Sラインの迷宮 第15章
- 山崎行政書士事務所
- 9月17日
- 読了時間: 9分
目次(章立て)
第1章 新静岡〔S01〕— 始発が告げた嘘
第2章 日吉町〔S02〕— 路地裏に置き去りの切符
第3章 音羽町〔S03〕— 高架にこだまする足音
第4章 春日町〔S04〕— 交差点で消えた背中
第5章 柚木〔S05〕— 架道橋の見えない目撃者
第6章 長沼〔S06〕— 車庫の盲点
第7章 古庄〔S07〕— 古地図と新しい証言
第8章 県総合運動場〔S08〕— 群衆の消失点
第9章 県立美術館前〔S09〕— 彫像が見ていた手口
第10章 草薙〔S10〕— 森の踏切と三分の誤差
第11章 御門台〔S11〕— 坂道のアリバイ崩し
第12章 狐ケ崎〔S12〕— 狐火ダイヤ
第13章 桜橋〔S13〕— 夜桜に紛れた短絡経路
第14章 入江岡〔S14〕— 港町の仮面
第15章 新清水〔S15〕— 海霧の発車ベル


第15章 新清水〔S15〕— 海霧の発車ベル
1
午前五時五十七分。新清水の終端ホームは、海霧が薄く低く漂い、照明の輪をゆっくり縮めていた。頭端式の線路はつややかな黒で途切れ、緩衝器の背後に港のクレーンがひょいと顔を出す。潮と鉄の匂い。遠くの霧笛が、低い母音だけを残して褪せる。
佐伯悠人は、発車標を見上げた。まだ始発の増発時間帯に入る前で、表示は静かだ。「ここで押し切られたアリバイがある」真嶋が頷く。「『05:50の発車ベルが聞こえたから、その時刻は駅にいた』という綿貫側の説明。S06で揉めた**『鳴った/鳴ってない』が、海霧で上書きされた」霧は、音の形を変える。鳴っていない声を鳴ったように**することも。
2
駅務室はガラス越しに滲む。カウンタに相良が立っていた。顔色は戻りつつあるが、声を出す前の躊躇が残る。「05:50、ベルは二秒。標準の二打。録音は残っています」市河(音響鑑識)がイヤモニを耳に押し入れ、波形を追う。「高域が落ちている。霧の散乱で8kHz以上が軟らかい。でも違う。左スピーカーと右の位相差が0.012秒。この駅のPAはデジタル遅延が左右同位のはず。どこかで『二重』になっている」相良が眉を寄せた。「広告サーバは切り離しました」「車庫のときのような混線じゃない。ここは海だ」海は音を曲げ、駅の左右をわずかにずらす。
3
ホームの端、頭端緩衝器のそばに小さな三角柱がある。音響測定用の標だ。木戸(県土木)が指差す。「反射で戻る音がここに刻まれるよう、昨年の改修で追加。風下の微反響も拾う」三角柱の裏に、灰色の粉。マグネタイトが薄く。志水(学芸員)がライトを当てる。「桜橋のリベット粉と近縁。港から吹き上がる」橋と駅が、粉で薄く繋がる。
4
海霧が厚くなると、音は遠回りをする。市河はタブレットに簡易音線図を描いた。「朝の気温逆転で音速の勾配ができる。低域は曲げられ、高域は散乱で落ちる。霧笛の80Hzは遠くへ腰を据える。ベルの主成分(1.3kHz付近)は削がれる。しかし——今日は高域が残っている」「誰かが高域を足した」佐伯は、ホーム天井のスピーカラインを見上げる。結露が垂れ、一本だけケーブルの被覆が新しい。「ポータブルの注入だな」港で使われた逆位相パネルの兄弟。ベルに**『輪郭』を被せた。
5
駅長室の机上に、青い布袋。防災訓練用PAユニットと書かれたタグ。相良が苦い顔で布を開く。箱には小型ミキサ、モバイルルータ、ベル音源のUSB、『港湾都市文化財団』のシール。真嶋が唇を引き結ぶ。「S14の財団。ここにも仮面が置かれた」相良は小さく首を振る。「貸与です。今日は使っていないと思った」「貸与は鍵だ。誰にでも開けられる」鍵は金属だけではない。ラベルと袋も鍵だ。
