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深緑の小径 ――「新茶の夢」続編――

  • 山崎行政書士事務所
  • 5月5日
  • 読了時間: 9分



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第一章 夏至の朝

静岡市郊外の茶畑に、夏至の朝日がまぶしく注ぎ始めた頃、七歳の幹夫は、家の前に立って深呼吸をしていた。梅雨が明けたばかりで空は青く澄み渡り、湿り気を含んだ空気には、ほんのり新芽のような青い匂いが混ざっている。「あの古木まで行ってみよう……」――幹夫は密かに心を決める。

というのも、先日訪れた丘にそびえる“古い茶の木”が、どうしても頭から離れないのだ。あの葉を摘んで淹れたお茶は、ほんのり金緑色を帯びていて、家族みんながその透き通る甘みに驚かされていた。あの不思議な女性(正体不明の“茶の守り人”らしき人)ともまた会いたい。でも、夏の暑い日差しの中、あの静謐な場所がどうなっているのか、想像がつかない。

幹夫は竹籠に水筒と少しのおにぎりを詰め、家族が茶摘みの作業で忙しくなる前にこっそり抜け出した。「行ってきまーす!」と母に声をかけると、母は「あら、また探検? 暑いから気をつけてね」と笑って見送る。祖母は縁側からゆったりと手を振った。「迷子にならないようにねえ」と、いつもの言葉で送り出してくれる。

第二章 蒸し暑い畑

朝とはいえ、太陽はすでに勢いを増し、背中がじんわり汗ばむ。茶畑の畝(うね)を縫って進むたびに、葉先から溜まった夜露がぽとりと地面に落ちる。その音が幹夫の耳に心地よく響いた。「こんなに暑くても、茶の木は元気だなぁ……」と、感心してしまう。

茶葉は一見、春の頃の若々しい黄緑色とは違い、濃い緑へと変化している。強い陽射しから身を守るため、葉はさらに分厚く、しっかりと成長しているのだろう。幹夫が指先で葉先を触れると、春よりもしっかりした手触りがある。

時折、摘み残しの新芽がひょいっと顔を出していると、彼は思わず微笑んでしまう。「こんなに暑いのに、まだ伸びるんだね……」と語りかけると、葉は風に揺れてぱたぱたと返事するようだ。朝の茶畑を一人で歩いていると、葉っぱたちがみんな同じ方向を向いて、彼を見守っているかのように感じられる。

やがて、例の苔むした小さな祠(ほこら)が見えてきた。今は夏草が生い茂り、春よりもさらに鬱蒼(うっそう)とした雰囲気が漂っている。幹夫は祠に近づき、そっと手を合わせた。「いつもありがとうございます」――特に誰がいるわけでもないのに、自然とそんな言葉が口をついて出る。まるで、祠の中の地蔵様が静かにこちらを見下ろしているかのようだ。

第三章 笹の音、そして……

祠を過ぎ、竹林の奥へ踏み込むと、あたりは急に薄暗くなる。夏の陽射しは容赦ないが、竹陰はひんやりとしていて、まるで別世界だ。足元には落ち葉や笹の枯れ葉が厚く堆積し、踏むたびにクシュッと音を立てる。幹夫は道なき道を探るようにして進んでいった。

「去年はどうやって歩いたんだっけ……」竹林の間から差し込む斑(まだら)模様の光を頼りに歩いていると、不意に、笹の葉がざわざわと鳴った。風も吹いていないのに……と思い、幹夫は足を止める。すると今度は、まるで誰かがその奥で囁いているような声が聞こえる気がした。

「……これは、あの精霊たちの声……?」幹夫は心臓がドキドキするのを感じながら、一歩ずつ近づいていく。竹が密集するあたりを抜けると、ちらっと明るい日差しが差し込み、その先に、見覚えのある小道が見えた。確か、この道を進めば、あの丘に出るはずだ。幹夫は「よかった……」と思わず安堵し、再び早足になる。

第四章 夏の丘

竹林を抜けると、一瞬にして視界が開け、強烈な日差しが幹夫を照りつけた。そこには去年と同じ光景が待っている……はずだったが、様子がだいぶ違う。丘の雑草が背丈ほどに伸び、まるで緑のジャングルだ。遠く、例の古木の姿は見えるものの、そこにたどり着くには草をかき分けねばならないかもしれない。

