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頼の字 


 朝の風が、軒下を急がせていた。 急ぐ風は、音を連れてくる。

 ぱた、ぱた、ぱた。

 燕の巣の前の“守りの網”が、軽く揺れている。 揺れるだけならいい。 でも今日は、揺れが少し尖っていた。 尖ると、網の結び目も忙しくなる。

 幹夫は縁側のふちに座って、首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 父はもう外に出ていた。 網の端の結び目を見て、指先で“ま”を探している。 探し方が、荒くない。 荒くないのは、息が入っている手つきだ。

 父の肩が、風の音でふっと上がりかける。 上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 父が口の中で小さく言った。

「……風の音だ」

 名前を置く。 置けると、音は音のままで座る。

 ふう……。

 父は結び目を引っぱらない。 いきなり締めると、守りが罠になる。 罠は、息を止める。

 父は、結び目のそばに小さく残した“余地”へ、指を入れて―― 入れたまま、ほんの少しだけ戻す。 戻すと、結び目が怒らない。

 そのとき、風が強くなって、網がぱた、と鳴った。

 父の肩が跳ねそうになる。 跳ねそうで――止まる。

 ――いき。

 父が、幹夫のほうを見た。 目が遠くへ行っていない。 今ここで、見る目。

「みき坊」

 呼び方が、急がない。

「……ここ、押さえて。……頼む」

 頼む。 その二文字が、幹夫の胸の奥をぽん、と叩いた。 叩いたのに痛くない。 あたたかい叩き方。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

「うん」

 幹夫は縁側からそっと降りて、網の端を両手で押さえた。 押さえる手は、掴む手じゃない。 受け皿みたいに置く手。

 父は結び目をほどくみたいに、少しだけゆるめて―― ゆるめたところへ、また結び直した。 結び目の中に、小さい“ま”を残す。 残すと、息が通る。

 父がぽつり。

「……よし」

 吉のよしじゃない。 暮らしのよし。

 燕が巣の中で、小さく鳴いた。

 ちち。

 小さい音。 小さい音は、胸を走らせない。

 幹夫は網を押さえたまま、胸の中で言った。

 ――いき。

 父は最後に、結び目の角を指で撫でた。 丸い角。 丸い角は刺さらない。

「……助かった」

 父が言った。 “助かった”は、重い言葉なのに、丸い。

 幹夫は、少し照れた。 照れは、胸が生きてる印。

「……ぼく、押さえただけ」

 父は一瞬、笑いそうになって、笑わないまま息を吐いた。

 ふう……。

「……押さえるだけ、が……でかい」

 でかい。 父の口から出ると、やさしいでかさになる。

 昼前。 戸口の「置き布」の上に、回覧板じゃないものが置かれた。 紐で縛った竹の束。 束は、軽くない。 軽くない束は、ひとりじゃ持ちにくい。

 清水屋のおばさんが、戸口で声を落とした。

「兄さん、悪いけど……ちょっと頼まれてくれんかね」

 頼まれて。 その言葉が、父の肩を少し動かした。

 父の肩がふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。

 ――いき。

 父が口の中で小さく言った。

「……頼まれた、だ」

 名前を置く。 置けると、胸が逃げない。

 ふう……。

 清水屋のおばさんは、束の端を指で押さえて言った。

「広場の柵(さく)、ちょい傾いとるだに。縄が足らんでさ。兄さん、結び上手だら? “ここだけ”手ぇ貸してくれんかね」

 ここだけ。 “だけ”があると、怖さが固まらない。

 母が台所の境目から、ぶつけない声で言った。

「頼まれたら、頼り返しゃええだに。……ひとりで背負わん」

 頼り返す。 受けるだけじゃなく、こちらも頼る。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「頼まれたら、受けて返せ。……返したら終いだに」

 父は黙って、懐に手を入れた。 ま札の角を指で撫でる。 撫でて、間を作る。 間に、息。

 ――いき。

 父が、清水屋のおばさんへ、低く言った。

「……行く。……でも、みき坊も連れてく」

 清水屋のおばさんが目を丸くして、すぐ笑った。

「ええだに。……子どもは見張り役だに。音、荒れんように」

 母が幹夫に手拭いを渡した。

「汗ふく布だに。……布は守りだに」

 父は竹の束をいきなり掴まない。 いったん置き布の上に置いてから、両手で受けるように持った。 受ける手は、荒れない。

 ――いき。

 広場は、昨日より少しだけ騒がしかった。 竹を打つ音。 縄が擦れる音。 人の声。

 とん。 こん。 ぎゅ。

 音が集まると、胸が忙しくなる日がある。

 父の足が、広場の端で止まった。 端は逃げ道がある。 逃げ道があると、胸が潰れにくい。

 父の肩がふっと上がりかける。 上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 父が口の中で小さく言った。

