Sラインの迷宮 第3章
- 山崎行政書士事務所
- 9月17日
- 読了時間: 14分
目次(章立て)
第1章 新静岡〔S01〕— 始発が告げた嘘
第2章 日吉町〔S02〕— 路地裏に置き去りの切符
第3章 音羽町〔S03〕— 高架にこだまする足音
第4章 春日町〔S04〕— 交差点で消えた背中
第5章 柚木〔S05〕— 架道橋の見えない目撃者
第6章 長沼〔S06〕— 車庫の盲点
第7章 古庄〔S07〕— 古地図と新しい証言
第8章 県総合運動場〔S08〕— 群衆の消失点
第9章 県立美術館前〔S09〕— 彫像が見ていた手口
第10章 草薙〔S10〕— 森の踏切と三分の誤差
第11章 御門台〔S11〕— 坂道のアリバイ崩し
第12章 狐ケ崎〔S12〕— 狐火ダイヤ
第13章 桜橋〔S13〕— 夜桜に紛れた短絡経路
第14章 入江岡〔S14〕— 港町の仮面
第15章 新清水〔S15〕— 海霧の発車ベル
※駅名と並びは静鉄公式サイトの駅一覧(S01〜S15)に基づいています
第3章 音羽町〔S03〕— 高架にこだまする足音

1
午前四時五十九分。音羽町駅の高架下に、まだ夜の残り香が立ちこめていた。コンクリートの柱が等間隔に並び、早朝の空気を薄く震わせる。上を走る線路に人の気配はない。だが、足音はここでは嘘をつかない。佐伯悠人は、柱の根元、雨染みの輪郭をなぞるように歩いた。ここの音の返りは、他の駅と違って短く硬い。足の裏で拾うと、残響は四、五歩で消える。「こだまの長さ、0.4秒ってところか」後ろから来た真嶋が笑う。「耳で測るのは、あなただけですよ」「ここでは耳が時計だ。足音が時刻を刻む」
高架の隙間から、白くほどけはじめた空が覗く。駅階段へ続く踊り場には、昨夜の点検の案内板がまだ立てかけられ、簡易改札機の収納箱に貼られた黄テープが半分剥がれて風にめくれた。
2
五時十一分。改札のシャッターが上がり、駅務室の灯りが強度を増した。駅長代理の相良が、所在なげに腕時計を見ている。「昨夜の港、行きましたね」相良は短く息を吸い、視線を逸らした。「導線の説明を求められただけです。社としてではなく、個人的に」「時計に触れたのは今朝か、昨夜か」「今朝です。同期が崩れていたので」「どれが本当の時計だった?」相良は答えず、端末のログの束を差し出した。「音羽町は、新静岡の端末に追従しています。こっちの時計は正確だったはず」はず——その言葉は、空白の形をしている。
3
五時二十分。ホームの端に立ち、上り線のレールに耳を澄ます。風が音を運ぶ。ベルは、ここまで届く。「日吉町で聞こえたベルが、ここでは二重に聞こえる」由比が言う。「高架が反射板になって、一拍遅れて戻ってくるんです」「一拍はどのくらいだ」「三分の一秒」佐伯は頷く。この三分の一秒の遅れが、人の動きの虚実を暴く。足音、ベル、通話。音は地図になる。
4
音響鑑識の市河が来た。黒いケースを抱え、三脚に小型マイクを取り付ける。「現場の波形を一度採ります」十分後、スピーカーから試験信号が流れ、天井と柱を跳ね返って重なり、消える。「残響時間、0.43秒。一次反射が0.35秒、二次が0.67秒。人の足音だと二拍目がわずかに遅れて聞こえます」「足音を録っていたカメラは?」「防犯の一台。音声が弱いですが、増幅すれば波形は出ます」市河はノートPCを開き、今朝の五時台の音声ログを再生した。トン・タタン。トン・タタン。「二人いる」佐伯が言った。「歩幅の違う二人。一人は台車かスーツケースを押している。前輪が継ぎ目に乗ると音が二重になる」市河が画面を指し示す。「05:17:48から05:18:02。階段を上がる足音。05:18:10に踊り場で停止、通話音。雑音抑制に食われてますが、『……鳴っていない』が聴き取れます」鳴っていない。あの声だ。フードの男。場所は、音羽町の高架階段。
5
「05:18——日吉町で出場した仮定の時間と同じ帯です」真嶋が手帳の時刻表の棚をめくる。「05:06 新静岡入場(改札時計)。05:12 券売機で切符(券売機時計)。05:15 日吉町簡易改札撤去。05:18 音羽町階段で通話(防犯音声)。05:21 新静岡始発(表示板)。05:24-25 日吉町路地で切符置き(喫茶店カメラ)。05:30±10 死亡推定(検視)」音羽町は、帯の中に割り込んできた。足音と通話で。
