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朝の船底は、まだ夜の海の冷たさを抱えていた。 砂浜に引き上げられた小さな船が、腹を少し傾けて眠っている。 眠っているのに、板の継ぎ目から、かすかに塩の匂いが出ている。

 幹夫は縁側のふちに座って、首の布の袋を掌で押さえた。 袋の中には、小さな木片。 浜で拾った、船板の欠けら。 海に削られて角が丸い。 丸いのに、木の目がしっかり残っている。 流されても、木は木の目を忘れない。

 ――いき。

 息を入れると、胸の中にも小さな船が浮かぶ。 沈まないために、空きを抱えた船。 中が空だから、浮く。 空っぽは、弱さじゃない。 受ける場所。

 「まちばこ」のふたが、ほんの少しだけ浮いていた。 浮いているのは、誰かの困りが入った印。 困りは、言う前に角が立つから、箱で丸くする。

 母がふたを開ける。 中には、小さな紙。 角が丸く折ってある。 丸い角は刺さらない。 刺さらないと、手が取れる。

 母の目が、紙の文字を追って、そこで止まった。

ふね の そこみず が しみるのせる の こわいよかったら みてください しまだ

 船の底。 水がしみる。 しみる水は、小さい。 小さいけれど、放っておくと重くなる。 重くなると、船は沈む。 沈む前に、見なくてはいけない。

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったのは、島田さんの“のせるのこわい”が届いた音。 船は、荷を載せる。 人を載せる。 怖さも、少し載せてしまう。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

 父が土間から顔を出した。 紙を受け取る前に、いったん膝の上の布に置く。 置くと、手が急がない。 父は指の腹で紙の端を撫でる。 撫でると、紙が暴れない。 暴れないと、言葉も暴れない。

 父の目が「ふね」「みず」で止まる。 止まると、肩がふっと上がりかける。

 上がりかけて――止まった。

 止まった「間」に、父は懐へ触れて、丸い角のま札を撫でた。 撫でると、肩が上がりきらない。

 ふう……。

「……船底か」

 短い。 短いのに、“浮く重さ”が入っている。

 母が頷いた。

「うん。……船は、水に乗るだに。水に勝つんじゃない。水に乗る。……だから隙が刺さる前に、塞がんと」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「船は腹が肝だ。……腹に水が入ると、胸も重くなる。……重くなる前に抜け」

 腹。 船の腹。 人の腹。 腹が重くなる前。 幹夫の得意な“前”。

 父が納屋から槙肌(まいはだ)の束と、木槌と、小さな鑿(のみ)を出してきた。 槙肌は、木の皮をほぐした細い繊維。 ふわふわしている。 ふわふわなのに、水を止める。 柔らかいものが、硬い船を助ける。

「……みき坊。……槙肌、渡せ。……押しこむな。……少しずつだ」

 少しずつ。 少しは、刺さらない助け。

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん」

 浜へ下る道は、潮の匂いが濃かった。 塩の匂い。 濡れた網の匂い。 砂の匂い。 空は薄い青で、海はまだ青になりきっていない。 船だけが、砂の上で黒く座っていた。

 島田のおじさんが、船のそばに立っていた。 頬が少しこわばっている。 こわばりは声より先に顔に出る。

「おはようだに……朝からすまん。……昨日、ちょっと水が入ってな……」

 おじさんが船底を指さす。 板と板の継ぎ目に、白っぽい線がある。 そこに、乾いた塩がついている。 塩の白は、水が通った印。

 幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 父はすぐ「ええよ」と切らなかった。 まず、船の腹を見た。 板の反り。 釘の頭。 継ぎ目の開き。 塩の残り。 見ると、怖さが形になる。 形になると、手が荒れない。