「……竹の音だ」

 名前を置く。 置けると、音は音のままで座る。

 ふう……。

 組の男が、少し急いだ声で言った。

「兄さん、ここ! 縄が足らんで、結びが浅い!」

 浅い結びは抜ける。 抜けると、みんなが焦る。 焦ると、声が尖る。

 父の肩が、ふっと上がりかける。 上がりかけて――止まる。

 父は、そこで珍しく、相手へ言葉を置いた。 尖らせずに。

「……少し待って。……ま、する」

 ま、する。 “ま”を外で言えた。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

 父は懐からま札を出して、足元の土の上へ直接置かず、持ってきた布の上へそっと置いた。

 とん。

 小さい音。 小さい音は眠る。

 父は縄を見て、結び目をいちど“戻した”。 返し縫いみたいに、戻って固める。 固めるけど、締めつけすぎない。 結び目の中に、余地を残す。

 幹夫は横で、風で布が飛ばないように押さえた。 朝の網のときと同じ。 “押さえるだけ”が、仕事になる。

 ――いき。

 父がぽつり。

「……ここ、通す。……ここで、返す」

 通す。 返す。 結ぶ。 言葉が、手の動きと一緒に座っている。

 縄が、柵の竹にぴたりと収まった。 抜けない顔になる。 抜けない顔は、安心の顔。

 男が、肩を落として言った。

「……助かった。……兄さん、やっぱ上手だに」

 上手、と言われると、父は昔なら照れて怒ったかもしれない。 でも今日は、息を吐いて、短く返した。

 ふう……。

「……お互いさまだ」

 お互いさま。 返しの言葉。 返しの言葉は、背負いすぎない。

 そのとき、別の男が言った。

「みき坊も、押さえてくれて助かっただに」

 幹夫の喉の奥が熱くなる。 熱いと走りそうだから、息。

 ――いき。

「……うん」

 うん、だけ。 でも、胸の中でちゃんと座った。

 帰り道、父がぽつりと言った。

「……俺、さっき……待って、って言えた」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……言えた。……ま、した」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……頼まれるの、こわかったけど……頼んだら、こわくなかった」

 頼んだら。 父が“頼む”を自分の口で言った。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

「……父ちゃん、ぼくに“頼む”って言った」

 父は一瞬、照れたみたいに鼻の下を擦って、ぽつりと言った。

「……言ったな。……言えると、手が戻る」

 戻る。 戻ると、続く。 続くと、暮らしになる。

 夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は今日も痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 頼

 幹夫はその字を見た瞬間、朝の「頼む」と、広場の「待って、ま、する」が一緒に浮かんだ。 頼むは、弱いことじゃなく、道を作ること。

 母は左側を指でなぞった。

「こっちは束(たば)だに。……ひとりじゃ持ちにくい荷物」

 束。 竹の束。 胸の中の束。 言い損ねた言葉の束。

 母は右側をなぞった。

「こっちは頁(ぺーじ)じゃなくて“顔”だに。……頭、顔。表に出るとこ」

 顔。 表に出す。 隠さない。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「頼るってのはな……束をひとりで抱えずに、顔を出して『手ぇ貸して』って言う字だに。束を渡すんじゃない。束の端っこを、相手にも持ってもらう。そうすると、道が太る」

 道が太る。 しんにょうの道。 帰れる道。 返せる道。

 母は続けた。

「頼むって、迷惑かけるだけじゃない。……相手に“役目”を渡すことだに。役目があると、人は座れる。座れりゃ、息が入る」

 父が新聞紙の「頼」を見て、ぽつりと言った。

「……俺、束を……ずっとひとりで持ってた」

 母は否定しない。 低く言った。

「うん。……だから肩が上がった。……でも今日は、みきに端っこ持たせた。広場でも『待って』って言って、みんなに“ま”を渡した。頼り方が、丸かった」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「頼れりゃ飯がうまい。……頼れんと腹が荒れる。荒れたら、つづかん」

 父が小さく息を吐いた。

 ふう……。

「……頼るって……守りだな」

 幹夫の胸の奥が、すとん、と座った。 座ったから、息。

 ――いき。

 幹夫は鉛筆を握った。 頼を書く。

 一回目の「頼」は、束が細くて、字がふらふらした。 ふらふらは、抱えきれない束の顔。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「ふらついたらな……束を太らせりゃええ。持つ端っこを増やす。……頼るは、端っこだに。息、入れてから」

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「頼」は、束が少し座って、顔のほうも落ち着いた。 落ち着くと、“お願い”が刺さらない。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「頼」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、点を置いた。

「……点、置くと……束が床に座るみてぇだな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……床があれば抱えんでええ。抱えんでええと、肩が落ちる」

 母は「頼」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、束の端っこを持つ手みたいに見えた。

 夜。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。

あさかぜあみみきぼう にたのむ って いったひるひろばたのまれたこわかった けどま してまって って いえたたのんだらこわく なかった頼たば をいっしょ に もついき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……頼るの、こわい日もある」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……でも、頼まれたら、頼り返せる」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……頼り返す……それ、覚える」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「覚えりゃええ。……頼るのは、束をほどくことだに」

 祖母が淡々と言う。

「ほどけりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 頼れる明日。

 幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

たのる ってたば の はしっこ をいっしょ に もって もらう って こと なんだねきょうとうちゃんぼく にたのむ って いったぼくうれしかったいき

 最後に、小さく「頼」。 丸をひとつ。 端っこの丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは「頼む」の熱さの名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

頼 はたば と かおひとり で だかえんはしっこ を わたすうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうたのむ って いえたたのまれて こわかった けどま してたのんだたすかった頼 って じすこしかた が おちる

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――短い縄の切れ端。 両端に小さな輪が作ってあって、指が通る。刺さらない輪。 輪のそばに、父の震える字で小さく、

たより

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその輪を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 頼る。 束の端っこを、誰かに持ってもらう。 持ってもらうために、顔を出して、言葉を置く。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、風のぱたぱたの中で父が言った「頼む」は届いた。 届いたその二文字を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、束の端っこを、刺さらない形でそっと差し出していった。

 
 
 

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