「わぁ……すごいや。こんなに伸びるんだ……」幹夫は驚きながらも、籠を抱え直し、草むらをかき分けるように進む。セミが耳をつんざくように鳴き、アゲハチョウがひらひらと飛び交い、夏の生き物たちが一斉に活動しているのを感じる。確かに大変な道のりだが、不思議と嫌な気分にはならない。それどころか、大自然のエネルギーに溢れたこの空間に、幹夫は胸の奥が高揚するのを感じる。

やがて、ようやく雑草の向こうに古木の幹が見えてきた。去年はすっきりと緑の葉をつけていたその木は、今夏いっそう生い茂った葉を重ね、幹周りには無数の幼木が育っていた。近づくと、むっとするような樹木の匂いが漂い、まるで森の奥深くに来たようだ。

「あの……こんにちは……」幹夫は思わず声をかける。木が返事をするわけではないが、葉がざわざわと揺れ、幹のこぶがにっと笑ったように見えたのは、きっと気のせいじゃないだろう。彼は木の根元に腰を下ろし、籠からおにぎりと水筒を取り出した。

「去年は春先にここへ来たけど、夏はまたずいぶん雰囲気が違うね。みんな元気そうだ……」誰にともなく話しかけながら、幹夫はおにぎりをかじる。汗ばんだ体に、冷たい麦茶がしみわたる。木陰とはいえ、気温は高く、セミの声が鳴りやまない。

第五章 木なりの茶葉

古木の根元に目をやると、ふと若い茶の木の枝が伸び、その先に数枚の青々とした葉が揺れているのが見えた。まさに“木なり”と呼ばれる自然のままの茶葉だ。人間が畑で管理するのではなく、野生化したかのように育った茶の木。春の新芽ほど柔らかくはないが、光を受けて青く艶めいている。

「あ、あれ、摘んでみてもいいのかな……」幹夫は一瞬ためらったが、昨年の“しゃくし婆”や不思議な女性の言葉を思い出す。——「ありがとうって言ってから摘むといい」——そうだ、きちんと感謝を伝えれば、木はきっと許してくれる。幹夫はそう信じ、そっと両手で葉先をつまんだ。

「……摘ませてください。ありがとうございます。」小さな声でそう呟くと、葉はやわらかい感触を残してポキリと折れた。指先に蒸し暑い空気とともに、かすかな青い匂いがまとわりつく。幹夫はその葉を手のひらに乗せ、しげしげと眺めてみた。少し厚みがあり、縁に細かなギザギザが見える。ちょうど日光が差し込んで、葉脈が微かに透けていた。

「このまま囓ってみようかな……」衝動的にそう思い、葉先に歯を当てる。噛んでみると、かすかな渋みと生っぽい香りが広がるが、飲み込みはしない。あくまで味見だ。その青く苦い味わいに、幹夫の胸がなぜかきゅんとなる。言葉にならない懐かしさ――自然の恩恵を直に感じる、原初の体験のようだった。

第六章 蝉の声のささやき

葉を味わい終えた幹夫は、改めて古木を見上げた。「ありがとう」と心の中で言うと、またざわざわ……と風が吹き、葉が一斉に揺れる。高いところからは蝉の合唱が降り注いでくる。じりじりと焼けつくような夏の空気の中、幹夫は不思議な幸福感に包まれていた。

ここでしばらく涼んでいたい――と思った矢先、足元の草むらががさがさと動いた。何か動物だろうか。身を固くして待ち構えていると、そこから現れたのは白い手ぬぐい……ではなく、茶色いモグラのような小動物だった。鼻先をひくひくさせて、幹夫の足元を通り過ぎる。彼は思わず笑みをこぼし、「いっしょに涼んでいきなよ」と声をかけた。

小動物は一瞬幹夫を見上げたようにも見えたが、そのままどこかへ消えていった。これもまた、何かの精霊かもしれない。夏の山は、小さな命が無数に息づく不思議な世界だ。

第七章 帰り道

日が高くなるにつれ、気温はぐんぐん上昇していく。さすがにもう少しここで過ごすのは危なそうだし、家の人たちも心配するだろう。幹夫は腰を上げ、木に向かって再度お辞儀をしてから、草むらをかき分けて戻り始めた。もう一度、例の不思議な女性に会えないかと思ったが、辺りに人影は見当たらない。精霊たちが隠れているのかもしれないが、今日は姿を現すつもりがないのだろう。

竹林を通り、祠の前へ戻る。短時間だったけれど、汗で全身がべとついている。幹夫は祠のそばにある小さな湧き水で顔を洗い、首筋を冷やした。「はぁ……生き返るぅ……」とため息をつき、冷えた指先を頬に当てる。陽射しは依然として強く、草むらからはミンミンゼミの声が絶えず聞こえる。

