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羽衣の森

  • 山崎行政書士事務所
  • 1月12日
  • 読了時間: 6分
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第一章:消えない霧と噂

 三保の松原は、海岸線に沿って深い松並木が広がる。昼間は観光客でそこそこ賑わうが、夜ともなると静まりかえり、潮騒の音が遠くかすかに聞こえるだけだ。そんなおなじみの景色が、ある日の夕方から一変した。 いきなり濃い霧が松林の一角を覆い尽くし、翌朝になっても霧がまったく晴れないのだ。周辺住民は、それを**「羽衣の森」と呼び始める。まるで森自体が呼吸をするように、白い靄が絶えず漂っているという。 噂は瞬く間に広がった。「あそこに入ったら、二度と帰れないらしい」**――そう囁く声が町に広がり、実際に行方不明者の情報がちらほら聞こえ始める。しかも、失踪した人々は口を揃えて「天女に魅入られた」と言い残していたとささやかれる。 それは、単なる怪談か、それとも本当の事実か。町に静かな不安が漂う中、**隼人(はやと)**はそんな不思議な噂をまるで他人事のように聞いていた。——妹が失踪するまでは。

第二章:妹の失踪

 隼人の妹・桜(さくら)は、いつも三保の松原を散策するのが好きだった。羽衣伝説に興味を持ち、「天女は本当にいるかもしれない」などと笑顔で話していた。その姿を思い出すたび、隼人は胸が苦しくなる。 桜が行方をくらましたのは、羽衣の森が現れて2、3日経ったころ。彼女は「ちょっと行ってくるね」と軽い調子で出かけ、そのまま夜になっても戻らなかった。探しても手がかりがなく、警察も動き出したが、霧に包まれた松林には足を踏み入れづらいらしい。 周囲からは**「天女に魅入られてしまったんじゃないか」**という声が囁かれる。噂を聞くだけで隼人の胸には冷たい重石が落ちたようだった。そんなバカな、と思いつつ、胸の奥で奇妙な不安がこみ上げる。妹は本当に、その得体の知れない天女の森へ入ってしまったのか——?

第三章:森へ踏み込む決意

 夜の三保の松原は潮の香りがより濃く、砂浜には冷えた風が吹き抜ける。だが、羽衣の森と呼ばれる一角には、昼夜を問わず霧がこびりつき、白く曇った闇が視界を拒むように立ち塞がっていた。 妹を救うためには自分が行くしかない、と腹をくくり、隼人はランプや非常用の装備を携えて霧の中へ足を踏み入れる。しんとした空気が、肌にじっとりと貼りつくように感じられた。松の枝がうっすら見えるが、一歩足を進めるたびに方向感覚が失われていく。 突如、葉擦れがざわりと軋む音が背後で鳴り、隼人は息を飲む。しかし振り向いても何もいない。ただ、霧の奥で薄い影が動いたような気がする。妹の姿か? そう思って声を上げても、返事はない。 けれど、漠然とした胸騒ぎが、これが単に迷い込んだだけではないと訴えてくる。まるで森そのものが意志を持っていて、自分を深奥へ誘い込もうとしているかのようだ。

第四章:伝説の天女と先人の足跡

 捜索の合間、隼人は妹の手帳を見つけた。そこには**「三保の天女は本当にいた」というメモや、戦後に奇妙な失踪事件があったことなどが記されている。 それによると、かつて松原の一角に祭られていた「羽衣の断片」があったらしい。それを手にした人々が次々と姿を消し、あるいは精神を蝕まれたという話も残るが、正確な記録は残されていない。 妹はこの事実に興味を持っていたらしく、過去の古文書や神社の記録を細かく調べていた形跡がある。もしかすると、その延長で彼女は「羽衣の森」**へ足を踏み入れたのかもしれない——。 読んでいるだけでも嫌な寒気が走るが、隼人は妹の痕跡を頼りに、さらなる情報を得る。どうやらこの森に現れる天女は、過去の戦乱や悲哀を背負った存在であり、迷い込む者を誘惑するかのような説があるという。静かな不穏が彼の胸に広がっていく。

