top of page

草薙の風の櫛

  • 山崎行政書士事務所
  • 8月27日
  • 読了時間: 6分

ree

 朝の草薙(くさなぎ)は、柑橘の皮をこすったみたいな明るい匂いで満ちていました。二つの駅の時計が、少しだけずれてあいさつを交わし、静鉄の小さな車体が、銀の魚の背びれのように線路をすべっていきます。八歳の幹夫は、ランドセルを柱に立てかけて、露でぬれた草むらにしゃがみこみました。見上げれば、有度山(うどやま)の肩はやわらかくふくらみ、その向こうに日本平のひたいが、朝の雲の絆創膏を一枚貼っています。

 そのとき、風が一枚の葉書を耳のそばへ運びました。葉書は笹の葉にそっくりで、葉脈にそって極細の金いろの字が流れています。

 — 至急 有度の風郵便 草薙分室  昨夜の熱のため、「海風(うみかぜ)のみち」が草の歯に絡(から)まり閉塞。  正午までにみちを梳(す)くこと。  必要物:音でできた櫛の歯 三本  採取地点:①草薙駅の発車鈴 ②草薙神社の鈴の緒 ③美術館の彫刻の黙(もく)  提出先:有度山の肩・風見の丘

「音の歯?」

 幹夫が読みあげると、駅前のケヤキから青い羽をきらりと光らせて、カケスがひと羽根降りてきました。翼の青は、夏の水の底みたいです。

「わたしは風郵便の案内係。草薙では、ときどき海からの風がみちに迷うのさ。昨日は暑すぎて、草の刃先(はさき)がくるっと巻いて、みちを閉じたのだよ。今日は君に、やわらかな櫛で草を梳いてもらいたい」

「草を切るんじゃなくて、梳くんだね」

「そのとおり。『薙(な)ぐ』は、実は『凪(なぎ)』を生む手つきでもあるからね」

 幹夫は立ちあがりました。ポケットには小さなハンカチ、ランドセルの余りひもが一本。カケスは肩にとまり、二人はまず駅へ向かいました。

   *

 草薙駅のホームは、朝の水色の梯子(はしご)でした。発車の時刻が近づくと、空気が少しだけ甘くなり、金属の鈴が「りりん」と透明にひびきます。幹夫はそっと息を合わせ、音の端(はし)をハンカチで受けとめました。音は軽く、冷たい糸のようです。

「一本め、確保」 カケスが頷(うなず)くと、ホームの白線が微かに笑いました。

 つぎは草薙神社。参道の玉砂利は、ひと粒ずつに小さな空を飼っていて、踏むたびに薄青い音が上がります。鳥居をくぐると、鈴の緒が風にゆらいで、金の粉のような音がほどけました。幹夫が手を合わせ、胸の中で「おはようございます」と言うと、緒の中から細く明るい音が一筋だけ抜けて、幹夫の指にからみました。

「二本め、良質だ」 カケスは目を細め、尾羽で空を一度なぞりました。

 最後は、美術館の丘。彫刻の道は、石と影の楽譜みたいに続いています。ブロンズは朝の光で目を覚まし、ロダンのひとりは、考えごとの続きをひざで温めています。ここには音よりも、深い深い黙(もく)がありました。幹夫が靴を脱いで芝に立つと、土の中から「こつり」と遠い鐘のような黙の種が上がってきます。幹夫はランドセルの余りひもで、黙をひと粒、そっと結びとりました。

「三本め。これで櫛ができる」

 カケスの声は、木陰の冷たさを少し含んでいました。

   *

 有度山の肩、風見の丘は、白い杭が風を測(はか)る場所です。正午が近づくと、駿河湾のほうから白い帯のような風がのぼりはじめましたが、途中の草むらでくしゃり、とつかえて渦になっています。草の刃先が、熱でくるんと丸まり、風のみちを閉じているのです。

「では、組み立てよう」

 幹夫は三本の音をひざの上に並べました。ホームの鈴の糸は涼しく、神社の音はかすかに甘く、彫刻の黙は土の匂いがします。ランドセルのひもで三本を撚(よ)り合わせると、指先で「しゃり」と小さく鳴って、透明な櫛になりました。歯は細く、よく見ると一本一本に、線路の銀、鈴の金、土の黒が流れています。

