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鉄舟寺の一の櫂

  • 山崎行政書士事務所
  • 8月27日
  • 読了時間: 6分

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 朝の鉄舟寺(てっしゅうじ)は、石段の目(め)ひとつずつに潮の匂いをしまっていました。瓦はうすく潮風(しおかぜ)を撫で返し、竹林の影は細い筆の線みたいに地面へ落ちています。八歳の幹夫は、山門の前でランドセルをおろし、苔(こけ)の上に小さな舟(ふね)の絵を指でなぞっていました。絵の舟は、竹の風を受けるたびに、ほんの少しだけ前へ進む気がします。

 そのとき、朱(あか)い柱のかげから、うすい灰緑(はいみどり)の封書がひらりと落ちました。封書は笹の葉の手ざわりで、金いろの細い字が葉脈みたいに走っています。

 — 至急 書風(しょふう)郵便 鉄舟寺分室  本堂書院の「墨舟(すみぶね)」西の縁(ふち)ひと片脱落。  このままでは正午の「読み風(かぜ)」が字を渡れません。  正午までに「一(いち)の櫂(かい)」を組み、硯(すずり)の海へ装着のこと。  
採取物:  
① 竹の節から節へ落ちる「縦(たて)の影」ひとすじ   
② 畳の縁(へり)に眠る「横(よこ)の息」ひと呼吸   
③ 鐘楼(しょうろう)の口でうまれる「点(てん)の音」ひと粒  提出先:本堂書院 墨海(ぼっかい)取扱(とりあつかい)窓

「読み書き、上手だね」

 手すりの上から、小さな雀(すずめ)がとことこ降りてきました。胸に紙の名札をさげ、「寺の書記(しょき)・スズ」と書いてあります。目は墨のしずくみたいに丸く、嘴(くちばし)は細い筆先そっくりです。

「案内係のスズです。鉄舟寺の墨舟は、言葉を渡す小さな舟。きのうの風で西の縁が欠けて、舟がまっすぐ進めないの。きょうは君に、『一の櫂』を作ってもらいたい」

 幹夫はうなずき、ポケットのハンカチとランドセルの余りひもを確かめました。

   *

 まずは竹林へ。竹の幹は、空の水色を背中にうすく貼(は)りつけて、節(ふし)から節へ、呼吸のように影を送っています。風がひと渡りすると、影は一度だけまっすぐになりました。幹夫は白いハンカチの角で、その「縦の影」をそっと受けとめます。布はすこし冷たくなり、糸目のあいだに透明の線が一本、居場所を見つけました。

「一本め、縦」 スズは尾をひと振りして、次の場所へと跳(は)ねました。「つぎは本堂の畳。横の息は、縁の布が知っている」

 本堂へ上がると、畳の草いきれが、朝の光をうすく甘くします。縁の黒い布は、たくさんの足音を静かに受け止めて、まっすぐの呼吸を奥へ渡していました。幹夫が膝をついて耳を近づけると、「すう」と一本の息が布の糸目に通り抜けます。幹夫は余りひもで小さな輪を作り、その「横の息」をひと呼吸だけすくいあげました。ひもはかるくふくらみ、指さきに落ち着いたまっすぐが宿りました。

「二本め、横」 スズは目を細め、鐘楼の方角へ小さく首を向けます。「最後は『点の音』。鐘を鳴らすんじゃない。鳴る前の、最初の黒い丸い静けさを」

 鐘楼の下、撞木(しゅもく)の影は、朝の濃い墨でひと筆描かれています。風がほんの少しだけ鈴の粉を運ぶと、鐘の口(くち)がわずかに息を吸い、鳴り出す前の“黒い点”が空気のどこかに生まれました。幹夫はハンカチの端をそっと差し入れ、その「点の音」をひと粒だけ受けとめます。布は一瞬だけ、鉄の涼しさでひやりとしました。

   *

 書院の硯は、石の海でした。墨の匂いは、遠い雨の記憶と、鳴りやまない夜の静けさを、薄い幕にして張っています。片側の縁が欠けて、黒い水はときどき言葉の舟を岸へ押し返してしまうのです。