第五章:霧の奥での幻

 再び森へ入り込んだ夜、隼人は行き止まりのような場所で、微かな人影を見つけた。震える心を抑えながら近づくと、それは白い衣をまとった女性。まるで天女のように、空から舞い降りた姿に見える。 「妹を知らないか――」と声をかけようとした瞬間、女性が振り向き、「あなたもここへ来たのね」と囁く声が耳を刺す。夜の霧に混じるその声はぞっとするほど冷たさを含み、しかし哀しみにも似た響きがあった。 シャッターを切る間もなく、女性はするりと霧に溶ける。その背に垣間見えたのは、紛れもなく羽衣のような布。 その姿に心を奪われた隼人の脳裏に、妹の顔がちらつく。まさか妹も同じ光景を目にして、天女に魅入られてしまったのか?

第六章:天女の試練と隼人の選択

 捜索の途上、隼人は森で別の捜索者の遺留品と思われるものを見つける。そこには**「天女の試練を受ける」という書き込みがあり、具体的にどんな試練かは謎だが、天女に“命を捧げろ”と誘われたようなニュアンスがにじむ。 静かに捜査協力を得た地元警察の話によると、過去に「天女を見た」と騒いで森に入り、二度と帰らなかった者が複数いたらしい。誰もが似たような言葉を残して、羽衣の魅力に取り憑かれたかのようだ。 しかし妹はその一人にはなってほしくない。絶対に救い出さなければならない——隼人の心は焦るが、森を渦巻く霧は深さを増し、彼自身も何度か幻の天女の姿を見て引き込まれそうになる。「これは理屈じゃない。人間の弱さや切なさに入り込む、何か神秘的な力だ」**と思わざるを得ない。

第七章:羽衣の森の終焉

 ついに隼人は、森の最奥と思しきところで妹・桜を見つける。白い衣をまとい、憔悴した面持ちの桜はまるで意識が混濁したよう。彼女の周囲には天女が匂うような幻想的な光がさざめいている。 「帰ろう、一緒に」 隼人が声をかけると、桜の瞳にうっすら涙が浮かぶ。だが、その背後には先ほどの“天女”が立ちはだかり、冷たいまなざしを向ける。「羽衣は返せぬ。お前たちはここに留まれ」とでも言うように、霧が巻き上がる。 隼人は震える声で「妹を返せ!」と叫びながら、過去の犠牲や悲劇の声が頭をかすめる。「俺は天女なんかに大切な人を奪われない」――その決意が、霧の中の天女の影をわずかに崩したように見えた。

 ある瞬間、霧が割れ、天女の姿は一瞬だけ鮮明に映る。悲しそうな笑みを浮かべ、羽衣をはらりと翻すその姿は、人間に翻弄された過去そのものを抱えているかのようだ。 そして、光が消え、天女は空気に溶けるように消失する。霧もやがて引き、妹は泣き崩れる形で地面に倒れた。静寂が戻った松林では、もう天女の姿はどこにもない。

結末:静かな夜明け

 夜が明け、羽衣の森と呼ばれた霧は嘘のように消え失せ、松原には平穏が戻った。警察や住民が森を調べるも、そこには特異な気配は見つからず、ただいつもと変わらない松の木が並ぶばかり。 妹はまだうわごとのように「天女が……天女が……」と囁くが、次第に正気を取り戻し、隼人に抱きしめられると安心したように涙を流す。 後に、森に立ちこめていた霧は自然現象だとされ、いくつかの失踪者も森の出口を見つけられずさ迷っていたという説明で片付けられた。 しかし隼人には、この霧と天女が“実在”したのは確かだという信念が揺るがない。昔の羽衣伝説は単なる昔話ではなく、人間の痛みや願いを宿した何かがこの地に息づいているのだろう——そんな静かな不穏さを胸に、彼は妹の手を握りしめる。 夜が明けた浜辺には美しい朝日が射し、富士山が柔らかな稜線を浮かび上がらせている。あの天女は、人間に何を伝えようとしたのか……。心にこびりついた疑問はまだ消えないが、今はただ妹を救えた事実に感謝するのみ。風がそよぎ、松がささやく。その中に、天女の残響がまだ潜んでいるように思える。

 
 
 

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