ。
父の肩が、風の音でふっと上がりかける。 上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。
――いき。
父が口の中で小さく言った。
「……風の音だ」
名前を置く。 置けると、音は音のままで座る。
ふう……。
父は結び目を引っぱらない。 いきなり締めると、守りが罠になる。 罠は、息を止める。
父は、結び目のそばに小さく残した“余地”へ、指を入れて―― 入れたまま、ほんの少しだけ戻す。 戻すと、結び目が怒らない。
そのとき、風が強くなって、網がぱた、と鳴った。
父の肩が跳ねそうになる。 跳ねそうで――止まる。
――いき。
父が、幹夫のほうを見た。 目が遠くへ行っていない。 今ここで、見る目。
「みき坊」
呼び方が、急がない。
「……ここ、押さえて。……頼む」
頼む。 その二文字が、幹夫の胸の奥をぽん、と叩いた。 叩いたのに痛くない。 あたたかい叩き方。
鳴ったから、息。
――いき。
「うん」
幹夫は縁側からそっと降りて、網の端を両手で押さえた。 押さえる手は、掴む手じゃない。 受け皿みたいに置く手。
父は結び目をほどくみたいに、少しだけゆるめて―― ゆるめたところへ、また結び直した。 結び目の中に、小さい“ま”を残す。 残すと、息が通る。
父がぽつり。
「……よし」
吉のよしじゃない。 暮らしのよし。
燕が巣の中で、小さく鳴いた。
ちち。
小さい音。 小さい音は、胸を走らせない。
幹夫は網を押さえたまま、胸の中で言った。
――いき。
父は最後に、結び目の角を指で撫でた。 丸い角。 丸い角は刺さらない。
「……助かった」
父が言った。 “助かった”は、重い言葉なのに、丸い。
幹夫は、少し照れた。 照れは、胸が生きてる印。
「……ぼく、押さえただけ」
父は一瞬、笑いそうになって、笑わないまま息を吐いた。
ふう……。
「……押さえるだけ、が……でかい」
でかい。 父の口から出ると、やさしいでかさになる。
昼前。 戸口の「置き布」の上に、回覧板じゃないものが置かれた。 紐で縛った竹の束。 束は、軽くない。 軽くない束は、ひとりじゃ持ちにくい。
清水屋のおばさんが、戸口で声を落とした。
「兄さん、悪いけど……ちょっと頼まれてくれんかね」
頼まれて。 その言葉が、父の肩を少し動かした。
父の肩がふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。
――いき。
父が口の中で小さく言った。
「……頼まれた、だ」
名前を置く。 置けると、胸が逃げない。
ふう……。
清水屋のおばさんは、束の端を指で押さえて言った。
「広場の柵(さく)、ちょい傾いとるだに。縄が足らんでさ。兄さん、結び上手だら? “ここだけ”手ぇ貸してくれんかね」
ここだけ。 “だけ”があると、怖さが固まらない。
母が台所の境目から、ぶつけない声で言った。
「頼まれたら、頼り返しゃええだに。……ひとりで背負わん」
頼り返す。 受けるだけじゃなく、こちらも頼る。
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「頼まれたら、受けて返せ。……返したら終いだに」
父は黙って、懐に手を入れた。 ま札の角を指で撫でる。 撫でて、間を作る。 間に、息。
――いき。
父が、清水屋のおばさんへ、低く言った。
「……行く。……でも、みき坊も連れてく」
清水屋のおばさんが目を丸くして、すぐ笑った。
「ええだに。……子どもは見張り役だに。音、荒れんように」
母が幹夫に手拭いを渡した。
「汗ふく布だに。……布は守りだに」
父は竹の束をいきなり掴まない。 いったん置き布の上に置いてから、両手で受けるように持った。 受ける手は、荒れない。
――いき。
広場は、昨日より少しだけ騒がしかった。 竹を打つ音。 縄が擦れる音。 人の声。
とん。 こん。 ぎゅ。
音が集まると、胸が忙しくなる日がある。
父の足が、広場の端で止まった。 端は逃げ道がある。 逃げ道があると、胸が潰れにくい。
父の肩がふっと上がりかける。 上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。
――いき。
父が口の中で小さく言った。
「……竹の音だ」
名前を置く。 置けると、音は音のままで座る。
ふう……。
組の男が、少し急いだ声で言った。
「兄さん、ここ! 縄が足らんで、結びが浅い!」
浅い結びは抜ける。 抜けると、みんなが焦る。 焦ると、声が尖る。
父の肩が、ふっと上がりかける。 上がりかけて――止まる。
父は、そこで珍しく、相手へ言葉を置いた。 尖らせずに。
「……少し待って。……ま、する」
ま、する。 “ま”を外で言えた。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。
鳴ったから、息。
――いき。
父は懐からま札を出して、足元の土の上へ直接置かず、持ってきた布の上へそっと置いた。
とん。
小さい音。 小さい音は眠る。
父は縄を見て、結び目をいちど“戻した”。 返し縫いみたいに、戻って固める。 固めるけど、締めつけすぎない。 結び目の中に、余地を残す。
幹夫は横で、風で布が飛ばないように押さえた。 朝の網のときと同じ。 “押さえるだけ”が、仕事になる。
――いき。
父がぽつり。
「……ここ、通す。……ここで、返す」
通す。 返す。 結ぶ。 言葉が、手の動きと一緒に座っている。
縄が、柵の竹にぴたりと収まった。 抜けない顔になる。 抜けない顔は、安心の顔。
男が、肩を落として言った。
「……助かった。……兄さん、やっぱ上手だに」
上手、と言われると、父は昔なら照れて怒ったかもしれない。 でも今日は、息を吐いて、短く返した。
ふう……。
「……お互いさまだ」
お互いさま。 返しの言葉。 返しの言葉は、背負いすぎない。
そのとき、別の男が言った。
「みき坊も、押さえてくれて助かっただに」
幹夫の喉の奥が熱くなる。 熱いと走りそうだから、息。
――いき。
「……うん」
うん、だけ。 でも、胸の中でちゃんと座った。
帰り道、父がぽつりと言った。
「……俺、さっき……待って、って言えた」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……言えた。……ま、した」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……頼まれるの、こわかったけど……頼んだら、こわくなかった」
頼んだら。 父が“頼む”を自分の口で言った。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。
