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濠の花筏

  • 山崎行政書士事務所
  • 4月9日
  • 読了時間: 21分


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第一章 桜の水面

昭和の春の朝、東京・江戸城の外堀は薄桃色の夢に沈んでいた。桜の花びらが水面に幾重にも浮かび重なり、まるで一面の花筏(はないかだ)となって静かに揺蕩っている。水は桜色に染まり、朝の淡い光を受けてほのかに輝いていた。微かな風が吹くたび、花びらの層がさざ波を立て、小さな波紋が円を描いて広がってゆく。それはまるで、水面が息をしているかのように、静かで確かな生命の脈動を刻んでいた。

堀の縁に立ち尽くす男が一人。その名を中原幹夫という。五十代半ばの彼は、東京に本社を置く製薬会社の社長だった。幹夫は静かな水面を眺めながら、胸の奥で小さく息をついた。戦後の混乱を潜り抜け、東京の街は再び立ち上がりつつある。それでも、人々の心にはいまだ深い傷痕が残り、日々の営みにはどこか影が差しているようにも思える。しかし、目の前の桜は何事もなかったかのように今年も花を咲かせ、散り際さえもこのように美しい。「自然はなんと強いのだろう」幹夫はそっと心の中で呟いた。十年前、この都心にも焼け野原が広がり、人々は途方に暮れていた。それでも春が巡るたび、桜は変わらず咲き、人々に希望をもたらしてきた。桜の淡い香りが空気に溶け、朝の光とともに幹夫の肺へ染み渡る。その香りには、言葉にならない慰めと力が宿っているようだった。

幹夫はそっと目を閉じた。聞こえてくるのは、自分の鼓動と、水面を撫でる風の音。そして花びらがゆっくりと水に落ちるかすかな響き。自然の奏でる静謐な調べに身を委ねていると、肩にのしかかる重責を一瞬忘れられる気がした。「私たちは負けない。何度でも咲く。」――そんな声が、散りゆく花びらのひとひらひとひらから聞こえてくるような気がした。幹夫は瞼の裏に、その声なき声を思い描いてみた。かつて恩師が語ってくれた「自然はいつでも語りかけてくれる」という言葉を思い出す。その言葉が今、桜の声となって彼の胸に蘇ったかのようだった。それは彼自身の胸から湧き出る祈りにも似ていた。自然の摂理はかくも強く、美しい。生命は何度でも再生することができる――桜の花々はそのことを静かに教えてくれている気がした。

ゆっくりと目を開けると、辺りには薄い朝靄が立ちこめ始めていた。城の石垣が霞み、遠くで誰かがラジオ体操の歌を流している。幹夫は腕時計に目を落とす。いつの間にか、出社の時刻が近づいていた。彼はもう一度桜の水面を見つめ、心に刻みつけるように深呼吸する。「さて、行こう」幹夫は小さく呟き、背筋を伸ばした。今日も多くの社員や患者たちが自分を待っている。企業経営という重い責務が、再び彼の両肩に戻ってきたのを感じる。それでも、先ほど胸に満ちた桜の静かな力を糧に、幹夫は歩き出した。

スーツのポケットには、いつ拾ったのか一片の桜の花びらがそっと仕舞われていた。それに気づいた幹夫は、口元に微かな微笑を浮かべる。「今年の桜も、見事だったな」誰にともなく囁き、彼は皇居外苑を後にして会社へと向かった。

第二章 夏の光と影

それから幾ばくかの月日が流れ、東京には夏が訪れた。梅雨が明けた空は真夏の光に満ち、ビルの谷間に熱風が渦巻いている。蝉時雨(せみしぐれ)が朝から降り注ぎ、街路樹の緑は陽射しに白くかすんで見えた。

中原幹夫は都心の本社ビル最上階にある社長室の窓辺に立ち、遠く霞む空を見上げていた。冷房の効いた室内にいても、外の熱気が伝わってくるようだった。壁際の時計は正午を少し回ったところだ。書類に埋もれていた幹夫は、束の間の休息に席を立ったのだった。

机上には今日も決裁を待つ契約書や報告書が山と積まれている。その合間に、一冊の古びた手帳が置かれていた。幹夫はそっとその手帳を手に取り、表紙を指でなぞった。革表紙は年月を経て柔らかく手になじみ、端は擦り切れている。彼が若き研究者だった頃に愛用していた野外調査のノートであり、亡き恩師から贈られたものでもあった。