 父の肩がふっと上がりかける。 上がりかけて――止まる。

 止まった「間」に、父が口の中で言った。

「……しみだ」

 名前を置く。 置けると、水の怖さが全部にならない。

 ふう……。

 父は船をいきなり叩かない。 手の甲で、船底をそっと撫でる。 撫でると、板の音が分かる。 乾いた板は軽い音。 湿った板は少し鈍い音。

 こつ。 こつ。 ……とん。

 父の指が止まった。

「……ここだ」

 ここ。 線の言葉。 守りの言葉。

 島田のおじさんが小さく言った。

「……大きく割れてるわけじゃねえけど……乗せるのが、こわくてな」

 乗せる。 魚を乗せる。 道具を乗せる。 人を乗せる。 船は、乗せるためにある。 でも乗せることは、怖いことでもある。

 父はすぐ慰めない。 慰めは押しこむと刺さる。 一度、槙肌を掌にのせて、ほぐしてから言った。

「……小さい水でも、腹に入れば重くなる。……小さいうちに、受ける」

 受ける。 船も受ける。 手も受ける。 胸も受ける。

 父が鑿の先を継ぎ目に当てた。 当てるけれど、こじらない。 隙を広げるためじゃない。 古い詰め物を少しだけ出すため。

 かり。 かり。

 木の音は小さい。 小さいのに、胸の硬いところを起こしやすい。 父の肩がふっと上がりかける。

 上がりかけて――止まる。

 止まった「間」に、幹夫は小さく言った。

「……ま」

 父が、ふう、と吐いた。

 ふう……。

「……ま」

 父も言えた。 言えると、鑿の音が音のままで座る。 刃が刃のままで、暴れない。

 古い詰め物が、少し出た。 湿って、黒ずんでいる。 黒ずみは、悪いものじゃない。 水を受けてきた印。

 父が言った。

「……みき坊。……槙肌」

 幹夫は槙肌を少し取った。 少し。 多すぎると押しこむ。 少なすぎると水が入る。 ちょうどいい少し。

 ――いき。

 父は槙肌を、継ぎ目へそっと当てた。 木槌で、こん、と入れる。 こん。 こん。

 強く叩かない。 叩きすぎると板が怒る。 板が怒ると割れる。 割れると、水が入る。

 こん。 こん。

 槙肌が座った。 座ると、継ぎ目の白い線が少しやわらかく見える。 水の道が、そこで止まったように見える。

 父は最後に、船底へ油を少し塗った。 油は、木の目にゆっくり入っていく。 急がない。 急がないものは、深く入る。

 島田のおじさんが、恐る恐る船底を撫でた。

「……水、止まるかね」

 父はすぐ「止まる」と断ち切らない。 一度、海を見た。 波が寄せる。 返す。 寄せる。 返す。

「……海に出す前に、浅いとこで見る。……いきなり沖へ出さん。……少し乗せて、少し待つ」

 少し乗せて、少し待つ。 船も、胸も。

 島田のおじさんの目が、少し柔らかくなった。 柔らかい目は、受け取る目。

「……そうか。……船も、試す間が要るだな」

 父が短く頷いた。

「……うん。……船は、浮くもんだ。……でも、浮くには腹の空きが要る。……詰めすぎても沈む」

 詰めすぎても沈む。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 船を浅瀬へ出した。 島田のおじさんと父が両脇を持つ。 幹夫は船首の縄を受ける。 掴まない。 引っぱりこまない。 ただ、逃げすぎないように、そこにいる。

 海へ触れると、船は一度、ふるり、と震えた。 震えるのに、逃げない。 水が船底を撫でる。 すう……。

 船は浮いた。 浮くと、影が水の上に座る。

 島田のおじさんが船の中を覗いた。 水は、まだ来ない。 来ない水が、こんなに嬉しいことがある。

 おじさんの肩が、すとん、と落ちた。

「……浮いた……」

 浮いた。 その言葉が、浜の空気を少しだけ温めた。

 父はすぐ「よかった」と急がず、まず頷いた。 頷いてから、言葉を置いた。

「……うん。……沈む前でよかった」

 “前でよかった”。 祖母の言う“前”。 刺さる前。 重くなる前。 沈む前。

 島田のおじさんが、ぽつりと言った。

「……船って、ありがたいだな。……こっちにあるもんを、向こうへ運んでくれる」

 向こう。 こちらと向こう。 船は、そのあいだにいる。 あいだにいるから、沈めない。

 幹夫は袋の木片を掌で押さえた。 木片は黙っている。 黙っているのに、海を知っている。

 ――いき。

 学校の教室は、チョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 乾いた匂いは、線の角を立てやすい。 先生が黒板に、大きく字を書いた。