「よし、帰ろう。今日もいい探検だった!」幹夫は少し誇らしげに頷き、再び畑の畝道へと進んでいった。家まで戻る頃には、お腹が空きすぎてぐうぐう鳴るだろうなと想像しながら、先ほど摘んだ“木なりの茶葉”をそっと竹籠の中へしまう。

第八章 緑の贈り物

帰り着いた家の縁側には、祖母が涼む姿があった。団扇(うちわ)をゆったりとあおぎながら、「おかえり、ずいぶん遅かったじゃないかい」と声をかける。幹夫は籠を見せ、「見て! またあの丘で茶葉を摘んできたんだよ」と得意げに報告する。

祖母が籠をのぞくと、そこには少し厚みのある濃緑の葉が数枚。木のままで伸びきった、自然の力強さを宿したものだ。祖母は「へえぇ、こりゃまたずいぶんしっかりした葉っぱだね」と目を丸くし、手に取ってみる。幹夫は「ちょっとだけ囓ってみたら、青くて苦かったんだ……でも何だかすごく元気が出そうな味だったよ!」と声を弾ませる。

「そうかいそうかい。そりゃあごちそうさんだねえ。」祖母は笑いながら「煎茶にするには少し硬いかもしれないけれど、刻んで炒ってみると案外美味しいかもね」と提案する。幹夫は嬉しくなり、「じゃあ、やってみよう!」と早速キッチンへ向かった。

第九章 夏の茶の味わい

祖母に手伝ってもらいながら、幹夫は葉をさっと洗い、布巾で水気を拭き取ってから、フライパンで軽く炒ってみた。すると、独特の青い香りが台所に立ちのぼり、鼻をくすぐる。春の新茶とは違う、ややスモーキーな香ばしさに、幹夫は「おお……」と感嘆の声を漏らす。

「せっかくだから、これを急須で淹れてみようかね。」祖母はそう言って、小さな急須を用意した。炒った葉を入れ、ぬるめのお湯をじんわり注ぐと、じわじわと茶葉が開いていくのがわかる。湯飲みに注がれた液は、淡い黄色がかった緑色で、まるで春の煎茶に比べて色味が落ち着いていた。

幹夫はわくわくしながら口をつける。「……あれ、意外と飲みやすい……?」それは、ほんのり苦みと香ばしさが際立つ、素朴な味わいだった。甘みは薄いが、後味にすうっと清涼感が残る。思わずごくごくと飲めそうなくらいだ。

「まあ、夏場の葉っぱから、こんなにやさしいお茶が出るなんてねえ。」祖母がしみじみと言う。幹夫も「うん! 暑い日でもゴクゴク飲める!」と大満足だ。父や母にも味見してもらうと、「夏の緑茶って感じだねえ」「畑の味がするよ!」などと楽しそうに話が弾む。

心なしか、このお茶を飲んでいると、丘の木陰や竹林の涼しさが蘇ってくるような気がした。あの大自然のエネルギーを、少しずつ体に取り込んでいるような感覚。幹夫は思わず頬がほころび、「またあそこへ行きたいなぁ……」と声に出してしまう。祖母は「もうしばらくしたら、また違う味になるかもねえ」と微笑んだ。

終わりに

こうして七歳の幹夫は、「新茶の夢」で始まった不思議な体験を、この夏の季節にも広げていく。管理された畑から離れ、野生化した“木なりの茶葉”と出会い、それを自分なりに味わってみる。そこには、自然が育む多様な命と、龍神の息吹さえ感じさせる深い世界が広がっていた。

木陰で耳にした蝉の声、雑草の向こうで笑っていた古木、そしてぽっかりと出現したような小動物の足音……。それらはすべて夏の茶畑の一部として、静かに息づいている。幹夫にとって、夏の光の下で味わうこの特別なお茶は、まさに緑の贈り物であり、自然と人とを結ぶ物語のつづきを照らし出す一杯なのだろう。

また秋が来て、冬が巡り、やがて春が訪れれば、あの丘や古木や精霊たちも、きっと姿を変えて出迎えてくれるに違いない。そのとき、幹夫はもう一歩大人に近づいた視点で、自然と対話するのだろう。「ありがとう、茶畑。ありがとう、木々。ありがとう、龍神さま。」――少年の小さな心から生まれる感謝は、いつしか大きな調和の音となって、土地全体を優しく包み込むかもしれない。

 
 
 

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