手帳を開けば、インクの色褪せた走り書きが今も残っている。薬草のスケッチ、効能のメモ、山間の村で聞いた民間療法の記録――どのページにも、当時の情熱と好奇心が溢れていた。ぱらり、と一枚の押し花が落ちかけているのに気づき、幹夫は慎重にそれを摘み上げた。濃い紫色の小さな花弁。二十年以上前、恩師と共に高原で採取したリンドウの花だった。

幹夫の意識は、蒼い夏空の下に広がる高原の光景へと遡っていった。

それは戦前のある夏、幹夫がまだ二十代の駆け出しの研究員だった頃のこと。恩師の浅井誠二郎博士に誘われ、信州の山奥へ薬草の調査に出かけたのだった。

蝉の声も届かぬ深い山林を抜けると、一面に青い空と草原が広がった。風が吹き抜け、足元ではレンゲツツジやニッコウキスゲが揺れている。遙か遠くには稜線が連なり、その先に白い雲がもくもくと沸き立っていた。標高の高い高原の空気は澄みわたり、草木の匂いが清々しい。

幹夫と浅井博士は汗を拭いながら山道を歩いた。背負ったリュックには簡易な実験道具や採取した植物が詰め込まれている。やがて、小川のせせらぎが聞こえる開けた丘に着いた。浅井博士は「少し休憩しよう」と木陰を指し示し、二人はその場に腰を下ろした。

浅井博士は五十代半ば、白髪混じりの髪を布帽子の下に隠し、細身の体つきにフィールド用のジャケットを着ていた。額ににじむ汗をハンカチで押さえつつも、その眼差しは少年のように輝いている。幹夫は心から尊敬する師の横顔を盗み見た。

「見たまえ、中原君。あそこにリンドウが咲いている。」浅井博士が指さす先、小川のほとりに濃紫の小さな花が数輪、草の間から顔をのぞかせていた。幹夫は近づいてしゃがみ込み、その可憐な花を見つめる。指先でそっと触れると、ひんやりとした花弁の感触が伝わった。

「リンドウの根は健胃薬として古くから民間で用いられてきたんだよ。」浅井博士は穏やかな声で言った。「小さく地味な花だが、その命は人の命を支える力を持っている。薬とは本来、こうした草花や微生物など、自然からの贈り物なのだ。」

幹夫は頷いた。薬学を志した頃から、生物が生み出す力に強く惹かれていた。自然の中にこそ、病に苦しむ人々を救う鍵がある――それが浅井博士の口癖でもあった。「先生、もし自然がすべての病を癒す力を持っているなら、我々人間の役割は何でしょう?」幹夫は問いかけた。

浅井博士はほほ笑んで答える。「自然は答えを用意してくれている。しかし、その答えを見つけ出し、必要とする人々に届けるのが我々の役目だよ。我々科学者は、自然と人との橋渡しをするのだ。」

風が吹き、草原がさわさわと揺れた。木々のざわめきがまるで賛同するかのように二人を包む。幹夫は青い空を仰ぎ見た。まぶしい光の中で、雲がゆっくり形を変えている。彼の胸に熱いものが込み上げてきた。

ふと、博士は遠く麓の村を指差した。「あの村のおゆきさんは、まだ頑張っているだろうか…」その声音には憂いが混じっていた。幹夫も胸が痛んだ。おゆきという少女は、村で結核を患っている患者の一人だった。二人は調査の合間に何度か村を訪れ、おゆきに薬草茶を届けたり経過を見守ったりしていたのだ。

「あの子に効く新しい薬を、一日も早く届けてやりたいものだね。」浅井博士は空を仰いで静かに言った。「我々にはまだ十分な力がない。医学はこれからだ。しかし、必ず…」博士は言葉を切り、咳き込んだ。無理もない、この山道を長く歩き疲れているのだろう。幹夫は心配そうに背をさすろうとしたが、博士はすぐに落ち着きを取り戻し微笑んだ。

「行こう、中原君。患者たちが待っている。」博士が立ち上げり、再び歩き出す。幹夫も立って深く息を吸った。乾いた空気に草の香りが混じり、胸に清涼な痛みをもたらした。それは若き彼の決意と情熱の痛みでもあった。