6
駅から南へ下る坂は、配送センターの裏手に通じる。途中、高架下の抜け道がある。地元の者しか使わない近道だ。佐伯はその道を歩いた。一段目が低い階段。二段目から勾配が出る。角に古い店舗のシャッター。「台車を押すなら、ここで音が変わるはずだ」耳を澄ますまでもなく、脳が今朝の波形を再生する。トン・タタン。トン・タタン。止まる。通話。再開。05:18の足音は、階段で一度止まった。押していたものは軽くない。持ち上げず、引きずらず、手前で一旦休む——癖だ。職業の癖に近い。
7
「配送の誰かだ」真嶋が頷く。「台車のキャスターの樹脂粉、日吉町の切符の端で検出。朝、置いた人は配送の途中だった」「頼んだのは上原か浅倉か相良。実行は配送。介在に清掃か工務」佐伯は足元の白線をまたぎ、高架下の開口へ身を滑らせた。中は短いトンネル。声がよく響く。「ここで通話した**『鳴っていない』は、駅の合図に重ねた言い逃れだ。鳴らせる位置にいる者が言える言葉」浅倉——車掌。相良——表示。上原——調整。それぞれが一秒ずつ動かし**、分の嘘を育てた。
8
午前九時。音羽町の高架下商店の奥、年季の入った自転車店の主が、古い防犯カメラの映像を見せてくれた。映像の端に、反射テープの袖。台車の影。肩越しの携帯。「05:18、階段で止まって、電話して、それから降りてった。台車は小さめだな。八輪じゃなくて四輪。軽いやつだよ」「顔は?」主は首を振る。「帽子にマスク。背丈は百七十ないくらい。猫背じゃない。荷を押すのに慣れてる」「会社のロゴは見えなかった?」「テープで隠してある。剥がし跡が黒く残ってた」会社名を隠す手つき。現場に慣れた人間の用心。
9
配送業者に当たりをつける。港と駅を行き来する下請けは数社。台車は貸与も混在する。清掃主任・小谷に連絡すると、すぐに返ってきた。「朝の便で駅に入る搬入は、飲料系と弁当。飲料は倉庫が別。弁当は—荻野って男がよく来る」「荻野の所属は?」「小さい運送。車両はロゴなし。台車は四輪」四輪。映像の影と一致する。
10
昼、荻野の事務所を訪ねた。貸し倉庫の一角。シャッターを半分だけ上げて、紙コップのコーヒーを啜っている三十代半ばの男がこちらを見た。「警察?」「今朝、音羽町の高架で通話し、台車を押していた」「見たの?」「聞いた」佐伯は言う。「足音で。05:18の波形。四輪の台車。反射テープの袖。会社ロゴの剥がし跡」荻野は眉をひそめ、ふっと笑った。「面白いやり方だ。足音で俺を当てるのか」「当てたのは足音じゃない。置いた切符だ。日吉町の路地。5:24-25。キャスター粉」荻野はコーヒーを置き、手を広げた。「頼まれたんだよ。拾ったものを**『見つけやすいように』置けって。善意だ。俺は置いただけ**」「誰に」「港の人。名前は上原。駅の人に繋いでもらった。浅倉だ。名刺をもらった」「今朝はどこから来た」「新清水の手前。港に寄って、朝の積み荷。音羽町で一本、駅の搬入。それだけだ」「05:18に階段で立ち止まったのはなぜ」「電話が鳴った。『鳴っていない』ってやつだろ。俺は何のことかわからない。置けって言われたのは切符だけだ」荻野の目は嘘の色をしていない。自分の役だけを信じている目だ。
11
「押したのはあんたか」短い沈黙ののち、荻野は首を振った。「俺は押してない。押したのは台車だけだ」「配送センターの裏通路に被害者が倒れていた。押した跡がある。スーツケースの跡じゃない。台車を押すときの姿勢だ」荻野は肩をすくめる。「知らない。朝は音羽町から駅に入った。港には前の晩」「上原はどこに」「知らない。電話だけ」電話だけ。足音と電話。姿が見えない指示。
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上原の携帯の通話履歴を照会すると、05:18に音羽町付近の基地局に接続。荻野の番号への発信が一件。さらに四時台に古いスライド式端末へ二度。『ベルは鳴っていない』の声。「上原は今朝、ここ(音羽町)にいた」真嶋が頷く。「通話の片方は荻野。もう一方はフードの男。位置は階段の踊り場」「三角ができる」佐伯はペンで地図に三角形を描いた。新静岡、音羽町、日吉町。『入場』の証拠、『足音』の証拠、『置き直し』の証拠。三角の内側に、一人の死が固定される。
