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PFASサンプルは誰のポケットに


――山崎行政書士事務所事件簿

金曜の午後、山崎行政書士事務所に一本の電話が入った。

「サンプルが消えました」

相手は、清水区の化学メーカー、駿河ケミカル技研の品質保証部長だった。

「PFAS含有疑いのある試験サンプルです。SDS台帳にも、分析記録にも、廃棄物委託記録にも、数字が合いません。誰かが持ち出した可能性があります」

電話を受けた山崎は、湯飲みを静かに置いた。

「ゆいくん、陽翔くん。出番だ」

ゆいは、ふわっとした笑顔のまま固まった。

「PFAS……ポケット……サスペンスの香りです」

陽翔はノートPCを開いた。

「まずは盗難と決めつけず、証跡を追いましょう」

山崎はうなずいた。

「人を疑う前に、台帳を疑う。山崎事務所の基本だね」

現場に着くと、会議室はすでに緊張で満ちていた。

机の上には、三つのファイル。

SDS台帳分析記録一覧廃棄物委託管理表

そして、問題のサンプル一覧。

サンプル番号は、PF-17。受入量、100グラム。分析使用量、20グラム。廃棄予定量、80グラム。

しかし、保管庫に残っていたのは、空の容器だけだった。

「80グラム、消えています」

品質保証部長の声は硬かった。

ゆいは、容器を見ず、まず台帳を見た。

「SDSはありますか?」

「あります」

「GHSラベルは?」

「仮ラベルです」

「化審法の該当確認は?」

「PFAS含有疑いなので、調査中です」

「PRTR対象物質の可能性確認は?」

「そこも、まだ……」

ゆいは、いつもの柔らかい声で言った。

「“まだ”が四つ並ぶと、現場では事件になります」

陽翔が続けた。

「まず、サンプルの物理的な所在、化学物質としての扱い、廃棄物としての委託、分析の証跡を一本につなぎます」

山崎は小声で言った。

「陽翔くん、今日はいつもより頼もしいね」

「PFASなので、ふわっとできません」

最初の容疑者は、分析担当の戸倉だった。

「私は20グラムしか使っていません」

戸倉は青い顔で言った。

「でも、分析記録には30グラムとあります」

ゆいが記録を指した。

戸倉は目を見開いた。

「それ、前処理用の溶媒込みの重量です。サンプルそのものは20グラムです」

「では、記録欄の単位が混在していますね」

ゆいは赤ペンで囲んだ。

g(サンプル重量)g(前処理後重量)mL(溶液量)