二人はその後、麓の村へ降り、おゆきの家を訪ねた。床に伏す少女の枯れた咳を聞くたび、幹夫の胸は締め付けられた。浅井博士は持参した薬草の煎じ薬を優しく飲ませ、額の汗を拭ってやった。「必ず良くなる」と少女の手を握り、励ます博士の目にも、幹夫は微かな涙光を見た気がした。

……はっと我に返った幹夫は、手帳を閉じた。いつしか蝉の声が窓越しに耳に満ちている。過ぎ去りし夏の日の記憶が、現実の暑さと重なり合った。額に滲んだ汗を拭いながら、幹夫はデスクの上に視線を落とす。

一通の封書が目に留まった。差出人は浅井博士の故郷でもある東北の寒村にある診療所の医師からだった。幹夫は嫌な予感を覚え、急いで封を切った。

便箋には達筆な文字で現状が記されている。戦後になっても地方では結核が猛威を振るい、多くの患者が療養所に収容されていること。かつて博士と幹夫が世話をしたおゆきも、昨年力尽きこの世を去ったこと。そして今もなお、おゆきの弟や近所の子供たちが病と闘っていること――。

幹夫の胸が締めつけられた。亡きおゆきの大きな瞳が脳裏に蘇る。細い手首を差し出し、必死に生きようとしていた少女。その命の火が消えてしまった事実が、幹夫には耐え難かった。

手紙は続いていた。世界では新しい薬が開発され、結核も治る病になりつつあるという希望の知らせ。それなのに地方の末端には薬も行き渡らず、いまだ多くの命が失われている現状。開発中の新薬がもし完成するなら、一刻も早く届けてほしい――切実な願いが綴られていた。

幹夫は手紙を握りしめ、立ち上がった。かつて浅井博士と誓い合ったことが思い出される。「必ず新しい薬を作り、患者たちを救おう」。それは亡き恩師の悲願であり、自身の生涯の使命でもあった。

幹夫は受話器を取り上げると、社内の研究所長に電話を繋いだ。「もしもし、私だ。例の結核の新薬の開発状況はどうなっている?」受話器越しに研究所長の声が緊張混じりに返ってくる。「動物実験は成功し、臨床試験の準備段階です。ただ、生産設備と資金の確保が…」

「資金のことは心配するな。」幹夫の声には力が籠もった。「一刻も早く製造ラインを整え、少量でもいい、試作薬を用意してほしいんだ。地方の療養所で待っている人々がいる。彼らに送れるだけ送りたい。」

電話口の相手は一瞬言葉を失ったようだった。「社長、それでは赤字に…」

「構わん。」幹夫は静かにしかし断固として言い切った。「命には代えられない。会社は私がなんとかする。」

蝉の声が一層激しく社長室の窓を叩いた。幹夫は受話器を置くと、大きく息を吐いた。外の陽射しは相変わらず強烈だ。だがその光は、どこか影を伴っているようにも感じられた。自分たちの努力が届かず失われた命の影――おゆきの影。幹夫は拳を固く握りしめた。「もう誰も失いたくない」胸の内でそう誓うと、再び机に向かった。

窓際の鉢植えで育てている朝顔の花が、一輪しぼんでいるのが目に入った。幹夫は立ち止まり、小さな蕾がその隣についているのを見つける。今日萎んだ花のすぐ脇で、新しい命が静かに準備をしている。その姿に、幹夫の心はほんの少しだけ救われた気がした。

第三章 秋の追憶

澄みきった秋の空の下、東北へ向かう列車が山間の谷を縫うように走っていた。窓の外には、黄金色に輝く稲田と赤や黄に色づいた木々の山肌が続いている。風が稲穂を撫で、波のような模様を作っていた。幹夫は車窓にもたれ、過ぎゆく景色に目を細めた。秋の日差しは優しく、しかしその輝きにはどこか寂しさが混じっている。収穫の喜びと、冬の訪れを予感させる静けさ――秋は常に相反する思いを抱かせる季節だった。

幹夫は今回、一人で東京を離れ、あの山村を訪れる決心をしたのだった。車内には背広姿の彼と、座席下に置かれた小さなトランクだけ。トランクの中には試験的に製造した少量の新薬と、いくつかの医薬品、そして浅井博士の遺影が収められていた。恩師の墓前に報告したい――そんな思いも旅の目的のひとつだった。