 船

 きゅっ、きゅっ。

「今日は“ふね”の船。読めるな」

 教室が声を出す。

「ふね!」

 声が集まると、胸が忙しくなる。 幹夫は机の端に指を置いて、“ここ”を作った。

 ――いき。

 先生が左を指でなぞった。

「左は舟だ。小さい舟の形だな。水に浮いて、人や荷を運ぶ」

 舟。 朝の小さな船。 腹を抱えた木の器。

 先生が右を指でなぞった。

「右は、口のある形に見えるだろ。船には中がある。人や荷を入れる場所がある。――ただの木ではない。受ける場所を持った舟だから、船になる」

 受ける場所。 空いている腹。 詰めすぎない腹。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。

 ――いき。

 先生が続けた。

「船はな、水とけんかして進むんじゃない。水に浮かび、水を受け、水を避けながら進む。――力だけでは沈む。余地があるから浮く」

 余地があるから浮く。 幹夫は、朝の槙肌を思い出した。 詰めるけれど、詰めすぎない。 塞ぐけれど、木の息を殺さない。

 先生は少し声を落とした。

「心も同じだ。何でも抱えすぎると沈む。何も受けなければ渡れない。――ちょうどいい分だけ乗せて、向こうへ運ぶ。それが船だ」

 向こうへ運ぶ。 怖さも、言葉も、朝も。 幹夫の胸に、小さな船がもう一度浮かんだ。

 休み時間、正夫が小声で言った。

「みきぼー、今日、船なおした?」

 幹夫はすぐ答えず、息を入れてから言った。

 ――いき。

「……船底。……水が、しみて……父ちゃんと……槙肌、入れた」

 正夫が目を丸くする。

「槙肌って、ふわふわのやつ?」

 幹夫は頷いた。 頷く前に、息。

 ――いき。

「……ふわふわが……水、止める」

 正夫がにっと笑った。

「強いもんだけが強いわけじゃないんだな!」

 その言葉が、幹夫の胸に小さく座った。 座ると刺さらない。

 夕方。 家の中に煮物の匂いが戻ってきたころ、母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 白い継ぎ目。 でも痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 船

 幹夫はその字を見た瞬間、朝の船底の白い継ぎ目と、浅瀬に浮いた影と、先生の“余地があるから浮く”が一緒に浮かんだ。 浮かぶと、胸がぽん、と鳴る。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 母が左をなぞった。

「ここ、舟だに。……水に浮く形」

 母が右をなぞった。

「こっちは、受けるところみたいに見えるだに。……口がある。入る場所がある。船は、受ける腹があるから船だに」

 父が縁側の端で、ま札を撫でてぽつりと言った。

「……俺、抱えすぎると沈む」

 母は否定しない。 低く言う。

「うん。……抱えすぎると沈むだに。何も抱えんと渡れん。……船は、そのちょうどを知ってる」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「船は腹を空けとけ。……空きがあるから浮く。……腹も同じだ」

 空き。 空いていることは、足りないことじゃない。 浮くための場所。

 父が小さく息を吐いた。

 ふう……。

「……今日、槙肌を押しこみすぎそうになった。……みき坊の『ま』で……止まった。……助かった」

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 幹夫は鉛筆を握った。 船を書く。

 一回目の「船」は、舟へんが細くなって、右の形が重たくなった。 重たい字は、沈みそうな顔になる。

「ええ」

 母が言った。 転んでもいい「ええ」。

「沈みそうならな……舟の腹に、空きを残せ。線を詰めすぎん。……息、入れてから」

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「船」は、舟へんが少し広がって、右の形が受け皿みたいに座った。 座ると、字が浮く。 浮く字は、刺さらない。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「船」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の横線の前で、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、線を置いた。

「……腹に空きがあると……字が沈まんな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……空きがあるから、運べるだに」

 夜更け。 海の音が遠く、家の奥まで来ていた。 来るけれど、刺さらない。 遠い波は、布団の上で丸くなる。

 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、震える字で書いた。

けさ しまだ の ふねそこ から みず しみるのせる の こわいまいはだ すこし いれたおしこみすぎんふね は はら に あき が ある から うくおれ の むね も あき が いるみき坊「ま」 たすかったいき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……乗せるのも、こわい日がある」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……でも……少しずつなら……沈まない」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……少しずつ、って……船だな」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「好きって言えりゃ、船が座るだに。……船は、向こうへ運ぶ。怒りも怖さも、抱えすぎずに、向こうへやる」

 祖母が淡々と言う。

「向こうへ渡せりゃ飯がうまい。……うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 船が浮く明日。 胸が沈まない明日。

 翌朝。 まちばこのふたは、畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。 小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、二つと、ひとつ。

 一枚目、島田さんの字。

ふね ういたみず はいらんすこし のせて まったこわくないありがとう

 最後に、小さな丸。

 二枚目、母の字。

船 は うける はら が あるあき が ある から うくのせすぎるないき して ま を いれろ うん

 最後に、丸。

 三つ目は、紙じゃなく――槙肌の小さな束。 ふわふわしている。 ふわふわなのに、指で押すと戻ってくる。 戻る柔らかさ。 刺さらない強さ。 その横に、父の震える字で小さく、

うく

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその槙肌を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 船。 水に浮く舟。 受ける腹を持ち、空きを抱え、こちらのものを向こうへ運ぶもの。 詰めすぎると沈む。 空きがあると浮く。 少し乗せて、少し待って、海に合わせる。

 蒲原に、サイレンは届かなかった。 けれど船底にしみる小さな水の怖さは届く。 その怖さの前に、父の「ふう」と、幹夫の「ま」と、槙肌の柔らかい受けは届いた。 届いた“沈まない余地”が、船も胸も重くしなかった。

 幹夫は槙肌を袋へ戻し、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 今日も、船の字みたいに。 抱えすぎず、空きを残して、向こうへ渡す息を――そっと胸の中に浮かべていった。

 
 
 

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