トークンの行方
- 山崎行政書士事務所
- 1月31日
- 読了時間: 7分
第一章:警告のはじまり
「情報漏洩の兆候がある――。とにかく調べてくれ」大手商社「光星(こうせい)グループ」の社長室に呼び出された 神谷和弘(かみや・かずひろ) は、初めて聞く物騒な話に唇を引き結んだ。彼は総務本部の情報セキュリティ部長として、10年以上この会社を守ってきた男だ。相手は社長の 藤堂。失敗を許さない冷厳な眼差しが、神谷を突き刺す。「我が社の開発拠点に、不正アクセスがあった可能性がある。具体的な被害はまだ不明だが、万一機密情報が外に流出すれば、国際的なビジネスで取り返しがつかないダメージを負うことになる」
神谷は胸の奥がざわつくのを抑えながら、「調査を全力で進め、対策を講じます」とだけ告げ、頭を下げた。社長室を出た後、神谷は肩を落として独り言のように呟く。「多要素認証(MFA)の導入を経営層に提案していたのに、コストと手間を理由に後回しにされたままだった……。まさか本当に何かが起きているのか?」
第二章:脆弱な”入り口”
数日後、神谷の元に緊急報告が舞い込む。海外拠点のサーバーから、不審なログインが複数回試みられていた――いわゆる “パスワードリスト攻撃” が行われていた形跡だ。「二段階認証さえ入れていれば、不正アクセスのハードルはぐっと上がるんですがね……」部下の 村瀬 が悔しげに呟く。情報セキュリティ部の若手エンジニアで、神谷の右腕だ。「ただのIDとパスワードだけじゃ限界がある。最近はフィッシングでパスワードが漏れることも珍しくないし、SMSコード やソフトウェアトークン、ハードウェアトークン を併用する多要素認証が必須になるって、ずっと言ってきましたよね」
しかし、現場からは「作業効率が落ちる」「導入コストが高い」「社員の反発が怖い」などの声が上がり、導入は先延ばしにされてきたのだ。神谷は苛立ちを覚える一方、上層部への根回しが自分の務めだと痛感した。これ以上被害が広がる前に、早急に動かなければ――。
第三章:経営会議の荒波
翌週、神谷は満を持して開催された経営会議に臨んだ。主要役員たちが集まる長いテーブルの向こうには、社長の藤堂が淡々と書類をめくっている。「まず、不正アクセス疑惑の調査状況ですが、今のところ大きな被害は確認されていません。とはいえ、いつ攻撃が本格化してもおかしくない。そこで提案があります」神谷は緊張を抑えながら資料をモニターに映す。そこには 「MFA(多要素認証)導入計画」 の文字が躍っている。
従来:IDとパスワードのみ
今後:パスワード+ワンタイムコード/物理トークン/生体認証 など、複数要素によるログイン
「コストはかかりますが、セキュリティリスク軽減のためには不可欠です。次の監査が入る前に決断していただきたい」神谷の言葉を聞き、他の役員たちはどこか居心地の悪そうな表情を浮かべる。「うちは海外拠点も多いし、導入時の教育やトークン配布に手間がかかる。加えて、社員が面倒だと反発しないか?」そう述べたのは総務担当役員の 鈴木。まさに想定していた反論が飛び出す。「面倒を嫌ってセキュリティを疎かにするわけにはいきません。我々が狙われているのは事実。仮に内部犯行があったとしても、MFAがあれば早期に兆候を掴める可能性があります」神谷は冷静に言葉を並べる。社長の藤堂は無言のまま神谷を見つめていた。
第四章:傍観者の影
そんな折、情報セキュリティ部の村瀬が、一枚のアクセスログを神谷に見せにきた。「部長、妙なんです。海外拠点からの不正アクセスがあったとき、社内のある端末から同じ時間帯に類似のログが残っている。まるで内部で誰かが手引きをしてるようにも見えるんです」神谷は目を見開いた。「内部犯行……? 馬鹿な。うちの会社の誰がそんなことを……」しかし、考えてみれば不正アクセスをより容易にするために、社員のアカウント情報を外部に漏洩させる者がいる可能性はゼロではない。神谷の頭に、社内の“ある人物”が思い浮かんだ。最近このプロジェクトに妙な干渉をしていた、情報システム課の 加藤 という男。コスト削減を訴え続け、MFA導入に強く反対していた人物だ――。
第五章:伏線と告発
経営会議から数日、MFA導入が正式に決まったわけではなかったが、神谷の努力が実り、導入を検討する小委員会が設置されることになった。一方、調査を続けていた村瀬が衝撃的な事実を突き止めた。「社内端末のログイン履歴を詳細に洗ったところ、加藤 さんのアカウントから異常なアクセスが何度も記録されてます。しかも外部にファイルを送信した形跡も……」神谷の心臓が激しく鼓動する。加藤が何らかの不正に関わっている疑いが高い。社内の人間が、わざとセキュリティの導入を遅らせようとしていたのか――?