列車が終点の小駅に着くと、幹夫は荷物を提げて降り立った。ひんやりと澄んだ空気にススキの穂が揺れ、遠くから祭囃子のような太鼓の音が聞こえてくる。駅前には診療所の医師である田村という男性が迎えに来てくれていた。田村医師は還暦近い初老の人物で、浅井博士の後輩にあたる医者だった。

「中原さん、お久しぶりです。遠いところをよく来てくださいました。」田村医師は深々と頭を下げた。幹夫も頭を下げ、「お招きありがとうございます。どうしても皆さんの顔を拝見し、直接お届けしたいものがありまして。」とトランクを軽く持ち上げてみせた。田村医師の顔がぱっと明るくなった。「それは…まさか、新しいお薬が?」

「試作段階のものですが、何人かの患者さんには試していただける量があります。」幹夫は頷いた。「正式な承認はこれからですが、一日も早く現場に届けたくて。」

田村医師は目に涙を浮かべて幹夫の手を握った。「ありがとうございます…本当に…浅井先生が生きていらしたら、どれほど喜ばれたことでしょう。」

夕暮れまでに村へ着き、幹夫は田村医師に案内されて診療所に赴いた。古びた木造の建物には入院病棟も併設されており、十人ほどの結核患者が療養していた。消毒薬の匂いと、遠慮がちな咳払いの音が室内に満ちている。

幹夫が白衣に着替え病室に入ると、ベッドから細い視線が集まった。田村医師が患者たちに新薬の到着を知らせると、小さなどよめきが広がった。幹夫は一人ひとりに目を配りながら、静かに頭を下げた。「皆さん、遠くから来ました中原と申します。少しでもお力になりたくて参りました。」そう言うと、患者たちの中からか細い拍手が起こり、幹夫の目頭が熱くなった。

「雄太君…」田村医師が部屋の隅のベッドに近づき、そこで横になる少年に声をかけた。「お姉ちゃんが昔お世話になった中原さんだよ。覚えているかい?」

痩せ細った少年が、幹夫を見上げて微笑もうとした。「…あの時のお兄さん?」まだ幼さの残る声音だが、その顔立ちは幹夫の記憶の中のおゆきにどこか似ていた。

「雄太君、大きくなったね。」幹夫はそっと少年の手を取った。「お姉さんとは一緒によく頑張ってくれたね。」

「うん…姉ちゃん…」雄太の瞳に涙が浮かんだ。「姉ちゃん、中原さんがきっと新しいお薬持ってきてくれるって…いつも言ってた…。」

幹夫の胸に鋭い痛みが走った。おゆきが亡くなるその日まで、自分たちを待ち望んでいたのかと思うと、申し訳なさで息が詰まる思いだった。

「遅くなってごめんね、雄太君。」幹夫は震える声で言った。「でも、姉ちゃんの願いを叶える薬を持ってきたよ。だから、一緒に頑張ろう。」

少年は弱々しくもはっきりと頷いた。その目に宿る光は、小さな胸に燃える命の炎そのものだった。

その日の夜、幹夫は診療所に泊まり込みで新薬の投与計画を田村医師と練り、数名の患者への治療を開始した。窓の外に瞬く星々に、おゆきの魂が宿っているような気がして、幹夫はそっと手を合わせた。

翌朝。澄み切った青空の下、幹夫は田村医師と共に村外れの小高い丘に登っていた。そこにはぽつりと古い墓石が立っている。浅井誠二郎博士の眠る墓だった。

幹夫は携えてきた花束と、そっと摘んできた一輪のリンドウの花を墓前に供えた。遠く山々を渡る風が吹き抜け、色づいた木の葉をさらさらと鳴らした。

「先生…」幹夫は静かに語りかけた。「新しい薬が、ようやくできました。先生が命をかけて追い求めた薬です。おゆきさんには間に合いませんでしたが、雄太君たちにはきっと間に合わせます。必ず、多くの命を救ってみせます。」

田村医師は黙って隣に立ち、目を閉じている。幹夫は墓前で手を合わせ、心の中で師の声を待った。

――木々の間を渡る風が、どこか懐かしい声を運んできたような気がした。「よくやったな、幹夫…。」ふと耳元で囁かれた気がして、幹夫ははっと顔を上げた。しかし聞こえるのは風に揺れる枝葉の音だけだった。