6
05:50のベルには、人の指が入っている。市河が波形に鉤を立てる。「0.5秒地点で微細ノイズ。手動トリガの『カチ』。駅装置には出ない」佐伯は時間軸に、これまでの四つの点滅(05:18/26/33/41)と橋の短絡(05:42)を並べた。「四つの帯、一つの短絡。そして、ここの『ベルの輪郭』。全部、一人では届かない距離を埋めるための道具だ」道具は距離を嘘にする。
7
ホーム端で、制服の川嶋が肩をすぼめた。「05:49、終端の足下灯が一度だけちらついたのを見ました。配電に入ったかも」木戸がすぐに配電盤を開ける。ブレーカに古いタグがぶら下がっている。
試験・訓練時のみ使用可(要管理者承認)承認印は空白。配電盤の蝶番に、ニトリル粉の粒。許可の仮面は、空白でできている。
8
綿貫は、ホームに立って風を眺めていた。スーツではなく、簡素な作業着。「霧は街を平らにする。聴こえも見えも、均す」「均すことで消えるのは、名だ」佐伯は、狐面の裏にあったWの記憶を胸の内でなぞる。綿貫は淡く笑った。「ベルは公共だ。誰のものでもない」「公共をあなたは私物化した。『宣伝』と『訓練』と『安全余裕180秒』の仮面で」綿貫は否定せず、肯定もしない顔をした。
9
録音には、もうひとつの歪みがある。市河が指した。「最後の減衰が速い。駅のベルは残響が1.4秒。今日は1.0秒」「吸われた」志水が答える。「港で使った吸音幕の端がホーム背面に吊ってある。文化財団ロゴの裏に吸音材が薄く縫われている」仮面はここにも。ベルを**『ここで鳴ったように』するための吸音**。遠くの音を近くに、近くの残響を薄く。輪郭を整える。
10
05:50のアリバイは、二つの道具でできていた。
ポータブル注入で高域の輪郭を足す。
吸音幕で残響を削る。そこに海霧の低域ダクトが土台となり、一見「ここで鳴ったベル」が仕上がる。仮面の作法が、音にもあった。
11
高砂は、ホームの柱に寄りかかった。「私は、吸音幕の搬入に立ち会った。『防災週間の展示』として」「搬出は?」「橋のあと**、根津さんが電話で**『一度だけ使う』と」使うは道具の言葉だ。人に向けると罪**になる。
12
根津は、線路端の砂利を尖った靴で押した。「ベルは鳴った。鳴ったなら、そこにいた。それだけの話だ」「あなたは**『鳴らせるように』した。それが話だ」根津はわずかに笑い、「押してない」とだけ言った。押す/押さないの境に、ベルは置かれ**た。
13
相良は、配電盤の扉に手を置いた。「承認印が空白のままだった理由を私は知っている。私が印を押せなかったからだ。恐かったからだ」佐伯は首を振る。「恐れは罪ではない。沈黙が罪だ」相良は瞼を閉じ、ゆっくり頷いた。
14
発車標には、05:58の表示が上がる。ホームの端で霧がほどけ、太陽が鉄に薄い刃を当てる。佐伯は、05:50録音の終端にマーカーを打った。「0.5秒の**『カチ』。高域の輪郭。減衰1.0秒。左右0.012秒位相差。吸音幕。これで『ここで鳴った』という仮面が完成する」「仮面を剥がすには」「同じ場所で同じ霧で同じ機材で鳴らすことだ」再現は仮面の逆**だ。
15(再現)
財団袋の小型ミキサを切り離し、駅の正式系統だけでベルを鳴らす。1.4秒の残響。左右は同位。高域は霧に少し落ち、だが輪郭は柔い。吸音幕を背面に吊るす。1.0秒へ短縮。そこに小型ミキサで輪郭を重ね、0.5秒の**『カチ』を意図的に混ぜる**。一致。05:50の録音と一致。仮面は剥がれるために作られたのではないが、剥がれた。
