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『港町の少年』


清水の港は、昼より夕方のほうが「生活」に近い匂いがした。魚の匂いだけじゃない。濡れたロープ、錆びた鎖、コンテナの角で擦れた塗料、ターレーの排気、コンクリートの粉――それらが潮と混じって、胸の奥のどこかに薄い膜をつくる。

幹夫(みきお)は新清水の駅を出て、改札の外で一度だけ立ち止まった。立ち止まったのは迷ったからではなく、足の裏が「ここは山じゃない」と言うのを聞くためだった。牧之原の土は柔らかく沈むのに、港の地面は跳ね返す。跳ね返されると、身体の中で言葉のないものまで跳ね返ってくる気がした。

しずてつの線路沿いを歩いてきたときの鉄の匂いは、ここでは潮に薄められている。踏切のベルの代わりに、遠くで低い汽笛が鳴った。音は腹に来る。耳より先に腹が受け取ってしまう。幹夫はその鳴り方を、どこか「呼び声」に似ていると思った。誰の名でもないのに、誰かを動かす音。

河岸のほうへ曲がると、白い看板が並ぶ。観光客の笑い声が混じって、その笑い声がガラスの向こうの丼を明るく見せる。幹夫は店の中を覗かない。覗けば、食べるという行為の前に「誰と来たか」が出てしまう。ひとりで食べるのがいけないわけじゃないのに、ひとりで食べるには、今日は匂いが濃すぎた。

風が通って、制服のシャツが背中に貼りつく。夏服は薄い。港の風は遠慮がない。薄い布を簡単に通り抜けて、皮膚の上に塩の粒を置いていく。塩は見えない。見えないけれど、舌で分かる。知らないうちに、しょっぱい。

幹夫はポケットの中のスマホを握った。画面を点けなくても、通知が来ていないことは分かる。分かるのに、握る。握ると角が掌に当たる。その角の痛みだけが、いまの自分の位置をはっきりさせる。

港の端、日陰が長く伸びる場所に出ると、母が立っていた。フェンスの影の中で、手提げ袋を両手で抱えている。抱え方はいつも同じだ。落としたくないものがある人の抱え方。髪の細い毛が風にほどけて、頬に当たるたび、指で耳の後ろに戻す。戻す指の動きが丁寧すぎて、幹夫は目線を外した。丁寧すぎる動きは、間違えたくない、という意味を隠せない。

母が顔を上げる。目が合う。合った瞬間に、胸の奥がきゅっと狭くなる。狭くなるのに、逃げないまま足が止まる。止まるところまではできる。ここから先に必要なのが、たぶん言葉だった。

「……幹夫」

母は小さく呼んだ。声は細い。細いのに、潮風に沈まないように喉の奥で支えているのが分かる。幹夫は返事をしなかった。しなかったのではなく、返事の形を探しているうちに、風が間に入り込んでしまった。

その代わりに、リュックのチャックを開けた。チャックの金具が擦れる音が、港の音の中で意外に大きい。川根で買った茶の袋を取り出す。紙のざらつき。角の硬さ。まだ開けていないのに、香りの予感だけがある袋。

幹夫はそれを差し出した。指先が一度だけ震えた。震えは隠せなかった。隠すほど器用じゃない。母は一瞬だけ受け取る手を止め、それから両手で受け取った。紙が小さく鳴る。堤防の上で、その鳴り方はやけに大きい。

「……ありがとう」

母の声は、礼の形をしているのに、礼だけではないところまで連れてくる。幹夫は「どういたしまして」と言えなかった。言えば会話の形にはなるのに、形にした瞬間、何かが壊れそうだった。壊れるのが怖いのに、壊れないままでも苦しい。

