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ひまわりの天文台

  • 山崎行政書士事務所
  • 8月21日
  • 読了時間: 6分

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静岡駅の北口にある小さな三角地は、夏になると一枚の光の皿になります。幹夫が春に蒔いたひまわりは、いま三本、それぞれ背丈をちがえて立ち、通勤の人の肩や列車の風やバスの発車の拍子を、黄色い耳で聞いていました。

 そのなかの一本が、朝の九時ごろになると、花びらの端をふるわせて言いました。


「幹夫くん、光の時刻を取りに来たんだろう?」


 幹夫はうなずいて、ノートをひらきました。表紙には〈静岡市・風と水の地図〉。一ページ目は風の地図、二ページ目は森の水の字、三ページ目は海の拍子、四ページ目は砂のアルバム。きょうは、からっぽの五ページ目です。

「ここに光のページを作るよ。ぼく、影を測る定規を用意してきた」


 筆箱から取り出したのは、チョークと糸と、割りばしを組み合わせた素朴な器具でした。幹夫はひまわりの足もとに小さな石を置き、茎に糸を軽く結びつけます。影の先が歩道の白線の上をそっと横切り、列車の到着を知らせるアナウンスが、朝の湿った空気のなかでほどけていきました。


「ひまわりは太陽の弟子だ、って前に言ってたよね」

「そうだよ」と花は笑いました。「でも、ただ向いているだけじゃない。私たちは時間を聞いている。花粉の粒が小さな振り子で、蜜の甘さは鐘の余韻。だから私の首がどれだけ回ったかを書けば、きょう一日の時刻表になる」


 幹夫は影の先に印をつけ、横に〈九時十二分〉と書きました。次の列車が通ると、影はすこし震えて、白線からはみ出しかけます。

「列車の風は五拍子だ」と花。「影は拍子に弱いから、印には耳の注を書いておくといい」

「耳の注?」

「影の音、ということさ」


 昼になるまでのあいだ、幹夫は駅前の影と、駿府城公園の堀に映る雲の速度と、青葉の通りに並ぶ街路樹の影の重なりを、ページに集めていきました。堀の水面は小さな眼鏡みたいに光を曲げ、影の針はときどきふいに短くなりました。

「それは水の時間だよ」と、ページの隅で木陰のメモが囁きます。

 午後、安倍川の堤へ回ると、去年からのひまわりの末っ子が、一輪だけ早く咲いていました。

「やあ、幹夫くん。風の地図は順調かい?」

「うん。きょうは光のページなんだ」

「だったら夕方にもう一度おいで。川の水は日が傾くと、空から薄い金色の紙を一枚もらう。影はそこで片耳だけ金になる」


 用宗の海にも立ち寄りました。浜のパラソルが、支柱の金具をカチンと鳴らして言います。

「午前は四拍子、午後は三に寄る。影の先が砂の五線譜を撫でるたび、拍は短くなる。影の速度も書いておくといいよ」

 幹夫は砂の上に印をつけ、〈影速=砂鳴〉とメモしました。スナガニが脇から現れて、点線で「了解」を打ってくれます。


 再び駅前へ戻ると、三角地のひまわりは、さっきよりも少し低い声で話し出しました。

「幹夫くん、光は地図を折るんだ。午前と午後で折り目が違う。ほら、影が今、歩道の角で折れただろう。そこに小さく『折』と書きなさい」

 幹夫はチョークで歩道の端に「折」と書き、ページにも同じ字を写しました。昼休みの人たちは、幹夫とひまわりの作業を横目で見て、だれも邪魔しません。町には町の時間、花には花の時間、子どもには子どもの時間があるのだと、みんな知っている顔でした。


 午後三時、雲がひとつだけ駅ビルの上を渡っていき、影は一瞬、輪郭を失いました。

「その空白も、時刻のうちだよ」と花。「空白は耳の休み。楽譜の休符と同じ。——ねえ幹夫くん、君のページには、風と水と海と砂がもう揃っているだろう? それなら今夜、天文台をつくろう」

「天文台?」

「ひまわりの。場所は駿府城の堀の北側、あの芝生の角。風も水も近く、夜は星が堀に落ちる」


 幹夫は家へ帰ると、古い段ボールとクリップで小さな枠を作り、方位磁針と糸とチョークをまとめてリュックに入れました。夕方、堀の北の芝生へ行くと、風があたらしくなっていました。昼の硬い音は消え、港からの塩の匂いが細く混ざっています。