13
午後、浅倉を再聴取した。「上原を知っているか」「昨夜、食事の席で挨拶した。導線の相談を受けた」「05:18に音羽町で通話したのは誰だ」「知りません」「あなたは鳴らした。五時前に合図を。それが**『鳴っていない』の根拠になった」浅倉の視線は、規程の壁に戻る**。「合図は必要でした。入換がありました」「必要だったのは、計画のためだ。三輪さんを**『朝の導線』に縛り**、死を駅の**『外』に置くため」浅倉の沈黙は、否認の形を失い、疲労の形**をとった。
14
相良にも同じ問いを投げる。「05:12の切符が二枚。あなたが昨夜の港で導線の説明をした。今朝、表示を触った」相良は首を横に振った。「表示は乱れていました。合わせ直しただけです。切符は知りません」「上原とはいつから」「一週間前。港の人から紹介があって」「綿貫?」相良は目を伏せ、「会社の意向に逆らえないこともある」とだけ言った。会社。港。駅。導線は組織で引かれる。
15
夕方、市河が波形解析の追加を持ってきた。「05:18:10の通話の直後、二段だけ踏み直す音があります。階段を上から二段分、降りかけて戻る動き」「誰かを待った」「はい。足音の距離が一定です。来た人が二、三歩で届く距離で止めた」「上原が階段にいて、荻野が来た」「可能性は高い」「被害者はどこに」市河は映像の別の時間軸を示す。「05:26、同じ階段を早足で降りる音。重いです。靴が柔らかい。走り慣れていない」「三輪さんの靴は?」真嶋が答える。「革底。ビジネスシューズ。柔らかくない」「じゃあ、別人だ」階段を降りた誰かが、裏通路へ向かった。
16
音羽町—配送センターの裏までの徒歩を実測する。一定歩幅、信号は早朝想定。八分三十秒。05:18に階段。05:26に降りる音。05:30±10に死亡推定。時間は収まる。押すのに二十秒。争いなら一分。足音は、死に間に合ってしまう。
17
綿貫の聴取。「上原はあなたが連れてきた」「港の関係者に紹介されただけだ」「あなたは今朝、05:46 新清水入場。06:12 新静岡出場。時間に隙はない。昨夜は?」「自宅で二十三時半就寝」「港の守衛は23時過ぎにスーツの二人を入れたと言っている。名簿にあなたの名はない」綿貫は薄く笑った。「名簿に私の名がある必要はない。相良君が説明できる」相良。名簿の線は、駅へ戻る。
18
夜。音羽町の高架に戻る。足元に薄い砂。自転車が一台。遅い帰宅の足音が石の腹を叩く。市河が耳栓を外して言った。「音は正直です。だれが嘘をついても、響きは嘘をつけません」佐伯は頷く。「音が地図を作る。地図は時間を縫う」05:18の足音、05:26の足音。二つの足音の間に、人が一人、落ちた。
19
翌朝。荻野を任意同行。取調室で、彼は何度も同じ弁明を繰り返した。「置いただけ。押していない。通話は**『そこに置け』だけ」「上原はその後**、何を言った」「覚えてない。切った」「05:26はどこに」「駅の売店裏。荷を渡した。伝票は出せる」伝票は正確だった。05:27のサイン。売店の店長、サインはくせ字——本物。「なら、押したのは別だ」荻野の顔から、安堵が一瞬、零れた。
20
「別なら誰」川嶋が口を開いた。「先輩がいなくなった時間があります。05:20過ぎから十数分」「浅倉が抜けた?」「はい。入換が終わったあと、詰所にいなくて。戻ってきたのは35分頃」05:20-35。押すのに十分あれば足りる。「浅倉は走れない。彼の足音は重い。05:26の階段の音は軽い。別人だ」「なら、相良……?」「相良は端末にいた。ログがある」足音は軽い。走り慣れていない。柔らかい靴。港の調整役、上原。彼なら、姿を見せず、音だけ残す。
21
