習の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月9日
- 読了時間: 8分

朝、屋根の端のあたりで、ちちち、と小さな声がした。 海の匂いより先に、鳥の声が家の中へ入ってくる朝がある。 声は小さい。 小さいのに、ちゃんと生きている音。
幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
息をひとつ入れると、胸の真ん中が「ここ」に座る。
縁側へ出ると、軒下の梁の影のところに、黒い影がいくつも揺れていた。 燕だ。 尾が割れて、空を切るみたいに飛ぶ燕。
幹夫は見上げて、思わず口を開けた。 空の中を、まっすぐじゃなく、くるりと回って、また戻る。 戻って、また行く。 行って、戻る。 縫い目みたいな飛び方。
そのとき、足元の砂利が、こそ、と鳴った。
こそ。
小さいのに、耳が拾う音。 拾った瞬間、幹夫の胸がきゅっとした。
――いき。
そこにいたのは、燕の雛だった。 まだ羽が短くて、体が灰色。 口の端だけが黄色くて、黄色が「たべたい」をそのまま持っている。
雛は首を伸ばして、ちちち、と鳴いた。 鳴き方が必死で、でも弱い。 弱い鳴き方は、刺さらないのに胸の奥へ来る。
幹夫はしゃがみ込んだ。 急がない。 急ぐと、雛が驚く。 驚くと、心が走る。
――いき。
「……落ちたの……?」
声が勝手に小さくなる。 小さい声は、雛の体に合う。
縁側の板が、きし、と鳴った。 父の足音。急がない足音。
父が来て、雛を見た。 眉の間が、ほんの少し寄る。 寄るのに、刃にならない。 刃にならないのは、父が“止まれる”ようになってきたからだ。
「……落ちたな」
父がぽつりと言った。 “落ちた”を名前にできると、怖さが少し丸くなる。
母が台所の境目から声を落とした。
「燕ぁ、戻すだに。……でも、手ぇ荒くすんなよ」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「落ちたら戻す。戻らんかったら守る。……飯だに」
飯だに、の一言で、家の中の空気が暮らしへ戻る。 戻ると、幹夫の指も落ち着く。
父は雛をすぐ掴まなかった。 まず、古い手拭いを一枚持ってきて、地面にそっと敷いた。 敷くと、雛の足元が冷たくない。 冷たくないと、鳴き声が少しだけ丸くなる。
「……みき坊。……手、出すな。見る」
“見る”。 昨日の「見てみる」と同じ、余地のある言い方。
父は雛の横へ手を置いて、指先だけで風を作らないように近づけた。 近づけて、止める。 止めて、少し。 その少しに、父の息が入る。
「……怖いか」
父が雛に訊くみたいに言った。 雛はちちち、と鳴くだけ。 でもその鳴き方が、幹夫には「こわい」と「たすけて」が混ざって聞こえた。
父は手拭いの端で雛をそっと包んだ。 ぎゅっとしない。 逃げない程度に、包む。 包むと、雛の羽がばたつかない。 ばたつかないと、音が出ない。
父の掌に、雛の軽さが乗った。 軽い。軽いのに、落としたくない軽さ。
父がぽつりと言った。
「……鳴らないほうが……落ち着くな」
鳴らないほうが落ち着く。 父の言葉が、幹夫の胸をそっと撫でた。
父は軒下を見上げた。 燕の巣は、梁の角にくっついている。 高い。 高いのに、戻す道はある。
「……椅子、持ってこい」
母が、もう早く動いていた。 急がない早さ。 暮らしの早さで、縁側の低い椅子を持ってくる。
父は椅子に片足を乗せて、止まる。 止まって、少し。 その少しに、幹夫は息を入れる。
――いき。
父は雛を巣の縁へ、そっと置いた。 置く。 投げない。 落とさない。
雛は巣の中へ、ころ、と転がるみたいに収まった。 収まると、ちちちが少しだけ小さくなる。
上から、親鳥がすぐ戻ってきた。 戻って、雛へ口を寄せる。 寄せると、雛の黄色い口がぱっと開く。 開くのに、痛くない開き方。
幹夫の喉の奥が、熱くなった。 熱くなると走りそうだから、息。
――いき。
父が椅子から降りて、ふっと息を吐いた。 息が落ちると、肩も落ちる。
「……戻ったな」
戻った。 その一言が、家の中の“戻る”と手をつないだ。
昼前。 幹夫は軒下の影を見上げながら、綴じた冊子を膝に置いた。 白い紙が、今日は刺さらない。 刺さらないのは、上で燕がちゃんと動いているからだ。
幹夫は鉛筆で小さく書いた。
> きょう > つばめ の あかちゃん > おちた > でも > もどった > いき
“いき”は丸く書いた。 丸いと、刺さらない。
父がそれをちらりと見て、ぽつりと言った。
「……書くと……残るな」
残る。 記の字。 憶の字。 残るものが、今日はやさしい形で残った。
母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆が、今日も痛くない継ぎ目で待っている。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
習
幹夫はその字を見た瞬間、燕の飛び方を思い出した。 行って、戻って、また行く。 何度も同じ道を通る。
母は上を指でなぞった。
「ここ、羽だに。鳥の羽」
羽。 雛の短い羽。 親鳥の鋭い羽。
母は下をなぞった。
「こっちは白だに。白い紙の白。……まだ何にも染まっとらん白」
白い紙。 幹夫の冊子の白。 怖い日もある白。 でも今日は、白が受けてくれた。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「習うってのはな……羽を何べんも動かして、飛べるようになる字だに。白いままのとこへ、少しずつ跡がつく」
少しずつ。 慣の字の匂いが、ここへ戻ってきた。 慣れは胸の道。 習いは手と体の道。
母は続けた。