こらえきれなくなった神谷は、社長の藤堂に直接連絡を入れる。「不正アクセスの裏には、加藤が絡んでいる可能性があります。すでに法務部にも相談しており、証拠を固めたら懲戒処分を含めた対処が必要かもしれません」藤堂は低い声で応じた。「わかった。証拠を押さえたら、躊躇せず動いてくれ。もし本当に社内にスパイがいるのなら、迅速に排除しなければならない」
第六章:MFA導入と意外な結末
翌週、加藤の不審行動が決定的な証拠として固まり、会社としても彼を停職処分にする方針が固まった。想像以上に深刻な不正が行われていたらしいと分かり、藤堂をはじめ役員たちの顔には緊張が走る。しかし、それと同時に加藤の問題によって、社内では 「やはりMFAが必要だ」 という機運が一気に高まった。「想像以上に内部リスクはある。まずは従来のID/パスワード認証を置き換え、ハードウェアトークンやソフトウェアトークン、スマホのプッシュ通知など、部署ごとに最適な多要素認証を取り入れよう」神谷はこれまでの悔しさを飲み込みながら、冷静に計画を進める。少なくとも、これで会社のセキュリティレベルは飛躍的に向上するはずだった。
そして経営会議の席で社長の藤堂は、重々しい口調で決定を下す。「MFA導入にかかるコストは惜しまない。セキュリティに掛ける投資 が将来のリスクヘッジになると理解したからだ。神谷君には迷惑をかけたな……頼むぞ」あの冷厳な藤堂の眼差しは、今ではわずかに感謝の光が宿っているようにも見える。
最終章:新たなる光
数か月後――。社内では段階的にMFAを導入し、ログイン時には社員がトークンやアプリでワンタイムパスコードを入力するようになった。最初は面倒だと文句が出たが、加藤の一件が広まり、「他人事じゃない」と認識した社員たちは次第に協力的になる。神谷は統合管理画面を眺めつつ、村瀬と顔を合わせて微笑む。「今では、ログイン試行の失敗回数 やアカウントの乗っ取りリスク がぐっと減ったな。外部からの攻撃も、MFAの壁でシャットアウトされている」村瀬もうなずく。「ええ。社員アンケートを見ると『慣れればそう苦じゃない』との声が大半です。これは勝ちですよ」
かつて会社は「コストと手間」を理由にMFAを敬遠していた。それを変えたのは、内部犯行の疑惑という皮肉なきっかけだった。しかし、いま思えば事件が起きる前に導入できていたら、被害の芽をより早く摘めたかもしれない――そう感じながら、神谷はデスクの引き出しに収めたハードウェアトークン にそっと触れる。いつしかそこには一抹の安堵があった。「セキュリティは、技術だけじゃなく意識の問題でもある。みんなが気づかされる機会になったのかもな……」大企業の闇がもたらした危機は、皮肉にも会社をさらに強固なセキュリティのもとへと導いたのだった。
あとがき
本作では、企業内での MFA(多要素認証)導入 を巡るドラマを描きました。主なポイントは以下の通りです:
MFA導入の背景
ID/パスワードのみの脆弱性。
フィッシングやリスト攻撃などに対する強固な防御。
コストや社員の反発という現実的な障壁。
内部リスクと外部攻撃
内部犯行の可能性や情報漏洩の危険。
MFAがあれば不正ログインの抑止、監査ログの活用がしやすい。
導入後の効果
セキュリティ強化により外部からの攻撃や内部不正が大幅に減少。
社員の意識が高まることで企業文化も変わる。
企業がデジタル化を進める中で、セキュリティ対策は避けて通れません。MFAは手間やコストがかかる一方、攻撃リスクの大幅低減と信頼性向上につながる重要な仕組みです。事件という“劇的な”導入理由を描きましたが、実際は「問題が起きる前に」導入することが理想。セキュリティ意識を改革するうえでも、MFAは企業の未来を守る鍵となるでしょう。


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