それでも幹夫は不思議と穏やかな気持ちになっていた。空を見上げると、朝日がまぶしく輝き、雲間から一筋の光が差し込んでいる。幹夫はそっと微笑んだ。「先生、見ていてください…」胸の中でそう呟き、彼はゆっくりと丘を後にした。

第四章 冬の夜の対話

木枯らしが東京の街に吹き始める頃、中原幹夫は休む間もなく働き続けていた。東北から戻った彼は、新薬の正式承認と量産に向け奔走し、会議と交渉に明け暮れた。灰色の冬空の下、街路樹の葉はすっかり落ち、皇居外苑の桜の木々も裸の枝を冷たい風にさらしている。

幹夫のデスクには書類と試験データの山が築かれ、コーヒーの冷めたカップが幾つも並んでいた。外はとっぷり日が暮れ、時計は深夜零時を回っている。社員は皆帰宅し、ビルには彼一人だけが残っていた。

今日も製薬協会や厚生省との折衝で神経をすり減らし、ようやく社に戻ったのは夜遅くになってからだった。会議では新薬の有効性に懐疑的な声や、副作用リスクを過度に恐れる意見が相次いだ。幹夫は必死で安全性データを示し、早期承認を訴えたが、官僚たちは慎重な姿勢を崩さなかった。さらに社内でも、大量生産に伴う財政的リスクに反対する役員がいた。

「命を救うことより、数字の方が大事だというのか…」誰もいない会議室でそう呟いた自分の声が、耳にこびりついて離れない。幹夫は疲れ切っていた。理想だけでは世の中は動かない現実の壁が、重く彼の前に立ちはだかっていた。

幹夫は書類に目を走らせながら、こめかみに指を当てた。頭痛がじんじんと鼓動し、視界がかすむ。昼から何も食べていないことに気づいたが、食欲はなかった。ペンを置き、背もたれに体を預ける。ふと、上着のポケットから春先に拾った桜の花びらがひらりと舞い落ちた。

「桜…」幹夫はそれを拾い上げ、掌に乗せた。乾いて色褪せた花びら。しかし、あの朝感じた生命の力を思い出させる大切なお守りだった。幹夫はそっと目を閉じ、春の堀の光景を心によみがえらせようとした。

だが、疲労に苛まれた意識は闇に沈むばかりだった。体の芯が冷え、激しい寒気が襲ってきた。幹夫は花びらを胸ポケットにしまうと、立ち上がろうとした。しかし足元がふらつき、視界がぐにゃりと歪んだ。

「…いけない…」声にならない声が漏れる。次の瞬間、幹夫の体はがくりと膝から崩れ落ちた。床に倒れ込んだ彼の意識は、急速に遠のいていった。

闇の中で、幹夫はゆっくりと目を開いた。いつの間にか、自分が江戸城の外堀のほとりに立っているのに気づく。夜だった。満天の星が頭上に瞬き、あたりは静寂に包まれている。季節外れのはずの桜の木々が満開の花を湛え、淡い光を放っていた。水面には無数の花びらが浮かび、星影と月明かりを映している。

「これは…夢だろうか?」幹夫は自問した。しかし足裏に感じる地面の感触も、頬をかすめる夜風の冷たさも、あまりに鮮明だった。

「幹夫君。」不意に、背後から優しい声がした。幹夫ははっと振り向いた。そこには浅井誠二郎博士が立っていた。昼間の墓前に佇む石像のような姿ではない。若々しく穏やかな笑みを浮かべ、生前と変わらぬ優しい眼差しでこちらを見つめている。

「先…生…?」幹夫の喉が詰まったようになり、かすれ声が漏れた。

浅井博士は静かに頷いた。「そうだ、幹夫君。よく頑張っているな。」

幹夫は何も言えず、その場に立ち尽くした。込み上げるものがあり、瞳が熱くなる。「先生…私は…」言葉が続かない。胸の奥からあふれる想いが多すぎて、何から告げればいいのか分からなかった。