 芝生の中央に段ボールの枠を置き、四隅に小石を載せ、真ん中に糸を吊るしました。糸の先は鉛筆の先よりも軽い小さな金属片で、風に少し揺れます。

 幹夫はページの上に大きく円を描き、その円の周りに〈東・南・西・北〉と書きました。円の中心は、ひまわりの種の色をした点です。


 やがて西の空がすこしだけ橙になり、堀の水は約束どおり薄い金色の紙を一枚受け取りました。糸の先の影が枠の内側を静かに滑り、幹夫はその先に小さな点を置いてゆきます。点は最初、ばらばらでしたが、だんだんと弧になり、最後に星のような三つの点へ合流しました。

「できたね」と、どこからかひまわりの声がしました。「それがきょうの光の軌道だよ。朝の影から今の影まで、街の拍子や水の息や列車の風が、すこしずつ混ざってできた線」

「まるで星座だ」

「そう、静岡の地上星座。種を一粒、その中心に置いておきなさい。来年、ここに芽が出たら、夜になっても少しだけ東の方角がわかる子になる」


 幹夫は駅前の封筒から、ひまわりの種を一粒取り出し、点の中心に埋めました。堀の水が微かにふるえ、金色の紙が折り目を増やします。

 そのとき、堀端の石垣の上で、小さな足音がしました。振り向くと、あのスナガニが、どうやって来たのか、殻を光らせて立っています。

「配達だよ」と蟹。「浜の薄い写しを持って来た。ここに重ねると、夜の風が読めるようになる」

 蟹は細い砂を少しだけ落とし、芝生の上に点線を引きました。幹夫はその上に「浜」と小さく書き、ページの端に〈重ねる=安心〉の式をもう一度記しました。


 夜。堀の向こうで、誰かが遅い自転車のベルを一度だけ鳴らしました。星は少しずつ滲み、ひまわりの黒い影は背を丸めました。幹夫は天文台の枠を片づけながら、ページの下に今日のまとめを書きます。


〈光は地図を折る/影は時刻の耳/空白は休符/重ねると安心〉


 家へ帰ると、窓から駿河の風が入ってきて、ページの端をそっとふくらませました。明け方、幹夫は夢のなかで、駅前のひまわりが大きな時計になり、列車の風と森の水と海の拍子と砂の記憶が、その盤面の上で静かに回っているのを見ました。


 翌朝、三角地へ行くと、ひまわりの花の真ん中が、ほんの少し、昨日よりも厚くなっていました。

「おはよう、幹夫くん。天文台はどうだった?」

「成功だよ。光の軌道を描いた。堀の水が金色の紙を受け取るところも見た」

「それはよかった。じゃあ、最後の仕事をしよう」

「最後?」

「光の鐘を鳴らすんだ。きょうの正午、影がいちばん短くなる瞬間に、チョークで地面に小さな円を描いて、その円の中に、きみの名前の影を入れなさい」


 正午の少し前、幹夫は歩道の端に円を描き、待ちました。ビルの屋上から熱の音が降り、バス停の列が短くなり、鳩が屋根の影に移ります。

 ——その瞬間、影が針の先みたいに縮んで、円の中へ吸い込まれました。

 チョークの白い粉が、ほんの少し、輝きます。


「鳴った」と花が言いました。

「うん、鳴ったよ」と幹夫。「胸の中で、かすかにカンって」


 幹夫は五ページ目の上部に、静かに題を入れました。

〈光の地図——ひまわりの天文台〉


 家へ戻る途中、安倍川の橋の上でノートをもう一度ひらくと、風のページ、水のページ、海のページ、砂のページ、そしてきょうの光のページが、薄い透明の層になって重なりました。

 橋の下では川が三拍子で石を撫で、遠くでは港のクレーンがゆっくり首を振り、森は水の字を静かに通読し、駅前の三角地ではひまわりが、光の鐘を一度だけ鳴らしました。


 幹夫はページを閉じ、胸の前でそっと抱えました。

——太陽は先生、風は地図、森は水の字、海は拍子、砂は記憶。

 そしてひまわりは、時刻の耳。

 ぼくは、そのあいだをつなぐ影の測量士だ。

 
 
 

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