「これで草を傷つけないで梳ける」

 幹夫はうなずき、風の渦の前に立ちました。最初のひとかきは、駅の音で。草の間を、銀の糸がさっと走ります。二かき目は、鈴の緒で。金の粒が草の根もとにふわりと降り、刃先の巻きをゆるめます。三かき目は、彫刻の黙で。静けさが流れ込み、草は呼吸を思い出しました。

 するとどうでしょう。熱で固まっていた草の歯は、幼い髪のように素直にほどけ、風はそこをすべり台みたいにのぼっていきました。渦はほぐれ、帯は広がり、海の匂いがひと息で丘の背中を渡ります。遠くで、草薙運動場のトラックが、じりじりいうのをやめ、ベンチの影が少しだけ太りました。電光掲示板の数字が、陽炎(かげろう)から解放されてくっきりと立ち、誰かの水筒の氷が、うれしそうに鳴りました。

「やった」

 幹夫が櫛を握り直すと、有度の風は背中で鈴を鳴らして駆け上がり、丘の杭に小さな旗をひとつ、結びました。旗は「凪(なぎ)」のかたちをしています。草を薙(な)いで、心に凪(なぎ)を生む——その字の中の秘密が、風の影でうっすら見えました。

「ありがとう、幹夫くん」 カケスは青い羽を二枚、空に投げてからくるりと輪を描きました。「君の櫛は、風見の丘で保管しよう。代わりに、切手を一枚、受け取ってほしい」

 カケスが差し出した切手は透明で、うすい草の葉の真ん中に、櫛の歯が一本だけ描かれています。触れるとひやりとして、どこか潮の音がします。

「『薙』の切手だ。胸の地図がもつれてきたら、貼ってごらん。風のみちが一本、たしかになる」

   *

 帰り道、幹夫は美術館のベンチで、安倍川もちをひとつ、頬張りました。黄な粉の粉がふわっと飛んで、さっき梳いた草むらの上に、金色の砂時計がひとつ、できたように見えます。階段を降りると、ふもとの駅前では、発車鈴がひとふしだけ、昼寝から目をさますみたいに光りました。

 家の門をくぐると、幹夫は声を丸くして言いました。「ただいま!」

 その「ただいま」は、海風の味を少しだけ連れていました。台所からの「おかえり」は、今日の凪の幅で返ってきて、味噌汁の湯気が静かに柱をのぼります。幹夫は胸のなかの地図に、もらった切手を一枚貼りました。切手は一度だけ淡く光り、心の草むらのどこかで、櫛の歯が音もなく立ちました。

 夜。草薙の空は、電車の窓みたいな四角い星をいくつも吊りさげます。有度の風は郵便袋を肩に、駅と神社と美術館のあいだを見回りながら歩きます。風見の丘では、今日梳いたばかりの草がやさしく眠り、櫛は杭の影で、細い光をわずかに落としていました。

 枕の上で目を閉じると、幹夫はふたたび丘に立っていました。海風は広い帯になってのぼり、草は梳(す)かれた髪の子どもみたいに、気持ちよさそうに肩をふります。カケスが遠くで鳴き、ロダンの黙がゆっくりと星の下に溶けていきます。

「ねえ、風さん」 夢の中で幹夫がたずねると、風は杭の旗をそっと揺らしました。「草を梳くと、ひとの日も梳けるの。もつれた時間がほどけて、夕方がまっすぐ来る。明日ももしも暑かったら、君の胸の切手を使いなさい。君の『ただいま』に、凪の櫛が一本、ささるから」

 朝。草薙の街路樹が、ひだまりの中で軽く伸びをしました。二つの駅は、今度はぴたりと同じ時刻を刻み、静鉄の車体が、きのうより涼しい音で出発します。幹夫はランドセルの余りひもを指で確かめ、胸の切手の冷たさをひとつ吸いこみました。

 町は、風の道と、草の手ざわりでできています。 音の歯が三本そろえば、今日の凪はきっと遅れません。 幹夫は靴ひもを結び直し、肩にのったカケスと目だけで挨拶を交わして、ゆっくりと、学校へ向かいました。

 
 
 

コメント


bottom of page