「慣れはな、勝手にできるときもある。……でも習いは、自分でやる。今日みたいに、止まって、置いて、戻す。……それを何べんも」
何べんも。 父が雛を包んで、置いた手つき。 あれは、今日の“習い”だった。
父が新聞紙の「習」を見て、ぽつりと言った。
「……羽、か」
父は軒下を見上げた。 燕がすっと飛んで、また戻る。
「……俺も……羽みてぇに……戻る練習、してるな」
戻る練習。 その言い方が、幹夫の胸をそっと撫でた。 練習、は恥じゃない。 練習、は未来の言葉だ。
祖母が鍋の向こうで淡々と言った。
「練習は飯前にするな。飯は冷める。……でも、少しならええ」
少しならええ。 祖母の“許し”の形。
幹夫は鉛筆を握った。 羽を書いて、白を書く。
一回目の「習」は、羽が大きくなりすぎて、白が窮屈になった。 窮屈だと、息が入りにくい。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「羽が大きいときはな……白を広げりゃええ。白い場所があると、練習が座るだに」
座る。 座れる場所があると、怖さも座れる。
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「習」は、少し落ち着いた顔になった。 落ち着くと、字が“続けられる顔”になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
母が父を見て頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。
父の「習」は、羽の線が少し揺れた。 揺れるのに、折れていない。 白を書くとき、父は息をいちど止めて――止めたあと、ふっと吐いた。
「……白、って……ええな。……戻る場所みたいだ」
母は「うん」とだけ返した。 折り目のある「うん」。
「うん。……白があると、やり直せるだに。書き直せる。やり直せる」
やり直せる。 それは、父の“戻る練習”と同じ匂いだった。
母は「習」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、燕が空で描く小さな輪みたいに見えた。
夜。 軒下の巣は静かで、でも、完全な静かじゃない。 ちちち、と小さな声が、たまに落ちてくる。 小さい声は、家の角を丸くする。
父は布団に入る前、綴じた冊子の今日のページを開いて、震える字で書き足した。
> つばめ > もどした > おれ も > ならい ちゅう > いき
“ならい ちゅう”。 その四文字が、幹夫の胸の奥をあたためた。
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……俺、失敗したら……戻れん気がして怖い」
怖い。 言える。 言えると、怖さは角が丸くなる。
幹夫は返事を急がなかった。 急ぐと、言葉が尖るときがある。 だから、間。
――いき。
「……うん。……でも、つばめ、いちど落ちた。……でも、もどった」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
「……落ちても……戻す手がある、か」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「習いは、落ちたあとにもあるだに。……戻す練習も、習いだに」
祖母が淡々と言う。
「落ちたら拾え。拾ったら飯食え。……それが続きだ」
続きだ。 続く言葉。
幹夫は布の袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
ならう ってはね を なんべんも うごかす こと なんだねきょうつばめ の あかちゃんおちたでもとうちゃん そっと もどしたとうちゃん も ならい ちゅういき
最後に、小さく「習」。 丸をひとつ。 燕の輪の丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは雛の必死な声の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
ならう ははね を なんども うごかすしろい ばしょ にすこしずつ あと が つくやりなおせるいきうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうつばめ もどしたおと は こわい とき あるでもとまって いき したならい ちゅうすこしもどれた
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――小さな羽が一本。 燕の羽じゃない、もっと小さな、白っぽい羽。 指に乗せると軽くて、すぐ飛びそう。 でも、紙で包まれて飛ばない。 包みの端が、父の手で少し丸く折られている。 刺さらない端。 その隅に、父の震える字で小さく、
ならい
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその羽の包みを掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
習う。 何度も。 白い場所へ、少しずつ。 落ちても、戻す手つきで。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、飛ばないように包まれた小さな羽は届いた。 届いた“練習の軽さ”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、戻るための羽ばたきを、刺さらない速さで、そっと続けていった。




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