「これは、数字が迷子になります」

次の容疑者は、環境安全担当の牧田だった。

「廃棄物委託の準備はしました。でも、まだ出していません」

「委託契約書は?」

「あります」

「対象物質名や含有可能性は書いてありますか?」

牧田は黙った。

ゆいは資料をめくった。

「ここ、空欄です」

牧田は呻いた。

「後で入力するつもりでした」

会議室の空気が、少し動いた。

陽翔が小さく言った。

「一人目の“後で入力します”ですね」

三人目は、若手研究員の藤森だった。

彼の白衣のポケットから、小さなラベル片が出てきた。

そこには、こう書かれていた。

PF-17 / 再確認

品質保証部長が立ち上がった。

「藤森くん、君が持ち出したのか」

藤森は真っ赤になった。

「違います! ポケットに入っていたのはラベルだけです!」

「なぜラベルが?」

「容器のラベルが剥がれかけていたので、貼り直そうとして……そのまま忘れて……」

ゆいは静かに言った。

「“後で貼ります”ですね」

陽翔がメモを取る。

「二人目です」

山崎が唸った。

「これは連続“後で”事件だね」

その時、陽翔がSDS台帳の更新履歴を見つけた。

「おかしいです。PF-17のSDS台帳、昨日の22時17分に更新されています」

「誰が?」

「アカウントは、共有IDです」

会議室が凍った。

ゆいの表情が変わった。

「共有IDは、証跡台帳の敵です」

陽翔はさらに追った。

更新内容は、保管場所の変更だった。

旧:第2保管庫新:廃棄待ち一時置場

しかし、現場のホワイトボードにはこう書かれていた。

PF-17:分析室冷蔵庫へ一時移動

ゆいはホワイトボードを見つめた。

「台帳は廃棄待ち。ホワイトボードは分析室。現物は空容器。三つの世界があります」

山崎が言った。

「三国志なら面白いが、PFASでは笑えないね」

その瞬間、奥の分析室から悲鳴が上がった。

「ありました!」

全員が駆け込む。

分析室の冷蔵庫の奥。遮光袋に入った小瓶があった。

ラベルはない。ただし、蓋の上に小さく手書きで「17」とだけある。

藤森が叫んだ。

「それです! 再分析用に分取して、後でラベルを貼ろうと……」

品質保証部長が頭を抱えた。

「また“後で”か……」

しかし、事件は終わらなかった。

ゆいが小瓶を見て言った。

「これは80グラムではありません」

計量すると、30グラム。

残り50グラムが、まだ消えている。

会議室の空気が再び凍る。

陽翔は静かにノートPCを回した。

「廃液タンクの重量記録を見てください。昨日、廃液タンクBが50グラム増えています」

牧田が目を見開いた。

「まさか、廃液側に……」

戸倉が青ざめた。

「前処理後の残液です。廃液タンクに入れました。でも、サンプル残量台帳には反映していませんでした」

「後で入力するつもりでしたか?」

ゆいが尋ねた。

戸倉は小さくうなずいた。

陽翔がメモを閉じた。

「三人目です」

山崎は深く息を吐いた。

「犯人は一人ではなかった。全員の“後で”だった」

ゆいはホワイトボードに、真相を書いた。

PF-17 100g分析使用 20g再分析用分取 30g前処理残液として廃液タンクBへ 50g保管庫の空容器 0g

数字は合った。

盗難ではなかった。

だが、安全でもなかった。

ゆいは、やさしい声のまま、厳しく言った。

「盗まれていなくてよかったです。でも、これはヒヤリハットでは済ませない方がいいです。PFAS含有疑いのサンプルで、SDS台帳、GHSラベル、分析記録、廃液記録、廃棄物委託情報がつながっていませんでした」

陽翔が続けた。

「紙とExcelとホワイトボードが別々に動いています。DX化しましょう。最低限、サンプル番号をキーにして、受入、保管、分析、分取、廃液、委託、廃棄まで一つの証跡台帳にします」

「バーコード管理ですか?」

「はい。ラベル発行、スキャン、重量入力、更新者、時刻、変更理由を残します。共有IDは禁止。後で入力ではなく、その場で入力です」

山崎が言った。

「現場の人が使えないDXは、ただの電子お札です。入力しやすく、間違えにくく、後で追える仕組みにしましょう」

藤森が小さく言った。

「僕、ポケットにラベルを入れないようにします」

ゆいは笑った。

「それも大事です」

翌週、駿河ケミカル技研では、新しい証跡台帳の試行が始まった。

サンプルを受け入れる。バーコードを貼る。SDS台帳と紐づける。GHSラベルの確認欄を作る。分析時に使用量を入力する。再分析用分取も、その場で記録する。廃液タンク投入時も、重量と担当者を残す。廃棄物委託時には、委託契約、マニフェスト、対象物質情報を紐づける。

陽翔は画面を見ながら言った。

「これなら、サンプルがどこにあるか、誰がいつ何をしたか、追いやすくなります」

ゆいは、最後に小さな紙を貼った。

後で入力します禁止

山崎がその横に、もう一枚貼った。

ポケットに入れるのはハンカチまで

藤森が赤くなった。

「それ、僕向けですよね」

「教育記録に残しますか?」

ゆいが冗談めかして言うと、会議室に笑いが広がった。

山崎事務所へ戻る車の中で、ゆいは窓の外を見ていた。

「先生、盗難じゃなくてよかったです」

「そうだね」

「でも、少し怖かったです。悪い人がいなくても、記録がずれるだけで事件になるんですね」

山崎はうなずいた。

「現場の善意は、証跡がないと迷子になる。だから台帳がいる」

陽翔が言った。

「DXは、現場を縛るためではなく、現場の善意を守るためですね」

ゆいは微笑んだ。

「PFASサンプルは、誰のポケットにも入っていなかった」

山崎が続けた。

「ただし、“後で入力します”という小さな幽霊は、全員のポケットに入っていた」

車内に、温かい笑いが広がった。

事件は盗難ではなかった。

けれど、何も起きなかったわけでもない。

SDS台帳の空欄。GHSラベルの貼り直し忘れ。分析記録の単位混在。廃液記録の未入力。廃棄物委託情報の未整理。

それらは一つひとつ、小さな“後で”だった。

そして小さな“後で”が重なると、会社は大きな説明不能に落ちる。

ゆいは、最後の報告書にこう書いた。

本件は盗難ではなく、証跡管理の断絶による所在不明事案である。再発防止策として、サンプル番号を軸に、SDS、GHSラベル、分析記録、廃液記録、廃棄物委託記録を統合管理すること。

山崎はその一文を見て、満足げに言った。

「いいね。怖いけれど、前に進める文章だ」

陽翔が笑った。

「山崎事務所らしいですね」

ゆいは報告書を閉じた。

「はい。誰かを責めるためじゃなく、次に守るための記録です」

参考にした実務背景

PFASの一部であるPFOS、PFOA、PFHxS関連物質などは、化審法上の規制対象として扱われています。経済産業省は2025年12月12日公表資料で、PFHxS関連物質を第一種特定化学物質に指定する政令改正を示しています。

化管法のPRTR制度は、事業者による化学物質の排出量等の把握・届出・公表を通じて自主的管理を促す制度で、SDS制度は有害性情報を書面で提供する仕組みです。経済産業省資料では、SDS制度についてGHS準拠の有害性情報提供制度として説明されています。

労働安全衛生法関係では、ラベル表示・SDS交付の対象物質が拡大され、危険性・有害性が確認された化学物質についてリスクアセスメント等の対応が求められる方向で制度整備が進んでいます。

 
 
 

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