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習の字


 朝、屋根の端のあたりで、ちちち、と小さな声がした。 海の匂いより先に、鳥の声が家の中へ入ってくる朝がある。 声は小さい。 小さいのに、ちゃんと生きている音。

 幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 息をひとつ入れると、胸の真ん中が「ここ」に座る。

 縁側へ出ると、軒下の梁の影のところに、黒い影がいくつも揺れていた。 燕だ。 尾が割れて、空を切るみたいに飛ぶ燕。

 幹夫は見上げて、思わず口を開けた。 空の中を、まっすぐじゃなく、くるりと回って、また戻る。 戻って、また行く。 行って、戻る。 縫い目みたいな飛び方。

 そのとき、足元の砂利が、こそ、と鳴った。

 こそ。

 小さいのに、耳が拾う音。 拾った瞬間、幹夫の胸がきゅっとした。

 ――いき。

 そこにいたのは、燕の雛だった。 まだ羽が短くて、体が灰色。 口の端だけが黄色くて、黄色が「たべたい」をそのまま持っている。

 雛は首を伸ばして、ちちち、と鳴いた。 鳴き方が必死で、でも弱い。 弱い鳴き方は、刺さらないのに胸の奥へ来る。

 幹夫はしゃがみ込んだ。 急がない。 急ぐと、雛が驚く。 驚くと、心が走る。

 ――いき。

「……落ちたの……?」

 声が勝手に小さくなる。 小さい声は、雛の体に合う。

 縁側の板が、きし、と鳴った。 父の足音。急がない足音。

 父が来て、雛を見た。 眉の間が、ほんの少し寄る。 寄るのに、刃にならない。 刃にならないのは、父が“止まれる”ようになってきたからだ。

「……落ちたな」

 父がぽつりと言った。 “落ちた”を名前にできると、怖さが少し丸くなる。

 母が台所の境目から声を落とした。

「燕ぁ、戻すだに。……でも、手ぇ荒くすんなよ」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「落ちたら戻す。戻らんかったら守る。……飯だに」

 飯だに、の一言で、家の中の空気が暮らしへ戻る。 戻ると、幹夫の指も落ち着く。

 父は雛をすぐ掴まなかった。 まず、古い手拭いを一枚持ってきて、地面にそっと敷いた。 敷くと、雛の足元が冷たくない。 冷たくないと、鳴き声が少しだけ丸くなる。

「……みき坊。……手、出すな。見る」

 “見る”。 昨日の「見てみる」と同じ、余地のある言い方。

 父は雛の横へ手を置いて、指先だけで風を作らないように近づけた。 近づけて、止める。 止めて、少し。 その少しに、父の息が入る。

「……怖いか」

 父が雛に訊くみたいに言った。 雛はちちち、と鳴くだけ。 でもその鳴き方が、幹夫には「こわい」と「たすけて」が混ざって聞こえた。

 父は手拭いの端で雛をそっと包んだ。 ぎゅっとしない。 逃げない程度に、包む。 包むと、雛の羽がばたつかない。 ばたつかないと、音が出ない。

 父の掌に、雛の軽さが乗った。 軽い。軽いのに、落としたくない軽さ。

 父がぽつりと言った。

「……鳴らないほうが……落ち着くな」

 鳴らないほうが落ち着く。 父の言葉が、幹夫の胸をそっと撫でた。

 父は軒下を見上げた。 燕の巣は、梁の角にくっついている。 高い。 高いのに、戻す道はある。

「……椅子、持ってこい」

 母が、もう早く動いていた。 急がない早さ。 暮らしの早さで、縁側の低い椅子を持ってくる。

 父は椅子に片足を乗せて、止まる。 止まって、少し。 その少しに、幹夫は息を入れる。

 ――いき。

 父は雛を巣の縁へ、そっと置いた。 置く。 投げない。 落とさない。

 雛は巣の中へ、ころ、と転がるみたいに収まった。 収まると、ちちちが少しだけ小さくなる。

 上から、親鳥がすぐ戻ってきた。 戻って、雛へ口を寄せる。 寄せると、雛の黄色い口がぱっと開く。 開くのに、痛くない開き方。

 幹夫の喉の奥が、熱くなった。 熱くなると走りそうだから、息。

 ――いき。

 父が椅子から降りて、ふっと息を吐いた。 息が落ちると、肩も落ちる。

「……戻ったな」

 戻った。 その一言が、家の中の“戻る”と手をつないだ。

 昼前。 幹夫は軒下の影を見上げながら、綴じた冊子を膝に置いた。 白い紙が、今日は刺さらない。 刺さらないのは、上で燕がちゃんと動いているからだ。

 幹夫は鉛筆で小さく書いた。

 > きょう > つばめ の あかちゃん > おちた > でも > もどった > いき

 “いき”は丸く書いた。 丸いと、刺さらない。

 父がそれをちらりと見て、ぽつりと言った。

「……書くと……残るな」

 残る。 記の字。 憶の字。 残るものが、今日はやさしい形で残った。

 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆が、今日も痛くない継ぎ目で待っている。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 習