「組み立てよう」 スズが欄間(らんま)の影で、ちいさく拍(はく)をとりました。

 幹夫はひざにハンカチを広げ、「縦の影」と「横の息」と「点の音」を指先でそっと合わせました。最初はそれぞれが別の紙へ戻ろうとしましたが、撚(よ)るたびに「り」「ん」「り」と小さく鳴って、やがて一本の櫂になっていきます。柄(え)は竹の「縦」でまっすぐ、櫂先(かいさき)は畳の「横」でひろく、中央に鐘の「点」が鋲(びょう)みたいにきらりと留まりました。よく見ると、木ではなく、線と息と点でできた櫂です。

「さ、舟へ」

 幹夫は深呼吸をして、硯の海へ櫂をそっと差し入れました。石の面が一度だけうすく震え、黒い水の中で小さな波が、櫂の形に沿ってひらきます。欠けていた西の縁は、櫂の横でやさしく補(おぎな)われ、墨舟はふたたびまっすぐ進めるようになりました。

 その瞬間、書院の障子(しょうじ)を、目に見えない「読み風」が通り抜けました。風は墨舟に乗ってひと口ぶんの言葉を運びます。線路の向こうの黒板では、先生のチョークがすっと立ち、商店の看板の字は一画だけ姿勢を正し、港の伝票は数字の足もとをそろえました。竹林の影は、たがいの距離をほどよく保ち、瓦の波は自分の順序を思い出します。

「できた」 幹夫が櫂を引き上げると、スズは胸の名札をちょっと押えて、礼をしました。「ありがとう、幹夫くん。縦と横と点がそろえば、舟は言葉を渡せる。お礼に、切手を一枚」

 スズが嘴で差し出した切手は、透明で、小さな「一(いち)」の形をしています。光にかざすと、細い線の中央に、極小の黒い点が一粒、うすく描かれて見えました。

「『一』の切手。君の一日が散らばって見えたら、胸の地図に貼ってごらん。『ただいま』が、まっすぐ一本で出てくる」

   *

 石段を下りるまえに、幹夫は縁側の影で、お弁当の海苔巻きをひとつ食べました。口の中で海が小さく笑い、のどの奥で、さっきの「点の音」がもう一度だけ微かに鳴りました。竹林の上を風が走り、節から節へ、縦の影がたしかに渡っていきます。

 家の門をくぐると、幹夫は声を丸くして言いました。「ただいま」

 その「ただいま」は、いましがた書院を通ってきたみたいに、一本でまっすぐでした。台所からの「おかえり」は今日の紙幅(しはば)にぴたりと合って返り、味噌汁の湯気は柱の木目を静かにのぼります。胸の中の切手がいちどだけ淡く光り、見えない細い線が、心の前でそっと引かれた気がしました。

 正午。鉄舟寺の鐘は鳴りませんでしたが、鳴る前の黒い点が境内のどこかで静かに座り、朱の柱はひかりを薄くたたんで受けました。畳の縁は、何人分かの足音をやわらかく配り、竹の影は短いところと長いところのあいだで、うまく順番を決めました。

 夕方。海の青は二度だけ深くなり、瓦は昼の話を一枚だけ裏返して黙りました。書院の墨舟は静かに水面(みなも)を落ち着かせ、櫂は硯の脇で、細い影をひとつだけ伸ばしました。

 夜。寺の庭は、砂の星で小さな川をつくり、竹の先で風が短くうなずきます。幹夫が枕に頭をのせると、胸の「一」が小さく息をし、遠くで紙の上を筆が「すっ」とひと引きしました。墨は深く、海は遠く、しかしそのあいだには、一本の櫂がたしかに浮かんでいます。

 — 縦の影  横の息  点の音  それらで櫂をつくれば、  きみの言葉は、  ちゃんと今日を渡っていく。

 朝。山門は新しいひかりを一枚受け取り、竹はまた節から節へ、影の便りを送りはじめました。幹夫は靴ひもを結び直し、胸の切手の冷たさをひとつ吸いこんで、ゆっくりと学校へ向かいました。背中のどこかで、小さな「一の櫂」が、きょうの最初の言葉を静かに送り出していました。

 
 
 

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