16
綿貫の顔に、初めて影が落ちた。「公共は誰のものでもない。だから、誰でも整えられる」「公共は誰のものでもない。だから、誰のものにもしてはいけない」綿貫は、返す言葉を探して見つけられなかった。
17
検視補強。
吸音幕裏からニトリル粉と桜樹脂微量(S13)
ミキサのノブに柑橘揮発(比嘉車)
財団シールとレンタルオフィスの発注伝票(S14)
録音波形(0.5秒カチ/1.0秒減衰/0.012秒位相差)S08—S14の線が、S15で音に束ねられた。
18
逮捕状の更新。
根津:建造物侵入(S13)・犯人隠避/証拠隠滅ほう助・電子計測器妨害に加え、放送系不正操作幇助。
高砂:証拠隠滅ほう助・装備供与・放送系不正操作幇助。
浅倉:犯人隠避・業務上過失(合図・誘導)。
相良:業務上過失(鍵・表示・承認手続の不履行)。
波川電設:復帰未完(業務過失)。
上原:教唆/偽計。
比嘉:傷害致死。
綿貫:共同正犯の余地——音響機材の提供・仮面構造の設計・時刻余裕180秒の適用。法は仮面を剥がすのが遅い。だが剥がす。
19
相良が、発車標の陰で、小さく言った。「『ベルは鳴っていない』と言えなかったのは、霧のせいにしたかったからです。あの朝、何かを見なかったのは私です」佐伯は、相良の肩に視線を置いた。「見ないという選択は、見え方の共犯だ」相良は、ようやく頷いた。
20
午前六時一分。始発の列車が、霧の襞を巻き上げてホームに入る。車輪がホイールフラットの軽いリズムで「トト」と鳴らし、扉がきれいに揃って開く。ホームの端で、川嶋が笛をひとつ。正しい合図は、正しい時刻の中でだけ真っ直ぐだ。
21
列車が出て、海霧はすこし薄くなる。志水が、頭端標の三角柱に手を当てた。「止まっているものに触れると、動いていたものの輪郭が手に移る。S09の《眼》もそうでした」「駅も街も、止まっているものに頼っている」佐伯は緩衝器の黒い塗装を見つめた。押した手があった朝も、止まっているものが見ていた。その視線を、言葉にするのが仕事だ。
22
綿貫は、最後まで仮面を外さなかった。「私は、朝を整えた。事故を減らすために。あなたがそれを犯罪と呼んでも、朝は整っている」「整っている朝で、一人が落ちた」「統計」「名前」佐伯は、声を重ねずに視線だけで言った。名前は統計の外にある。朝は一人一人の線でできている。
23(小結)
海霧=高域減衰/低域ダクト→ベルの輪郭が失われる
仮面=吸音幕(残響短縮)+ポータブル注入(高域の輪郭付け)→「ここで鳴った」の錯視
波形=0.5秒の手動ノイズ/左右0.012秒位相差/減衰1.0秒
物証=ニトリル粉/桜樹脂/財団シール/伝票
位置=頭端三角柱の粉(桜橋由来)、配電タグ空白
法的位置づけ=放送系不正操作の幇助で外縁に手を伸ばす足掛かり
意味=『鳴った/鳴ってない』問題の最終解。ここで鳴らされたのは、『鳴ったように整えられたベル』。
24(終)
海からの風がいったん止み、霧が階段のように段をつくる。ベルは鳴り、列車は出る。朝は始まる。だが、その輪郭はもう、誰かの指先で整えられない。止まっているものが見たことを、動く者が言葉にし、動かせない線に変えたからだ。
佐伯は、出発信号の緑が霧の薄膜を貫くのを見届け、手帳の最終行に短く記した。海霧の発車ベル——仮面を剥いだ音。そして、ページを閉じた。
— 第15章 了 —





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