上原を呼び出す。「05:18、音羽町。荻野に電話。05:26、階段を降りたのはあなただ」「証拠は?」「足音。基地局。映像の袖。靴のゴム」上原は薄く笑った。「足音で人を縛るのか。面白い」「あなたは面白さのために他人の時間を書き換えた」「導線を整えるのは私の仕事だ」「導線は人の足が決める。あなたは足音を誤魔化したが、誤魔化しきれなかった」上原は黙り、やがて手のひらを上に向けた。「仮に私が階段を降りたとして、押した証拠はどこに」「ない。押したのは別人だ」上原の目がわずかに動いた。「誰だ」「それをあなたが知っている」沈黙。「港の倉庫のカメラに、昨夜、三輪さんと言い争うあなたが映っている。導線ではなく、数字の話だ。再編費の偏り。彼は同意しなかった」上原の笑いは消えた。
22
検視補足。頭部打撲は一か所。受傷角は低い。押されたなら手の位置は背中。指の痕は薄い。「事故に見せるなら、強く押さない。角でつまずかせ、重心を崩す」佐伯は裏通路の段差に立つ。靴をずらす。重心が前に落ちる。一拍。落ちるときの音は一拍遅れる。柱がそれを返す。05:30。音は届かなかった。駅の騒ぎに飲まれた。
23
荻野の供述が揺れた。「切符を置けと言ったのは、上原じゃない。別の声だった。若い。駅の人の声だ」「川嶋?」荻野は首を振る。「もっと落ち着いた声。電話越しなのにはっきりしてた。発車の声みたいに」発車の声。浅倉——車掌。上原は階段。浅倉は電話。相良は表示。三つの時間が揺れて、一人が落ちた。
24
浅倉を詰める。「切符を置けと言ったのはあなただ」浅倉は拳を握った。「違う。そんな指示は出していない」「発車の声だと言われた」浅倉の喉仏が上下する。「上原に頼まれた。『証拠の場所を整える』と。私は『拾得物は駅へ**』と答えた。それだけだ」「05:20-35、あなたはどこに」「構内の巡視」「波形は嘘をつかない。05:26の階段は軽い。あなたではない。だが、電話はあなただ」浅倉は椅子にもたれ、目を閉じた。「私は、誰も、押していません」その言葉だけが、彼の薄い防壁だった。
25
市河が最後の解析を持ち込む。「05:26の階段の足音、一段だけ金属音が混ざる。靴の金具か、踏板のネジに当たったか。同じ音が夜の試験の映像にも出ています。昨夜、港の倉庫でマイクに拾われた****上原さんの靴音と一致」「上原だ」「はい」「押したのは?」市河は首を横に振る。「音は階段までしか拾っていない。裏通路は死角」音が届かない場所で、誰かが手を出した。
26
配送センターの裏に出ると、段差の角に新しい欠けが残っていた。鑑識が欠片を拾い、樹脂の擦過痕と一緒に袋に入れる。「昨夜、倉庫の守衛が言った。スーツの二人。23時過ぎ。名簿に浅倉と相良。上原は外」「外の人が、中の人に時間を頼んだ」「中の人が、外の人に場所を借りた」時間と場所の取引。代償は、一人分の生。
27
綿貫はなお、外縁を歩いた。「会社としては、計画を前に進める。個別の不幸に引きずられないことが肝要だ」「個別の不幸が集まって、街の流れが変わる」佐伯は言った。「あなたの仕事は流れを読むことだろう。今、流れはあなたに向いている」綿貫は眼鏡の位置を直し、「物語を作るのは貴方だ。私はただ現実を見ている」と答えた。物語は、始発が告げる。現実は、足音が告げる。
28
上原の逮捕は、夕刻だった。容疑は証拠隠滅ほう助と犯人隠避。押したという決定的な材料はまだない。だが、音羽町の階段で止まり、電話し、降りたのは彼だ。切符の置き直しの連絡は彼から出た。始発の嘘は、彼の足音で輪郭を持った。
29
三輪俊介の部屋から手帳が見つかった。「導線の数字が先に決まるなら、図面はただの飾りだ」「港の人の『調整』は、交通のためではない」「朝の会合で条件提示。断る」彼は断るつもりだった。朝、港で。駅で落ちたのは、偶然ではない。
30
夜、音羽町の高架に雨が降り出した。足音は丸くなり、こだまは短くなる。佐伯は柱にもたれ、耳で時間を測った。05:18の足音、05:26の足音。二つの音の間に、人が一人、墜ちた。押した手の温度は、まだ見つからない。だが、温度は次の駅で残る。春日町〔S04〕— 交差点で消えた背中。交差する導線の真ん中で、嘘は方向を変える。
— 第3章 了 —





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