博士はゆっくりと歩み寄り、幹夫の肩に手を置いた。「話さなくても良いよ。すべて分かっている。」

幹夫の瞳からぽろぽろと涙が零れ落ちた。冷たい夜風に吹かれても、その涙は止まらなかった。

浅井博士は夜空を仰いだ。「辛かったろう。孤軍奮闘の日々だった。」

「私は…何も成し遂げていません…」幹夫は涙を拭いながら首を振った。「先生の願いも、おゆきさんとの約束も、救えなかった命もあって…私は無力でした…」声が震え、言葉が途切れた。

博士は静かに首を横に振った。「幹夫君、君はよくやっている。おゆきさんも、君に感謝しているだろう。雄太君を救ったじゃないか。」

「雄太君は…きっと助かるでしょう。でも私は…」幹夫は俯いた。「会社のことも、世の中の壁も、あまりに重く…私は倒れてしまいました。情けないことに…自分自身がこんなことで…」

博士の目が優しく細められた。「人間は弱いものだよ、幹夫君。どんなに志が強くとも、体が壊れては元も子もない。自分を責めることはないんだ。」

博士は一息おいて、懐から一冊の手帳を取り出した。幹夫が若い頃に共に読み耽った宮沢賢治の詩集だった。「覚えているかい、これを?」

ページを開き、博士は静かに詩を読み上げ始めた。

「雨ニモマケズ 風ニモマケズ…」

懐かしい詩の一節が夜の静寂に溶けてゆく。

「…雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ…」

博士は微笑んだ。「宮沢賢治はこう書いた。丈夫な体があってこそ、何事も成し遂げられる、とね。君もまず体を治しなさい。君自身の命もまた、大切なものだ。」

幹夫は泣き笑いのような表情になった。「先生…はい、先生。」

浅井博士は幹夫の肩に置いた手を軽く叩いた。「さあ、顔を上げてごらん。」

幹夫が涙を拭って顔を上げると、満天の星が瞬く夜空が目に入った。博士が手を一振りすると、堀の水面がぱあっと光り輝いた。不思議なことに、水面に一枚の映像が映し出されている。

それは春の日差しの中、元気に駆け回る子供たちの姿だった。桜咲く公園で、雄太君が笑顔で友人と遊んでいる。その隣では、少し年上のおゆきが優しく見守っている。二人とも健康そのものの明るい表情だ。

「雄太君…おゆきさん…!」幹夫は息を呑んだ。

「君が生きて成し遂げれば、必ずあの子たちのように笑顔になれる命が増える。」浅井博士はそっと囁いた。「おゆきさんもきっと天国で喜んでいるよ。そして君のことを誇りに思っている。」

映像はゆっくりと消え、再び月明かりに揺れる水面に戻った。幹夫は胸いっぱいに込み上げる希望を感じていた。「ありがとうございます、先生…」瞳に新たな光が宿るのを、自分でも感じることができた。

浅井博士は満足げに頷いた。「さあ、夜明けが来る。君は行きなさい。まだやるべきことがある。」

「先生…」幹夫は別れを惜しむように一歩踏み出した。「もう少しお側に…」

博士は静かに首を振った。「私はいつでも君のそばにいるさ。君が自然の声に耳を傾ける限り、君は決して独りではない。」

そう言うと、博士の姿はふっと淡い光に包まれた。次の瞬間、桜の花びらが一斉に舞い上がり、渦を巻いて博士の身体を取り囲んだ。無数の花びらが夜空にきらめきながら散っていき、そして気づけば博士の姿は消えていた。

幹夫は静かに目を閉じ、深く息を吸った。桜の香りと冬の冷たい空気が混じり合った匂いが胸に広がる。やがて、遠くで鳥の囀りが聞こえた。夜が明ける――幹夫はそう感じた。

***

幹夫はゆっくりと意識を取り戻した。まぶた越しに感じる光が、揺らめく。微かに鼻先をくすぐる薬品の匂い。ぼんやりと目を開けると、白い天井が見えた。体を起こそうとすると、優しく制止する声がした。「中原社長、無理をなさらないで。」

ぼんやりと横を見ると、会社の秘書である石岡が安堵の笑みを浮かべて立っていた。「良かった…お気づきになりましたか。」傍らには医師の姿もある。「中原さん、もう大丈夫ですよ。肺炎による高熱で倒れられましたが、すぐに治療を行いました。幸い発見が早く、新しい抗生物質がよく効いて峠は越しました。」

