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花咲き染める夜の約束

  • 山崎行政書士事務所
  • 2月9日
  • 読了時間: 4分

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1. 朱色の簪(かんざし)と、満開の夜桜

 祇園の町は、夜桜がほのかな灯りに照らされ、淡い光を放っていた。あたりに漂う春の香りの中、舞妓の乙羽(おとは)は、そっと帯を整えながら小さな細道を歩く。鮮やかな朱色の簪(かんざし)が、黒髪の結い上げに美しく差し込まれている。 踊りの稽古を終え、店へ戻る途中の道すがら、夜桜の下で乙羽はふと足を止める。夜風に揺れる花びらが、まるで手を差し伸べるように揺らめき、**「あなたにも舞いなさいな」**と誘っているかのようだ。

2. 壁越しの音と、青年との出会い

 ふと遠くから琵琶(びわ)の音色が聞こえてきた。あの独特な和の調べは、寂しくも美しい旋律を携えて闇を裂くように流れる。乙羽は音を追うように路地を曲がると、花見茶屋の裏口あたりに、一人の青年が小さな箱を開き、琵琶を弾いていた。 青年の名前は**麟太郎(りんたろう)**といい、旅芸人の一座から離れ、京都の下宿に滞在中らしい。ふと目が合った二人は、まるでこの夜桜の明かりに導かれたように会釈を交わす。 「おこしやす」と乙羽は短く言い、青年は微笑んで楽器を静かに置いた。誰もいない路地の奥で、二人だけがまるで別世界に迷い込んだような、不思議な気配が漂う。

3. 緩やかにときめく心と、舞妓の宿命

 それ以来、乙羽は稽古やお座敷の合間をぬって、夜の町の片隅で麟太郎に会うようになった。青年の奏でる琵琶の音色は、優しくも憂いを帯びていて、乙羽はその旋律に思わず涙がにじむこともあった。 舞妓として生きる乙羽には、いずれ芸妓となり、“お客様をもてなす”立場での生き方が待っている。そこでは恋愛はある種のタブーとされ、プライベートの感情を公に晒すことは少ない。だが、麟太郎を想う気持ちが日増しに募るにつれて、心の奥に甘い痛みを感じるようになった。 乙羽の指先は、出会いのたびに微かに震え、彼の奏でる音を聴くほどに、胸がきゅっと苦しくなる。しかし、舞妓という身分が「私」という感情を表に出せない抑制を課してくるのだ。

4. 訪れる別れの影

 ある晩、いつものように路地で琵琶を奏でる麟太郎を待つ乙羽。しかし、そこには誰もいない。いつもあった小さな箱も、足跡も、すでに消えていた。 後で耳にした噂によると、麟太郎は親方のいる旅芸人の座元から呼び戻されたらしい。公演地を転々とする生活に戻ってしまうのだと。 「ここで一曲だけでも聴きたかった……」 乙羽は帰り道、ひとり咽(むせ)ぶように泣いた。ほんの短い交流だったが、桜の下で交わした言葉や旋律が、乙羽の心をあまりにも強くときめかせていたのだ。相手を呼び戻す術も、追いかけることもできない。

5. 流れる旋律を思い出す夜桜と、失う言葉

 季節は桜吹雪の盛り。乙羽は夜のお座敷を終え、髪を結い直すために一度店へ戻ろうとしたが、気が付けばまたあの桜並木を歩いていた。あの場所に行けば、あるいはまた琵琶の調べが聴けるのでは――そんなあり得ぬ幻想を胸に秘めて。 並木道は一面の花びらで埋まっている。まるで白い絨毯のように、踏むとほんのりと湿っている。昼間と違って人影もまばらで、ただ遠くから提灯の灯りが揺らめくだけだ。 「あの人がここで弾いていた音は、私の中でまだ続いているのに……」 そう思うと、また瞼の裏が熱くなる。再会して少しでも多く会話できたなら……と思い浮かべるたびに、舞妓という立場に囚われた“言葉の出せなさ”を痛感する。自分の心の声をなぜ出せなかったのか――それが深い後悔となって胸に刺さる。

エピローグ

 夜風が枝を揺らし、舞妓のかんざしが微かに鳴った。乙羽は一人、桜の幹に手を添え、はらりと落ちた花びらを拾い上げる。 “儚く散っていく花を、どうしてこんなにも美しいと思うのだろう。きっと、いつ消えるかわからないからこそ、心は惹かれるのだ。” 麟太郎とのわずかな時間は、まさに桜のようなもの。散り際を知っているからこそ尊いと感じてしまう。 そして、乙羽はそっと花びらを袖に包む。これは自分の後悔も、淡い想いも、一緒にしまい込む行為のように見えた。 静かに夜を見上げ、ひとつ息を吐き、再び歩き出す。桜並木が風に揺れながら、遠い琵琶の音の余韻を微かに思い出させるように**サラサラ……**と音を立てていた。涙が頬をつたい落ちるが、彼女はなおも舞妓としての凛とした姿勢を崩さない。 人生で大切なものを得て失うこと、その儚さに触れるほど、花吹雪の中で人は強く、そして優しくなれるのかもしれない――。

(了)

 
 
 

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