鳴ったから、息。
――いき。
「……父ちゃん、ぼくに“頼む”って言った」
父は一瞬、照れたみたいに鼻の下を擦って、ぽつりと言った。
「……言ったな。……言えると、手が戻る」
戻る。 戻ると、続く。 続くと、暮らしになる。
夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は今日も痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
頼
幹夫はその字を見た瞬間、朝の「頼む」と、広場の「待って、ま、する」が一緒に浮かんだ。 頼むは、弱いことじゃなく、道を作ること。
母は左側を指でなぞった。
「こっちは束(たば)だに。……ひとりじゃ持ちにくい荷物」
束。 竹の束。 胸の中の束。 言い損ねた言葉の束。
母は右側をなぞった。
「こっちは頁(ぺーじ)じゃなくて“顔”だに。……頭、顔。表に出るとこ」
顔。 表に出す。 隠さない。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「頼るってのはな……束をひとりで抱えずに、顔を出して『手ぇ貸して』って言う字だに。束を渡すんじゃない。束の端っこを、相手にも持ってもらう。そうすると、道が太る」
道が太る。 しんにょうの道。 帰れる道。 返せる道。
母は続けた。
「頼むって、迷惑かけるだけじゃない。……相手に“役目”を渡すことだに。役目があると、人は座れる。座れりゃ、息が入る」
父が新聞紙の「頼」を見て、ぽつりと言った。
「……俺、束を……ずっとひとりで持ってた」
母は否定しない。 低く言った。
「うん。……だから肩が上がった。……でも今日は、みきに端っこ持たせた。広場でも『待って』って言って、みんなに“ま”を渡した。頼り方が、丸かった」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「頼れりゃ飯がうまい。……頼れんと腹が荒れる。荒れたら、つづかん」
父が小さく息を吐いた。
ふう……。
「……頼るって……守りだな」
幹夫の胸の奥が、すとん、と座った。 座ったから、息。
――いき。
幹夫は鉛筆を握った。 頼を書く。
一回目の「頼」は、束が細くて、字がふらふらした。 ふらふらは、抱えきれない束の顔。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「ふらついたらな……束を太らせりゃええ。持つ端っこを増やす。……頼るは、端っこだに。息、入れてから」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「頼」は、束が少し座って、顔のほうも落ち着いた。 落ち着くと、“お願い”が刺さらない。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「頼」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、点を置いた。
「……点、置くと……束が床に座るみてぇだな」
母が小さく頷いた。
「うん。……床があれば抱えんでええ。抱えんでええと、肩が落ちる」
母は「頼」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、束の端っこを持つ手みたいに見えた。
夜。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。
あさかぜあみみきぼう にたのむ って いったひるひろばたのまれたこわかった けどま してまって って いえたたのんだらこわく なかった頼たば をいっしょ に もついき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……頼るの、こわい日もある」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……でも、頼まれたら、頼り返せる」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……頼り返す……それ、覚える」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「覚えりゃええ。……頼るのは、束をほどくことだに」
祖母が淡々と言う。
「ほどけりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 頼れる明日。
幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
たのる ってたば の はしっこ をいっしょ に もって もらう って こと なんだねきょうとうちゃんぼく にたのむ って いったぼくうれしかったいき
最後に、小さく「頼」。 丸をひとつ。 端っこの丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは「頼む」の熱さの名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
頼 はたば と かおひとり で だかえんはしっこ を わたすうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうたのむ って いえたたのまれて こわかった けどま してたのんだたすかった頼 って じすこしかた が おちる
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――短い縄の切れ端。 両端に小さな輪が作ってあって、指が通る。刺さらない輪。 輪のそばに、父の震える字で小さく、
たより
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその輪を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
頼る。 束の端っこを、誰かに持ってもらう。 持ってもらうために、顔を出して、言葉を置く。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、風のぱたぱたの中で父が言った「頼む」は届いた。 届いたその二文字を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、束の端っこを、刺さらない形でそっと差し出していった。





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