窓の外を見ると、朝焼けの空に白い雲が光を受けて輝いている。どうやら一晩が明けたらしい。幹夫は静かに息を吸った。胸の痛みは和らいでいる。点滴が腕につながれていた。

「私は…どこで?」幹夫は尋ねた。

「社長室で倒れておられたのを、警備員が見つけて連絡してくれたんです。」石岡秘書が答えた。「驚かせてしまいましたね…」幹夫は苦笑した。「申し訳ない。君にも心配をかけた。」

「いえ、とにかく無事で何よりです。」石岡は胸を撫で下ろした様子だった。「どうかしばらく静養なさってください。皆、社長のことを案じています。」

医師も「仕事のことはしばらく忘れて、ゆっくり休養してください。体あっての物種ですよ。」と穏やかに笑った。

幹夫はベッドの上で軽く頷いた。目を閉じると、あの不思議な夢の情景が瞼に浮かんだ。浅井博士の優しい笑顔、舞い散る桜の花びら、雄太君とおゆきの笑顔…。幹夫はそっと胸に手を当てた。ポケットの中には、あの桜の花びらがまだ入っているように感じられた。

「ありがとうございます。」幹夫は誰にともなく心の中で呟いた。それは夢の中で出会った恩師に向けた言葉であり、自分を支えてくれるすべての存在――自然、人々、そして失われた魂たち――への感謝でもあった。

第五章 春の再生

春。東京の街は柔らかな陽光に包まれ、至るところで桜の花が咲き誇っていた。あれから一年――中原幹夫は再び江戸城の外堀のほとりに立っていた。

水面は今年も一面の花びらで淡い桃色に染まっている。幹夫は穏やかな面持ちでその光景を眺めていた。頬には健康的な赤みが戻り、瞳は静かな自信に満ちている。冬の療養期間を経て体力も回復し、今では再び第一線で指揮を執っていた。新薬は正式に承認を受け、大規模な生産が開始されている。

幹夫は胸ポケットから一通の手紙を取り出した。それは先日、東北の田村医師を通じて雄太から届いたものだ。丁寧な字で綴られた便箋には、雄太がこの春小学校に入学できるほど回復したこと、村の他の患者たちも快方に向かいつつあることが報告されていた。そして末尾にはこう記されている。

「東京の桜はきれいですか。村の丘にも桜が咲きました。お姉ちゃんの写真を持って見に行きました。ぼくは元気になりました。薬を作ってくれてありがとう。いつか東京に行って、中原さんと桜を見たいです。」

幹夫は手紙を胸に抱きしめた。目頭が熱くなる。しかしそれは悲しみではなく、喜びの涙だった。「ありがとう…」幹夫は小さく呟いた。雄太君の澄んだ笑顔が目に浮かぶ。

吹く風に花びらが舞い、水面の花筏がゆっくりと形を変えていく。幹夫はそっと目を閉じ、耳を澄ませた。

静かな水音、そよぐ風の調べ――自然が奏でる声が、幹夫の心に染み渡る。「ありがとう」「おめでとう」「これからもよろしく」――そんな囁きが聞こえてくるようだった。幹夫は瞳を開け、降りそそぐ花吹雪の向こうに青い空を見上げた。明るい日差しが雲間から地上に降り注ぎ、彼の肩を優しく包み込んだ。

堀沿いの道を、母親と幼い子が手をつないで歩いているのが目に映った。子どもが笑い声をあげて舞い落ちる花びらを追いかけている。その元気な姿に、幹夫の唇に自然と笑みが浮かんだ。

「行っておいで。未来が君を待っている。」幹夫は小声でそうつぶやき、そっと背中でエールを送った。それは遠い雄太少年にも、そしてこれから生まれてくるすべての命にも向けられたメッセージだった。

幹夫はゆっくりと歩き出した。肩の荷はいつしか軽くなり、心は新たな希望に満ちている。木漏れ日の下、桜の花びらが舞う道を、一歩一歩踏みしめながら、幹夫は前へと進んだ。その足取りはかつてないほど力強く、大地と生命のリズムに調和していた。淡い桃色に染まる水面がキラキラと輝き、空には光が満ちている。再生の春の中で、中原幹夫は静かに未来へと歩み出していった。

 
 
 

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