 幹夫はその字を見た瞬間、燕の飛び方を思い出した。 行って、戻って、また行く。 何度も同じ道を通る。

 母は上を指でなぞった。

「ここ、羽だに。鳥の羽」

 羽。 雛の短い羽。 親鳥の鋭い羽。

 母は下をなぞった。

「こっちは白だに。白い紙の白。……まだ何にも染まっとらん白」

 白い紙。 幹夫の冊子の白。 怖い日もある白。 でも今日は、白が受けてくれた。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「習うってのはな……羽を何べんも動かして、飛べるようになる字だに。白いままのとこへ、少しずつ跡がつく」

 少しずつ。 慣の字の匂いが、ここへ戻ってきた。 慣れは胸の道。 習いは手と体の道。

 母は続けた。

「慣れはな、勝手にできるときもある。……でも習いは、自分でやる。今日みたいに、止まって、置いて、戻す。……それを何べんも」

 何べんも。 父が雛を包んで、置いた手つき。 あれは、今日の“習い”だった。

 父が新聞紙の「習」を見て、ぽつりと言った。

「……羽、か」

 父は軒下を見上げた。 燕がすっと飛んで、また戻る。

「……俺も……羽みてぇに……戻る練習、してるな」

 戻る練習。 その言い方が、幹夫の胸をそっと撫でた。 練習、は恥じゃない。 練習、は未来の言葉だ。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言った。

「練習は飯前にするな。飯は冷める。……でも、少しならええ」

 少しならええ。 祖母の“許し”の形。

 幹夫は鉛筆を握った。 羽を書いて、白を書く。

 一回目の「習」は、羽が大きくなりすぎて、白が窮屈になった。 窮屈だと、息が入りにくい。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「羽が大きいときはな……白を広げりゃええ。白い場所があると、練習が座るだに」

 座る。 座れる場所があると、怖さも座れる。

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「習」は、少し落ち着いた顔になった。 落ち着くと、字が“続けられる顔”になる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 母が父を見て頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父の「習」は、羽の線が少し揺れた。 揺れるのに、折れていない。 白を書くとき、父は息をいちど止めて――止めたあと、ふっと吐いた。

「……白、って……ええな。……戻る場所みたいだ」

 母は「うん」とだけ返した。 折り目のある「うん」。

「うん。……白があると、やり直せるだに。書き直せる。やり直せる」

 やり直せる。 それは、父の“戻る練習”と同じ匂いだった。

 母は「習」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、燕が空で描く小さな輪みたいに見えた。

 夜。 軒下の巣は静かで、でも、完全な静かじゃない。 ちちち、と小さな声が、たまに落ちてくる。 小さい声は、家の角を丸くする。

 父は布団に入る前、綴じた冊子の今日のページを開いて、震える字で書き足した。

 > つばめ > もどした > おれ も > ならい ちゅう > いき

 “ならい ちゅう”。 その四文字が、幹夫の胸の奥をあたためた。

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……俺、失敗したら……戻れん気がして怖い」

 怖い。 言える。 言えると、怖さは角が丸くなる。

 幹夫は返事を急がなかった。 急ぐと、言葉が尖るときがある。 だから、間。

 ――いき。

「……うん。……でも、つばめ、いちど落ちた。……でも、もどった」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

「……落ちても……戻す手がある、か」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「習いは、落ちたあとにもあるだに。……戻す練習も、習いだに」

 祖母が淡々と言う。

「落ちたら拾え。拾ったら飯食え。……それが続きだ」

 続きだ。 続く言葉。

 幹夫は布の袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

ならう ってはね を なんべんも うごかす こと なんだねきょうつばめ の あかちゃんおちたでもとうちゃん そっと もどしたとうちゃん も ならい ちゅういき

 最後に、小さく「習」。 丸をひとつ。 燕の輪の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは雛の必死な声の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

ならう ははね を なんども うごかすしろい ばしょ にすこしずつ あと が つくやりなおせるいきうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうつばめ もどしたおと は こわい とき あるでもとまって いき したならい ちゅうすこしもどれた

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――小さな羽が一本。 燕の羽じゃない、もっと小さな、白っぽい羽。 指に乗せると軽くて、すぐ飛びそう。 でも、紙で包まれて飛ばない。 包みの端が、父の手で少し丸く折られている。 刺さらない端。 その隅に、父の震える字で小さく、

ならい

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその羽の包みを掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 習う。 何度も。 白い場所へ、少しずつ。 落ちても、戻す手つきで。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、飛ばないように包まれた小さな羽は届いた。 届いた“練習の軽さ”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、戻るための羽ばたきを、刺さらない速さで、そっと続けていった。

 
 
 

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