二人の間に、海の音が入る。波が砕ける音は一定じゃない。一定じゃない音は、沈黙を責めない。責めないから、沈黙が長くなる。

母が、袋を胸の前に抱えたまま言った。

「……少し、歩ける?」

幹夫は頷いた。頷きが自然に出たことに、自分で驚いた。自然な頷きは、過去を消さない。でも、いまの一歩を作ってしまう。

堤防沿いを歩く。靴底がコンクリートを叩く音が、二人分、少しずつずれて重なる。揃わないリズムは、いまを確かにする。背中のほうでカモメが鳴いた。鳴き方は乱暴で、乱暴だからこそ嘘がない。港の音は、嘘が少ない。だから怖い。

母が、ふと立ち止まった。海面に、夕方の光が細い道を作っている。触れられないのに伸びている道。遠い道を見つめる横顔は硬い。硬いのに、壊れそうではない。壊れそうに見えるのは、見ている側のほうだった。

幹夫の耳に、どこかの呼び声が入った。「おーい!」港の作業員か、親が子を呼んだのか、誰の声かは分からない。でも幹夫は、自分の名を呼ばれた気がした。

気がしただけ。けれど「気がした」は、身体が反応したということだ。身体が反応したなら、なかったことにはできない。

母の手提げ袋が、風で少しだけ揺れた。持ち手が指に食い込みそうな角度で揺れた。幹夫は一歩だけ前に出て、持ち手に指先をそっと添えた。奪わない。支えきらない。ただ、触れていることが伝わるくらいの重さで。

母は何も言わなかった。言わない代わりに、袋を握る指の力がほんの少し緩んだ。緩んだことが返事みたいだった。その一瞬だけ、港の音が遠のいて、幹夫は自分の呼吸を聞いた。呼吸は浅くない。浅くないだけで、十分だった。

「……富士、見える?」

母が言った。見えるかどうかは、天気の問題みたいに聞こえるのに、幹夫には違って聞こえた。見える、という言葉の裏に、見たい、がある。見たい、という言葉の裏に、同じものを見ていたい、がある。

幹夫は空を見上げた。雲が薄く伸びていて、輪郭ははっきりしない。富士は、いるのに見えない。いるのに見えないものがある、ということだけが確かだった。

「……今日は、薄い」

そう言うと、母は小さく笑った。笑い声は大きくない。でも沈まなかった。沈まない笑い声は、港の潮よりも先に胸に届く。

帰り道、父の軽トラのエンジン音が近づいた。父は窓を開け、短く言った。

「……戻るぞ」

幹夫は頷いた。母も頷いた。別れの言葉は要らなかった。要らなかったのではなく、言葉にしないほうが壊れにくいものがあると、二人とも知っているように見えた。

車に乗り込む前、母が小さく言った。

「幹夫」

名前だけ。語尾も理由もない。でもその呼び方は、港の汽笛より確かに「ここにいるか」を含んでいた。

幹夫は一拍遅れて、短く返した。

「……うん」

たったそれだけで、胸の奥の傾きが少しだけ戻る。戻るというより、傾いたまま立てる角度を見つける。

軽トラが走り出し、窓の外で港の明かりが遠ざかる。観覧車の輪郭が夕方の空に薄く残り、看板の白が少しずつ夜の色に沈んでいく。幹夫はシートの匂いを吸った。土と茶と、機械油。港の塩がそこに少し混ざっている。混ざっているのに、喧嘩しない。混ざることで、どちらでもない匂いになる。

その匂いが、幹夫には「港町の少年」の匂いに思えた。生まれた場所の匂いではなく、今日だけ身についた匂い。今日だけ身についたものは、洗えば落ちる。落ちるのに、落ちたあとも皮膚の奥に少しだけ残る。

家に着くころ、防災無線のメロディが遠くで鳴った。帰りなさい、とも、ここにいるか、とも聞こえる音。父が玄関で、背中越しに言った。

「幹夫」

呼ぶ声は短い。短いけれど、その短さが今日は頼もしい。幹夫は靴を脱ぐ手を止め、返した。

「……いる」

港の風に削られたはずの声が、家の中では沈まなかった。沈まなかったことだけが、あの日の答えみたいに残った。

 
 
 

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